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The Cloversは最初のR&R黄金期を築いたボーカルグループの一つである。40年代の第二次世界対戦の頃に出現した初期のR&Bから白人ポップスが主流となるまでの長い期間に渡りThe Cloversは主役であった。グループはThe Coasters・The Dells・The Driftersよりも長い歴史を持っていることは意外に知られていない。ある意味ではBill Haleyに類似している。古くから活動し影響を与えたアーティストよりも、いわゆるヒーロータイプのアーティストがクローズアップされがちである音楽シーンでは、Bill HaleyよりもElvis Preslyを、The CloversよりもThe Teenagers・The Belmonts・Danny & The Juniorsが語られる。The Cloversの物語はワシントンの駐屯地から始まる。グループは、多数の黒人ボーカルグループと同様にThe Inkspotsの影響を受けて育っている。Harold Lucasを中心に友人たち数名が集まり、お気に入りのシンガーBill Kenny(The Ink Spots)のカバーなどを歌い地元のクラブで活動をはじめる。地元から徐々に評判になっていったグループは、設立されたばかりの小さなR&Bレーベルの一つだったニューヨークのRainbowを訪れる。DerbyはRalph Flanagan・Dick ToddといったポップスよりもR&Bという魅力あるジャンルのリリースに集中したいとEddie Hellerが新たに設立したレーベルだった。契約を交わしたグループは、The InkspotsスタイルのYes sir, that's my babyでシングルデビューをはたす。しかしオンエアも販売もわずかなものであった。メンバーは、John 'Buddy' Bailey・Matthew McQuater・Harold Lucas・Harold Winley・Bill Harrisの5人編成。ワシントンで有名だった音楽パーソナリティ'Waxie Maxie' SilvermanはグループをAtlanticレコードに紹介する。Ahmet Ertegunはグループと契約することに決め、Jerry Wexlerをプロデューサーに迎え51年2月にAtlanticスタジオに入った。名作Don't you know I love you(A. Nugetre 作・Ahmet Ertegunのペンネーム)はAtlantic-934 としてリリースされ、この曲は、以降10年間にわたるグループ黄金期の記念すべき第1作となった。B面のSkylarkはJohnny Mercerの作品で、Dinah Shoreのヒット曲で、Earl Hines・Billy Eckstineも歌っている。この曲はR&Bチャート第1位となり、Atlanticにとっても完全な成功であった。50年代初期の独立したR&Bレーベルとしては破格の30万枚を超える売上を記録した。51年夏にAtlanticから2枚目のリリースFool fool foolもグループの知名度をさらに広げ、前作同様にR&Bチャート第1位のスマッシュヒットを記録し60万枚以上を売り上げ、Atlanticのドル箱スターとなる。この頃Charlie White(元The Dominoes・30.~)がグループに加入している。この年はFool fool foolがシングル・ジュークボックスの両方でナンバーワンレコードとして終えた。52年AtlanticはOne mint julep(Rudy Toombs作)をリリースしまたたくまにトップへと躍り出た。アトランタではセールスチャート第1位、前作のFool fool foolはニューオリンズで第1位となっている。グループはRuth Brownに続くAtranticのビッグネームだと見なされた。7月にWonder where my baby's goneがリリースされたがこれはわずかなオンエアに留まった。しかしB面のTing-a-lingは多くの都市でブレイクの兆しをみせ始める。この頃にプロモーション公演としてアトランティックからテキサスにかけてRoscoe Gordon's Comboとともにツアーに出ている。コースト公演中に5枚目のHey miss Fannieがリリースされた。大々的なプローモーションにもかかわらずR&Bチャートトップ3にはランクインできなかった。グループのマネジャーであるLou KrefetzはAtranticのナショナルセールス担当となりグループに対するサポートは強化される。この頃グループはアトランティック州でFats Dominoと多く舞台で共演している。53年にはCrawlinをリリース、20万枚近くを売り上げ6枚目のヒットという事実はThe Cloversがトップアーティストの1つであることを証明した。4月初旬には総売上高が200万枚を超え、グループはAtranticからゴールドディスクを受賞した。B面のYes it's youは 50年代なかばに流行することとなるグループスタイルの前触れでもあった。53年夏にGood lovin(Danny 'Run Joe' Taylor作)をリリースする。この直前にBuddy Baileyは陸軍へ召集され、この曲ではCharlie Whiteがリードをとっている。このリードシンガーの交代はグループの成功に陰りをみせる。この曲はこの年の後半のほとんど期間のR&Bチャートに残る膨大なヒットとなった。この頃グループは西海岸へ再びFats Dominoと共にツアーを始め、AtranticからはThe feeling is so goodがツアーにあわせてリリースされた。これはThe CloversがAtlantic時代におけるチャートに失敗した最初のシングルとなった。54年1月に、Little mamaをリリース。B面のLovey doveyはThe Cloversの代表作の一つとなった。このシングルのプロモーションのために、グループはBilly Eckstine・Ruth Brownとともに南~中西部にかけて約2カ月間のツアーをはじめている。このシングルは54年春にビルボード誌・ジュークボックス誌の両方でトップ10にランクインした。この頃グループにとって歴史的なイベントからオファーを受けている。この当時ティーンエージャーはラジオで流されるR&Bを熱心に聞きはじめ、それがそのままレコードセールスに現われ始めていた。