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Maurice WIlliamsは40年にランカスターに生まれ、10歳の頃にはセッションにも参加している。40年代後半から姉にピアノを学び、非常に早い年齢から音楽に熱心だった。また当時すでに教会でも歌っていたが、彼の興味はいっそうポピュラー音楽に向いていく。53年に友人たちとThe Royal Charmsというグループを作る。この名前は、彼らのアイドルだったThe Five RoyalesとThe Charmsにちなんでいる。メンバーは、Maurice Williams・Earl Gainey・Willie Jones・William Massey・Norman Wade。彼らは地元の退役軍人会(VFW)の活動や、地元ラジオWLCMのローカルタレントショーで優勝するなど、ランカスター周辺で人気を得ていく。いくつかの仕事が入りはじめ、およそ1年の間はグラブなどで歌っていた。53年にMaurice WilliamsはすでにLittle darlingとStayを書いていたという。Maurice Williamsが16歳の時、ナッシュビルのDJだったErnie Youngが56年に設立したExcelloのオーディションを受ける。Maurice Williamsが書いたSweetheart please don't goとLittle darlinを聞き、彼等と契約する。Ernie Youngは、Royal・Charmsといった名前や鳥の名前(Doo-Wopという言葉はまだなかったが)をつけたグループはあまりにも普通だと感じていた。たまたま花が好きだった彼の提案でThe Gladiolasというグループ名に変えることとなった。57年1月、Little darlingがExcelloからリリースされ、その年の春に4週の間、R&Bチャートで第11位の大ヒットを記録した。しかし、The Diamonds(カナダの白人グループ)がMercuryからカバーをリリースしポップチャート・ナンバーワンを獲得する。当時2つのレコードを比較し「Diamondsバージョンは音も良くボーカルテクニックも素晴しいが、Gladiolasバージョンはほとんどデモ盤のようである」などとも言われた。いずれしにろ、作曲者であるMaurice WilliamsはDiamonds版を嫌だとは思っていなかった。というのも、Ernie Young(当時のレコードビジネス界ではあまりにもまれ例だが)にとって大切だったのは歌の権利でありその曲が売れるかどうか、放送されるかどうかという事であり、そういう考えをMaurice Williamsに教えていたからである。しかし、当時はまだ著作権を管理できずに、17歳という年齢のMaurice Williamsに巨額の富をもたらすはずであったこのヒットも結局彼には金が回ってこなかった。そしてこうした「影の面」が彼に音楽ビジネスというものを教育した。Maurice WIlliamsは当時まだ高校生だったが、コロンビアのアレン大学から音楽奨学金という収入も得ている。Excelloでは全部で3枚のシングルをリリースしている。Run run little Joe・Hey little girl・Shoop shoopでShoop shoopが小さなヒットとなっている。58年の終わり頃、彼らはExcelloとの継続契約をしないことに決め、ExcelloがThe Gladiolasという名前を所有することとなった。彼らは、Maurice Williams and the Zodiacsと改名する。これはウェストバージニアツアー中にZodiacという外車の広告を見て思い付いたという。彼らは数枚のシングルをいくつかのマイナーレーベルからリリースの後、59年に解散するが、翌年Maurice WIlliams は、Henry Gaston・Wiley Bennett・Charles Thomasに、2人のサックス奏者(Calvin McKinnie・Harold Alexander)を加え、新しいThe Zodiacsを結成。新生The Zodiacsは60年にSomaから、Another little darlin、続いてAnythingという2枚のシングルをリリースしたがチャートには入らなかった。Maurice WIlliamsは、それまで大きなヒットのなかったニューヨークのHeraldへ、プロデューサーのPhil GernhardtとAl McCulloughを通じ、作品を持ち込み、契約までこぎつける。そして60年夏、Stayをデビュー・リリースする。Henry Gastonの印象的な裏声も話題になり、同年の9~11月までの間ポップチャート第1位、R&Bチャート第3位を維持し、彼等の最大ヒットとなり、Heraldの歴史の中でも最も大きいヒットとなった。後年この曲は、The Four Seasons・Jackson Browne・Rufus & Chaka Khanらが取り上げ、すべてトップ20位以上にランクインしている。またThe Holliesのデビュー曲としても知られる。続くI rememberは、ポップチャート第86位、61年春のCome alongはポップチャート第83位と低迷する。63~65年頃にはAtlantic・Scepter・Deesuと移籍しているがヒットは出なかった。60年代中頃、彼等はMarshall Sehorn・Allen Toussaintといったニューオーリンズ系のミュージシャンと出会い、彼らのすすめでVee-JayからMay I(Maurice WIlliams作)をリリースしミリオンセラーとなった。しかし、Vee-Jay(当時、世界中で最も成功した黒人の所有するレコード会社だったが)が全国的なリリースをくり返すなか、ついに倒産する。May Iの版権はニューオーリンズのDee Suへ売却された(この曲は5年後、Bill Deal & The Rhondellsがカバーし、トップ40にランクインした)。ZodiacsはGladys Knight & The Pipsをバックに歌った Returnなどを含め、Atlantic・Sea-Horn・Scepterと移籍し、いくつかのシングルをリリースした。65年にはライブアルバムもリリースしている。70~80年代を通じて、Maurice WIlliamsはオールディーズツアーでThe Zodiacsと公演を続け、85年Beach Music Hall of Fameに選出されている。彼はコロムビアのRipete移籍後も精力的に活動を続けている。Stayは87年に、映画Dirty Dancingにも使用された。