The El Torros / The Mighty Mustangs

1955年・ミザリー州・セントルイス
Johnny Stemach(tenor)・George Davis(tenor)・Fred Green(tenor)
Lloyd Lockett(baritone)・Odis Hearon(baritone・bass)・Van Bracken(piano)

The El Torros
■Dance with me・Yellow hand(Duke-175)57.06
■Barbara Jean・You look good to me(Duke-194)58.06
■Dance with me・What's the matter(Duke-321)60.05
■Two lips・You may say yes(Duke-333)61.01
■Doop doop a walla walla ・Mama's cookin'(Duke-353)62.10
The Mighty Mustangs
■First love・A change(Sure Shot-5004)64.
■Outside-inside・Believe I do(Sure Shot-5010)65.06

The El Torros
45s Dance with me
Duke-175
1957年

セントルイスを中心に活動したグループで、この地の出身のスターにはChuck Berryがいる。50年代のセントルイスには多くの地元のグループ、たとえばThe Trojans・The Rockers・The Gardenias・The Emeralds・The Mellards・The Swans・The Ebon-Knights・The Five Masqueradersなどが活動していたが、彼らのいずれも成功を収めることはできなかった。The El Torrosもセントルイス以外ではほとんど知られていない。51年当時Odis Hearonは、Welsh Baby Carriage Companyという会社に勤めていた。この会社が年末に行う社員のクリスマスショウに向けて社員の中から出演者を募集した。Odis Hearonは同僚のJohnny Stemach・Eddie Bird(ファーストテナー)・Charles Webb(ベース)とともにThe Parakeetsというグループを結成し、このショウに出演したが、これは1回きりのグループとなった。52年、Odis HearonはJohnny Stemachとともにもう一度グループを作る事にする。Paul Hearon(セカンドテナー・バリトン・Odis Hearonの兄弟)・Pat Gandy (ファーストテナー)を誘いThe Parakeetsを再結成した。メンバーは全員セントルイスの南部に住んでいる。The Parakeetsは、学校・タレントショー・ダンスパーティーなどでおよそ1年間活動を行ったが、何も起らなかった。Paul Hearon・Pat Gandyはやがてグループを去る。しかし、Odis Hearon・Johnny Stemachは音楽への決意も強く、新メンバーの補充でグループを継続させるつもりであった。George Davis ・Lloyd Lockettを新メンバーに選び、グループ名をThe Highlightersと改名する。しかしこの名前が使われたのはごく短期間で、すぐにThe El Coradosと変えている。The El Coradosというのは彼等の住まいの近くにあったクラブの名前で、この名前の使用許可を求めて店を訪ねている。このグループも同じように学校・タレントショー・ダンスパーティーなどで活動を行った。彼等のお気に入りはThe Spaniels・The Clovers・The Drifters・The Platters・The Coasters・Sam Cooke・Jackie Wilsonなどであった。地元のDJだったAmos Dodson・George 'The G' Logan(KXLW局)と Dave Dixon(KATZ局)らは、学校などでショウを開催した。これは地元のタレントが出演するちいさなショウで、これは子供たちの非行化を遠ざけるために企画された娯楽であった。George Loganは、土曜日の朝にClub Rivieraでこのショウ(無料)を開催している。56年に、The El CoradosはこのGeorge Loganのラジオ番組に出演し、アカペラで歌を披露した。このことをきっかけに、ついにThe El Coradosはプロになることを決意する。Odis Hearonはグループに数人のミュージシャンが必要だと思い、隣人のVan Bracken(アレンジャー・Lloyd Lockettの友人でもあった)を誘った。当初は、グループと一緒に練習するだけであったが、やがてフルタイムメンバーとなる。彼はのちにグループに多くの作品を提供することとなる。奇妙なことに、彼の名前はすべてのレーベルでBrackensと綴られており、BMIの公式記録でもそうなっている。56年中ごろ、George Loganを通じ、Ralph Bass(King・Federal設立)に会っている。Ralph Bassはグループと契約したが、実際のところは彼らの歌があまり好きではなかったという。契約からおよそ1年が過ぎたが、Kingは何もしなかった。たまりかねたOdis Hearonはリリースを求めて交渉する。結局Kingはセントルイスの別のグループThe Gardenias(Luther Ingramが在籍していた)をリリースしてしまう。とある週末、Original Amateur Hour(Ted MackがホストをつとめるTVショウ)のオーディションがメンバーの住む町で開催された。このオーディションに出演したThe El CoradosはDance with me(Van Bracken作)を歌ったが、TV出演を断られた。Ted Mackは「彼等はあまりにもうまくてプロに聞こえたんだ。すごくうまかったんだ。でもこの番組はアマチュアが出るもんだから断ったのさ」と感銘を受けたことを認めている。このステージでTed Mackは、グループをThe El Torosと間違えて紹介してしまったが、グループはこの名前を気に入り、その後はThe El Torosと改名してしまった。これオーディションのすぐ後に、Fred Greenが加入する。Fred GreenはThe Mellards(Ballad)に在籍したシンガーである。57年、The El TorosはClub Rivieraで行われたショウに出演、観客の中にはBobby Bland・Junior Parkerがいた。2人はグループを誘い、すぐさまDuke・PeacockのアーティストによるパッケージツアーBlues Consolidated Show(Buffalo Booking Agency主催)に参加する。また2人は滞在中のホテルでグループに対し、アカペラによるに即興オーディションを行った。