The Wrens

ニューヨーク州・ニューヨーク市・ブロンクス
Bobby Mansfield(lead)・George Magnezid(tenor)・Francis 'Frenchie' Concepcion(tenor・baritone)・Jimmy 'Archie' Archer(bass・~99.06.22)

The Wrens
■Love's something that's made for two・Beggin' for love(Rama-53)54.11
■Come back my love・Beggin' for love(Rama-65)55.01
■(Will you) come back my love・Beggin' for love(Rama-65)55
■Come back my love・Eleven roses(Rama-65)55
■Love's something that's made for two・Eleven roses(Rama-110)55
■Hey girl・Serenade of the bells(Rama-174)55.11
■Hey girl・Love's something that's made for two(Rama-174)55.11
■She's my everything・Betty Jean(Rama-175)未発売
■I won't come to your wedding・What makes you do the things you do(Rama-184)55.12
■C'est la vie・C'est la vie(Inst.)(Rama-194)56.01
Bobby Mansfield (backed by The Supremes)
■Reckless・House of cards(Gee-1017)未発売

The Wrens
CD The Crows and
The Wrens
Strictly for the birds
Westside WESM-604
2000年

1953年から56年にかけてRamaとGeeに残されたマスターから全30曲入りのCDで、これ以上のものはないと思われます。個人的に最も好きなグループのひとつでおすすめの一枚でもあります。

