The Barons

1954年・ルイジアナ州・ニューオリンズ
Billy Gordon(lead)・Andrew Fisher(tenor)・Danny ―(baritone)・George Bonney(bass)

■Eternally yours・Boom, boom(Imperial-5343)55.3
■I know I was wrong・My dream, my love(Imperial-5359)55
■Searching for love・Cold kisses(Imperial-5370)55
■Cryin' for you baby・So long, my darling(Imperial-5383)56
■Don't walk out・Once in a lifetime(Imperial-5397)56

The Barons
CD Doo-Wop with
The Feathers and
The Barons
Show Time CD-100
リリース年不詳

Feathers・Barons・Individualsらの演奏が33曲収録されたCD。なかでもBaronsは13曲を聞くことができます。極めてブート盤に近いお皿かと思われますが、音源としては珍しいですね。

1959〜60年に大流行したR&Rブームは、太平洋岸北西部でも多数のティーンネージ・グループ(The Fleetwoods・The Frantics・The Shades・The Gallahads・The Wailers・Ron Holden and The Thunderbirds・Little Bill and The Bluenotesなど)を登場させ、ヒット曲とともに全米の人気者へと押し上げていた。この波に乗り遅れまいとまだ売れないローカルスター達も必死だった。この頃、地元タコマで人気が出始めていたThe Baronsは、ロサンゼルスに本社を置き最も評判の良かった独立系レーベルImperialレコードと契約を交わした。何枚かのヒット作が生まれたにもかかわらず、グループの音楽は当時のアメリカ北西部ではあまり受けなかった。なぜなら若者がダンスを楽しむのはこの地域に取ってはまだまだ非日常敵な事であったからだ。The Baronsは自分たちの成功を享受する間もなく解散した。太平洋岸北西部で生まれたDoo Wopグループ(50年代のR&Bを導いたアフリカ系アメリカンと同じく)はSeattle's Echoes・The Five Checks・The Mello-aires・The Gallahads・The Counts・The Songcrafters・The Bop Tones・The Fabulous Windsらがいる。タコマからはThe Four Pearls・The Skylarks・The Cool Breezers・The Parking Meters・THe Chantzらが登場し、彼らのトップにはThe Baronsがいた。グループ結成当時のメンバーはWilliam Gold(リード)・Sterling "Stokey" Wilford(テナー)・Carl Charles(バリトン)・Malcolm Parks(ベース)の4人。彼らはタコマのイーストサイド公営団地で育ち、由緒あるベスレヘム・バプテスト教会の聖歌隊で知り合った。リンカーン高校・スタジアム高校へそれぞれが通うようになった頃、お互いの家で練習を始める。間もなくThe Baronsという名前を決め、William GoldのオリジナルやR&Bを歌うグループとして活動を始める。The Baronsの音楽的ルーツは、当時最もホットな黒人DJだったFitzgerald "Eager" BeaverとBob Summeriseの二人が放送したローカルラジオ番組がオンエアした新しいR&Bによって励起されたといえる。Fitzgerald BeaverはまたBroadway Record Shop(主に黒人たちの購買意欲の高まりに応える形で開店した)を運営していた。Sterling Wilford(ピッチャーとしてリンカーン高校でスター選手だった)は「Century BallroomとEvergreen Ballroomへも時折遊びに行きました。Oddfellows Hallというダンスホールもあったけれど、そこは白人専用でした。我々のようなグループが気軽に行ける唯一の場所と言えばClub 24でした。月に一度か二度ですが有名人がやって来るときは、子供でもEvergreen Ballroomへ見に行かせてもらったものです。私たちはそこでThe CloversとJames Brownを見にいったのを覚えています。」と話す。タコマの公営団地では、Club 24への出入りを付き添い付きで認めていた。そこに住む子供達は毎週金曜日の夜にはこぞってそこに集まった。ダンスをしたり、ピンポンをしたりと楽しんでいた。幸いなことにそこにはテープレコーダーがあり、子供たちはそれで自由に遊ぶ事ができた。これを利用してThe Baronsはわずかなオリジナル(Boom boomなど)を録音し、カリフォルニアのいくつかのR&Bレコード会社にデモテープを郵送した。数週間後に有名なModernレコードのBihari兄弟からの返事にメンバーはショックを受けた。Modernは既にThe Cadets・The Jacksのレコーディング中でDoo Wopに参入しようと計画中であったが、彼らのレコーディングには興味を示していない、との答えが返ってきた。しかしツアーへの参加という名目で、グループのマネージメントをしていたWilliam Goldの父親へ数100ドルを支払う用意があると書かれていた。1955年1月、両親は数日学校を休む事を渋々認めThe Baronsはカルヴァー市(カリフォルニア州)までヒッチハイクでModernスタジオに向かった。スタジオに入ろうとする彼らは経営幹部のスタッフに止められた。自己紹介を済ませたものの、その日のレコーディングの予定は変更になったと知らされる。最もホットなサックス奏者Joe HustonのアルバムのためのレコーディングがModernにとって最優先事項だったからである。長旅で疲れていたグループは失望しつつホテルに向かい、翌朝再び努力することにする。しかし事態は好転せず、1週間を超えるホテル滞在のためわずかな資金は間もなく底をつきそうだった。The Baronsは土壇場の賭けをすることにした。町のもうひとつのブッグレーベルであるImperialに電話で売り込みをかけたのである。Imperialには、Fats Domino・T-Bone Walker・Big Jay McNeelyを含む当時のビッグ・アーティストが何人も在籍していた。電話を受けたImperialのLew Chuddはハリウッド・オフィスに急いで来るように言い、グループはその場で契約書にサインした。