The Crests

1956年・ニューヨーク州・ニューヨーク市・マンハッタン
Johnny Maestro(lead・39.05.07~)・Talmadge Gough(tenor)・Patricia Van Dross(tenor・~93)・Harold Torres(baritone・40.~)・J.T. Carter(baritone・Bass・39.~)

■Sweet one・My Juanita(Joyce-103)57
■Noone to love・Wisg she was mine(Joyce-105)57
■Pretty Little angel・I thank the moon(Coed-501)58
■Sixteen candles・Beside you(Coed-506)58
■Six nights a week・I do(Coed-509)59
■Flower of love・Molly Mae(Coed-511)59
■The angels listened in・I thank the moon(Coed-515)59
■A year ago tonight・Paper crown(Coed-521)59
■Step by step・Gee(Coed-525)60
■Trouble in paradise・Always you(Coed-531)60
■Jorney of love・If my heart could write a letter(Coed-535)60
■Isn't it amazing・Molly Mae(Coed-537)60
■Good golly miss Molly・I remember(Coed-543)60
■Little miracles・Baby I gatta know(Coed-561)61
■Noone to love・Wish she was mine(TimesSquare-2)62
■Baby・I love you so(TimesSquare-6)62
■The actor・Three tears in a bucket(TransAtlas-696)62
■Guilty・Number I with me(Selma-311)62
■Did I remember・Tears will fall(Selma-4000)63
■A love to last a lifetime・You blew out the candles(Coral-62403)64
■Heartburn・Try me(Parkway-957)66
■Come see me・I care about you(Parkway-999)66
■My time・Is it you(Parkway-118)67
■The worst that could happen(Buddah-75)

The Crests
LP Sing All Biggies
Coad LPC-901
1960年

彼らの公式なLP盤は60年のこの一枚だけですが、様々なベスト盤が出回っていて、オークションなどにも登場します。またベスト盤的CDもたくさんありるので探すのに困ることはないです。

