The Continentals

1955年・ニューヨーク州・ニューヨーク市・ブルックリン
Danny Hicks(lead・tenor)・Herman Montgomery(tenor)・Neville "Buddy" Payne(tenor)・James Gripper(baritone)・James Vincent "Vinny" Cooper(bass)

■Dear lord・Fine fine frame(Whirin' Disk-101)56.10
■Picture of love・Soft and sweet(Whirin'Disk-105)57.02
■Dear lord・Fine fine frame(Port-70018)60
■Picture of love・Soft and sweet(Port-70024)61

The Continentals
LP Rumble
Jubilee JGM1114
1959年

JubileeがリリースしたオムニバスLP。近年同ジャケ同タイトルのCDが登場、収録曲が異なる幾つかのバージョンがあります。彼らを含めて4組のグループが登場します。

50年代前半にブルックリンで結成された2つのグループが母体となっている。一つはThe Condorsというグループで、メンバーはHerman Montgomery・Neville Payne・James Gripper(バリトン)・James Vincent "Vinny" Cooperの4人。もう一つが同じ頃に活動したThe RomancersでメンバーはDanny Hicks・John "Peanut" Jones(テナー)・Willie Keels(ベース)・Clarence Ivey(バリトン)・Robert Lynch(テナー)の5人でクイーンズ区に住んでいたDanny Hicksがリードを担当した。これらのメンバーのほとんどがBoys' High Glee Clubの頃からの顔見知りで、1955年に開催されたタレント・ショーをきっかけに正式に合流している。The CondorsはDanny Hicksの歌声に感銘を受け、このグループに合流しないかと誘った。間もなくDanny HicksがJames Gripperのもとを訪れThe Condorsに参加した。この時すでにThe Romancersのメンバーは険悪な状態であった。この時Herman Montgomery・James Gripperは16歳、Danny Hicks・James Cooperは17歳、Neville Payneは18歳で大柄の年長者であった。The Condorsのメンバーは他にもグリー・クラブなどにも所属し、Neville Payne・James Gripper・Herman MontgomeryはWynn Center Marching Bandのメンバーでもあった。当時、魅力的なコーラスワークで知られた数多くのバード・グループがすでに活動していたが、The Condorsもまた自分たちの特質であるとも考えていた。1952年にRenzo Cesanaという人物がThe Continentalというテレビ番組において女性達を虜にしていた。間もなくグループはThe Continentalsと改名する事を決めた。1961年くらいまでにThe Condorsという同名のグループが活動を続けている。1956年1月にRamaレーベルから、同年12月にはKeyレーベルから同名のThe Continentalsというグループがリリースを行っている。おそらく彼らは当時発表されたばかりの高級車コンチネンタル・マーク2に由来すると思われる。The Continentalsのレパートリーは、Down the road(The Cadillacs)・Let me show you (around my heart)(The Turbans)Please remember my heart(The Solitires)・Darlene(The Dreams)・Yes Sir, that's my baby(The Sensations)・No chance(The Cadillacs)・Sixteen tons(Tennessee Ernie Ford)・The wind(The Diablos)のたった10曲でスタートした。彼らは週に7日間を練習にあてた。James Cooper曰く「習うより慣れろってことさ。どのグループより上手くなりたいって思うこと」であった。何人もの知人が「マネージャーを持つべきだ」と進言したにも関わらず、彼らはそれぜす、この事は後に様々な問題がつきまとう事となる。自分たちで(あまり多くはなかったが)出演予約を処理したたが、それは彼らにとって重要な問題であった。なぜなら友人のグループ達のいずれもが著作料としてもらえるはずの相応の金を受け取っていなかったからだ。公演のギャラがグループにとって最も主な収入源であるというのが当時の真実であった。Danny Hicksの友人や家族はハーレムに住んでいたため、彼はしばしばこの周辺を散策していた。1956年春、知人が125番街にあるレコード店を訪問してはどうかと提案し、店主のBobby Robinsonと出会った。Danny Hicksは自分たちのグループがレコードを出すにあたっての様々な希望や問題をRobinsonと話し合い、Lenox大通りにあるRoseta LeNoire(TVショー「Family Matters」に関わった人物)のスタジオでオーディションすることになった。こうして彼はThe Continentalsと契約することとなる。