The Wanderers / The Singing Wonderers

1950年・ニューヨーク州・ハーレム
Bob Yarborough(tenor)・Alfonso Brown(tenor)・Frank Joyner(baritone)・Sheppard Grant(bass)

The Wanderers
■We could find happiness・Hey mae ethel(Savoy-1109)53.10
■You gotta be good to yourself・Love can't be blind(Savoy-1121)54.01
The Singing Wonderers
■Say hey, Willie Mays・Don't drop it(Decca-29230)54.08
■Three roses・The wrong party again(Decca-29298)54.11
■Thinking of you・Great jumpin' catfish(Onyx-518)57.11
■A teenage quarrel・My shining hour(Orbit-K9003)58.03
■A teenage quarrel・My shining hour(Cub-90)58.04
■Two hearts on a window pane・Collecting hearts(Cub-90)58.11
■Please・Shadrach, meshack and abednego(Cub-90)59.01
■I'm not ashamed・Only when you're lonely(Cub-90)59.06
■I walked through a forest・I'm waiting in green pastures(Cub-90)59.11
■I could make you mine・I need you more(Cub-90)60.08
■For your love・Sally goodheart(Cub-90)61.03
■I'll never smile again・A little too long(Cub-90)61.06
■Somebody Else's sweetheart・She wears my ring(Cub-90)61.09
■As time goes by・There is no greater love(Cub-90)62.05
■As time goes by・There is no greater love(MGM-K13082)62.06
■After he breaks your heart・Run run senorita(United Artists-570)63.02
■I'll know・You can't run away from me(United Artists-648)63.10
Ray Pollard Singers
■No more like me・This time (I'm gonna be true)(Shrine-103)64
■Darling take me back・My girl and I(United Artists-856)65
■The drifter・Let him go (and let me love you)(United Artists-916)65
■All the things you are・It's a sad thing(United Artists-50012)
■Lie, lips, lie・This is my song(Decca-32111)66
■This is no laughing matter・Wanderlust(Decca-32189)66

The Wanderers
45s The Best of
The Wonderers
Onix 2002
1997年

RelicからのリイシューCDで全30曲入りのコンプものです。60年代には同社から18曲入りのLP盤が出ていました。

The Wanderersは最もヒットした作品でさえチャート第88位という事実にも関わらず、コレクターの間で最も人気が高いニューヨーク・グループの1つである。The Wanderersは1950年に、ハーレム(113番街と第5アベニュー)で結成された。Bob YarboroughはThe Ink Spotsの熱狂的なファンだったAlfonso Brownと親しくしていた。Alfonso BrownにはFrank Joynerという友人がおりこの3人がやがてSheppard Grantと知り合いグループを結成する。結成当初はThe Barons(Decca・Imperial等にも同名のグループが在籍したが、本グループとは関係ない)としてアマチュア・ショー等への出演を開始した。やがて実力を付けたグループは、アポロ劇場でのアミュア・ナイトに出演し見事優勝をはたし、わずかなお金と少しの名声を得た。こののちThe BaronsはElizabethという少女シンガーを加えThe Barons and Bettyと名乗ったが、これは数カ月で解消している。次にグループ名をThe Larksと改名したが、51年にノースカロライナ出身でのちに大スターとなる同名のグループがApolloレーベルからデビューしたため、The Singing Wonderersと改名した。The Barons・The Larks・The Wonderersのどの時期も活動拠点はハーレム中のいたる所にあった典型的なバーであった。彼らが当時取り上げていた曲の多くは、彼らのアイドルだったThe Ink Spots・The Ames Brothers・The Mills Brothersといったグループにならい、Mam'selle・Birth of the bluesといったポップスやブロードウェーナンバーであった。