The Channels

1955年・ニューヨーク州・ニューヨーク
Earl Lewis(lead・41.02.11~)・Larry Hampton(tenor)・Billy Morris(tenor)
Edward Doulphin(baritone)・Clifton Wright(bass)

■The closer you are・Now you know(Whirin' Disc-100)56
■The Gleam in your eyes・Stars in the sky(Whirin' Disc-102)56
■I really love you・What do you do(Whirin' Disc-107)57
■Flames in my heart・My loving baby(Whirin' Disc-109)57
■That's mt desire・Stay as you are(Gone-5012)57.4
■Alter of love・All alone(Gone-5019)58.1
■My love will never die・Bya bye baby(Fury-1021)58
■The girl next door・My hearts is sad(Fire-1001)
■Sad song・My love(Enjoy-2001)
LP
■The Best of Whirlin Disc Records(Whirin-1000)
■Rumble(Jubilee-1114)
■Here's the hits(Fire-100)

The Channels
LP The Best of
Whirlin Disc records
Whirlin-1000

全20曲収録。本グループ以外にも5組のグループが収録されたLP盤です。ブートっぽいジャケットですがおそらくオリジナルです。

LP Rumble
Jubilee JGM1114
1959年

JubileeがリリースしたオムニバスLPですが、近年同ジャケ同タイトルのCDが登場、収録曲が異なる幾つかのバージョンが出回っていました。4組のグループが登場します。