Waldo Champen(テナー・Champ Rollowと呼ばれていた)・Francis Concepcion・Archangel 'Archie' Oropeza(バリトン)・Raoul McLeod(ベース)の近所にすむ友人5人が50年にブロンクスで結成。およそ2年間歌っていたがこれといったこともなくやがてメンバーは疎遠になっていった。メンバーのひとりFrancis Concepcionは52年にGeorge Magnezid・James Archerを誘いトリオを結成、ブロンクス99番街のコミュニティセンターで活動をはじめる。間もなくBobby Mansfieldが加わり4人編成となる。Bobby Mansfieldは「Francis Concepcionはバラードが得意なシンガーで、アップナンバーを歌うためにGeorge Magnezidのすすめで加入した」と話している。Bobby Mansfieldが15歳、モーリス高等学校の学生だった頃のことである。当時James Archerも学生、Francis Concepcion・George Magnezidはすでに高校を卒業している。彼らのお気に入りはThe Clovers・The Ravens・The Orioles・The Mills Brothersなどで、Bobby Mansfieldは「僕はポップなサウンドが好きだったよ。個人的にはNat 'King' ColeやLouis Jordanなんかに影響を受けたんだ。」と話している。彼らはRed sails in the sunset・White cliffs of Doverといった曲を練習し、たいていは地元のコミュニティーセンターやマンハッタン・ニュージャージーでのアマチュアコンテストへの出場が演奏場所だった。54年、古いCBSの建物で行われたFreddy Johnson(編曲者・ピアニスト)主催のコンテストに参加し優勝をはたす。Freddy Johnsonは彼らのマネージャーになった。Freddy JohnsonはRamaとのセッション契約を成立させ、54年11月21日にThe Wrensのセッションが行われた。Bobby Mansfieldは「僕達はすでにColumbia(当時同じCBSビルの中にあった)との契約の話があったんだ。時々A&Rの人がこのリハーサルを止めに来ていたよ。けれどもGeorge Goldnerは僕達に『さあすぐにレコードを作ろう!』と言ったんだ。結局僕達は彼と一緒に行ったのさ」と話している。この日のレコーディングでLove's something that's made for two・Beggin' for love・Come back my love・Eleven rosesを収録する。ピアノはFreddy Johnsonが担当した(Come back my loveの広告にはOrchestrated and arranged by Freddy Johnsonと記されている)。しかし、このセッションの後間もなくGeorge GoldnerはJimmy Wright Orchestraを起用している。Eleven rosesはJack Wachsの歌詞だったが、他の3曲はメンバーによって書かれた作品で、Freddy Johnsonがアレンジを担当した。最初のシングルLove's something that's made for twoはセッションの数日後にリリースされた。George Goldnerは、The Wrensと署名したと発表、この曲はSh-Boomより大きなヒットとなるだろうとコメントしている。54年11月27日にTeach me tonight(Dinah Washington)・21(The Spiders)・All night mambo(The Cookies)・Look me in the eyes(The Five Willows)・Be bop baby(The Peacheroos)・Since I fell for you(The Lovenotes)・Chances I've taken(The Solitaires)・Baby let's play house(Arthur Gunter)とともにレビューされた。George Goldnerの事前のコメントにもかかわらず、レコードのプロモーションはほとんどなく、The Wrensのプロモート公演もたった2カ所の出演だけであった。その1つは、Ella Johnson(Buddy Johnsonの姉妹)とともにBuddy Johnson and His Orchestraとの公演をフィラデルフィアでおこなっている。55年1月、Ramaから2枚目のシングルCome back my loveをリリースした。B面にはなぜか1枚目とおなじBeggin' for loveが収録された。またこの曲は (Will you) come back my loveとして再発、さらにEleven rosesとのカップリングで3度目の再発もされている。55年のRamaは混沌とした年で、Bobby Mansfieldによると「Goldnerはコンビネーションでヒットを出そうとしていたんだ。」ということになる。55年2月25日にはDon't you know(Fats Domino)・Lonely nights(The Hearts)・Ashamed of myself(The Midnighters)・Shtiggy boom(Joe Houston・David Lynch・The Plattersが参加している)・My lovin' baby(Charlie & Ray)・Oh! oh! get out of the car(Richard Berry)・Johnny has gone(The 5 Wings)・Left with a broken heart(The Admirals)・I'm just a crying fool(The Starlings)・Good mambo tonight(Wynonie Harris)とともにレビューされた。4月、Come back my loveはフィラデルフィアのBob Horn Bandstandショー(American Bandstandの前身)でナンバーワンレコードに選出された。ナショナルチャートには登場しなかったものの、この曲はフィリー・ニューヨークで大きなヒットを記録し、The Cardinals(Atlantic)がカバーバージョンをリリースした。しかしGeorge GoldnerはThe Wrensのレコーディングをおこなわず、55年にはLove's Something That's Made For Twoを再発、B面もEleven rosesであった。これまでにThe Warensは、Ramaでたった4曲のレコーディングにもかかわらずすでに5枚のシングルをリリースしていた。55年10月、グループはようやくスタジオに戻ったがこのセッションの直前にJames Archieは軍役のためグループを去っている。Francis ConcepcionはJoseph 'Rocky' Washington(ベース・元The Sparrows)を急遽加入させ、Joseph Washingtonの書いたShe's my everything・Betty Jean(すでにThe Sparrows時代に書き上げている)を、H. Collier(編曲者・この曲の共同作者)のスタジオに持って行きアレンジを行わせている。Bobby Mansfieldは「彼らは『急ぎの仕事』というものを学んでいたのさ。僕達はレコーディングする前に、多分3回くらいは彼のスタジオに行ったよ。」と語っている。この2つの曲はすでに選曲されていたHey girl・Serenade of the bellsの後のセッションでレコーディングする予定になった。10月、The Wrensはこの4つの曲をレコーディングした。Hey girlはBobby and Frenchieとクレジットされ、Serenade of the bells(Kay Twomey・Al Goodheart・Al Urbano共作)は48年にSammy Kayeが歌ってポップスチャート第3位の大ヒット曲のリメイクだった。