The Titans

1956年・カリフォルニア州・ロサンゼルス
Charles Wright(テナー・バリトン)・Sam Barnett(テナー・バリトン)・Curtis McNair(テナー・バリトン)・Alvin Branom(テナー・バリトン)・Larry Green(バリトン・ベース)

■So hard to laugh, so easy to cry・Rhythm n' blues(Vita-148)57.01
■G'wan home Calypso・Look what you're doing baby(Vita-158)57.04
■Sweet peach・Free and easy(Specialty-614)57.10
■Just a little lovin'・When the sun has begun to shine(Specialty-617)57.11
■Don't you just know it・Can it be(Specialty-625)57.12
■Arlene・Love is a wonderful thing(Specialty-632)58.04
■No time・The tootin' tutor(Class-244)59.01
■Everybody happy・What have I done(Fidelity-3016)60.02
■It's so hard to laugh, so easy to cry・Rhythm n' blues(Vita-101)72
The Vitamins(bootlegged)
■It's so hard to laugh, so easy to cry・Rhythm n' blues(Vita-148)72

The Titans
45s So hard to laugh,
so easy to cry
Vita-148)
1957年

The Titansのリード・シンガーLarry Greenは、タクシー運転手からレコード会社経営者へと転身した。彼は東海岸から西海岸、RCAからVita、そしてThe HeartbreskersからThe Titansへと変身をとげた。1951年、ワシントンでタクシー運転手(すでにシンガーとしての仕事もしている)だったLarry Greenは、当時在籍していたThe Four Dotsを去り、兵役のためにグループを抜けたNugie Holmesに代わってThe Heartbreakersのベース・シンガーとして加入した。The Heartbreakersは初めてのレコーディング・セッション(1951年7月26日に行われた)のためにニューヨークのRCAを訪れる予定だった。Larry Greenはニューヨークでもタクシー・ドライバーで収入を得るつもりで、タクシー車の購入の交渉を行っていた。こうして新しい車でニューヨークに向かったのだが、実際の交渉ではまだ元の所有者からの売買の承認を得ていなかった。このため、レコーディングを終えでニューヨークから帰ってきたLarry Greenは即座に逮捕されてしまう。このトラブルは幸いにも問題なく終える事ができたが、一方でRCAがThe Heartbreakersのプロモーションにほとんど興味を示さないことにメンバーは頭をかかえなければならなかった。1956年、Larry Greenはロサンゼルスに移住し、クラブでソロの仕事(少数のウォルト・ディズニー作品のサウンドトラックにも関わった)をした。いくつかのクラブで働く頃、彼は自分に感銘を与えたソロ・シンガーを聞く機会があった。そして彼は自分たちのグループを結成しないかと持ちかけた。集まったメンバーは20代前半の若者であったが、当時のLarry Greenはすでに30歳でグループの最年長者であった。グループ結成当初The Egyptiansと命名したが、間もなく、アメリカ空軍が開発した新しいミサイルにちなんでThe Titansと改名する。改名した時期はメンバーの一人Curtis McNair(歌手のBarbara McNairの従兄弟にあたる)が空軍から退役したばかりの頃で、彼は軍務中に東京でThe Statesmenというグループで歌っている。このグループにはBuddy Holt(The Love Notes・ボストン出身)も在籍した。Bill Homans(The Statesmenのギタリスト)は「Curtis McNairはThe TitansにThe Statesmenのサウンドを発展させた形で取り入れた」と話している。こうしてThe Titansは、Charles Wright(The Shieldsのメンバーとは同名異人)・Sam Barnett・Curtis McNair(本名の綴りはMcNear)・Alvin Branom・Larry Greenの5人が集まった。メンバーの誰もがリードを担当できた彼らは、レコードでもそのテクニックの万能さを示している。The Titansのレパートリーはバラエティに富み、R&BナンバーばかりでなくMuddy Watersのブルース作品や、The Hi-Losといったモダンなハーモニー・アレンジもこなした。グループは、その活動期間中を通して公演の出演依頼が殺到した(奇妙にも彼ら自身のレコードは決していいセールスとは言えなかった)。