50年代の後半に最もポピュラーだったグループの一つ、The Crestsは、当時は黒人のグループと思われていた。実際は2人の黒人と2人白人(プエルトリコ系とイタリア系)、そして1人の黒人女性のグループであった。Talmadge Gough(Tommyとも名乗っている・テナー)・Harold Torres・Patricia Van Drossらマンハッタンの下町であるチャイナタウン出身の中学生3人が、55年にJay Carter(J T Carterとも呼ばれた)と組んでグループを結成する。グループは、The Miles Brothers・The Ames Brothers・The Harptones・The Clovers・The FIve Royales・The Five Keys・The Orioles・The Penguinsらに影響を受け、病院の慰問やチャリティーコンサートに出演しながらMr. Morrow(地元では有名だったシンガー)からグループボーカルのレッスンを学んでいた。56年にグループは、ムルベリー出身のJohn Mastrangeloに出会い、意気投合した彼を加入させている。ちなみにJohn Mastrangeloは、当時すでに別のグループに参加おり、Tony Orlandoもそのグループに在籍していた。John Mastrangeloの加入で勢いの付いたグループだったが、その頃に軍隊に召集された。この頃にJay Carterは、彼の使っていた歯磨きの名前から、グループをThe Crestsと命名している。グループは腕をあげる場所として、ニューヨークの地下鉄駅を選び、ブルックリンブリッジのLexington駅へ向かった。グループが練習していると、列車から降りてきた女性がしばらく聞き入ったのち、彼らに名刺を手渡して去っていった。名刺には「The Hartberatsやその他のミュージシャンのバックを演奏したAl Browne and Orchestraを持ち、アレンジャーとして有名なMr. Browne」と書かれていた。グループは早速彼に連絡し、57年6月にオーディションを受けることになった。それまでにJohn Mastrangeloは2つのオリジナルを用意することができた。列車の女性はAl Browne夫人だったことをスタジオで知ったグループは、Sweetest one・My Juanitaを歌い、Joyce(Al Browne設立)と契約する。57年7月15日に、JoyceからSweetest oneでシングルデビュー、ナショナルトップチャート第86位と上出来のヒットとなった。B面のMy Juanitaは、その後のスターを夢見るアマチュアグループのスタンダードとなった。続いてNo one to loveをリリース。Earth angel(The Penguinsのヒット)を彷佛とさせる美しいバラードだったが、前作を大きく下回る結果となった。ちなみにJohn Mastrangeloはそれまでの曲で17.5ドルという恐ろしいほどの小額の著作料を受け取り、地元でのコンサート用衣装としてチェックのジャケットとグレーのネクタイのために使われた。その後の1年間は、コンサートに出演し、実力と経験を貯えていった。やがてBilly Dawn Smith(ソングライター・George Paxtonの経営する音楽出版社にいた)というブリルビル(Brill building・音楽出版社ばかりが集まったビルで、多くのヒットがこのビルから生まれている)の作品でと出会ったグループは、George Paxtonが設立したCoedと58年に契約した。この直前にPatricia Van Drossは彼女の母親の反対(58年の時点で男性メンバーは18~19歳で、一緒にツアーに出る事に反対だった)によりグループを去りカルテットとなった。Patricia Van Drossの弟がグループに参加できる年齢であったら、グループの歴史はさらに興味深いものになったかも知れないといわれている。彼の名前はLuther Van Drossだった。58年3月、Coedでの最初のシングルをリリース。Pretty little angelはJohn Mastrangeloの作品で、Bert Keyes・Luther Dixon(The Shirellesの数曲のヒットを書いている)がアレンジを担当。B面のI thank the moonはBilly Dawn Smithの作品であった。Pretty little angelがニューヨークで話題となり、WRVM(地元のラジオ局)での3月31日のチャートで第25位まで上昇したが、間もなくランクから消えていった。続いて58年9月にBeside youをリリース。Alan FreedやDick Clarkもこのシングルを受け取ったが、盛んにB面のSixteen Candlesをオンエアーした。リリースから2カ月後の58年11月24日にはビルボード誌のポップ・R&Bの両方にチャートインした。グループはAlan Freedがローエンのステート劇場で開催したクリスマスパーティー公演に出演を果たした。Buddy Holly・Ritchie Valens・Big Bopper(奇妙にもこの三人は59年2月3日に飛行機事故で死亡している)らと競演している。59年1月26日にはSixteen Candleが全米チャート第4位、59年2月9日にはビルボードチャート第2位となった。のちにLloyd PriceのStagger Leeがこの曲を落としている。Sixteen Candleはピーク時には1日で2万5,000枚の売り上げを記録し、誕生日の歌のスタンダードとなった。ちなみにこの曲はLuther Dixon・Allyson Kentの共作で、最初はTwnty-one Candlesと題されていたが、レコードを買う若者をターゲットにするために、ろうそくを16本に減らした。グループは、アポロやパラマウントといった劇場公演の合間をぬっては、American Bandstand(Dick Clark司会のTV番組)のラジオ版ともいわれたサタデーナイト(ゴールデンタイムに放送された)に出演するなど、精力的に活動を続けた。Dick Clarkはニューヨークの47番街にある小さな劇場にグループを訪れた時の事を「挨拶しようと楽屋を覗こうとしたら、連中はたぶん飛んだり跳ねたりしてらしく、誰かがドアにぶつかって、私の目のまわりに黒いあざができたんだ」と語っている。オールスターショーと題した公演が開催され、Jackie Wilson・The Moonglows・Chuck Berry・The Everly Brothers・Bo Diddley・The Flamingos・Dion and the Belmonts・Frankie Avalon・Sam Taylor・King Curtis・Big Al Sears・Red Prysock・Earl Warrenらと競演している。58年から60年にかけてほとんどの日々をツアーで過ごしている。59年、Sixteen Candleに続くシングルSix nights a weekがポップチャート第28位・R&Bチャート第16位となる。続くFlower of loveは第79位を最高に6週間チャートに留まったものの、Millionaire hobo(The Fantastics)・My heart's(The Carollons)・Lovers never say goodbye(The Flamingos)などが話題を得ていった頃だった。グループの次のシングルThe angels listened inで再びチャートに登場し、ポップチャート第22位・R&Bチャート第14位の大ヒットとなった魅力的なラブソングだったが、これがグループ最後のR&Bチャートインナンバーとなった。59年秋にA year ago tonightというSixteen Candleのアップテンポバージョン的な作品をリリース(第42位)、60年にはStep by step(第14位)とTrouble in paradise(第20位)がポップチャートにはいっている。Trouble in paradiseはのちにソロとなるJohn Mastrangeloを予感させるひとつのポイントとなった作品であった。Journey of love(第81位)、Isn't it amazing(第100位)で60年を終えた。I remember(John Mastrangelo 作)と題されたシングルは、In the still of the night(The Five Satins)タイプの曲で、John Mastrangeloが参加した最後のCodeのシングルとなった。続くLittle the miracles(第102位)はJames Ancrumが、リードを歌って「トップ100にランクインしなかった」最初のシングルとなった。間もなくTalmadge Goughはジェネラルモータースで働くためにグループを去り、デトロイトへ向かい、Gary Lewisが加入した。ほぼ同じ時期にJohn Mastrangeloはソロシンガーとして独立し、The TymesとともにOver the weekend・I'll be true(63年)や(彼が新しく見つけて命名した)The CrestsとTry me・Heartbeat(66年)をリリースしたがどれも失敗作であった。一方、Coedに残ったメンバーは、グループ名の所有権について法廷での争いに巻き込まれていが、グループが勝訴する。62年にSelma(Morty Craft設立・数多くのレーベルを所有している)へ移籍し、1月にGuiltyをリリースし、第123位のチャーティングとなった。63年にはDid I rememberをリリースしたが、チャートインに失敗し、グループは再びツアーの続く生活に戻った。64年、Coral (Selmaの子会社)からYou blew out the candlesをリリースしている。62年にJames Ancrumの代役としてKenneth Headがリードを取り、Trans Atlasで1枚だけシングルをリリースしたが、Codeの頃のグループとは比べ物にならなかった。以降、60年代を通じグループはツアーで各地を回ったが、レコードはリリースしなかった。John Mastrangeloは68年にThe Brooklyn Bridgeを結成している。Harold Torresはニューヨークを離れ、宝石商を営んでいる。Jay Carter・James Ancrum・Gary LewisはThe Crestsとして地味な活動を続けた。78年にJay CarterはThe Drifters(Charley Thomas)に加入し、1年後にはニュージャージーのプレーンフィールドでスタジオを設立し、ボイストレーナーとなった。80年に彼は、それまでにレッスンした200人以上のシンガーからメンバーを集め、自身のThe Crestsを結成した。メンバーは、Jay Carter・Bill Damon・Greg Sereck・Dennis Rayで、ツアーの時にはLeona Carter(Jay Carterの妻)がキーボードとして参加した。87年6月にニューヨークのピークスキルで行われたショウに、John Mastrangelo・Jay Carter・Harold Torres・Talmadge Goughらの面々が久しぶりに顔を揃えて出演し、ファンを狂喜させた。