The Castelles

1949年・フィラデルフィア州・フィラデルフィア
George 'Pepi' Grant(lead)・Octavius Anthony(tenor)・Frank Vance(tenor・guiter)・William Taylor(baritone)・Ronald Everett(bass)The Castelles

■My girl awaits me・Sweetness(Grand-101)53.10
■This silver ring・Wonder why(Grand-103)53.11
■If you were the only girl in the world・Do you remember (Grand-105)54.01
■Over a cup of coffee・Baby can't you see(Grand-109)54.07
■I'm a fool to care・Marcella(Grand-114)54.10
■Heavenly father・My wedding day(Grand-122)55.01
■My girl awaits me・Sweetness(Grand-101)56.03
■Hey baby baby・Happy and gay(Atco-6069)56.05
George Grant(バッキングにThe Calvanesが参加)
■One little teardrop・At christmas time(Classic Artists-114)89.12
■Surrender to love・Baby please don't stop(Classic Artists-126)91.03
George Grant (as George Castelle)
■Over the rainbow・It's christmas time(Grand-118)54.11

The Castelles
LP Best of The Castles
Grand 1000
1970年代

70年代から80年代にかけて盛んに出された海賊盤の中の一枚です。全16曲入りです。当時はこういったレコードを入手するしかDoo Wopに触れる機会はありませんでした。

The Dreamers・George Tindley and The Dreamsとともにフィラデルフィアサウンドのオリジネーターとして注目すべきグループでもある。ローカルヒットしかないグループにもかかわらず(だからこそ)コレクター間では非常に人気が高いグループでもある。The CastellesのリードであるGeorge Grantは、ハイテナーとして脚光を浴びた最初のシンガーであり、のちにFrankie Lymonを代表とする何百人もの後継者が育っていく。George Grantが最初のレコーディングを行ったのは彼が16歳の時で、これは当時のR&Bシンガーとしては平均的な年代であった。しかしThe Castellesを印象的にしているのは年齢ではなくその声であった。グループは49年にフィラデルフィア西部にあるSulzberger Junior High Schoolの生徒によって結成された。全員が聖歌隊にいた頃である。Joy Goings婦人が指揮していたこの聖歌隊には、George Grant(The Castelles)・Billy Taylor(The Castelles)・Octavius Anthony(The Castelles)・Sonny Gordon(The Angels)・George Tindley(The Dreams)・George Pounds(The Cherokees)・Karl English(The Cherokees)・Melvin Story(The Cherokees)・Solomon Burkeなどが加入していた。The Castellesのオリジナルメンバーは、George Grant・Octavius Anthony・Billy Taylor(ファーストテナー・セカンドテナー・バリトン)・Clarence Dunlap(ベース)である。彼らはThe Royal Castellesというグループ名でGeorge Grantが命名している。ちなみにGeorge Grantの愛称Pepiは、彼がよく訪れていたpoolhall(スペイン人が多く住んだ)の住人が、彼の直毛のせいでスペイン人に見えたためにCrosstown Pepiと呼んでいたところからきている。Clarence Dunlapはすでに結婚しており、グループからは短期間で脱退した。彼と交代に年上のBobby Hollandが加入したが、すぐに徴兵された。George Grantは新たにベースを探して、ジャズ好きだった彼の友人Ron Everettをグループに誘った。51年、彼らはギタリストを加えることに決め、当時Overbrookの高校生だったFrank Vanceが加入する。Frank Vanceとグループはすでに顔見知りでもあり、Billy Taylorは、彼があちこちのグループでギターを弾いていることを知っていたという。Frank Vanceは最初、加入をためらった。彼によるとあまり上手ないグループだと思っていたという。しかしリハーサルに来るよう説得された彼は、グループの歌声を聞いてためらいなく加入を決めた。彼はギターだけでなくセカンドテナーとしても参加し、ハーモニーはいっそう広がった。