The Four Aces

テキサス州・フォートウォース
Algia Pickett(tenor)・James Ruben Franks(tenor・guiterist)
George Smith(baritone)・Otha Jackson(bass)

■I wonder, I wonder, I wonder, part 1(instrumental)・part 2(Trilon-143)46.12
■Garbage man・Put your cards on the table(Trilon-144)46.12
■There's a rumor going around・St. Louis boogie(instrumental)(Trilon-145)46.12
■Richard ain't gonna open that door・Richard's jam(instrumental)(Trilon-153)47.
■Cherie・I'll never let you go again(Trilon-178)47.07
■I'm crying all the time・This little chick went to market(Trilon-179)47.07
■Ain't it a cryin' shame・Gumbo(Trilon-180)47.07
■Lazy Navajo・Aces swing(4 Star-1292)49.04
■Too late・Jumpin' out(4 Star-1324)49.
■Who is there to blame・Because I'm in love with you(4 Star-1408)50.01
■Till I go dreaming of you・Lazy Navajo・Aces swing・Too late・Who was there to blame・Katie May(4 Star-ET20・DJコピー16-inch 盤)50.
■Release me・Whose arms are you missing(BIg Town-112)54.02
■I can see an angel・You were my first affair(BIg Town-118)55.02
■I can see an angel・ I can see an angel(BIg Town・DJコピー盤)

