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Doo-Wop史上最高のグループの一つである。傑出したベースシンガーを持たない彼等だったが、圧倒的なコーラスワークとリードを包むようなスタイルは、どのグループにも決して真似できるものではなかった。従兄弟同士のJake CareyとZeke Careyは、Sonny Til(The Oriolesのリードシンガー)と友人であり隣人だった。50年に彼らは地元のユダヤ教会でPaul Wilson とJohnny Carterと出会う。4人は意気投合しグループを結成、レークパークの35番街や36番街で歌いはじめる。The Highway QCsやSam Cookeらもここでうたっていたという。彼らが早くからユダヤ教の賛美歌を歌ったことが後年のグループのユニークさの一つの要因となった。当時はWhispering starsのようなマイナーなバラードが流行しておりそうした表現もグループはどんどん取り入れていった。メンバーの姉とデートしていたEarl Lewis(The Channelsのリードではない)が間もなくリードボーカルとして加入した。彼らはバルチモアにあるKingレコードと契約するまでのおよそ半年間、The Swallowsという名前で活動している。やがてJohnny CarterがEl Flamingosを提案し、最終的にFive Flamingosと改名、52年の秋頃からパーティーやクラブで活動を始める。Fletcher Weatherspoon Jr.という人物が彼らのステージを聞き、友人のクラブ「マーチンズ・コーナー」へ連れて行った。グループは毎週木曜日にここで開催されるタレント・コンテストで優勝し、さっそく次の夜からの出演契約を結ぶ。Fletcher Weatherspoon Jr.はグループにステージ経験させるために様々なパーティーに出演させた。マーチンズ・コーナーでの演奏を見たKing Booking Agencyの社員がステージに感激し、上司でのちにマネジャーとなるRalph Leonに彼らを推薦した。Fletcher Weatherspoon Jr.は独自にUncle Samにグループを打診していたが、やがて彼はウィラード劇場で行われたタレントショーで見いだしたSollie McElroyという19歳の新人をグループに紹介、新しいリードボーカルとして加入した。Earl Lewisは態度や行動に問題がありしばしばリハーサルに参加しいなどの理由からグループから解約された。彼は53年にThe Five Echoes(Satire)に加入している。グループは(17歳のPaul から26歳のJakeという年齢の差があった)、The Five Keys・The Orioles・The Dominoes・The Clovers・The Ravens・Four Tunesらに影響を受けていたが、そういった先人達とは質的に異ったものにしようと、自身のスタイルを発展させることに懸命だった。52年に新しいマネージャーとなったRalph Leonはレコード会社のオーディションを受けさせようと、シカゴで最も成功したR&Bレーベル、Unitedとの交渉にはいった。しかしUnitedはもっと白人受けするようなグループを欲しており興味を示さなかった。ちなみに、Ralph Leonがさらに次の手を打とうと準備していた52年にビルボード誌がThe FlamingosとSavoyがすでに契約していることを掲載しているが、このグループではない(The Flamingos名義のレコードはSavoyには存在しない)。53年2月にRalph LeonはグループをChance(Art Sheridan設立)との契約に成功(当時このレーベルにはThe Moonglows・The Spanielsが在籍している)させ、3月の第2週にIf I can't have youをリリースした。シングルのラベルにはThe Flamingosと書かれていたが、グループはおよそ2年間The Five Flamingosとして活動を続けた。7月に彼らの2枚目のシングルThat's my desire(Sammy Kayeの47年のヒットのリメイク)がリリースされ、ローカルヒットとなった。10月の第3週に名作Golden teardropsをリリース。Johnny Carterが作曲し、Sollie McElroyがリードで歌ったこの曲は、グループの黄金時代の先駆けとなった。後年多くのコレクターに最も完ぺきなシングルと呼ばれるようになる。この曲が地元のラジオから流され徐々に売り上げを伸ばし、やがて彼らの名を広ていく。ちなみに、61年の夏に再発されポップチャート第108位にランクインしている。当時のほとんどのグループがそうであったように、シングルのヒットにもかかわらずグループはChanceから著作料を受け取る事はなかった。グループは公演を続ける事で収入を得なければならなかった。このことががきっかけとなり、ABC(Associated Booking Company)との関係を深めていく。彼らはLionel HamptonやDuke Ellingtonといったビッグジャズ・バンドと、53年のニューヨークのアポロ劇場・54年2月19日クリスマスのシカゴのリーガルといった場所で公演を開始する。しかし、グループは自分達の音楽に足りないものがある事を知っていた。彼らは観客が視覚的にもエキサイトできるようなステップを考えた。それはのちにThe Four Tops・The TemptationsといったR&Bアーティストによって模倣されることにる。ステップという新しい武器でさらにファンを獲得していった。53年10月にPlan for love(Patti Page・54年のヒット)、54年3月にはCross over the bridgeをリリースしたが、ともにヒットにはいたらなかった。