この頃はThe Orioles・The Four Buddies・The Ravensなどを、のちにThe Flamingos・The Spaniels・The Four Freshmanなどをレパートリーにしていた。このかけ出しのグループは、ハウスパーティー・懇談会・タレントショーなどで活動を始める。St. Ignatius教会・Imperial Skating Ballroomなどを中心にライブを行った。そしてDevon Club(デボン・ペンシルバニア州)・Haddington Centerなど中規模なステージにも立つようになる。'Jersey Joe' Walcottが51年にボクシング選手権で優勝したときには、The CastellesはCamden(ニュージャージー州)のショーに彼とともに出演している。このときのDJはGeorgie Woodsであった。のちにマネージャーとなるLucille 'Chick' McCordとはこの頃に出会っている。彼女はグループがいつも歌っていた街角の近くに住んでいた。Lucille McCordはSharon Page(Harold Melvin and The Bluenotesのメンバー)の母であった。この頃に彼女がThe Castellesと改名している。The Castellesはメンバー各自に歌を書く事を課した。Frank VanceはのちのヒットとなるCrying in the chapel(The Orioles)・Heavenly father(Edna McGriff)・My girl awaits me・Midsummer night・Over a cup of coffee・My wedding dayなどの名作を書く事となる。Billy TaylorはWonder whyを、Octavius AnthonyはSweetness・Baby can't you seeを、George GrantはIt's Christmas time・Do you remember(オリジナルタイトルはDo you recall ?であった)をそれぞれ仕上げてきた。53年6月(あるいは7月)、この頃には聖歌隊にいたメンバーはすでに高校生となっており、Penny Arcadeに向けてツアーに出発、自費によるレコーディング(25セントを払ったという)も行った。レコーディングはFrank VanceのMy girl awaits meを選んだ。出来上がったレコードを持って(誰もプレーヤーを持っていなかった)Treegoob's Appliance Store(Herb Slotkin設立)を訪れ、このレコードをかけてほしいと頼んだ。Herb Slotkinは、彼のパートナーJerry Ragavoyとともに感銘を受けた。レコード店の繁盛に伴って、レーベルを始めることを検討していたHerb Slotkinにとって、これは彼の必要としていた推進力となると思われた。The CastellesはレコーディングアーティストとしてHerb Slotkinと契約(最初の正式な契約はメンバーの親達と交わされている)した。53年8月4日にグループとGrandにとっての最初のセッションを行った。セッションはカムデン(ニュージャージー州)で行われるために、メンバーは友人の車にすし詰めになりスタジオに向かった。セッション(Frank Vanceは昼間に、George Grantは夜に行われたと記憶している)で数曲を収録した。それまでに十分な練習を積んでいたため、ほとんどの歌は1テイクか2テイクで収録された。現在、Grandのテープや記録は見つかっておらず、何がこのセッションでレコーディングされたかを知ることは難しくなっているが、My girl awaits me・Sweetnessが収録されたのは確実なようである。またMidsummer nightやThis silver ringの初期のバージョンも収録された可能性がある。Frank Vanceは、最初のThe CastellesのレコードはThis silver ring(B面は Sweetness)であり、これがリリースされた直後にマスターにわずかな傷がある事がわかり、次のセッションで再録されたと主張している。このレコードは今のところ発掘されていないが、貴重なマスターテープ(This silver ringの初期のバージョンなど)の存在の可能性を示唆している。現在知られていることはGrand-101として53年10月にMy girl awaits me(B面はSweetness)がリリースされたことである。このシングルはフィラデルフィアを中心に成功し、54年2月20日の週にはロサンゼルスでも流行した。この頃のヒットはYou're the one(The Spiders・ニューオリンズでヒット)・My saddest hour(The Five Keys・バルチモアやワシントンでヒット)などがある。Lovey Dovey(The Clovers)・Plan for love(The Flamingos)・Dead broke(The Du Droppers)・Smootchie(The Lamplighters)・I know(The Hollywood Flames)・Tippin(The Topps)・Lee Goofed(Shirley and Lee)・Big Heavy(Cozy Eggleston)とともにレビューされている。