The Titansのマネージメントを担当したCecil "Count" Carter(Benny "Be-Bop" Carterのアルト・サックス奏者)は、グループのレコーディング・セッション契約をVita(Larry Mead設立)と結ぶ事に成功する。最初のセッションは1956年末に行われ、So hard to laugh, so easy to cry・Rhythm and bluesを収録し、1957年1月にリリースされた。またこのリリースからほどなくUniversalがブッキング契約を申し出ている。1枚目のシングルは2月9日にThat's what I wanna do(Shirley and Lee)・Come go with me(The Del-Vikings)・Someday we'll meet again(The Scooters)・That's my desire(The Spiders)・Our school days(The Monitors)・Fountain of love(The Starlarks)・Bad boy(Big Daddy and Boys)らとともに登場した。1957年3月に行われた2回目のセッションでG'wan home Calypso・Free and easyをレコーディングし、4月にリリースされた。こちらは最初のシングルより悪いレビュー(5月20日付で両面とも「poor」評価であった)を得た。同週にはDrifting away from you(The Drifters)・Tonite, tonite(The Mello Kings)・Pretty evey(Aaron Collins)・What do you do(The Channels)・100 years from today(The Mondellos)が登場している。厳しい評価にもかかわらず、Lash Lazar(ラジオ番組Scrivener's Drive-InのDJ)は6月の推薦シングルの1枚としてG'wan home Calypsoを選出した。カリプソをリリースした(あるいはタイトルにカリプソという言葉を使った)結果The Titansは、映画Bop Girl Goes Calypsoへの出演が決まり、休養と気晴らしを兼ねた撮影に参加した。Judy Tyler(Howdy Doodyの Summerfall Winterspringの主演女優)・Bobby Troup・Lucien Littlefieldらの主演によるこの映画には、音楽シーンにThe Goofers・Nino Tempo・The Cubanos・Lord Fleaが出演している。この中でThe TitansはSo hard to laugh, so easy to cryとRhythm and bluesを歌っているが、映画タイトルのカリプソとは全く関係がなかった。この映画に出演後、Cecil CarterはグループをSpecialty(Art Rupe設立・当時の A&RはSonny Bono)と契約させた。1957年7月7日、Sweet peach・Free and easy・Deep down(なぜかグループのセッションは毎回3曲を歌うというのが多い)をレコーディングし、Sweet peach・Free and easyが10月にリリースされた。シングルは10月14日にレビュー(両面ともに「good」)され、Our anniversary(The Five Satins)・The joker(Billy Myles)・I ain't guilty(The Crawford Brothers)・Leavin' it all up to you(Don and Dewey)・I lied(The Juveniles)・Buzz-buzz-buzz(The Hollywood Flames)・Unseen(The Medallions)・A rose for my darling(The El Dorados)らと登場した。この頃、The TitansはLarry Greenの友人でもあったDon and Dewey(同じSpecialtyに在籍)のバッキングとして数曲に参加していいる。1957年11月にリリースされたJust a little lovin・When the sun has begun to shineは、両面「good」の評価で、Charades(The Sophomores)・Sugah wooga(The Three Playmates)・Congratulations(The Turbans)・Second fiddle(The Rays)・September song(The Dominoes)・Great jumpin' catfish(The Wonderers)らとともに取り上げられている。The Titansの次のセッションではHuey Smith and The ClownsのDon't you just know itのカバーを取り上げ、12月にリリースされたこのシングルは西海岸でヒットした。