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The ChantelsのカバーThe plea、The Diablosのカバー The windで知られている。後者はビルボードチャートにおいて、60年6月20日に第110位に達した。50年代中頃、ニューヨークで人気を博し、The Excellents・The Imaginationsといった白人グループに影響を与えた。The JestersはハーレムのCooper中学の生徒によって結成された。メンバーは、Lenny McKay・James Smith・Leo Vincent・Noel Grant。近所の高架下でしばしば練習したという。The Jestersという名前は、Noel Grantの好きなDanny Kaye主演の映画The Court Jesterが由来。57年には、Adam Jacksonが加入している。彼は当時17歳で、ブロンクスのSamuel Gompers高校に在学中、The Continentalsのメンバーとしても活動していた。このグループはThe FlamingosのI'll be homeを歌い、TV出演を得ることに成功している。Adam JacksonとLenny McKayはツインリードとして互いを認めあった。そして二人ともソングライターでもあった(一般にLenny McKayがグループのリーダーと認知されている)。地元での活動を続ける中、彼らはColumbiaのオーディションを受けたが、不合格となった。グループはアポロ劇場のアマチュアナイトに出演し、3回の優勝で自信を深め、Winley(Paul Winley設立)と契約することとなった。彼等のデビューシングルSo strangeは東海岸でローカルヒットし、徐々に人気を高めていった。57年7月15日には第100位に到達している。次のシングルPlease let me love youをリリースした頃、彼らは、レーベル仲間とアポロ劇場に出演している。彼等はBen E. King・Ruth Brown・Jimmy Jones・The Olympics・Dante and The Evergreensといったスター達と共演をはたした。Winleyから3枚目のシングルThe plea(The Chantelsのカバー)が58年3月にポップチャート第74位にチャートインする。なお編曲をDavid Clowney(The Pearls・The Valentinesのボーカリスト)が担当しており、59年には彼自身のナンバー1ヒットHappy organも発表している。58年6月、彼等はWinleyでの4枚目のシングルNow that you're goneを発表する。この頃グループからMcKay Grantが去り、Leo Vincentも徴兵されている。新たにDonald Lewis・Melvin Lewis(The Climbersに在籍していた)を加えグループは活動を続ける。その間、レーベルオーナーのPaul Winleyは、常にThe ParagonsのあとにThe Jestersがリリースされていることにヒントを得て、当時人気のあった「Battle of the Groups」公演をレコード上での再現を試みる。こうして最初のR&RコンピレーションアルバムThe Paragons Meet The Jestersが59年にリリースされ、東海岸で大変なセールスを記録した。60年5月に、新生The Jestersは最初のシングルThe windをリリース。The Diablosが54年にリリースしたヒット曲のカバーで、60年6月20日のポップチャートで第110位になったが、その後の2枚のシングルは話題にならなかった。The Jestersは当時Winleyに在籍していたCharlie White(The Cloversに在籍した)のNobody's fault but mine(58年)やAnn Fleming(Paul Winleyの妻)のJive time baby(60年)のバッキングとしても参加している。また60年代初期には、アポロ劇場でBen E. Kingをサポートしている。74年に、Adam Jackson・Ronald Jackson(The Youngtonesに在籍していた・Xtra・57年)が加入している。91年に、Ronald Jackson・Melvin Lewis・Marshall Cherry・Donald Lewis・Adam Jacksonという顔ぶれで再結成し、その後10年以上の活動を続けている。