The Chords / The Chordcats / The Sh-Booms / The Popular Five

1951年・ニューヨーク州・ニューヨーク市・ブロンクス
Carl Feaster(lead・30.09.24~81.01.23)・Jimmy Keyes(tenor・30.05.22~95.07.22)・Floyd "Buddy" Mcrae(tenor)・Claude Feaster(baritone)・William "Ricky" Edwards(bass)

The Chords
■Cross over the bridge・Sh boom(Cat-104)54.04
■Sh boom・Little Maiden(Cat-104)54.06
■Zippity zum・Bless you(Cat-109)54.09
The Chordcats
■A girl to love・Hold me baby(Cat-112)54.11
The Sh-Booms
■Could it be・Pretty wild(Cat-117)55.10
■Lulu・I don't want to set the world(Vik-0295)57.09
■Blue moon・Short skirts(Atlatic-2074)60.08
■Sh boom・Little Maiden(Atco-6213)61.12
Carl Feaster and group(as Lionel Thorpe)
■More, more, more・Lover, lover, lover(Roulette-4144)59.03
■Don't run away・She was love(Roulette-4222)30.01
The Popular Five
■Tomorrow night・Sh-boom(Rae Cox-1001)67
■I'm a love maker・Little bitty pretty one(Mint-32050)68.08
■Baby I got it・I don't want to be without her(Mint-32061)69.04
■Baby, I've got it・Best friend - worst enemy(Mister Chand-8001)70.08

The Chords
CD Best of The Chords
Cat C-1000
1981年
Catでの録音ですが出来の悪い海賊盤。ジャケットも音もよくないですが、やはり当時は貴重な音源でもありました。

LP Best of The Chords
Cat CCD-7000
2005年
22曲入りCDで、ジャケットはまったく同じですがLP盤が17曲なので音質・曲数ともこちらの方がおすすめ。

アメリカ国民が危機感を募らせていた1954年、米国とソビエトは互いの軍備競争の末に冷戦状態となり双方の動きは硬直状態となっていた。ソビエトによる爆撃をアメリカ国民の誰もが危惧していたこの年の約2年前に、米国はすでにエニウェトク環礁において水爆実験を成功させていた。同じ年に日本ではゴジラが核実験の副産物として生み出されその2年後に米国で公開された。こうした不安な日々にもかかわらず、1954年の夏はR&Bにとってダイナミックな時期であった。The Chordsの大ヒット曲Sh-boomはヒット以降には多くのポップ・スターによってカバーされ、メジャーなレコード会社がR&Bは市場に受け入れられる可能性があると認識し始めていた。しかしポップス・チャートに進出し始めていたのはR&Bのカバー作品ばかりでなく、R&Bシンガー自身もそうであった。Sh-BoomはR&Bサウンドのポピュラー化のシンボル的存在であった。Sixty minute man・Crying in the chapel・Geeといった、ポップス・チャートを席巻したR&Bのビッグ・ヒットはそれまでにもあったが、このSh-boomはそれらと一線を画していた。この作品は1954年7月3日にR&Bチャート第2位(The DriftersのHoney loveが第1位の座を譲らなかった)に達し、15週もの間ランク・インしたのである。さらに重要なことは、ポップス・チャーにおいて第5位を獲得したことであった。The Chordsはポップス・トップ・テンにヒットを送り込んだ1950年代最初のR&Bアーティストとなったのである(ちなみに40年代ではLouis Jordanがポップス・トップ・テンにおいて9曲 - G.I. jive・Caldonia・Is you is or is you ain't ma baby・Open the door, Richard・Ain't nobody here but us chickens - のヒットを持っている)。Sh-boomはこの時大きな流れを作った。