54年11月、グループのChanceでの最後のリリースBlues in a letterは彼等にとっては珍しいブルースで、B面のVolt voit(のちにJump childrenとしてリメイクし、映画Go Johnny goで登場する)は優れたジャンプナンバーだった。Alan Freedはこのシングルを大変気に入り、5年後の59年に彼が製作した映画Go Johnny Go !にグループを出演させている。ちなみにThe FlamingosがChanceに残したSeptember songは64年にConstellationがリリースしたアルバムに収録されるまでは未発表となっていた。Chanceから去ったグループはシカゴのParrot(Al Bensons設立・DJ)へ移籍する。Parrotからは3枚のシングルをリリースしたが、55年1月に最初シングルDream of a lifetimeは聖歌を彷佛とさせるバラードで、当時の彼等のさまざまな音楽スタイルへの挑戦は、伝統的なR&Bの枠を超える事さえ恐れなかった。ポップ・ブルース・ラテンからI really don't want to know(Eddie Arnoldのヒット曲)といったカントリーナンバーでさえも歌っている。この頃新しいリードボーカリストとしてNate Nelson(元The Velvetones・Aladdinに在籍していたグループではない・32.04.10~84.06.01)がSollie McElroyに代わって加入している。Sollie McElroyは、宗教上の理由もありしばしばグループから孤立しているように感じていたといわれている。彼はその後、The Morocco(United)に加入し、Sad, sad hours・Over the rainbowなどをリリースし、61年には、Eugene Record・Robert Lester(のちにThe Chi-Litesを結成する)のいるThe Chaunteursにも加入している。Nate NelsonはParrotでの最後のシングルKo ko mo(Al Bensonがカリフォルニア旅行中に聞いたGene and Euniceのヒット曲)でJohnny Carterとデュエットしている。 またB面には、名作I'm yoursが収められている。この頃、全米とカナダのツアーを行ない、Ralph LeonはCheckerと契約を成立させた。 55年4月の第4週に、Whenをリリースしたが、ほとんど売れなかった。この曲はCheckerのスタジオでレコーディングされたが、スタジオのコンディション調整がされていなかったために、マスターテープが破損、オリジナルのテイクは、最初のわずかなプレスでのみ聞くことができる。そのため、グループはこの曲を再録している。7月にリリースのI want to love youも成功とはいえなかった。翌56年の1月、I'll be homeをリリース。ちなみに作曲はFats Washington(DJ)とStan Lewis(ニューオリンズの配給業者)のクレジットとなっているが、実際には Nate Nelsonが、彼の海軍経験をもとにほとんどを書いたといわれている。I'll be homeはグループが残したレコーディングのなかでも最も美しいバラードで、暖かみのあるNate Nelsonのリードで大ヒットし、1月14日付けのビルボード誌のスポットライト欄で「少年たちのリラックスしたロマンチックなコーラスと、愛しいリードボーカルが交ざりあう、きれいなバラード」と評価された。3月にはナショナルR&Bチャート第5位となった。Phil Groiaは著書They All Sang on the Cornerで「Nate Nelsonは海軍としてバージニアに勤務していた頃、Sonny Til and The Oriolesの曲を歌うことが好きな未知のボーカルグループとほとんど一緒に時を過ごした」と記述している。Nate Nelsonが除隊する頃にはこのグループはThe Five Keysと呼ばれていた。I'll be homeのリリースの直前に、グループは、Pat BooneらとTommy Smallショーに出演し、この歌を披露している。ショーの数週後にPat Booneの低温殺菌されたバージョンがリリースされ、ポップチャート第4位を獲得し、グループのオンエアーを脅かした。もっとも数十年後には彼のバージョンは事実上忘れられ、The Flamingosのバージョンが生き残ったわけだが。56年5月にA kiss from your lipsをリリースし、この衝撃的なバラードは6月にR&Bチャート第12位に達した。さらに続くラブソングThe vowとWould I be cryingだったが、チャートには失敗している。しかし、Alan FreedはWould I be cryingを彼の映画Rock, Rock, Rockに使用することにした。グループを愛していたAlan Freedは彼らに敬意を感じ、その時期にはヒットがなかったにもかかわらず、グループをフィルムに記録する事を強く望んでいた。彼は59年の映画Go Johnny Go !にもグループのThe vowを収録している。56年、Irving Feldという人物が、最初の大きなロックンロールショーを企画する。Bill Haley and his Comets・The Platters・Frenkie Lymon and The Teenagers・Clyde McPhatterらの多数の第スターとともにグループはステージに立っている。Would I be cryingのリリース後にZeke CareyとJohnny Carterが徴兵のため脱退し、グループは解散した。57年、Jake Carey・Nate Nelson・Paul Wilson・Tommy Hunt(元Five Echoes・Satire)の4人がThe Flamingosを再結成する。