The FOur Aces
SP I wonder, I wonder,
I wonder
Trilon-145
1946年

40~50年代にかけて活躍したグループの一つである。彼等がTrilon・4-Starでレコーディングする以前にも少なくともあと2つのThe Four Acesと呼ばれるグループがいた。ひとつは33年にChampionからRhythm is our businessでデビューしたグループ、もうひとつは(44年の報道によると)軍役中(中国・ミャンマー・インド間の紛争)の隊員により結成されたグループで、こちらのThe Four AcesにはDavid McCauley(テナー)・Orvan Lyles(テナー・Leroy Lylesという説もある)・Robert Parker(バリトン)・Charles Holmes(ベース)の4人が在籍しており、The Ink Spotsのスタイルを踏襲したグループであった。そして、本項の主人公であるこちらのThe Four Acesは、フォートワースのI.M. Terrell高校の生徒が35年に結成した。Algia PickettはThe Futuristic Fourというグループで歌っていたが、他のメンバーは卒業と同時にグループから離れていった。彼はJames Ruben Franks・George Smith・Otha Jacksonを誘い新たなグループを結成する。Algia Pickettは家族を養うために高校を中退した(のちに卒業証書を受けとるために復学する)。彼はグループ結成当時すでに22歳で最年長者であった。ちなみにJames Ruben Franksは18歳・George Smithは17歳・Otha Jacksonは19歳であった。彼らは近所の理髪店で練習を重ね、教会やKiwanis Clubsなどで活動を始める。「その頃の俺たちはゴスペルや人気のあったポップスを歌って、5~10ドルを稼いでいたんだ」とAlgia Pickettは語っている。彼らはThe Mills Brothersの影響を受け、お気に入りのレパートリーの一つにMy wild Irish roseがあった。やがて彼らは地元のラジオ局から注目されるようになり、毎週15分の番組を担当するようになる。この時点において彼らはグループ名前をまだ持っていなかった。ラジオ局のアナウンサーだったMr. Gallagherが彼らをThe Four Acesと命名する。この番組は3カ月間放送されたが、好評だったためさらに2~3ケ月延長された。これをきっかけに、彼らはTexas State Networkからも誘いを受けている。38年にはSawdust Trail(Beckman And Garrity Show)に出演、George Smithはこの時ピアノを弾いている。この頃からOtha JacksonはGeorge Smithにベースギターを教わりはじめた。39年、サンアントニオ(テキサス州)のWOAIで新しい番組を得て、およそ1年間放送された。第二次世界大戦の直前、テキサスで活動していたグループは、ボーカルのグループの可能性に賭けサンフランシスコ(オークランド州)に拠点を移すことにする。間もなく大戦が起り、Algia Pickett・George Smith・Otha Jacksonは入隊する。James Ruben Franks(メンバーは彼をJamesと呼ばずにRubenと呼んだ)ただ一人が兵士として召集されなかったため、彼は戦争が終わるまでは、様々な地元のバンドと一緒に軍歌をレパートリーとして活動していた。46年1月、Algia Pickettは退役し、James Ruben Franksの所有したオークランドの家に引っ越した。George Smith・Otha Jacksonが退役しメンバーは再会する。彼らはより深く音楽を学ぶためにオークランドのKendell Conservatory of Musicに出席するとともに、毎晩のようにサンフランシスコのナイトクラブに出演した。この頃からグループの音楽的な技術・理論が急速に向上したといわれている。46年の遅く、彼らはTrilonレコード(Rene Lamarre設立・San Pablo通り3123・オークランド州)のオーディションを受け、契約するとともにBob GeddinsがA&R担当に任命された。彼らの最初のセッションでI wonder, I wonder, I wonder(インストとボーカルの両バージョン)・Garbage man・Put your cards on the table・There's a rumor going around・St. Louis boogie(インスト)の6曲を収録した。St. Louis boogieではBenny Butlerがオルガンを演奏している。これらの曲は46年12月に3枚のシングルとして全曲がリリースされたがチャートには失敗となった。シングルリリースの一方で彼らは地元のナイトクラブでの公演を継続した。47年3月に2回目のセッションが行われ、Richard ain't gonna open that door・Richard's jamを収録、後者ではJack Harrisがドラムで、J.P. Pattersonがサックスで参加している。この作品も間もなくシングルとしてリリースされた。Trilonでの最後のセッションは47年に行われ、Cherie(オリジナルはCherryというタイトルでHarry Jamesで42年にヒットした)・I'll never let you go again・I'm crying all the time・This little chick went to market・Ain't it a cryin' shame・Gumboを収録し、47年7月に全曲がリリースされた。レコードはチャートに顔を出せなかったものの、The Four Acesは公演での多望な日々を送っている。彼らはオークランドに住んでいたが、ロサンゼルス・ワシントン・オレゴン・カナダへ向けておよそ1ケ月のツアーに出発する。このツアーはHal Morris(歌手Tony Martinの兄弟)がマネージメントした。49年、Sunset Strip(ロサンゼルス)で公演中にWilliam McCall(4-Star設立・パサディナの305 South Fair Oaks Avenueにあった)と知り合い(Bob Geddinsはこの頃すでに彼の会社でA&Rを担当していたことから、彼の推薦によるとも言われている)、The Four Acesは彼のレーベルへと移籍した。4-Starでの最初のセッションで、Till I go Dreaming of you・Lazy Navajo・Aces swing・Too late・Jumpin' out・Who is there to blame・Because I'm in love With you・Katie Mayを収録する。この中からLazy NavajoとAces swingが49年4月にリリースされ、その後Too lateとJumpin' outがリリースされた。4-Starでの3枚目で最後となるシングルWho is there to blameが50年1月に発売され、その翌月(翌々月の説もある)にはラジオ局向けのレコード(DJコピーと呼ばれるようになる)がプレス・配布されている。さらに(少なくとも4曲がレコーディングされた)もう1つのセッションが行われ、Release me(67年にEnglebert Humperdinckがリバイバルヒットさせることになる)・Whose arms are you missing・I can see an angel・You were my first affairが収録されたがいずれもリリースはされなかった。The Four Acesはビッグヒットを持つことはなかったが、シングルとして22曲を公表、以降再びレコーディングすることはなかった。しかし2枚のレコードがリリースされている。Big Town(4-StarのBob Geddinsがカタログを売却した)からRelease me・Whose Arms are you missingが54年2月に発売した盤で、レコードラベルにはOriginal The Four Acesと記載されている。同じくBig TownからI can see an angel・You were my first affairが55年2月にリリースされた。The Four Acesはその後も活動を続けたが、56年4月にJames Franksはグループを去りロサンゼルスに移住し、プールとショップの経営を始めた。残されたメンバーはギタリストを伴いワシントン・オレゴン・カナダへの最後のツアーに出発した。George Smithもまたグループに幻滅し、サンフランシスの郵便局で働くことにする。Otha JacksonはThe Coasters・Pee Wee & Sugar Pieのバッキングペースプレーヤーとしてツアーに参加、また小さなグループを作りカリフォルニア大学で演奏などを行ったが彼もまた、郵便局員としての生活を選んだ。Algia Pickettはアルメダ郡でThe Four Acesとしての最後の公演を行った。