「僕達の望みとは違っていたんだ。ナイト・クラブやサパー・クラブといった場所で歌いたかったのさ」とBob Yarboroughは語る。アポロに出演して以来、彼らは次のThe Oriolesになるためのキャリアを積んでいった。この頃Bob Yarboroughの声がテナーからバリトンへと、低音域に変声したため、Frank Joynerがセカンド・テナーを担当するようになる。1953年、Alfonso Brownが兵役のためにグループを抜け、ちょうど同じ頃に退役したばかりのRay Pollard(Frank Joynerの友人・韓国赴任中に左手を失っている)がThe Wonderersに加入した。このメンバーは10年後の解散まで変わらずに活動をともにしている。Ray Pollardが加入した時期とほぼ同じ頃、グループはBill Campbell(作曲家・ピアニストとしてグループのレコーディングコートにもなっている)と出会っている。以降The Wonderersがアポロ劇場に出演する時は常に彼がバッキングを受け持っている。またマネージャにはTommy "Dr. Jive" Smallsが就任した。Tommy SmallsはすぐさまSavoyレコード(Herman Lubinsky設立・ニューアーク・ニュージャージー州)とThe Wonderersとして契約し、1953年10月にこの契約が公表された。最初のレコーディング・セッションはこの公表以前の1953年8月26日に行なわれており、We could find happiness・Hey mae ethel・Tell me how(別名How can I get along without you でもある)・Don't do nothing I wouldn't doを収録している。この中からWe could find happinessが1953年10月にリリースされ、同53年10月24日にI want to thank you(The FIve Royales)・Peace of mind(Savannah Churchill)・Daddy rollin' stone(Otis Blackwell)・I feel that-a-way(The Royales)・White cliffs of Dover(The Blue Jays)らとともにレビューに登場した。翌11月にClub Baby Grand(ハーレム)にBig Maybelle(MCはNipsey Russell)とともに出演した。The Wonderersは50代初から55年頃までこの店の準レギュラー出演者となった。1953年11月20日、グループはアポロ劇場に、Ella Fitzgerald・Peg Leg Batesと出演し1週間の公演を行った。この頃のステージ衣装は、放浪者をイメージさせるために「つぎはぎ」をわざとあてたものであった。これは恐らく赤色と黄色のスーツの衣装を使用した期間の中間の時期に当たると思われる。しかしFrank Schiffman(アポロ劇場のオーナー)は、つぎはぎだらけの彼らの衣装に大してははあまりいい印象を持たなかったらしく、彼らに注意を与えている。2回目のSavoyでのセッションが1953年12月8日に行われWhat do I do・Did you see that・My first, last, and only galをレコーディングしたが、これらはいずれも未リリースのままとなった(The Wonderers活動中にはAl Alberts and Dakota Statonのバッキングにも参加している)。1954年2月、The WonderersはFlame Show Bar(デトロイト郊外)にGladys "Glad Rags" Patrickと出演、3月にはTiny Grimesとオハイオで一連のワン・ナイト公演を行う。6月、Lee Magid(SavoyのA&Rのトップ)がThe Wonderersのマネージャーに就任したと公表された。彼はすでにGladys Patrickもマネージメントしており、このことが後に問題となっていく。Lee MagidはすでにThe WonderersとSavoyで会っており面識があった。彼は1953年秋にLarry NewtonとともにCentralレコードを設立している(Larry Newtonは1954年中頃にこの会社を買い取っている)。マネージャとなったLee Magidが最初にしたことは、グループをSavoyから切り離すことであった。彼はグループをDeccaに売り込み、1954年7月始めにMilt Gabler(Louis Jordan・Bill Haleyなどをプロデュースした)との契約に成功した。この時グループ名を一時期使っていたThe Singing Wonderersに改名し、7月12日にセッションを行いSay hey, Willie Mays・Don't drop it・Three roses・The wrong party againの4曲を収録した。奇妙なことにDeccaから配布されたThe Singing Wonderersのプロモート写真には「マネージャDon Angelo」なる人物のサインもあったが、Bob Yarborough自身この名前を聞いた事が無いと話している。1954年7月初旬、Deccaは「The TreniersのSay heyやThe King Odom QuartetのAmazin' Willie Maysの対抗馬として、The Singing WonderersのSay hey, Willie Maysを急遽リリース」と公表した。