同年7月、DeccaからThe ladder of loveをリリースしたが、当時Checkerは、Nate Nelsonとの契約が継続中でThe Flamingosの名前もCheckerに属していたため、そのシングル(次のDeccaからリリース予定だったものを含めて)は間もなく発売中止となった。また、ABC Paramountは、Steve Gibson and the Red CapsのシングルSilhouettes(The Rays)にNate Nelsonがリードボーカルとして参加していると訴えた。58年8月、Zeke Careyが復帰し再加入した。同じ頃Johnny CarterがThe Dellsに加入している。58年夏、George GoldnerがThe Flamingosと再び仕事を望んでいることを知ったZeke Careyは、George GoldnerとChessの間に立って調停をすすめた結果、Nate Nelsonとの契約を解除し、グループはEndに入社することとなった。コレクターの間では、Chance・Checker時代の作品に人気が集中し、End時代の美しく歌われた(物足りない)歌は前者ほど人気がない。これはグループ自身が決断し、時代にあったスタイルへと変貌していったいわばアーティストとオーディエンスの差異でもある。Zeke Careyによると「George Goldnerが我々のアルバムコンセプトを考え出した」という。この頃、Terry Johnson(テナー担当でギタリスト)が加入している。グループのEndでの最初のシングルは、58年11月の名作Lovers never say goodbye(Paul Wilson・Terry Johnson共作)で、R&Bチャート第25位最、59年春には念願のポップチャートに第52位でランクインし大成功をおさめた。Zeke Careyの歌うBut not for meが次のシングルとなり、59年4月にグループの代表曲となるI only have eyes for you(Eddy Duchinの34年のヒット・Al Warren,Harry Dubin作曲)をリリースする。誰にも真似のできないThe Flamingos独自のスタイルで歌われる壮観なバラードだった。この曲は6月1日にポップチャートで、6月15日にR&Bチャートでともに第1位という彼等最大のヒットとなった。国際的なヒットとなったこの曲は、8月の終わり頃でさえR&Bチャートで第3位にいた。オーストラリアではチャート第32位まで上昇した。なお58年にグループは、Bo DiddleyのバラードYou know I love youでバッキングをつとめている。これはMCAが90年にリリースしたボックスセットに収録されるまで未発表だった。59年5月、DeccaがKiss-a-meをリリース(同タイトルのアルバムもリリースしている)した同じ頃に、Checkerは旧作Whispering stars・Dream of a lifetimeを再発した。59年から61年にかけて、グループは多くのレコードをリリースしチャートにも頻繁に顔を出した。Endは多数のシングルとともに4年で4枚のアルバムをリリースした。Love walked in(59年7月・ポップチャート第88位)・I was such a fool(59年11月・ポップチャート第71位)・Mio Amore(60年16月・ポップチャート第74位)・Your other love(60年11月・ポップチャート第54位)・Time Was(61年6月・ポップチャート第45位)などである。61年にTommy Huntがソロとして独立しグループを去っていた。彼は61年の秋にHuman(Scepter)をリリースしマイナーヒットとなっている。64年春にグループは再びCheckerへ移籍した。ラテンのリズムにのって歌ったLover Come Back to Me(Oscar Hammersteinのリメイク)をリリース後の65年にPhillipsに移籍し、Temptation(Bing Crosbyの34年のヒット)のDoo-Wopバージョンともいえる作品をリリース。66年にはSmashからI only have eyes for you的なアレンジのThe nearness of you(Hoagy Carmichael作)を発表し、好評を得る。B面のThe boogaloo partyがポップチャート第93位・R&Bチャート第22位と、新生The Flamingos最初のR&Bチャーターとなった。またイギリスでチャートインした(66年6月・第26位)グループの唯一の曲である。一方、66年の後半、Let's be loversをThe StarglowsとしてリリースしていたNate NelsonはAtcoを去り、Musicorへ移籍し、The PlattersのリードシンガーとしてI'll be homeをリメイクした。70年にThe Flamingosとして最後のチャートインシングルBuffalo soldier(ポップチャート第86位・R&Bチャート第28位)をリリースした後、Roulette・Worlds・Julmar・Ronze(彼等が設立したレーベル)で数枚のシングルを残し、The Flamingosはレコーディングを終えた。90年代の初め、Zeke CareyとJake Careyは共に活動を続けていたが、新たにArchie Saterfield・Kenny Davis・Ron Reaceらとグループとして活動をはじめている。Dick ClarkはRock & Roll:The First 25 Years on TVであらためて彼等を紹介している。 88年のグラミー賞のBest of the '50sにThe Flamingos は選出された。