クリーブランドから放送されていたAlan FreedのMoondog Showという番組が若者をリードしていた。このAlan Freedがニューアーク東部・ニュージャージーで彼の最初のステージショーを計画していたのである。The Cloversはトップアーティストとしてその名を掲げられた。5月1日にニューアークのMoondog Coronation Ballで開催されたショウには1万人以上の観客が熱狂した。このショウに興味を示したあるレポーターは、聴衆の約20パーセントが白人だったことを指摘し、この夏をさかいに、多くのDJ・音楽業界人・ティーンエージャー・学生らがR&Bレコードに大きな関心を示しはじめたことを報告した。グループのヒットと同時に白人ポップスシンガーの多くがカバーをリリースするようになった。Alan 'Moondog' FreedはJubilee of Stars Under The Starsという公演を8月にブルックリンのEbbet's Fieldで開催し、The CloversとFats Dominoに出演依頼している。またAlan FreedはWINSラジオ局から飛び出し、ニューヨークでも彼のショーを開催する。グループは、シカゴ・ロサンジェルスで行われたBlues Jubilee(Gene Norman主催)にもトップアーティストとして参加した。そうした中、7月中旬にYour cash ain't nothing but trashをリリースする。不幸にもこのシングルは十分なセールスをすることができなかった。数人の評論家は「ボーカルグループブームは下降の傾向にあり、大衆に指示されているのは今や一部のアーティストだけである」と評した。ちなみにこの頃に、それまでの78回転レコード(SP盤)が崩壊し45回転盤がシングルのスタンダードとなり、各レーベル会社はラジオ放送局に送るサンプル盤として急速に45シングルに切り替えた時期である。Alan Freedがニューヨークから歴史的な放送を始めたときに呼び物となったレコードの1つが、The CloversのAll righty oh sweetieであった。B面のI confessのリードを歌ったCharlie Whiteはこの曲を最後にグループを去っている。Alan Freedによるボーカルグループの人気投票でも大きな得点を獲得したThe Cloversは、55年1月中旬にニューヨークで開催されたAlan Freed Showに出演した。このショーの後にグループはRhythm & Blues Top Ten Cavalcadeという公演で6週間のツアーを、The Moonglows・Joe Turner・The Charmsらとおこなった。ハーレムの聖ニックアリーナで開催されたAlan Freed's Rock and Roll Ball公演や、55年4月のイースター週間にブルックリンのパラマウント劇場でのEaster JubileeなどAlan Freed主催の公演はどれも莫大な成功をおさめた。Blue velvetはミドルクラスの売り上げで、続くLove bugはほとんどのチャートからはずれてしまう。この頃のツアーでは南部~南西部を回っている。ツアースタートの直前に、Nip sipをリリースしたがこのシングルも伸び悩んだ。ツアー前にRuth Brownとともにアポロ劇場のステージに立っている。グループは、Rock 'n' Roll Reviewという黒人アーティストを呼び物にした映画に出演。全国の映画館で上映し、ロックンロールファンから利益をあげようというユニークな企画であった。56年1月には名作Devil or angelをリリースし再び大きなセールスを上げることに成功した。この頃にAtlanticとの契約更新がおこなわれている。56年4月から約5週間R&Bショウとして東部~南部にかけてツアーを始める。Devil or angelは1~4月までの間セールスチャートを独占している。Love love loveのリリースでThe Cloversにとってようやく本当のポップスマーケットに届くことが可能となった初の作品となる。ナショナルポップスチャートにランクインし、50年代中頃にはトップ40ラジオともなった。再び成功を手にしたグループは9月にFrom the bottom of my heartをリリース。この曲には、コーラス・楽器ともにポップス的なアレンジメントが施され、以降次第に黒人らしさが失われていく。Atlanticは、カバーバージョンにはこの音と手触りは出せないであろうと確信したという。53年にはAtlanticから6枚のシングルがリリースされたが大衆の注目を引きつけることができなかった。大衆の音楽的な好みの変化にあわせるように、Atlanticも長く支持したR&Bだったが、次第にBobby Darin・新生The Driftersのようなポップスに重点を置きはじめる。アメリカのミュージックシーンでこれほど多くの記録を打ち立てたグループとの契約の更新に対しても少しは興味があったのだが…。グループ結成以来のマネジャーLou Krefetzは58年に自身のPopularを設立し、The Cloversの作品をリリースしたがまったくといっていいほど売れなかった。58年のThe Cloversに関連した最も大きい出来事は、オリジナルメンバーBill HarrisがAtlanticのジャズギタースタイルのアルバムをリリースしたことである。多くのR&B演奏家はジャズ・ミュージシャンやリスナーに尊敬されてはいたが、Bill Harrisのリリースは驚くべき事であった。ダウンビート誌でもこのアルバムは称賛された。この間、The CloversはすでにUnited Artistsに移籍したが、最初のリリースThat ol' black magicも不評に終わりもはや50代初期の成功を取り戻せる希望は薄かった。しかし次のシングルLove Potion # 9(Leiber-Stoller作)が大ヒット、この曲はThe Coastersを有名にした作曲コンビによる典型的な歌物語であった。5年後にはThe Searchersによってリメイクされ、こちらもヒットしている。このユニークなレコードはトップ25に入り、大規模にポップチャートでブレイクし多くのオンエアを得ている。最終的にこの曲はグループにとって、最も長くそして最も成功したヒットナンバーとなった。間もなく、50年代前半の10年間でもっとも成功したR&BボーカルグループThe Cloversはレコーディング活動を終わらせた。