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The Coastersは50年代の後半にロックンロールのプリンスとして登場した。54年にJerry Leiber・Mike Stollerの書いたHound dogがBig Mama Thorntonによって大ヒットする。この成功で二人は自身のSparkを設立し、当時RCAに在籍していたThe Robinsを迎える。Jerry Leiber・Mike Stollerの二人はすでにグループに多数の曲を書いていたこともあり親交は深かった。55年11月にリリースしたSmokey Joe's cafeがAtlanticの注意を引き、56年Sparkは、The RobinsのマスターをAtlanticの新しい子会社Atcoに売却、The Robinsの新しいレコードは以降Atcoからリリースされることとなる。Carl Gardner・Bobby Nunn以外のメンバーは移籍に反対し、その後もThe Robbinsとして活動を続けた。移籍したCarl Gardner・Bobby Nunnは、Leon Hughes(50年にThe Hollywood Four Flames、53年にThe Lamplightersに在籍していた)・Billy Guy(55年にBip and Bobに在籍・Alladin)を加え、当時、ウエストコーストに住んでいた事からThe Coastersと命名した。Jerry Leiber・Mike Stollerはこうして自分達の歌を最大限にひきだせるグループを獲得、The RobinsのRiot in cell block #9のように、The CoastersはYakety yakといった、若者の日々を歌って次々とヒットを生む事となる。グループ最初のシングルDown in Mexicoは、薄汚れたバーの片隅でレコーディングされたという。2月25日付のビルボード誌で「ここに新しい、そして見事にスイングするシングルが登場した。彼らのDown in Mexicoの魅力もさることながら、もう一方のサイドSmokey Joe's cafeも大いに称賛に値する」と熱狂的にレビューした。また3月17日付の同誌のベストバイリストでも「このシングルは、ピッツバーグ・バルチモア・バッファロー・クリーブランド・シカゴ・ナッシュビル・アトランタ・セントルイスなど広範囲にわたる地域のR&Bとポップスの両チャートで優秀な反応を得ている」と書かれた。Down in Mexicoは4月までにビルボードのR&Bベストセラー・ディスクジョッキーチャート第9位・ジュークボックスチャート第8位となった。続くBrazilが56年9月にポップチャート第72位・R&Bチャート第11位を記録し、ポップチャートに初めてThe Coastersの名前が載った。 グループはロサンジェルスを拠点として活動していたが、この時期から長期間のツアーを開始し、この年はニューヨークでのレコーディングを行っていない。 57年2月12日にスタジオに戻ったグループは、彼等のキャリアの中でも最も素晴らしい2つの歌をレコーディングする。ポップチャート第8位・R&Bチャート第2位となったYoung bloodとその裏面のSearchin'(ポップチャート第3位・R&Bチャート第11位)である。黒人グループがシングル両面でポップチャートにランクインするのは、The Miles Brothersが49年にI love you so much it hurts(第8位・B面はI've got my love to keep me warrn・第9位)で4つのミリオンセラーを獲得して以来のことであった。同時期、グループはLaVern BakerのJim dandy got marriedにバッキングコーラスとしても参加している。この曲はR&Bチャートで第7位を記録し、Jim dandy got marriedとSearchinは同じ日(57年5月13日)にチャートを争った。The Coastersはいろいろな点でユニークであった。当時のほとんどのグループがラブソングを歌っていたのに対し、The CoastersはCharlie Brownのように、ティーンエージャーの日常をコミカルに、そして皮肉を込めて歌った。 またリードボーカルの後ろで「ウー」とか「アー」といった単純なコーラスを付けていたのに対し、ユニゾンコーラスや、コールアンドレスポンスなどを多用し、よりワイルドなサウンドがトレードマークのひとつとなった。なによりも若者を虜にする優れた歌詞の助けを借り、グループは新しいロックンロールのスタイルを確立していった。57年8月リリースのIdol with the golden headは、Bo Diddleyのリズムを取り入れた作品だったが、ポップチャート第64位と前作を大きく下回り、その年を終える。裏面のMy baby comes to meは、The Way You Do the Things You Do(The Temptations・62年)・I'll try something new(The Miracles・64年)といったタイプの作品で、のちの叙情的なスタイルとなっていくグループを彷佛とさせる。58年1月のSweet Georgia Brownは、ブルース色を押し出したファンキーな作品で、グループの最初の変化をみせた。この頃、Bobby Nunn・Leon Hughesがグループを去り、Cornell Gunter(元The Platters・Federal・The Flairs・38.11.14~90.02.)・Will 'Dub' Jones(元The Cadets・Modem・39.05.14~00.02.02)が加入している。新生The Coastersの最初のレコーディング・セッションが、58年3月17日に行われ、さらに2つの不滅の名作を生み出すこととなった。「take out the papers and the trash, or you dorft get no spending cash」の歌詞(この一節は、ほとんどのポップスファンなら知っている)をもったYakety yakとZing went the strings of my heartである。8月にはイギリスでもポップチャート第1位・R&Bチャート第12位を獲得した。Yakety yakの裏面は、Doo-Wopからの離脱を意識して作られた曲で、Judy Garlandが43年に第22位のヒットのリメイクである。Yakety yakの成功の以来、この曲はグループの代表曲となっている。57年にGeorgia Brownでグループはブレイクしたが、59年3月、彼の兄弟Charlie Brownがリリースされた。ポップチャート第2位(第1位はFrankie AvalonのVenus・3週間トップにいた)・R&Bチャート第2位、イギリスにおいても第6位という世界的なヒットになり、ティーンエージャーにとっての国歌となった。 グループは、親子の関係や10代の不安といったものを歌い続けたが、当時流行していたTV西部劇に取り組むことに決める。