しかし、数人のポップ畑のDJ(例えばPeter Potterのような)やメジャーなレコード会社の経営者たちはこれを快く思わず「悪しき流行が蔓延する」と感じR&Bに対し否定的なキャンペーンを始める。彼らはこれらで歌われた歌詞を「leer-ics(実際に多くの R&Bソングは叙情的で挑発的であった)」と呼び、「彼らのステージ内容が程度の低いものである」とコメントしていた。Stan Frebergは、やっとSh-Boomの歌詞を理解できた頃にパロディーを発表(この作品はR&Bソングであった)している。当時のR&Bナンバーの多くは、ポップスよりシンプルな傾向があったが、ポップ・ミュージック界でも黙っている訳ではなかった。Cole Porterは「Birds do it / Bees do it / Even educated fleas do it / Let's do it / Let's fall in love(鳥はしている/ミツバチもしている/おりこうな蚤だってする/さあ、しよう/恋をしよう)と「愛」について語ったが「セックス」については「微妙な表現」を用いる事しか出来なかった。しかしR&Bが若者に受け入れられるべき時はすでに来ていた。一連の「否定的キャンペーン」にもかかわらず、R&R・R&Bの発展は音楽業界に革命を起こした。Sh-boomは音楽歴史研究家らに「最初のロックン・ロール・レコード」と呼ばせるまでに敬意を持たれたのである。Sh-boomを歌ったグループThe Chordsはどこから来て、どのようにこの歌が書かれたのであろうか。The Chordsは、ストリート・グループひしめき合っていたサウスブロンクス(ニューヨーク)のモリサニア(Boston Road・Jennings Street)で1951年に結成された。Floyd McRae・William Edwards(ともにThe Keynotesのメンバー・Apolloに在籍したグループではない)・Jimmy Keyes(The Four Notesに在籍)の3人が結成したグループが母体となる。Jimmy Keyesは、Carl Feaster(ファースト・テナー)・Claude Feaster(Jimmy Keyesの兄弟・ともにThe Tunetoppersのメンバー)の2人を誘いThe Ketnotesを結成するが間もなくThe Chords(William Edwardsがかつて在籍したことのあるグループ名と同じである)に改名した。この時メンバーのほとんどは20代前半である。彼らは活動を続け、およそ2年間は何事も起こらなかった。後年、Floyd McRaeは「僕達にはバック・ミュージシャンが必要だと思ったんだ。それで誰かがピアニストのRupert Brankerか良いんじゃないかと誘ったんだ」と話している。The ChordsのSh-boomは1953年に書き始められた。Floyd McRaeは次のように語っている。「メンバーで話し合って作ったんだ。誰かが「boom」と言えば、誰かが「Hey, man, boom, how ya doin'」と返したり」。Jimmy Keyesは「Boomはスラングだったのさ。もし君が僕らの住んでいるこのあたりに5分間立っていたとしたら、きっと15回位、いやそれ以上もその言葉を聞いたはずさ。僕た達はそのBoomが爆弾を落としたときのように強烈に聞こえるようにとShhhhhh-Boom(冷戦に関わるこうした俗語が当時にあったとしても驚くべき事ではなかった)と歌ってみたのさ」と語っている。歌詞の背景は一体どこから来たのか、等と我々は通常あまり考えない。Jimmy Keyesは「"A langala langala lang"っていうのは近所にあった教会の鐘の音さ」。「Bipっていう路上で生活している叔父さんがるんだ。僕達が廊下で練習していると、それを聞こうと入ってくるんだ。彼がドアを開けるとすぐに彼の"匂い"がするんだ。"here comes Bip, a flip a dooba dip"はそんな意味かな」と話す。Floyd McRae は「鐘の音にも変化をつけて、"clang"とか"lang"とか、ともかく何でも付け足したよ」と語る。The Chordsは書き上げたSh-boomを最初にBobby Robinson(Red Robbin設立)のもとへ持ち込んだ。初めて会った時に彼は病気で寝ていのでこの歌をそこで歌った。彼はかなり高熱だったせいか、その程度では商売にならないと言ったという。1954年、グループはBobby Robinsonに紹介されたOscar Cohen(Joe Glaserの設立したAssociated Booking Corporation在社)のもとを訪れSh-boomを持ち込んだ。彼はグループと契約し、作品をAtlanticレコード(Jerry Wexler・Ahmet Ertegun設立)へ売り込む事に成功する。ちょうどこの頃、AtlanticはCross over the bridge(Patti Pageのポップス・ヒット)のカバーをリリースするためのグループを捜していたところであった。