The Rivileers

1962年・ニューヨーク州・クイーンズ
Eugene Pearson(lead)・Herb Crosby(tenor)・Erroll Leonard(tenor)・Alfonso Delaney(baritone)・Milton Edwards(bass)

■A thousand stars・Hey Chiquita(Baton- 200)53
■Forever・Darling farewell(Baton-201)54.05
■Aternal love・Carolyn(Baton-205)54.10
■For sentimental reasons・I want to see my baby(Baton-207)54.12
■Don't ever leave me・Little girl(Baton-209)55.04
■A thousand stars・Who is the girl(再発・Baton-241)

The Rivileers
45s The Rivileers &
The Fidelity's
UGGH-502
1998年

ドイツのレコード会社によるリイシューCD。Fidelitysは道のグループです、機会があれば聞きたいですね。

53年にJamaica High School(The Cleftones・The Heartbeatsのメンバーもここを卒業している。Doo Wopに関しては名門校といえる)の生徒が結成したThe Five Bellsが母体となった。メンバーはEugene Pearson・Alfonso Delaney・Herb Crosby・Erroll Leonard・Milton Edwardsの5人。まもなくThe Harmoneersに改名し、地元で活動を始めたが、当時すでにEugene Pearsonのオリジナル作品を多く歌っていた。やがてグループは評判となり、彼らはまたもグループの名前を変えて50代初期のミュージックシーンに飛び込もうと考えていた。彼らはマンハッタンを訪れた際に、タイムズスクエアの近くにある有名なRivoli Theaterのそばを通った。劇場の名前を見たメンバーは、この名前の響きに惹かれThe Rivileersという名前にすること決めたという。メンバーの友人を通じ、The RivileersはSol Rabinowitzと出会っている。彼は自身のレコード会社を設立し、地元のタレントたちをレコーディングしようと考えていた。オーディションを行ったSol Rabinowitzはグループを気に入り、ついにBatonの設立を決意した。53年の遅くにメンバーはBell Sound Studio(ニューヨーク市)に集まり、A thousand stars・Hey Chiquitaをレコーディングした。これらがBaton最初の、そしてThe Rivileersのデビューシングルとなった。ノースイーストで徐々に人気を集め、新聞広告では「A thousand starsはミリオンセラーに向かって進んでいる」と宣伝した。これはスタートしたばかりのBaton・グループ共通の願いでもあった。54年3月にシカゴのレポートではThe Rivileersを取り上げて、彼らの人気を証明した。この報告から間もなくA thousand starsは、ニューヨーク周辺・ロサンゼルスを中心に大ヒットとなり、ミッドウエストでもヒットしはじめた。しかしBatonはまだ設立したばかりの弱小レーベルで、適切な配給ができずにいた。それは全米チャートにランクインすることを押しとどめている一つの要素であった。5月下旬、人気が高まるなか次のシングルForeverがリリースされる。このシングルはセールス的にも失敗し、ラジオでもあまり聞かれなかったものの、ロサンゼルスではかなりのヒットを記録した。The Rivileersは北東部を中心に公演を行い、54年10月の最後の週にスタジオ入りした。Aternal love(Eugene Pearson作)を収録し、最初のレコーディングセッションで収録していたCarolyn(Alfonso Delaney作)をカップリングしてリリースされた。12月、The RivileersはGuitar SlimとともにThe After Hours Record Bar(Lexy 'Flap' Hanfordオーナー・ハーレム)に出演しファンを喜ばせた。年末にThe Rivileersの4枚目のシングルFor sentimental reasonsがリリースされた。このシングルはすぐに売れ始め、特にアトランタ・ナッシュビルではよく売れた。この頃のメンバーはAlfonso Delaney・Herb Crosbyと、二人の新しいメンバーMel Dancey・Pete LeMonierで、Eugene Pearsonは兵役中であったが、休暇をとってはレコーディングに参加している。55年2月の第1週にThe Rivileersは、LaVern Bakerとともにアポロ劇場に出演している。グループの人気が頂点に達した頃、ニューヨークで最も人気のあったラジオ番組Klavan and Finch(WNEW局・AM放送)では、グループのFor sentimental reasonsについて激しい嫌悪を示し、放送中にこのシングルを割ったという逸話が残っている。For sentimental reasonsはグループ最大のセールスを記録していた中、Batonは55年4月に最新シングルDon't ever leave meをリリースする。しかしこちらはほとんど話題にならず、結局これがBatonでの最後のリリースとなり、グループは解散した。解散理由の一つが経済的な搾取という、当時のほとんどのグループが直面した問題であった。For sentimental reasonsは75万枚、A thousand starsはそれの約半分を売ったといわれ、合わせて100万枚以上のセールスにも関わらずメンバーが受け取った著作料はわずかなものであった。のちにGene Pearsonは50年代終わりから60年代始めにかけてThe Cleftonesに参加した。70年にNewYork Academy of Musicで行われたリバイバルショウでもThe Cleftonesとしてステージに登場したが2000年に死去している。一方のBatonはA thousand starsとWho is the girlをカップリングし再発したがわずかに売れただけであった。Mel Danceyはショービジネスに関わり成功を収めた。