レコーディング・セッションは2月9日(アレンジャーのErnie Freemanが率いるスタジオ・ミュージシャンがバッキングを担当したと思われる)に開か、少なくとも6トラックが収録された。いずれも、Billy GoldとEddie Ray(ImperialのA&R担当)の作品であった。Imperialはこのミュージシャンたちを伝説的なジャズ・R&Bクラブの「5-4 Ballroom(5409 S Broadway)」での数回の演奏を聴いてい依頼、全面的に信頼している。The Baronsは彼らと同郷でアイドルだったFats Dominoとレーベルメイトとなった。Lew Chuddの金銭的な扱いもよく、帰りのバスでは全員が意気揚々と一時帰宅感した。1955年2月、The BaronsのImperialにおけるデビューシングルEternally yours/Boom boom(5343)がリリース、Imperialはキャッシュボックス誌に「A Solid Hit」と広告を打ち、カリフォルニアのR&B局で放送され始め、徐々に全米ヒットとなり、最初のシングルとしては成功したと言える。市場に支持され勝利者である事を証明した彼らの2枚目I know I was wrong/My dream my love(5359)が1955年6月14日にリリースされた。A面が8月にフィラデルフィアで大ヒット、これを知ったAlan Freed(ニューヨークのWINS局のトップDJ)もお気に入りとしてこのシングルをおおいにオンエアし、東海岸や南部でもヒットした。3枚目のリリースを急いだImperialはCold kisses/Searching for you(5370)を同年9月28日に発売、ロサンゼルスでいいセールスを記録し注目を集めた。11月にキャッシュボックス誌は、2枚目のシングルもまだロサンゼルスで売れており、The Baronsが大手Shaw Artists Corp(興行がメインの会社)と契約したと報じている。グループは東海岸を中心にいくつかのステージに立ち、Fats DominoとともにTVへの出演も経験した。また黒人向けの雑誌「Jet & Ebony」誌はThe Baronsのツアーの様子を中心に特集(Up & Comers)を組み、彼らをバックアップした。ImperialのLew ChuddはThe Baronsの人気が衰えない内にと、早速タコマに戻り1956年1月1日に二回目のレコーディングを行う。一方「I know I was wrong」はヒットし続け、1月14日付のビルボード誌のR&B Jockeyチャートで2週間にわたって14位を獲得する。トップ20にランクインしたこの曲はグループの最大のヒットシングルとなった。75万枚(推定)以上を売り上げたにもかかわらず(当時の業界では普通の事であったが)メンバー達の受取額はゼロであった。1956年3月にリリースした「So long my darling / Crying for you baby(5383)」、7月の「Don’t walk out / Once in a lifetime(5397)」はいずれも失敗に終わった。同時期にレコーディングされた「My secret・Shake the dice・Hold me baby・I love you baby」はリリースさえ見送られ(ちなみにMy secretはOwlレコード(海賊盤)からシングルリリース、最近では「Shake The Dice」と題されたCDもリリースされている)た。失意のままにタコマへ戻ったThe Bronsを待っていたのはいくつかのライブ出演であった。シアトル・エヴェレット・タコマのいくつかの高校のダンスパーティーや、Spanish Castle Ballroom・Tacoma’s Brown Derbyレストランから出演の依頼を受けている。1957年、当時シアトルで人気のあった若いアフリカ系アメリカ人のバンドThe Dave Lewis ComboがBirdland dancehallでの定期演奏会を始め、The Baronsは時折彼らと共演しスポットライトを浴びた。この頃、Percy Mayfieldを看板にしたレヴューを開催していたCentury BallroomにThe Baronsは招待され、彼との共演も見事に果たした。シアトルのEagles Auditoriumで開催予定のThe 5 Royales(1957年にThinkをヒットさせた)のコンサート・ツアーへの出演にもサインした。ところが宗教的に厳格な人物だったThe Baronsのメンバー達の両親は、彼らが学校の卒業試験に落ちたために、活動の継続を認めなくなってしまった。このことがグループ崩壊の要因となった。解散後、William Goldはシアトルへ移住している。(これらの情報は、1987年4月、シアトルのKVIラジオから「10時間ラジオ・スペシャル」として「The History of Northwest Rock」(Mike Webb/1955-2007制作)が放送されました。その中の「Vintage Northwest R&B(1949-1963)」という1時間番組の内容を要約したものです。)一方で、The Baronsに関するライネーノートやエッセイで書かれているものには多くの不正確な情報も多い。この問題は(1960年代後半のオールディーズ・リバイバルを)1980年代に再発したEMIが、The BaronsをニューオーリンズのグループとしてDoo-Wopコレクションシリーズと銘打ってリリースした時から始まっているようだ。その後、1987年にも、EMIから「Lost Dreams: The New Orleans Vocal Groups」にもThe Baronsは収録され、さらに「Encyclopedia of Rhythm and Blues and Doo-Wop Vocal Groups」でも不正確なままに紹介された。近年(2007年前後)リリースされた「The Cosimo Matassa Story」に収録されたThe Baronsの「Boom boom/Eternally yours」に関しても「ニューオリンズの(有名な)Cosimo MatassaのJ&Mスタジオで、1955年2月9日と6月8日のセッションで収録された」と記載されている。こういった事が起こりうる可能性に一つとして、1950〜60年代にかけて実際多くのグループがニューオリンズでレコーディングを行った事、さらにThe Baronsという名前を持つグループは各地に誕生していたと予測できる点である。少なくともEtah(ニューオリンズ)・Decca(ニューヨーク)・Soul(デトロイト)・Spartan(デトロイト)・Torch(テキサス)の各レーベルにはThe Baronsと呼ばれるグループは在籍していた。またBellaire・Blue Jay Dart・Demon・Epic Key・Mode・RCA・Shagg・Shout・Tender・Whitehallといった各地のレーベルにもその名前を見る事ができる。