グループのお気に入りはThe Four FreshmanやThe Five Keysといったポップス畑に進出したグループであり、日頃からLet's fall in love・Sway・Blue moonといったポップス作品も十分に練習していたThe Chordsにとっても幸運であった。AtlanticはThe ChordsバージョンのCross over the bridgeを非常に気に入ったが、Sh-boomのようなグループのオリジナル作品には満足していなかった。実際、レコード会社がグループのオリジナル作品を取り上げないという事は稀であった。なぜならそういった作品は、会社に著作権をもたらし、何よりも(場合によっては)大金を作り出す物であったからである。1954年3月15日、The ChordsはAtlanticでCross over the bridge・Sh-boom・Hold me, never let me go・Little maidenの4曲をレコーディングした。この日、米国のすべてのメディアが取り上げたものはビキニ環礁で行われた15メガトンの水素爆弾実験であった。4月3日、AtlanticはCatレコードとの提携とThe Chords(ブルース・カルテットと紹介された)との契約を発表する。当時、南部ではR&Bは「cat music」として知られており、このレーベル名は実にピッタリであった。Cross over the bridgeはCatからリリース、オリジナル作品Sh-boomはB面の扱いで公表された。4月24日、両面「good」の評価で、Tears began to flow(The Spiders)・Adios my desert love(The Diablos)・Quiet please(The Charms)・Perfidia(Lorraine Ellis and The Crows)らとともに紹介された。Atlanticは当然ながらA面のヒットを期待していたが、約1カ月でセールスは下降した。この頃、Dick "Huggy Boy" Hugg(KRKD局のDJ・カリフォルニア)はシングル裏面に収録されたSh-boomに注目し、盛んにオンエアを重ねていた。やがてカリフォルニア一帯で人気を集め、シングルへの注文が殺到した。若者たちはAtlanticの推すCross over the bridgeではなく、Sh-boomに評価を与えたのである。抜け目のないAtlanticはこのヒットを知り、6月にSh-boom(B面はLittle maiden)をCatから同じ番号(Cat-104)で再発した。こうして Shboomは全米でビッグ・ヒットとなり、シングルの両サイドともAtlanticが著作権を所有した(この時シングルから Cross over the bridgeを差し替えたのは、すでに大ヒットすることがAtlanticには分かっていたからであった。なぜならレコードのどちらの面がヒットするかは重要ではくロイヤリティに関する限り両面は等しく扱われたからである)。The ChordsのメンバーはもちろんSh-boomに対しては相当の自信があり、ヒットすることを信じて疑わなかった。かつてBobby Robinsonがこの曲のレコーディングを拒否した時にもグループは怯まなかったし、Atlanticがそれを気に入らなかった時も同じであった。Sh-boomは、5月15日にフィラデルフィアで、5月22日にはニューヨークにおいて共にPick of the weekに選出され、続いてクリーブランド・セントルイス・ロサンゼルスでも大ヒットし、もうひとつのGee(The Crowsのヒット作)となった。Sh-boomはその後 R&Bチャート第2位に達して以降15週間(ビルボード誌のR&B年間トップ・セールスでも第15位となった)も売れ続けた。またポップス・チャート第5位を最高に16週もランク・インした。この曲は、当時ニューヨーク市長選に立候補していたRobert Wagnerのプロモーション・ソングとしても使われた。ビッグ・ヒットを手に入れたAtlanticが次に行ったのはSh-boomのカバー作品を出させるために、他社と取引をすることだった。Sh-boomは「金のなる大木」であった。可能な限り多くのキャッシュを生み出させるためにカバー・アーティストを捜した。というのもAtlanticレコードはこの当時、R&Bヒットを出せておらず、さらにポップス界での経験がほとんどなかったのである。またディストリビュータ(配給会社)との関係もほとんど持っていなかったという背景があった。当時のディストリビュータは、ヒット曲を一つ持てば新進の小さなレコード会社を潰す位はいとも簡単であった。彼らは2作目のヒットがあるかどうかを待ち、同時に1作目に対する支払いも待ったのである。レコード会社がレコード店やジューク・ボックス・オペレータを取扱わなかったのはディストリビュータの分野であったからである。