感銘を受けた彼等はさっそくDon Robey(Duke・Peacockのオーナー)に連絡した。Don Robeyはすぐにデモテープを求めた。The El Torosがデモ録音のために使ったスタジオはVan Brackenの地下室で、彼の持っていた古びたテープレコーダーにDance with me・Yellow handとあと2曲のオリジナルを録音した。テープはDon Robeyに送られ、グループは彼の決定を待った。Don Robeyの返事はこうだった「あまりにも雑音がひどい。すぐにレコーダーを掃除してもう一度録音するように」。メンバーはあわてて録音し直し、再度デモテープを発送、ようやく契約にこぎつけた。57年4月に、シカゴのUniversal Studiosでセッションが行われた。Don Robey自身がレコーディングディレクターを担当し、Dance with me・Yellow hand・What's the matter・While drivingを収録する。レコーディング中は、Al Smith(アレンジャー)の家に滞在した。Al Smithは、グループの写真撮影を行うために、彼らを床屋に連れて行き、カメラマンを呼んだ。Dance with meは57年6月にリリースされた。このシングルでは、DukeのミスでラベルにはThe El Torrosとクレジットされた。前回と同様、以降この綴りに改名する。Dance with meは57年6月24日に、Cherry(The Jive Bombers)・Can I come over tonight(The Velours)・When I meet my girl(Tommy Ridgley)・The blues don't care(The Five Keys)・In my lonely room(The Four Haven Knights)・A sinner in love(The Serenades)とともにレビューされた。たいしたヒットにもならなかったが、58年4月に2回目のセッションをセントルイスで行った。Barbara Jean・You look good to me・The man is bossともう1曲をレコーディング、Barbara Jeanは6月にリリースされたが、グループのシングルとしては最も売れなかったものとなった。Odis Hearonはこのシングルについて「この歌はまだ仕上がっていなかったのに、すでにリリースされていたことを知って驚いたよ」と語っている。この週は、Handy Andy(The Five Keys)・Mama Linda(The Monitors)・Betty lou got a new pair of shoes(Bobby Freeman)・Win your love for me(Sam Cooke)・Rock and roll show(The Saxons)・Did it(The Laddins)らがレビューされたが、グループのシングルは取り上げられなかった。ちなみに当時、別の同名グループある。Fraternity(シンシナティ・オハイオ州)から58年6月にシングルがリリースされているしかも全く同じThe El Torrosという誤った綴りである。メンバーもうわさとしてこのグループ名のことは知っていたようである。The El TorrosはRiviera Club(Delmar Boulevard・テイラーストリートの近く・有名なクラブ)にセントルイスの有名人として、Dinah Washington・Jackie Wilson・The Drifters・The Moonglows・Roy Hamiltonとともに出演した。この出演者によるショウは、セントルイス東部・Crown Propeller Lounge(シカゴ)・ブルックリンなどに巡業している。Don Robeyは、グループとBobby Bland・Junior Parkerらをヒューストンへ呼び、数カ月にわたる公演のために滞在させている。公演は行ったものの、The El Torrosは2年以上もレコーディングから遠ざかっていた。そしてとうとう59年にFred Greenがグループを去ってしまう。Fred GreenはBobbinでいくつかの歌をレコーディング(バッキングにはローカルグループThe Shellsが参加した)、Van Brackenもこのセッションに関わっている。Fred Greenが歌った歌はThe El Torrosがそれまでに何度もリハーサルをくり返していた曲だったために、メンバーは憤慨したという。60年春、DukeはDance with me(同名の曲をThe Driftersが歌ってチャートインしていた)を再発、B面にはWhat's the matter(最初のセッションから)が収録された。The El Torrosの次のセッションは60年の終わりにシカゴで行われた。メンバーはすでにカルテットとなり、You may say yes・Two lipsをレコーディング、これらは61年1月にリリースされた。このセッション後、Van Brackenもグループを抜けた。グループには新メンバーBilly Davis(テナー・The Emeraldsに在籍・Bobbin)が加入するが、同年に行われる予定のレコーディング直前に徴兵され、Charles Calvin(テナー)が加入した。Billy DavisはのちにThe Fifth Dimensionのメンバーとなっている。The El TorrosのDuke での最後のセッションは62年9月にメンフィスで行われ、Doop doop a walla walla・Mama's cookin'を収録し、10月にリリースされた。この2曲はグループにとって唯一のVan Bracken以外の作品となった。Odis Hearon・Deadric Maloneの作品である。Odis Hearonによると「Deadric Maloneは誰だかわからないけど、たぶんDon Robeyのペンネームだったと思う」ということである。このシングルもまったく話題にならず、ついにGeorge Davisまでもがグループを去った。彼の代わりにRhonda Washington(作曲家のGladys Battlesの娘・Chuck Berryの従兄弟)が加入している。64年にはLloyd Lockettも脱退し、交代にBilly Harper(ファーストテナー)が加入する。同年、The El TorrosからThe Mustangsに改名した。Odis HearonがThe El Torrosという名前に不運を感じたからと語っている。64年、Sure Shot(Don Robey設立)からThe MustangsのFirst love(B面はA change)がリリースされている。およそ1年後には、The Mighty Mustangsという名前でOutside-inside(B面はBelieve I do)がリリースされた。The Mustangsはおよそ67年頃まで活動を続けたが、メンバーもすでに結婚しており、間もなく解散した。