11月、Hey girl・Serenade of the bellsをリリースした。ちなみに同月Hey girlがLove's something that's made for twoとのカップリングでリリース予定されていた(すでにRamaナンバー175が割り当てられていた)が、結局発されなかった。同月、Geroge Goldnerはさらにレコーディングするために急遽スタジオに彼らを集めWhat makes you do the things that you do・I won't come to your weddingを収録し、55年12月にリリースした。What makes you do the things that you doはBobby Mansfield・Joseph 'Rocky' Washington・VastolaとクレジットされたがRamaのクレジットによく登場するVastolaという人物についてBobby Mansfieldはまったく知らないと語っている。50年代にAamcoの副社長に同名の人物がいるが、彼とRamaとの接点は未知である。I won't come to your wedding(Al Barry作)はGeorge Goldnerが特に好きな歌であり、RamaとしてVeda Robertsのバージョンもリリースしている。しかし「Georgeは僕の歌い方が気に入らなかったんだ。彼はバラードを求めていたのさ」とBobby Mansfieldは語っている。The Warensはこのプロモーションでウィルクスバー・スクラントン・ペンシルベニアなどで公演を行っている。12月22日の木曜日から56年1月2日の月曜日の間、彼等の唯一のビッグイベントとなるManhattan's New York Academy of Musicで開催されたAlan FreedのRock 'n' Roll Holiday Jubileeに出演を果たした。出演は、Alan Freed Orchestra(Sam 'The Man' Taylor・Big Al Sears and Panama Francis)・Lavern Baker・Teddy Randazzo & 3 Chuckles・The Valentines・Boyd Bennett・The Rockets (featuring Big Mo)・The Cadillacs・The Bonnie Sisters・Joe Williams and The Count Basie Orchestra・Gloria Mann・The Heartbeats・Don Cherryらである。昼の部が90セントから、夜の部が1.5ドルからだった。The Wrensはこのショーでなめし皮のジャケットに濃い茶色のパンツ・グレーのスポーツシャツとグレーのパンツの2種類の衣装で登場し、Come to your wedding・Come back my loveを歌った。「それは非常に素晴らしいショーだったよ。なんといってもCount Basieのバンドがバックだったんだぜ。」とBobby Mansfieldは回顧する。しかし、このショーはThe Wrensにとって絶体絶命の時でもあった。この頃George GoldnerはBobby Mansfieldをソロとして売り出そうと考えており、盛んにソロシングルのリリースを持ちかけていた。ショーから10日ほどたった頃にはJoseph Washington・Francis Concepcionはすでにグループを去っている。Joseph WashingtonはThe Performersに、Francis ConcepcionはThe TravelersののちThe Quinnsにそれぞれ加入した。George GoldnerはSarah VaughanのC'est la vie(Edward White・Mack Wolfson作・当時まだポップチャートにランクインしていた曲)のカバー(まだチャートに乗っていた)をThe Wrensでリリースしようと考えていた。しかし、セッションに参加したのはBobby MansfieldとGeorge Magnezidだけであった。たまたまThe ValentinesがHand me down loveのレコーディングのためにスタジオいたため、George Goldnerはこの7人でレコーディングを行った。メンバーは、Bobby Mansfield(リード)・George Magnezid(テナー)・Richard Barrett(テナー)・Raymond 'Pop' Briggs(テナー)・Eddie Edgehill(テナー)・Mickey Francis(バリトン)・Ronnie Bright(ベース)である。この日にレコーディングされた唯一のThe Wrensであった。C'est la vieは56年1月下旬にリリース(B面はJimmy Wrightによるインスト版)され、2月11日にDrown in my own tears(Ray Charles)・A tear fell(Ivory Joe Hunter)・Sweet sixteen(The Colts)・Sweet sixteen(The Sounds)・My troubles are not at an end(The Penguins)とともにレビューされた。56年5月、Bobby MansfieldはGeorge Goldnerのもう1つのセッションに参加している。Reckless(Wreckless いうタイトル(スペルミス)としてレコーディング)・House of cardsの2曲である。この曲はBobby Mansfieldのソロシングル用の曲だったが、バッキングにBobby Mansfieldと同郷のThe Supremesというグループが参加している。The SupremesはOld Townに在籍していたグループで、Larry 'Lonnie' Gales(テナー)・Ed 'Sonny' Jordan(テナー)・Billy Baines(ベース)・Waldo Champen(バリトン)の4人編成のグループ。RecklessはGee-1017(GeeもGeorge Goldnerのレーベル)としてリリースが予定されていたが、Bobby Mansfieldがセッション後間もなく軍役に参加したため結局発売される事はなかった。Bobby MansfieldがCome back my loveののちに、Come back and give me your handを書き上げ、The Wrensはほとんどの公演でそれらを歌っていたが、George GoldnerはCome back and give me your handをレコーディングする事はなかった。ちなみに、The Supremes(56年夏にLarry Galesがグループを抜けFrenchie Concepcionが加入した)がOld TownでCome back and give me your handをレコーディングしたが、同じく未発表となっている。また、80年代に発掘されたThe SolitairesもYou've sinned・The angels sangのセッション時にこの曲をレコーディングしていたことがわかっている。いずれも未発表で、当初はThe Solitairesがオリジナルだと思われていた。これはThe Wrensがレコードでの成功はなかたものの曲作りの才能があるグループだったということを物語っている。James Archerは99年6月22日に死亡した。George Magnezidは、Milton Love・Freddy Barksdale・Robby Mansfield(Bobby Mansfieldの息子)とともにThe Solitairesのメンバーとして活躍、Bobby MansfieldはLillian Leach・Arthur CrierとともにThe Morrisania Revue(ブロンクスで行われる祝典)で歌った。88年、The WrensはUGHA Hall Of Fameに選出された。