The Valentines

1954年・ニューヨーク州・ニューヨーク市・マンハッタン
Richard Barett(lead)・Carl Hogan(tenor・~97)・Raymond Bricks(tenor)・Mickey Fransis(baritone)・Ronnie Bright(bass・38.10.18~)

■Tonight Kathleen・Summer's love(Old Town-1006)54
■Lily Maebelle・Falling for you(Rama-171)55
■Hand me down love・I love you darlinng(Rama-181)55
■Christmas prayer・K-i-s-s me(Rama-186)55.11
■The woo woo train・Why(Rama-196)56
■I'll never let you go・Twenty minutes(Rama-201)56
■Nature's creation・My story of love(Rama-208)56
■Don't say goodbight・I cried oh oh(Rama-228)57

The Valentines
45s The Best of
The Valentines
Murray Hills 202
1986年

George Goldnerのもとでその手腕を発揮したRichard Barett。15曲を収録したリイシューLP盤です。

ニューヨークの8番街にあるジャイアンツのポロ球場の向いに住む少年らが52年に結成したThe Dreamersが母体となる。メンバーは、Raymond 'Pop' Briggs・Carl Hogan(テナー・祖父Broadus Hoganはゴスペルクラシックの名曲Amenの作者)・Mickey Francis・Ronnie Brightの4人。グループは)は、アムステルアベニューやシュガーヒルの130~161番街などで、ストリートミュージシャンとして活動をはじめた。音楽の基礎知識はまったくなかったが、やがてパーティーなどにでも演奏をはじめ、グループは熱狂的なファンを獲得していった。 やがてグループは、The Angels(レコーディングはしていない)で歌っていたRichard Barrettというフィラデルフィア出身の若いソングライター・シンガーに出会う。ちなみにPhil Groiaの著書They All Sang on the Cornerには「Richard BarrettがRiverside Drive公園でウクレレ演奏しているところへグループがやってきた」と書かれている。いずれにしろグループは彼の作ったSummer loveを気に入り、Richard Barrettはこの曲とともにグループに加入しリードを歌うこととなった。のちに彼の加入はグループに幅広いサウンドを与えることとなる。メンバーが5人となったグループは、Mickey Francisのお気に入りだったMy funny valentineという曲からThe Valentinesと命名する。グループ共通の友人Raoul Cita(The Harptonesに在籍)は、グループをBruce(Monte Bruce設立)に紹介し、Summer loveのデモ盤を作成。これを地元のラジオ局に届けて、さかんにオンエアーされたが、Bruceはこれをシングルとしてのリリースを見合わせた。54年、グループはBowmads(155番街とニコラスアベニューにあった劇場)で演奏、観客は12人だけだったがはじめての報酬を受け取り、これを期にプロへの転向を決心する。当時、The Cadillacs・The Solitaires・The Flamingosらの人気スターの音楽的・演出的な手腕に影響を受け、グループは数多くのBattle of the Groups(何組かのグループがステージで歌い、拍手の大きさで優勝を決める。当時多くの劇場でこういったスタイルのショウが開催されていた)に出演している。イングルウッドユダヤセンターで開催されたショウでは、親しいThe Harptonesと対決したこともある。ある日、ロックランド劇場でThe Cadillacs・The Opalsと戦ったが、スネーク(当時流行していたダンス)の名手をかかえたグループには勝てず、その夜のアポロ劇場のアマチュアナイトに出演できなかった。ちなみにThe DriftersもMoney honeyで出演したが、彼らでさえスネークダンスには及ばなかったという。この頃、Carl Hoganがグループを抜け、Donald Razor(元The Vellvets・Red Robin)が加入している。グループは、ハーレムのトリボロ劇場の一室にあったOld Townを訪れオーディションを受ける事にした。54年12月にTonight Kathleen(Richard Barrett作曲)でシングルデビューをした。しかしOld Townには配給能力がなくこのシングルもほとんど売れなかった。直後、Donald Razorが脱退し、Eddie Edgehillがセカンドテナーとして加入。Rama(George Goldner設立)へ移籍し、55年9月にLily Maebelleをリリースした。この曲は、Richard BarrettとRaymond Briggsによってが書かれ、Raymondの妹Lilを歌ったものといわれている。イーストコーストを中心にヒットし、音楽大学・パラマウント劇場・アポロ劇場で開催されたAlan Freedのショウや、ハワード劇場・ロイヤル劇場で開催されたショウにDJのHal Jackson・Jockoらと出演するようになった。55年11月には、名曲Christmas prayerをリリースした。グループは、胸ポケットに真っ赤なバレンタインカードをさし、真っ赤なシャツ・黒靴・ピンクの蝶ネクタイといった衣装に身を包み、華麗なステップというパフォーマンスが呼び物だった。56年4月にWoo woo train(Alan Freedのお気に入りとなる)でイーストコーストを制覇する。56年にRaymond Briggsが抜け、David Clowney(元The Peals・Onyx)が加入している。57年には、The Miracles(Fury・Smokey Robinsonの結成したグループのおよそ1年前にレコーディングしている別のグループ)で歌っていたCarl Hoganが復帰し、Don't say goodbyeをリリースする。この間に、グループはThe WrensとともにレコーディングしたC'est la Vie(大変珍しいシングルとなっている)をリリース。この曲はボストンのDJだったJoe Smith(後にWarner Brothers設立)の依頼で作ったラジオ局のCMソングだった。グループはヒットの欠如からフラストレーションを起こし、アポロ劇場の出演を最後に58年に解散した。David Clowneyは、Dave 'Baby' Cortezと改名し、The Paragons・The Jestersといった多くのグループの編曲者となり、59年にはHappy organで第1位を獲得している。Carl Hoganはソングライターとして、So much(The Imperials)・What's my chances(Alvin Robinson)・Be sure my love(The Dubs)など、Richard Barrettとともにヒットを作り続けた。Ronnie BrightはThe Cadillacsに加入、63年にJohnny Cymbalとともに歌ったMr. bass manのヒット(第16位)の後、The Deep River Boysに加入した。このグループは後にThe Coasters(Carl Gardnerのグループ)を名乗った。Richard Barrettは、End・GoneのA&Rディレクターとなり、Little Anthony and The Imperials・The Chantelsを、さらに後にはThree Degreesをレコーディングし、世に送りだした。