The Quin-Tones

1957年・フィラデルフィア州・ヨーク
Roberta Haymon(lead)・Phillis Carr・Carolyn Holmes・Kenneth Sexton・Jeannie Crist

■Ding dong・I try so hard(Chess-1685)58.04
■Down the aisle of love・Please dear(Hunt-321)58.09
■Down the aisle of love・Please dear(Red Top-108)58
■What am I to do・There'll be no sarrow(Hunt-322)58
■Oh heavenly father・I watch the stars(Red Top-116)59

The Candles
45s Ding Dong
Chess-1685
1958年

数あるDoo-Wop系のなかでも少数の女性グループの一つ。なお、当時活躍した女性グループは他に、AtlanticのThe Babbetes・The CookiesやEndのThe Chantels、FillのThe Shilellsとごくわずかで、The Quin-Tonesの存在はかなり期待されていた。高校の生徒6人で結成したThe Quinterosが母体となっている。メンバーは、Roberta Haymon・Carolyn Sissie Holmes・Jeannie Crist・Phyliss Carr・Kenny Sexton・William Penn Sr。彼らは地元のダンスパーティーなどで活動していた。Paul Landersman(ハリスブルグのWHGBラジオのDJで活躍) がマネージメントを申し出て、58年2月にDing dongをChessからリリース。チャートには失敗したが、新な名前The Quin-Tonesを有名にする。続く58年6月にDown the aisleを移籍まもないRed Top(Doc Bagby設立)からリリース。58年9月15日のビルボードチャートで第18位と、グループの最大のヒットとなった。なお、シングルの生産が追い付かなくなったため、58年9月に、急遽Huntのプレスが追加リリースされ、市場にはRed Top盤とHunt盤が混在した。このヒットでグループはAmerican Bandstand(Dick Clark司会のTV番組)に出演している。58年8月28日にグループにとって記念すべき公演が、アポロ劇場でおこなわれた。共演はThe Coasters・The Olympics・The Spaniels・The Chantelsらで、憧れのスター達と同じステージに立った。続いてリリースしたThere be no sorrowは、しかしチャートに顔を出す事なく、グループの4枚目のシングルHeavenly Father(Edna McGriffのリメーク)も失敗となった。マネージャのPaul LandersmanとRed Topは、徐々にグループに興味を失ない、プロモートもおざなりになっていった。以降グループはThe Quin-Tonesとしてのレコーディング活動をやめまう。グループはDown the aisleの大ヒットにもかかわらず、たいした収入をえられなかったが、Dick Clarkはこの曲の権利を買い100万枚以上売ったといわれる。60年にRoberta Haymonが結婚し、それを期に公式に解散した。Kenny Sextonサンディエゴに住み、間もなく、軍隊に加入した。Jeannie Cristは聖歌隊で歌っている。86年にグループはGrand Rapids(ディスクジョッキー)によって再び脚光を浴びた。Roberta Haymondは96年に死去、Carolyn Sissie Holmesは95年に死去した。しかし新生Quin-Tonesが、Vince Carr(Phyliss Carrの兄弟)・Ceaser Westbrook・Buck Generettaらで結成され、Phyliss Carrがマネージャとしてグループを管理、Straight from the heart(Confunkshun作曲)をリリースした。現在、グループは地元のクラブなどで活動している。