Say hey, Willie Maysは1954年8月21日に「good」評価で、Honey love(Bunny Paul and The Harptones)・Love me(Willy and Ruth)・Rock, moan and cry(Charlie White)・Oop shoop(Shirly Gunter and The Queens)・Juke box boogie woogie chick(Snookum Russell)らとともにレビューに登場した。1954年11月、Three rosesがDeccaからリリースされた。両面ともに「fair」の評価で11月6日に Kiss me(Marvin and Johnny)・Say, man(Willie Mabon)・Someday we'll meet again(The Royal Jokers)・Forty 'leven dozen ways(The Cues)・Tired of you(The Gentlemen)・Oop shoop(Big John and Buzzards)・I was wrong(The Charmers)らとともに登場している。しかしThe Wonderersはこの時からおよそ2年間、レコーディングは全く行われず、公演や音楽誌への登場も極めてわずかな数でしかなかった。この時期に行った公演の1つを見たJulie Rifkin・Roy Rifkin兄弟は、マネージャーとしてもっと良い仕事を手に入れようと申し出た。Julie RifkinはのちにDomeレコードを設立する人物である。マネージャをLee Magid(この当時すでにSeeco・Dawnレコードを設立している)からこの兄弟に変えたグループは、彼らの言葉通り再び動き始める事になった。映画Rockin' the Bluesへの出演であった。この作品はハーレム(125通り)のSunsetスタジオで撮影された。この映画はMantan Moreland(Birmingham Brownを含むCharlie Chan監督作品に多く出演している人気コメディアン)とFlournoy Miller(ミュージカルRunnin' wildを書き、The Charlestonを紹介している人物)が主人公で、二人は何とかして音楽ショウが行われている劇場に侵入しようと試みる。DJのHal JacksonがMCとして登場し、The Hurricanes・The Harptones・The Miller Sisters・Connie Carroll・Linda Hopkins・Pearl Woods・Marilyn Bennett・Elyce Roberts・Teacho Wiltshire's BandそしてThe Wanderersら数組のアーティストを紹介するという内容であった。Fritz Pollard(元全米フットボール選手・The SolitairesやLeslie Uggamsのマネージャ)がプロデュースを担当、所々に古典的な編集(例えば、Hal Jacksonの司会音声はアフ・レコであったり、歌のシーンで主演の二人の場面がランダムに挿入されたりする)がおこなわれた。また意図的とは思われないが、黒人俳優が劇場に「観客」として入場するシーンに続いて白人ばかりの観客を映し出すというコメディな部分もある。The Wonderersは映画出演に関してはただ撮影をこなし一日を過ごしただけであった。この映画でグループはMy first, last, and only gal(1953年にSavoyからリリースした曲だが、こちらではさらにはつらつとしたSheppard Grantのリードが聞ける)とMy love comes oozing downを歌い、Pearl WoodsのI can't waitのバッキングにも登場した。同じRockin' the Bluesに出演したThe Hurricanesの歌はすでに録音済みの音に合わせた映像だったが、彼らとは異なりThe Wonderersはカメラの前でのライブ録音で歌った。興行師のLarry SteeleがLarry Steele's Smart Affairsと題したツアーへの参加を持ちかけられたグループがParadise Club(アトランティック市・Pigmeat MarkhamとThe Red Prysock Orchestraが出演した)公演に向かう途中での撮影であった。このショーはラスベガス(Deauville in Miami)とマイアミビーチ(Dunes in Las Vegas)で開催され、それぞれ数カ月に渡って舞台に立った。The Wonderersは1956年から少なくとも1958年までこのLarry Steeleとともに仕事をしている。ラスベガス滞在中には一度だけビッグ・バンドのCharlie Barnettとともにラジオ・ショーへの出演も行っている。映画Rockin' the Bluesは1956年10月19日にアポロ劇場で公開初日を迎え、The Wheels・Sugar and Spice・Marie Knight・Pigmeat Markhamらが舞台挨拶を行った。1957年遅くにThe WonderersはOnyxレーベル(Jerry Winston設立)と契約し、11月にThinking of you(裏面はGreat jumpin' catfish)をリリースした。Onyxはこの頃会社の倒産の準備をしていた時期で、そんな時にグループはWinstonに加わることとなったのである。Thinking of youは12月16日に「good」評価でレビューに登場した。同週にはCharades(The Sophomores)・Sugah wooga(The Three Playmates)・Congratulations(The Turbans)・Second fiddle(The Rays)・September song(The Dominoes)・I'm gonna be a wheel someday(Bobby Mitchell)・Christmas letter(La Fets and Kitty)らが登場した。