レコードがヒット作品として認識されたとき、実際はどの消費者もたまたまそれを買ったのではなく、相当枚数がディストリビュータによって注文されたからであった。Sh-boomの最も成功したカバー・バージョンは、The Crew Cuts(Mercuryレコード在籍)である。皮肉にも、これはPatti PageがCross over the bridge をレコーディングしたレコード会社であった。The Crew Cutsのバージョンは、ポップ・チャートで20週間もランク・インし、彼らにとって唯一のナンバー・ワン・ヒット(9週間も第1位に座した)となった。The Billy Williams Quartet・Leon McAuliffe・Louis Williams・Bobby Williamson(カントリー版)・Stan Freberg(パロディ版)などが相次いでリリースされたが、なかでも最もばかしい版は、Your Hit Paradeにインディアン姿で登場したSnooky Lansenであろう。このようにSh-boomは多方面に影響を与えたほどのヒットであった。こののち"sh-boom" といった「擬音ヒット」が続出する。Oop shoop(The Queens・Big John and The Buzzards)・Zippity zum(The Chords)・Voo vee ah bee(The Platters)・Vadunt un vada song(The Ramblers)・Du-bi-a-bo(The Falcons)・Oobidee oobidee oo(The Harptones)・Bazoom, I need your lovin(Otis Williams and The Charms)・Chop chop boom(The Danderliers)・Shtiggy boom(Patty Ann and The Flames・Joe Houston with The Platters・The Bill Johnson Quartet・The Nuggets)・Ko ko mo(Gene and Eunice)・Do bop sha bam(The Spence Sisters)・Oochie pachie(Arthur Lee Maye and The Crowns)・Do-li-op(The Four Nights)・Boom magazeno vip vay(The Cashmeres)・Sha-ba-da-ba-doo(The Jac-O-Lacs・The Flairs)などである。これらすべての歌はThe ChordsとSh-boomに恐らくその存在を負っている。もちろん意味のない言葉で、Jing jing jingという1919年の作品までもがヒットするということも起こった。1964年7月初め、AtlanticはLou Krefetz(The Cloversのマネージャー)がThe Chordsをマネージメントすると発表。これはメンバーにとっても絶好の機会であった。しかし事はそれほどうまくいかなかった。The Cloversをも担当する素晴らしいマネージャーだとメンバーは思っていたが、彼はThe Chordsにほどんど時間を割かなかった。同7月、The Chordsは54年の新型DeSotoというリムジンでカリフォルニアをドライブした。なかでもロサンゼルスは非常に暑かったので、公営のプールでひとときを過ごす事にした。しかしこのプールで入場を拒否された彼らは、自分たちがThe Chordsであることを証明するためにSh-boomを歌わなければならなかったという。7月17日、Hollywood Shrineで開催された Gene Norman主催の「第5回ブルーズ記念祭(Fifth Annual Blues Jubilee)」にThe Clovers・The Robins・The Hollywood Flamesらとともに出演した。この公演は、ベーカーズフィールド・サンノゼ・ピスモビーチ・フレスノ・サリナスでも行われた。このツアーの後にハリウッドに戻り、Huggy Boy(KRKD局)のショーにゲスト出演した。彼らがカリフォルニアにいた頃、前途有望なローカル・グループと出会っている。Floyd McRaeは「The Plattersの面々が舞台裏にやって来て色々と話をしたんだ。僕達がサインをしたんだぜ、あのThe Plattersに」と話す。Rupert BrankerがThe Plattersと最初に出会った時の事である。そして約2年後にThe Plattersがバック・コーラスとして彼らに声をかけている。ニューヨークに戻った8月15日、グループ2回目のセッションを行う。Zippity zum・Hold me baby・Bless youの3曲で、すべてCarl Feasterがリードを担当した。