しかし、Grandは地方の弱小レーベルの一つに過ぎず、スタジオも増産できるプレス工場も持っていなかった。GrandのプレスはGotham(Ivin Ballen 立・Herb Slotkinの友人)で行われている。Gothamの資料によると54年1月の第1週までに11,600枚のシングル盤と54,200枚のSP盤が出荷されている。Chick McCordはThe Castellesをアポロ劇場に出演させる事に成功した。もっともアポロ劇場といっても今回はアマチュアナイトだったが、The CastellesはMy girl awaits meを歌い喝采を受けた。彼らのステージ衣装は黒のスラックスに明るいオレンジ色のジャケットだった。当時アポロ劇場で案内係として働いていたPaul Roland Martinez(The Vocaltonesのリード)は、The Castellesのその衣装は忘れがたく印象に残っていると語っている。同じ時期、彼らは ボクサーのSugar Ray Robinsonと一緒のツアーが予定されていたが、実現しなかったものの、Harlem's Baby Grand・Howard Theater(ワシントン州)での公演を行っている。My girl awaits meはその配給能力もあり、ミリオンセラーとはいかなかったが、およそ1カ月後に2枚目のシングルThis silver ring(B面はMidsummer night)をリリース予定がなされたが、間際になって、Midsummer nightがWonder why に差し換えられた。これらは後年George Moonoogianが発掘したGothamの資料により詳細が判明した。This silver ringはフィラデルフィアのチャート第10位まで上昇したが、ナショナルチャートにははいっていない。This silver ringはJerry Ragavoyが書き、The Castellesは彼が納得のいくまでレコーディングセッションをくり返した。Frank Vanceはこの曲について「もしJerry Ragavoyがもっと俺達に自由にやらせてくれていたなら、もっといろんな事ができたと思うよ」と語っている。当時のレコーディングは、グループが歌ったどの曲も、セッションの直前に知らされたものばかりで、彼らもほんの少しのリハーサルができるだけで本番に臨まなければならなかった。54年1月、My girl awaits meまだが多くの地域で順調にヒットしていたが、If you were the only girl in the world(B面はDo you remember)が3枚目のシングルとしてリリースされた。が、またしてもGrandは、B面をBaby can't tou seeに差し換えてGrand-105として再リリースしている。これらの歌はいずれも1月11日のセッションで収録されたものである。If you were the only girl in the worldは、Clifford Grey・Nat D. Ayerの共作で25年に書かれた古い曲で、29年の映画The Vagabond Loverで使われ、主役のRudy Vallが歌った曲である。53年には、映画By The Light Of The Silvery Moonにも使われ、Gordon McRae・Doris Dayが歌った。The Castellesのレコーディングする歌の選曲はすべてはHerb Slotkin・Jerry Ragavoyが行った。最初のシングルMy girl awaits meは売り上げを伸し、2月6日の週には地元のニューアークのチャートも第6位まで上昇した。やや遅れてDo you rememberも54年5月15日の週にロサンゼルスでもチャートインしている。フィラデルフィアではSh-Boom(The Coords)、セントルイスでは Tenderly(The Dominoes)がヒットした頃である。ちなみにこの頃GrandからはChris PowellのSweet Sue mamboもヒットした。次々とリリースを急いだGrandだったが、The Castellesの次作リリースは若干の時間を経ている。54年7月のOver a cup of coffeeである。シングルは54年7月31日にMy dear my darling(The Counts)とともにレビューされた。この週のヒットとしてMy baby dearest darling(The Charms)・You were my love(Luther Bond and The Emeralds)・Oh what a dream(Ruth Brown)・In the chapel in the moonlight(The Orioles)が取り上げられている。The Castellesの次のセッション(8月あるいは9月)の直前にBilly Taylorがグループを去り、Walter Millerが加入した。10月にリリースされたI'm a fool to care(Les Paul and Mary Fordのヒットのカバー)のB面にはWalter Millerの作品Marcellaが収録された。同年Anna MarieもMarcellaというタイトルの曲を歌い注目されたが、こちらはMarvin Phillipsの作品で、彼女はのちにAbbey Lincolnと改名した。