50年代に活躍した東海岸のグループの中でも、多くのヒットを持たないにもかかわらず、非常に人気の高いのがThe HarptonesとThe Channelsである。 55年の遅くに結成された。Larry Hampden・Billy Morris・Edward Doulphinの3人が中心となり、さらに2名を加えThe Channelsというクィンテットを始める。この2名はパートタイマー的に入れ代わっていたようである。 間もなくグループは、正式なメンバーとして、リードとベースのシンガーを探しはじめる。56年2月に、ハーレム(コロンバスとアムステルダムの中間に位置する)101番街のコミュニティーセンターで開催されたタレントショーに出演したThe Lotharios(グループにはFrankie Lymon and the Teenagersのように見えたという)のメンバーと意気投合し、 次回のタレントショーの時には、The LothariosからのメンバーだったEarl Michael LewisとClifton Wrightが加入している。数回のリハーサルだけでグループはそのショーでThe FlamingosのI'll be homeを歌い入賞した。そして1週間後に、あこがれだったアポロ劇場で開催されるアマチュアナイトコンテストに出場、The PlattersのThe magic touchを歌っている。56年の春に起こったことについて3つの話がある。(1)アポロ劇場での演奏を見たBobby Robinson(Red Robin設立)がオーディションに招いた。(2)オーディションのためにスタジオに来たグループに、Bobby Robinsonが一時的な契約を申し出て、彼らの歌を聞いた。(3)グループがBobby Robinsonの店(レコードショップも経営している)に行き、数曲を歌ってスタジオでのオーディションを認めさせた。いずれにしてもグループは、Bobby Robinsonの新しいレーベルWhirling Discと2年の契約に署名した。56年6月29日、最初のセッションで、名作The closer you are(Earl Lewis作・当時わずか15歳である)をレコーディング。リハーサルはたったの2回だったという。当時のボーカルグループのコーラスワークは、リードボーカルの後ろで「アー」や「ウー」と歌うような単純なものが多かったが、グループのコーラスはブリッジ(サビ)にかかると、4部あるいは5部のハーモニーを持ち、またファルセット(リード)がさらに自由なメロディーを奏でるといった、かなり複雑な形態を持っていた。 アレンジも含めて、このサウンドがまさしくグループの大きな特徴であり個性となった。The closer you areはラジオで盛んにオンエアされ、8月には全米で頻繁にオンエアされていった。しかし、このデビューシングルヒットに、ローカルレーベルのWhirling Discの生産能力は追い付くはずもなく、市場に充分な供給ができなかった。このシングルは、ニューヨークを彷佛とさせる都会的なサウンドだったが、イーストコーストを中心に全国的な人気を得た。56年10月に次のシングルThe gleam in your eyeをリリース。この曲はEarl Lewisが10歳の時に書いたバラードである。 このヒットでグループの人気はさらに上昇していった。この頃、アポロ劇場をはじめ、ハワード劇場(ワシントン)・バルチモアでの御前演奏などの公演を開始した。57年春に、Whirling Discでのグループ最後のシングルFlames in my heart(Earl Lewis作)をリリースする。なおこのレコーディングには20分程度しか時間を与えられなかったといわれている。そして、これはグループのシングル中最低のセールスでしかなかった。直後Bobby RobinsonはRed Robinを閉鎖している。 およそ4ケ月後にグループは、Earl Lewisの新曲を持って、Gone(George Goldner設立)のオーディションを受け契約に至った。George Goldnerはグループが気に入ったものの、それまでの彼らとは異なったサウンドを求めていた。 Earl Lewisはそれに応えるべく、The girl next door・All aloneを含めた数曲を新たに書いたが、George Goldnerは、That's my desire(Sammy Kaye・47年のヒット)のカバーをレコーディングすることにした。アレンジはRichard Barrett(元The Valentines・GoneのA&R)が行った。 ちなみに、1年半後、Dion and The Belmontsがこの曲の裏面のWhere or whenをカバーし、チャート第3位を獲得している。また、リハーサルとしてレコーディングされたGloriaは未発表作品だが、Earl Lewisはこれがグループ最高の作品だと語っている。Goneからのデビューシングルは57年夏にリリースされ、全米でヒットし再びスポットライトを浴びた。この直後にClifton Wrightがグループが去っている。4人となったグループの続くシングルAltar of loveはしかし失敗に終わった。プロモーションに対する不満もあって、Goneには2枚のシングルを残してグループは去っていった。そして幾度かのメンバーチェンジをくり返し、59年にはオリジナルメンバーは2人だけとなり、再びBobby Robinsonの新設したFuryでレコーディングするために移籍した。グループはBobby Robinsonと契約内容についてかなりの議論が交わされたといわれている。この頃のメンバーは、Earl Lewis・Clifton Wright・John Felix(元The Cellos・Apollo)・Alton Thomas・Billy Montgomeryで、Earl Lewisの新作My love will never die とBye bye babyをレコーディングした。今回は議論の末に決定したようにEarl Lewis自身に著作権が認められた。My love will never dieは、グループの最も成功したレコードの1枚となった。当時、Kansas City(Wilbert Harrison・Fury) がリリースされていなかったら、それはさらに売り上げを伸ばしたかもしれないとメンバーは語っている。59年秋に、Furyに移籍しなかった他のオリジナルメンバーLarry Hampden・Billy Morrisは、Earl Lewis・Alton Campbell(元The Cellos)・Billy MontgomeryらとThe girl next door・My heart is sad(George Goldnerがおよそ2年前に書き上げた曲)をレコーディングするために再結成し、Fireに移籍している。Furyのセッション後、Earl Lewisは召集され、Jackie Rue(のちにThe Starlitesに加入・60年にValerieがヒット)がリードをつとめている。Furyでの最初のシングルにはEarl Lewis and The ChannelsとクレジットされThe girl next doorはかなりのヒットとなった。しかし59年の遅くにグループは解散した。61年にグループの新作を思わせるアルバムがJubileeからリリースされたが、Whirling Discでの作品を収めたアルバムであった。63年1月にはHitから新しいThe Channelsのシングルがリリースされた。メンバーにはLarry Hampden(唯一のオリジナルメンバー)がいたが、ラベルにはChannellsと綴られていた。一方、Tony Williams(The Plattersではない)・Gene Williams・Revo Hodgeは、You hurt meをリリースしている。Larry Hampdenのグループは、一度だけのバッキングの仕事のためにChannelsと元の綴りに改名した。Earl LewisはThe Earl Jadesを結成し、60年代後半まで活動を続けた。Earl Lewis・Henry Fernandez・Jack Brown・John Felixらは新しいThe Channelsを結成し、RedbirdからBreaking up is hard to do(Neil Sedakaでヒット)をリリースし、71年にアカデミー賞を受賞している。契約や著作権のもめごとにうんざりしたEarl Lewisは、71年に自身のChannelを設立し、Billy Veraのバンドとともに、新曲や好きな歌(Gloria・We belong together・A thousand miles awayなど)をレコーディングし、シングルリリースしてファンを狂喜させた。彼らは71~74年にかけて6枚のシングルと1枚のアルバムをレコーディングした。 70年代の中頃、The Channelsは活動を続けていたが、Earl Lewis以外はThe Heartspinners(元Dino and The Heartspinners)の4人のメンバーJoe Odom・Cecil Wiley(~90)・Butch Phillips・Bernard Jonesであった。Bernard Jonesは80年代にThe Driftersへ、Butch PhillipsはThe Del Vikingsにそれぞれ加入している。Wes NeilがButch Phillipsに代わって加入し、このメンバーは90年代の中頃まで続いた。 87年にEarl Lewis and The Channel名義でSoul JamからThe closer you areの再録をリリースしている。 この歌はグループの最も新しいシングルとなっている。