1958年1月31日、The Wonderersはアポロ劇場で介さされたDr. Jive show に、Joe Turner・The Five Satins・Lee Allen・The Turbans・Clay Tyson・Tiny Topsy・Robert and Johnnyらとともに出演した。1958年3月、M-G-MはOrbitレコードを新設し、The Wonderersの未発表作品A teenage quarrel・My shining hourのマスターをOnyxから購入した。さらにM-G-MはOrbit(Morty Craftが責任者となっている)のプロデューサーとしてJerry Winstonを雇った。しかしこの新しいレーベル名は(衛星スプートニクがおよそ半年の間地球を旋回しているのと同じように)実に適切なネーミングで、M-G-Mの新会社Orbitは衛星と同様に失敗となった。この頃Orbitというレーベルが3つ存在していた。Richard Vaughnがロサンゼルスで設立した会社・Fred Marshallがマイアミで設立した会社・Kent(ワシントン)であった。これを知ったM-G-Mはその1カ月後にOrbitからCubへとレーベル名を変更し、The WonderersのA teenage quarrelがこのレーベルから(同じナンバリングで)再発された。1958年5月5日、A teenage quarrel は両面ともに「excellent」の評価を受け、Yakety yak(The Coasters)・Bim bam(Don and Dewey)・Don't leave me here to cry(Shirley and Lee)・Way down yonder(Titus Turner)・Romance in the dark(The Sensations)・Arlene(The Titans)とともに登場した。評価とはうらはらにこのシングルはほとんど売れなかった。10月3日、The Wonderersはアポロ劇場に Illinois Jacquet・Mickey and Sylvia・Bunny Briggs・Andy Rose・Pigmeat Markhamらと出演した。Bob Yarboroughは場所は特定できないが、The Wonderersは50年代後半にはカナダ中のいたる所で公演を行ったと記憶している。11月、CubはTwo hearts on a window paneをリリースしたがこちらはレビューにも取り上げられなかった。1959年1月、Cubからゴスペル色の濃い作品Shadrach, meshack and abednegoをリリース、2月2日(Groundhog's Dayにあたる)に「excellent」評価(裏面は「fair」評価で1959年当時に、なぜCubがこの作品が売れると考えたのか想像し難い)を受け、Everybody likes to cha cha(Sam Cooke)・I can't sit down(Marie and Rex)・Up jumped a rabbit(Frankie Lymon)・Who's that knocking(The Genies)・Trust in me(The Foster Brothers)らとともに登場した。The Wonderersは3月27日から始まるDr. Jiveのショウで再びアポロ劇場に出演、Buddy Johnson・Big Maybelle・The Fiestas・Eugene Church・The Genies・The Channels・The Ebonaires・Sam Hawkins・Marv Johnson・Frances Burnettらと共演した。1959年6月にI'm not ashamedをリリースし7月13日にレビューされ、I'm gonna be a wheel someday(Fats Domino)・So high, so low(Lavern Baker)・(Baby) Hully Gully(The Olympics)・Romeo(The Cadillacs)・Funny what true love can do(Otis Williamd and The Charms)・Frankie and Johnny(Champion Jack Dupree)らとともに登場した。1959年中頃にThe WonderersはEartha Kittとともに、7月3日のリーガル劇場(シカゴ)出演を含めたツアーに出発し、9月25日にSam Cooke・Bunny Briggs・Redd Foxx・Barbara McNairらとともにアポロ劇場に出演するためにニューヨークへ戻っている。11月、CubはWalked through a forestという準宗教的な作品をリリースした。11月23日に両面「fair」の評価で登場した。同週にはRun, red, run(The Coasters)・Blues get off my shoulder(Dee Clark)・San antone rose(The Red Caps)がレビューされている。1960年2月7日、The Wonderersはエド・サリバンショーに出演する。このショウには少なくとも1960年7月3日・1961年2月12日・1961年9月17日の3回出演している。グループはそれぞれの時間に2曲を歌っている。このうちのひとつでは1920年代のスタイル(アライグマの毛皮を着た)でWhiffenpoof songを歌っている。