Danny Hicksは「Bobby Robinsonが僕たちのマネージャーになってくれたらいいな、と考えていたんだ。でもそれはまったく期待はずれに終わったよ」と語っているBobby がグループに約束した事が実現する事はなかったのである。レコードについても同様で、The Continentalsのシングルの数が決して多くない理由でもある。1956年5月頃、グループの契約書にHerman MontgomeryとJames Gripperの両親が署名をした。Tommy Smalls(Dr. Jive・DJとして有名)はブルックリンの女子高校で行われたThe Continentalsのショーを見に来ていた。彼はMardi Grasレコード(Jerry Winston設立)が新設したOnixレーベルのためのアーティストを探すために何人かの代表者を連れて来ていた。Onixの制作をBobby Robinsonが扱うことになったことをメンバーはこの時に知る。同じ頃にメンバーの一人Buddy Payneが衝動的にグループを去り海兵隊に入隊する。当初Buddy Payneに代わるシンガーの補充は考えていなかった残りのメンバーだったが、5部音声という構成にこだわることで意見が一致し、新たなメンバーを探すこととなった。最初の候補はちょうど中学校を出たばかりのRonnie Payne(Buddy Payneの弟)であった。さっそくオーディションを行ったものの、あまりにも若いという理由で採用は見送られた。結局Danny Hicksと継続的な親交のあったJohn Jones(The Romancersの元メンバー)がThe Continentalsに加入することとなった。「John Jonesは最初からグループに溶け込んでいたよ」とDanny Hicksは話している。1956年6月29日、グループにとって記念すべき日が訪れる。「前日の夜はかなり神経質になって、結局ほとんど眠れなかったんだ」とDanny Hicksは言う。翌日の午前11時にThe Continentalsのセッションが、マンハッタンのBeltoneスタジオで予定されていたからであった。彼らがリハーサルを行っている頃、The Channelsの面々がスタジオに入ってきた。2つのグループはすでにSt. Augustin's Church(ブルックリン)で行われたショウで出会っいる。The ContinentalsとThe Channelsは初めての合同セッションをこの時行っている。Earl Lewis(The Channelsのリード) によると、「Dear lordを聞いた僕はノックアウトされたよ」と当時の事を語っている。Earl LewisはDanny Hicksの高音域のテナーに耳をかたむけ、後日The closer you areでその唱法を取り入れたことを認めている。Bobbyと弟のDannyのRobinson兄弟(ともにこの時代にいくつかのレコード会社を運営し成功した)がこのセッションを見守るなか、The ContinentalsはDear lordとFine, fine frameをレコーディングした。Fine, fine frameは、作曲された時点ではFine brown frameというタイトルの作品であった。しかしBobby RobinsonはこのタイトルはNellie Lutcherが1948年にヒットさせた作品を想起させ、また法律的な混乱を招くかもしれないと考えた。このためタイトルをFine, fine frameに、また歌詞の一部も同様に変更しそれを何度も練習させてから収録に取りかかったため、この作品のレコーディング日付はずれが生じていると思われる。スタジオ・バンドのメンバーは、King Curtis(サックス奏者・彼らのヒット曲を書いた)・Mickey Baker(ギタリスト)・Philly Joe Jones(ドラマー)・Panama Lewis(ピアニスト)にベース奏者(今では誰も彼のことを覚えていない)の5人である。彼らは3~3.5時間ほどかけ、Dear lordとFine, fine frameの2テイクを収録した。このセッションはここで時間切れとなり、引き続き同じスタジオでThe ChannelsはThe closer you areとNow you knowをレコーディングしている。Earl Lewisが自身のグループのサウンドのヒントをThe Continentalsから得ていたことを知ったBobby Robinsonは、The Channelsの可能性を見いだし興奮していた。彼はThe ContinentalsのDear lordの作業中だった8月にThe closer you areをリリースしている。この2作品はともにBobby Robinsonの新しいレーベルWhirin Discから発売された。Whirlin DiscはJerry Blaine(Jubileeの社長)とともに設立したレーベルで、後年Portレーベルからこの2作品は再発されている。PortはSteve Blaine(Jerry Blaineの息子)が1957年にわずか17歳で設立したレーベルである。The Continentalsのメンバーが待ちに待ったリリースは1956年10月に行われた。Danny Hicksはその日の午前9時にWOVで放送されたJack WalkerのPear-Shaped Talker(午前7時から9時)という番組で初めてDear lordがオンエアされるのを聞いた。このシングルは56年11月17日にレビューされ「excellent」の評価を受けた。この週はCause you're mine(The G-Clefs)・A teardrop from heaven(The Diablos)・Why(The Cues)・Tears in my eyes(The Baltineers)らが登場している。