この番組は59年度の番組トップテンで第7位に選出されている。 挿入歌のAlong came Jonesは、陽気で、同じリズムのくり返し・サックスソロ・冗談のような歌詞と、グループのすべてが詰まっていた。ポップチャート第9位・R&Bチャート第14位を獲得している。Charlie Brownを歌っていたティーンエージャーは、夏にはAlong came Jonesを歌っていた。Along came Jonesを書いたJerry Leiber・Mike Stollerのコンビは、58年夏にヒットしたThe OlympicsのWestern movies(第8位)をヒントにこの曲を書いたといわれたが、The Olympicsは、グループの崇拝者でもあったことから、このコンビの作品を黙認したといわれている。 59年7月16日のセッションで、名作Poison ivyをレコーディングし、またもイギリスにおいてポップチャート第7位・R&Bチャート第1位を獲得した。この年の年末にWhat about usをリリース。歌詞には「奴はプール付きのガラスの家を手に入れた。俺達は、線路の枕木を積んだバラックに住んでるというのに。それがどうしたって言うんだ。俺達のすることに大騒ぎしなくてもいいじゃないか」と歌われ、それまでのスタイルとは全く違ったにもかかわらず、白人向けのラジオでもさかんに流された。裏面のRun red runでも、トランプでイカサマをするボスを銃で撃とうとする猿を歌い、描写の対象がティーンエージャーから人種差別へと向かっていった。Run red runが第36位(R&B第29位)のヒットとなり、What about us(第47位・R&B第17位)のオンエアーのチャンスをのがしてしまった。60年5月Be-same Mucho(Jimmy Dorseyのカバー)が第70位にランクイン。続くWake me shake me(Billy Guy作)がポップチャート第51位・R&Bチャート第14位となり、メンバーにペンよる最初のチャートインナンバーとなった。グループは、The Cadilacsとともに熱狂的なステージを繰り広げさらに多くのファンを獲得していった頃、ツアー中にCarl Gardnerが一時グループを離れ、Lou Rawlsが代わりをつとめている。彼はゴスペルボーカリスト(57~59年にThe Pilgrim Travellersに在籍)として活動しており、Love is a hurtin thing(66年・第13位)のソロヒットから5年たっていた。グループの次の4枚のシングル、Shoppin' for clothes(第83位)・Wait a minute(第37位)・Little Egypt(第231位)・Girls, girls, girls Part 11(第96位)ではR&Bチャートよりもポップスチャートでチャートインした。Little EgyptのみR&Bチャートの方が上だったが、60~61年にかけてのグループのシングルは最も想像力が豊かで、なおかつコミカルであったことは偶然の一致ではなさそうだ。61年にCornell Gunterが正式に脱退し、Earl Carroll(The Cadillacsに在籍・37.11.07~)が加入している。 しかし、62~66年に発表されたシングルは、Tain't nothin' to me(第64位・64年)がチャートインしただけで、グループは低迷する。A面のSpeedo's back in townはEarl Carrollの加入からおよそ2年後の、アポロ劇場でのライブレコーディングだった。64年にWild oneをリリース、またThe BeatlesとI saw her standing thereを歌っている。次にグループはカバーソングを手掛けた。The CloversのLovey DoveyとThe DriftersのMoney honeyだったが、60年代の聴衆には訴える事ができなかった。65年、Will Jonesがグループを去る。グループのメンバーは、Earl Carroll・Billy Guy・Carl Gardner・Ronnie Bright(元The Valentines・ベース)となった。 4人は66年にAtcoからTurntable(Lloyd Price設立)へ移籍したがかつての栄光は戻らなかった。69年にはDateへ移籍し、3枚のシングルを残している。71年、Jerry Leiber・Mike StollerはKingへ入社とともにグループのレコーディングを開始、The Cloversの最大のポップスヒットLove potion #9(第23位・59年)を再録し、グループは7年ぶりチャートイン(第76位)をはたした。さらに2枚のシングルリリースののち、76年にグループ最後のシングルIf I had a hammer(Peter Paul and Mary・62年のヒット)のリメイクをリリースして活動の幕を閉じた。一方、Cornell Gunterは63年に彼自身のCoastersを結成する。メンバーは、Randolph Jones・Dexter Tisby・Teddy Harper・Cornell Shirley(Cornell Gunterの妹・元The Flairs)で、ほとんどが元The Penguinsメンバーであった。64年にChallengeからWishful thinking(B面はKey to your heart)をCor-nell Gunter名義でリリースした。彼のグループは、カルテットからトリオへと移行しつつもおよそ25年間も活動を続けたが、81年2月26日にラスベガスの北部で起こった自動車事故によるCornell Gunterの死とともに悲劇的な終焉をむかえた。その夜はLady Luck Hotelでの公演が予定されていた。その後、クラブやコンサートでは、過去のヒット曲を歌う数多くのThe Coastersを見る事ができた。一つはBobby Nunnのグループだったが、86年に心臓発作で死去している。Dub JonesとBilly GuyもThe Coastersを、そしてLeon Hughesも自身のThe Coastersを持っていた。80年代の初めにEarl CarrollはThe Cadillacsに復帰している。Carl Gardner・Ronnie Bright・Jimmy Norman・Curley PalmerらもまたThe Coastersを演じた。The Coastersは次の世代にもしばしばカバーされた。ElvisはGirls, girls, girls・Little Egyptを、The BeatlesはThree cool cats・SearchinでDeccaのオーディションを受けている。The Rolling StonesもPoison ivyをレコーディングした。クレジットの多くがLeiber and Stollerであったが、The CoastersはLeiber and Stollerにとって最良のそして重要なグループであった。