同8月、The Chordsは大きな局面を迎える。Associated Bookingの努力で、メンバーはColgate Summer Comedy Hourへの出演が決定した。この番組は、Kaye Ballard・Ronnie Graham・Miss Universe(この年はスウェーデンのHillevi Rombin)・Peter Graves・Willie Maysといった蒼々たるコメディアンが名を連ねたテレビ・ショウである。番組はWNBT(チャンネル4)で8月15日午後8時から生放送された。The ChordsはSh-boomを歌うだけでなく、Willie Mays(Floyd McRaeはまだ歌詞をうろ覚えの状態だった)とともにSay Hey, Willieを歌った。Floyd McRaeは「僕達が本番に向けて局の前でリハーサルをしていたら、近所の連中は窓から水をぶっかけてくれたよ。この時ほどグループを誇りに思った時はないよ」と話す。彼はまた誇りを持ってこう話す「僕達はアメリカのテレビに登場した最初のロックン・ロール・グループなんだぜ」。The Chordsは確かに全米ネットワークのテレビに登場した最初のR&Bグループの1つであった。恐らく最も古いものはTiger Haynes and The Three Flamesが1949年に出演したNBCのサマー・ショウであると思われる。番組中でThe Chordsは、Sh-boomを歌う時に炭坑夫の衣装を着るように局側から要求された。「それに対して、他の衣装にしてくれなんて言えるような立場ではなかったんだ」とFloyd McRaeは話す。8月15日に収録したZippity zumは1954年9月にリリースされ、9月18日に「excellent」の評価を得た。これは評者が必ずしも「この作品がSh-boomより優れている」と思ったという事を意味しない。誌上で行われる評価は、レコード・バイヤーのためというより、むしろレコード卸売り業者・ジュークボックスの所有者・レコード店の経営者のためのものともいえた。それ故、単にアーティストが評価されただけでなく、それまでのパフォーマンス(売り上げも含んだ)に基づいて、彼らがどれだけの客(の金)をつかむ可能性があるのかが大きな要因に入れられた。同じ週にはThe real thing(The Spiders)・Give it up(The Hawks)・At last(Richard Berry and The Dreamers)・Eternal love(The Heralds)・The wind(The Diablos)・Love me(The Romeos)・Boot 'em up(The Du Droppers)・Native girl(The Native Boys)らが登場している。Zippity zumは10月9日にロサンゼルスでナンバーワン・ヒットに輝いた。1954年10月13日、A girl to love・Could it beをレコーディングするためにスタジオに戻った。この月の後半にロサンゼルスに戻り、CBSテレビのJuke Box Jury(Peter Potterがホスト)に出演した。このショウには、Sh-boomのパロディ・バージョンをリリースしたStan Frebergも登場している。彼の成功には、あらゆるジャンルの音楽をパロディー化するという優れた才能があったからである。この頃グループに衝撃が走る。同じThe Chordsという名前を持つグループが、すでに1953年8月にGemレーベル(Lillian Claiborne設立・ワシントン)からIn the woodsという作品をリリースしていた事実を知らされたのである。Gem側はThe Chords名の使用停止を訴えた。長期にわたる訴訟の結果Cat側は敗訴しグループは名前の変更を強いられた。Atlanticは彼らをThe Chordcatsと命名し、A girl to love(裏面はHold me baby)を11月にリリースした。11月初旬、The Chordcatsはカリフォルニアに戻り、ロサンゼルスのClub Oasisに出演する。続いてイングルウッド、ベンチュラのGreen Mill Ballroom、Riverside Ranch等で公演を行いロサンゼルスに戻った後、Percy Mayfieldとともにテキサス・オクラホマに向けて出発した。A girl to loveは12月18日にレビューに「good」の評価で登場し、Ling, ting, tong(The Charms)・Let me go lover(The Counts)・Hoo doo say(The Sly Fox)・For sentimental reasons(The Rivileers)・Rosalie(Johnny Torrence and The Jewels)らとともに取り上げられた。