当時のGrandが出したこのシングルの広告ではグループ名がThe Castille'sと綴られている。I'm a fool to careは10月23日にフィラデルフィアのヒットチャート(最終的にはチャート第5位まで上昇した)に登場した。この週はHearts of stone(The Charms・アトランタ)・Bip bam(The Drifters・ロサンゼルス、セントルイス、シカゴ、フィラデルフィア、シネチカット、アトランタ)も登場した。ニューリリースにはMonkey hips and rice(The Five Royales)・My name ain't Annie(Linda Hayes)・Two loves have I(The Colonials)などがあった。レコードはローカルヒットを記録したが、The Castellesはデビュー当時とかわらず地元のクラブ・バー・映画館などでしか公演を行っていない。彼らは2週間後にOver the rainbow(Yip Harburg・Harold Arlen共作・39年)・It's Christmas time(George Grant 作)をレコーディングするために再びスタジオに集まった。このセッション中にHerb SlotkinとOctavius Anthonyは口論(原因は不明)となり、とうとう予定されていたこの2曲はHerb Slotkinの判断で、George Grantのソロとしてレコーディングすることとなった。この曲はGrand-118として、54年11月にリリースされた。It's Christmas time のラベルにはGeorge GrantではなくGeorge Castelleと記載された。これはHerb Slotkinの提案にGeorge Grantが容認した結果だった。55年にはいり、Grandでの最後のセッションが行われる直前にBilly Taylorがグループに復帰している。Edna McGriff偲んだHeavenly fatherやMy girl awaits me・My wedding dayをレコーディングし、Heavenly fatherは55年1月にリリースされた。この頃、Frank Vance以外のメンバーは全員がまだ高校生であった。レコードや公演も行っていたが、デビューからそれほど大きな事は変化も起こらなかった。George Grantはちょっとした小遣いかせぎをした。55年中ごろ、The DreamsはTaunton(マサチューセッツ州)で公演を行っていたが、リードシンガーのGeorge Tindley(彼も同じ聖歌隊にいた)が出演できなかったためにリードの代役をつとめ、グループがリリースしたばかりのI'll be faithfulなどを歌っている。「グループにとって最も忘れ難いことは?」の質問に「俺達は大金を見せられたけれど、結局それを受けることはなかったんだ。著作料のことを話しても、Grandが出したのはわずかな金だった。まったく、情けないほどわずかな2枚の小切手だけだった。My girl awaits meについて言えば、140ドルくらいもらっただけだよ」とFrank Vanceは語っている。この頃、Frank Vance・Ron Everettは金銭的な問題に嫌悪感を抱き、グループを去る。Billy Taylorは友人のClarence Scottをギタリストとバリトン・ベースシンガーとして加入させたが、The Castellesは4人のメンバーとなり、彼らのサウンドは根本的に変わることとなる。Frank VanceはThe Nu-Tonesというグループ(レコーディングはしていない)を結成し、またソロとしても活動したのち、多くのゴスペルグループに参加した。今日までThe CastellesとしてFrank Vance・Ron Everettが一緒に写っている写真は発見されていない。大きなメンバー交代をしたThe Castellesに対しGrandは興味を失って(Herb Slotkinはボーカルグループそのものに興味を失っていたともいわれる)いた。理由はともかく、Herb SlotkinはグループをAtco との取引交渉をPat Pignato(GrandのA&R担当・Stan Patとして知られた)に担当させた。55年12月、新聞には The CastellesがAtcoと契約したと、The Dell-Tones・The Dreams・Screamin' Jay Hawkinsのマネージャである Pat Pignatotが発表した、と伝えた。ちなみにA&Rとは本来は「Artist & Repertoire(芸術家とその能力)」を意味しているが、それぞれの会社で定義がことなるのも事実である。基本的にはA&Rを担当する者は、アーティストあった曲を探し出すことである。Pat Pignatoはそれだけにとどまらず、リハーサルやレコーディングセッションの監督・新しい才能の発掘・レーベルとの契約・DJへの訪問(恐らくDJの忙しい時間を取り上げたことに対して数ドルの報酬を支払った・後にペイオラ事件として大きな社会問題となるが、背景には人種問題があった)など種々多様な仕事内容で、これらすべてをこなしていた。会社の規模が小さいほどより責任は重かったといえる。Pat Pignatoは55年に Trenton(ニュージャージー州)のWTTM局でDJをはじめた。彼は、当時R&Bに顕著だった挑発的な歌詞について反対意見を述べた他のDJに対してあからさまに攻撃した。