The Continentalsはさらにレパートリーを増やすべくチャート・ヒット・ナンバーを次々と練習した。ライブでは、観客の一人が「20位の曲を!」と叫べばThe SpanielsのBaby, it's youを、「25位は?」と聞かれればThe DellsのWhy do you have to goをすぐさま歌ってみせた。もちろん第1位はDear lord、そして第2位はFine, fine frameであった。1956年の終わり頃までに彼らのレパートリーはおよそ50曲に及んだ。1956年11月13日、The ContinentalsはWhirlin' Discでの2度目のセッションを行い、Picture of love・Soft and sweetをレコーディングした。それぞれ2テイクづつ収録している。この時のバック・ミュージシャンは、Mickey Baker(ギタリスト)・Philly Joe Jones(ドラマー)・Panama Lewis(ピアニスト)・Sam "The Man" Taylor(サックス)・Ray Brown(ベース)が担当している。このバッキング・メンバーはThe Channels・The TeenchordsやThe Kodaks(The Continentalsの大ファンだった)らのセッションにも参加しているが、残念なことに公式な記録は残っていない。Picture of love・Soft and sweetは1957年2月にリリースされ、3月16日に両サイドが「good」の評価を受けた。この週はSchool day(Chuck Berry)・Wedding bells(The Heartbeats)・Close your eyes (Sleep and Dream)(Jimmy Jones and The Pretenders)・Who knows better than I(The Chestnuts)・Everybody loves me(The Sophomores)・Baby come home(Robert and Johnny)・Oh happy day(The Five Satins)・Rock, plymouth, rock(The Dominoes)・Moon of silver(The Mellows)が取り上げられている。高い評価と評判にもかかわらずThe Continentalsのレコードは不振であった。しかし彼らは前進を続けた。 グループの公演は女性達のために、いつもSoft and sweetで終えた。そしてこの曲を歌い終わったJohn JonesはScreamin' Jay HawkinsのI put a spell on youのパロディーを口ずさんでいた(彼らは、以前にブルックリンのエンパイア劇場でThe CadillacsやScreamin' Jay Hawkinsと共演したことがあった)。The ContinentalsがRobinsonと契約中に、ひとつのバッキング・セッションにも参加している。RCAと契約した新進のポップ・スター(Johnny Mathisタイプの歌手)とのセッションである。彼とともに7日間のリハーサルを行い500ドルを受け取った。このシンガーのマネージャーはJames Cooperの顔見知りとういうことからThe Continentalsは公演の機会を得た(このシンガーの名前を誰も覚えていない)。1957年の遅くにJames Gripperが空軍に入隊するためにグループを去り、ここから崩壊が始まる。新たに加入したメンバーは、Danny Hicksの古い友人Willie Keels(The Romancersのバリトン・シンガー)であった。しかしこの頃にはグループとしての活動の場と機会がほとんどなくなっていた。「僕たちはBobby Robinsonがなんとかしてくれると思っていたけど、何も起こらなかったんだ」とDanny Hicksは振り返る。彼の言った通り、この頃にはグループに対しセッションの予約さえとることもなくなっていたRobinsonにメンバー全員が嫌悪の念を抱いていた。唯一の確かなことは、グループはDear lordの著作料としてわずか57ドルしか受け取っていないことである。1959年初頭、James Cooperは心臓発作により突然の死を迎える。「彼は僕たちにとってロックそのものだった」とDanny Hicksは語り、Bobby Robinsonは「これはThe Continentalsが克服することができなかった1つの悲劇」だと話した。この後間もなくBuddy Payneは陸軍准将に、John Jonesは陸軍准将として共に入隊した。死の直前のJames CooperはAll City ChorusのメンバーでJuliard音楽学校の奨学生であった。Herman Montgomeryはニューヨーク市の警官と同時に輸送局で働き、The Continentalsの残留メンバーとしても活動したが1999年に死去している。Willie Keelsは消息不明である。Danny HicksはJames Gripperが空軍から退役した時にグループの再結成を持ちかけたが、彼にはその気は既に失せていた。James Gripperは官庁協会(Civil Service Employees Association)に加わり電気技師そして組合役員となった。Danny HicksはThe Keynotes・The Paragons・The Fantasticsといったグループで歌いショービジネス界に残った。以来元気なプロモーターや出版社の人々と共に働いた。