1958年2月3日のレビューで「excellent」の評価を受け、Sweet little sixteen(Chuck Berry)・Talk to me, talk to me(Little Willie John)・Zoom, zoom, zoom(The Collegians)・In my thunderbird(The Thunderbirds)らも登場した。順調だったThe Titansだったが、1958年3月1日にAlvin Branomがグループを抜け(Specialtyにその記録が残っている)、グループはカルテットとして継続した。Specialtyにおける最後のセッションが3月27日に行われ、Arlene・Love is a wonderful thingをレコーディング。シングルは4月にリリースされ5月5日にレビューに登場した。同週にはYakety yak(The Coasters)・A teenage quarrel(The Wanders)・Romance in the dark(The Sensations)・Give your love to me(The Three Playmates)・I'm not kidding you(The El Domingoes)らが取り上げられた。1958年にThe TitansはマネージャーをBob Gordon(Jack BennyのSportsmenカルテットに在籍した)に変えている。彼はThe Titans・The Nighthawks(元The Jazz Crusaders)・Mikki Lynn・Eddie "Rochester" AndersonらのThe Harlem Nocturne Revue公演を開催する。このパッケージ・ショーはSquire's Inn(レイクウッド・カリフォルニア州)を中心に開催され、ほぼ2年にわたって興行された。またThe TitansはThe Flamingo(ラスベガス)での公演や、Roy Hamilton・Jerry Lee Lewisとともにツアーへの参加もこの頃に行った。1956年1月、The TitansはClassレーベル(Googie Rene設立)からリリースを行う。Curtis McNairはGoogie Reneと面識があり、彼はすでにThe Titansのレコードを聞いていた。ClassからのシングルNo timeはロサンゼルスでヒットし、2月9日に Where were you (on our wedding day)(Lloyd Price)・But not for me(The Flamingos)・Darling, I want to get married(The Heartbeats)・Shombalor(Sheriff and The Ravels)・Stardust(The Jive Bombers)・Goodbye, matilda(The Diablos)らとともに評価を得ている。The Titans最終のシングルはEverybody happy(裏面はWhat have I done)で、Fidelityレーベル(Art Rupe設立)から1960年2月にリリースされた。この直後にCurtis McNairの父親が病気になり、彼はグループを去っている。残ったThe Titansはトリオとしてしばらくの間活動を継続したがほどなく解散した。しかしCurtis McNairはそれほど長い期間音楽から遠ざかってはいない。彼はこの年の終わり頃からCharlie FuquaのThe Ink SpotsのテナーとしてJoe Van Loan(元The Ravens)・David McNeil(ベース・The LarksやThe Dominoesの元メンバー)とともに歌い始めている。Squire's InnのオーナーであるHarry LiebermanとLarry Greenは関係が続いていた。Larry Greenが料理の得意であることを知ったHarry Liebermanは、彼と彼の妻にこのホテルのレストラン・シェフとして迎え入れた。Larry GreenがThe Singing Chef(歌うシェフ)と呼ばれるはじめたきっかけとなっている。Larry Greenはタキシードとエプロンを身につけ、料理し、宿泊客のために歌っていた。後にLarry Greenはいくつかのテレビと映画出演も果たしている。1965年頃にCurtis McNairはCurtis Knightと改名しThe Squiresを結成する。この年の10月下旬、彼はJimmy James(Little Richardのバックバンドのギタリスト)をグループに加入させたが、The Squiresをわずか3ケ月で抜けてKing Curtisのバンドに加入するためにグループを抜けた(数曲のレコーディングには参加している)。そして1966年秋に彼はイギリスに渡り名前をJimi Hendrixと変えて自身のバンドで活動を初めている。Jimi HendrixとCurtis Knightはのちに再びチームを組むこととなった。Curtis McNair/Knightは「Jimi : An Intimate Biography Of Jimi Hendrix」という著書を1974年に記し、1999年に死去した。The Titansは一度もメジャー・ヒットを持てなかった。彼らには才能があったが、ロサンゼルスの数多くのグループと同様、富と名誉を得る事なく消えていった。