55年5月ごろにGrandのA&R担当に就任したが、6月にラジオ番組を終えGrandに集中するためにフィラデルフィアよりもニューヨークに自分のオフィスを持つことにした。9月ごろ(GrandがThe Dreamersと契約するまでに)彼はScreamin' Jay Hawkinsをマネージメントし始めたている。56年3月15日、The CastellesはAtcoでHappy and gay・Hey baby baby・Cheree・The joke's on meをレコーディングした。セッションは効率的におこなわれたが、The Castellesの最後のセッションとなった。George Grant によると、このセッションで、ある曲についてHerb AbramsonとOctavius Anthonyが意見の相違からもめたことがあったという。56年3月、GrandはMy girl awaits meを再発した。Herb Slotkinは、AtcoからThe Castellesがリリースされ(AtcoにはThe Castellesをヒットさせれるだけの能力があると見込んで)、間もなく来るはずの大当たりを期待した上での再リリースであり、簡単な方法で大金を稼ごうと目論んだ。Happy and gayは56年5月にリリースされたが、本来のグループの才能を反映しきれていない作品だった。B面のHey baby babyはGeorge Grantの作品で、Frankie Lymonサウンドを試みたように思われた。6月16日にMy prayer(The Platters)・St. Therese of the roses(The Dominoes)・Rip it up(Little Richard)・A-1 in my heart(The Spiders)・I remember(The Suburbans)・Be lovey dovey(The Rockets)・Gift o' gabbin' woman(The Nutmegs)・The same old story(The Champions)・Have mercy, miss Percy(Long Tall Marvin・Phillips)らとレビューされている。しかしセールスに失敗、George Grant はグループを去った。ちなみに70年代にAtlanticからThe Castellesという名前でCome on・I love you darlingがリリースされているが、George Grantとはまったく関係のないグループである。一方のGrandから再発したMy girl awaits meはフィラデルフィアのチャートで第10位まで達するという皮肉な結果となった。60年代にGeorge Grantは旧友のGeorge Tindleyが結成したThe Modern Red Capsに加入し、Penntowne・Swanからそれぞれ1枚づつシングルをリリースした。リリースされた4曲のなかで、George Grantは Golden teardropsでリードを歌っている。The Modern Red CapsはGeorge Tindley・Gerald 'Twig' Smith・Kirk Manual・George Grant・Billy Taylorがメンバー。George Grantはおよそ6年間グループに在籍し、カリフォルニアへ移った。クラブでソロとして活動を行っていたが、77年に、The Ink Spots(George Holmes在籍)に在籍していたSonny Tilと出会う。George Grantは間もなくThe Ink Spotsに加入する。当時のメンバーは、Sonny Til(テナー)・George Grant(テナー)・Larry Reed(バリトン)・George Holmes(ベース)・Ann Lawsonである。Ann Lawsonはゲスト出演という形で参加している。George Grantが参加していた78年に、DobreでThe Oriolesのアルバムをレコーディングした。このアルバムのジャケットにはAnn Lawsonが写っているがアルバムでは歌っていない。またBilly Taylorは、62年にSonny TilのThe Orioles(Charlie Parker在籍期)に加入した。The Cherokeesの元メンバーが結成したThe Cobras(La La在籍)にも参加している。彼はまた、George Tindley(The Modern Red Capsのメンバー)とともにThe Orioles(78年の遅くからSonny Tilか死去するまで)のメンバーであった。72年の秋に行われたショウでThe Castellesのオリジナルメンバーの5人は再会したが、このショウは組合のストライキでキャンセルされ、メンバーは再結成に興味を失った。Ron Everettはその後(90年)死去し、オリジナルThe Castelles の再結成への道は永遠に閉ざされた。最も新しいThe Castellesのレコードは89年にClassic Artistsからリリースされ、レコーディングはGeorge Grantが行った。96年4月、The CastellesはU.G.H.A.のHall Of Fameに選出され、George Grant・Frank Vance・Billy Taylorが出席した。