1960年4月29日から始まったアポロ劇場公演にSam Cooke・Abbey Lincoln・Clay Tyson・Bobby Ephriamらと出演。この年のリリースはわずか1枚のシングルだけであった。60年8月のI could make you mineである。この頃のThe Wonderers作品は、大げさなバイオリン演奏と信じられないほど過度に重たいアレンジが施されている。これはスタジオ・ミュージシャンには良いニュースであったかもしれないが、子供たちが求めた音楽からはかけはなれていった。1961年3月、CubはEd Townsendが1958年に放ったスマッシュ・ヒット作品For your loveのThe Wonderersによるリメイクを発表した。このシングルがグループにとって最初の全米チャート(とはいっても第93位まで上昇しただけであったが)となった。裏面はThe CoastersタイプのナンバーSally goodheartで、レビューではDear Abbey的作品であると評されている。続いて6月、2作目のチャート・ヒットとなったI'll never smile againというスタンダード・ナンバーをリリースした。こちらは第107位まで上昇した。裏面はA little too longというThe Marcels的なアレンジの作品であった。1961年の3枚目のリリースは9月のSomebody else's sweetheartというHal DavidとBurt Bacharachコンビの作品で、この二人は1956年のThe morning mailで初めてコンビを組んでいる。この頃から、当時のグループのブッキングを担当したCharlie Rappはキャッツ・キル山脈周辺のホテル(Concord・Grossinger's・Nevele・Brown'sなど)での公演を決めた。それらはニューヨーク市から遠く離れたニューヨーク州の山脈地域にあった。通称The Jewish Alps(ユダヤのアルプス)と呼ばれ、30代から50代にかけての観客・観光客でホテルは満たされた。ここでは、グループ自身のテクニックも磨かれ素晴らしい公演が多く行われた。The Wonderersはレパートリーにいくつかのイディッシュ語の歌さえ加えたCubでの最後のシングルは1962年5月にリリースされた。これは両面に「古き良きもの」の香りがあった。As time goes byは1931年に初めてチャートに登場した作品、There is no greater loveは1936年のIsham Jonesのヒットという、両面カバーシングルであった。このシングルがリリースの直後Cubの運営は中止され、親会社のM-G-Mから同62年6月に再発された。こちらはチャート第88位とThe Wonderersにとってチャート最高作品となった。1962年9月、キューバのミサイル危機が叫ばれる中、The Wonderersは日本の南にある沖縄米軍基地へ慰問のためにに飛んだ。ここからの数カ月をSam "The Man" Taylor・Screamin' Jay Hawkins・Anita O' Dayとともに日本公演のツアーで過ごした。4年後の1966年にThe WonderersはM-G-Mを去り、United Artistsと契約した。1963年に2枚のシングルAfter he breaks your heart・Run run Senorita(2月)とI'll know・You can't run away from me(10月)をリリースした。1963年、グループは短期間のツアーにEthel Mermanと出演。8月にはダラスのCabanaで初の黒人グループとして出演した。この年の後半の数カ月を日本に戻って活動を続けている。ツアーの途中で彼らはケネディー大統領が撃たれていたという訃報を聞いた。The Wonderersがアポロ劇場に出演したのは1964年2月7日が最後となる。グループとして最後の出演は、1964年の遅くのKew Gardens(クイーンズ区・ニューヨーク)の舞台である。ここでのグループはBob Yarborough・Sheppard Grant・Frank Joynerの名前を超えて、Ray Pollard and The Wonderersとして知られていた。解散後の1965年、Sheppard Grantは脳出血を患い発病から短期間で世を去った。Frank Joynerは音楽から未をと遠ざけ、以降かれの行方は不明。Bob Yarboroughはショー・ビジネス界に残留することを望んでいたがIlford(英国のフィルム・メーカー)で働き始めた。音楽界に残った唯一のメンバーはRay Pollardで、1970年から71年にかけてブロードウェーの舞台Purlieにメンバーとして出演した。この作品Purlieは、Cleavon LittleがPurlie役(現映画俳優のモーガン・フリーマンの代役として)で配役された舞台で、Milton Grayson(The Dominoes)とTony Middleton(The Willows)がコーラスとして参加、演出(脚本はOssie Davis)はPhil Rose(Gloryレコード設立)が監督した。この後、Ray PollardはJoe Cuba(のちの80年代にThe Ink Spotsのリードシンガーとなる)六重奏団に加入した。1989年11月、Ray PollardとRobert YarboroughはEddie "California" Jones(後年のThe Wonderersのメンバー)とともにUGHAショーに登場した。The Wonderersは2000年にUGHA Hall of Fameに選出(RayとRobertは2001年5月までこの賞を受けるために登場しなかった)されたが、Ray Pollardは2005年1月26日に死去した。