グループの次のセッションが1955年2月23日に行われLulu・Pretty wild・Love oh love・Heartbeatの4曲を収録する。しかし、Atlanticはすでにグループに対し興味を失っていた。レコードの売り上げも1954年に比べてずっと下降していたからである。グループがツアーを終えてもAtlanticとの契約更新の話しは1955年9月まで起こらなかった。Floyd McRaeによるとこの頃はアポロ劇場(ボストン・ワイルドウッド)やニュージャージーで公演を行ったと記憶している。The Chordcatsはあまり良いネーミングではなかったかもしれない。メンバー達もこの名前はあまり気に入らなかった。1955年9月、彼らはThe Sh-Boomsと改名した。マネージャールーであるLou Krefetzが常にThe Cloversにより多くの時間を費やしていた事からも、自己喪失になりかけていたグループにとって、この改名は何かをメンバーに与えたようであった。活動中にグループ名を変えることはある意味で大きな賭けでもあった。レビュー評者がグループ名が変わった事を知らなかったら、その曲は低い評価を受けるかもしれず、全米のいたる所にあるクラブやDJ達にも行き渡らないかもしれないからである。グループのCatでの最後のシングルはThe Sh-Booms名義で1955年10月にリリースされたCould it beである。10月29日に、Lee's dream(Shirley & Lee)・Speedo(The Cadillacs)・Emily(The Turks)・Tutti frutti(Little Richard)・Home on alcatraz(The Rolling Crew)・Please sing my blues tonight(The Orioles)・The way you dog me around(The Diablos)・My pretty baby(The Medallions)・This must be paradise(The Meadowlarks)らとともに評価を受けている。1956年春、グループはAtlanticを去った。Floyd McRaeは「Atlanticは僕達のために何もしてくれなかった。そこから離れる事がベストな選択だったんだ。Atlanticは最善の努力をしなかったのさ」と語っている。実際The Clovers・The Driftersといったスター・グループにはアレンジャー等のスタッフが大勢いたが、The Chordsは自分たちでその全てを行っていた。Atlanticを去り自身達自身で管理することに決めたグループは、マネージャのLou Krefetzとの契約も打ち切った。Atlantic退社から間もなく、Rupert BrankerはThe Plattersのピアニストとして参加するためにグループを抜け、Buddy McRae・William Edwardsもグループを去った。Floyd McRaeは数年をデトロイトで過ごす間、とあるグループ(彼自身はその名前を覚えていない)にシンガーとして参加し、レコーディング契約を得るためにニューヨークに向かったがこの夢は果たせなかった。10年ほど後にFloyd McRaeはデトロイトからニューヨークに戻り住んでいる。The Sh-Boomsには、Vernon "Arthur" Dicks(バリトン)・Joe "Ditto" Diasが加入する。Arthur Dicksは以前からFloyd McRaeとは顔見知りで、ナイトクラブで歌っていたシンガーであった。Joe DiasはDean Barlow(The Crickets・The Bachelorsのも在籍した)とともにThe Chords時代の代替メンバーとして活動したシンガーであった。The Chordsに参加したもう1人のシンガーにBobby Spencerがいる。彼はChubby's(カムデン・ニュージャージー)に出演した時に1週間だけClaude Feasterと交代に出演している。こうしてThe Sh-Boomsは、Carl Feaster(リード・テナー)・Jimmy Keyes(ファースト・テナー)Claude Feaster(バリトン)・Arthur Dicks(バリトン)Joe Dias(ベース)というメンバーとなった。1956年12月12日、The Sh-Boomsは1年契約(1957年1月15日~1958年1月14日)をColumbiaの子会社であるOkehと結んだ。しかし理由が何であれ、彼らがOkehスタジオでレコーディングすることはなかった。代わりに1957年8月22日、The Sh-BoomsはRCA傘下のVikレコードでI don't want to set the world on fire・Lulu・Don't be mad at my heartの収録を行っている。I don't want to set the world on fireは1957年9月にVikからリリースされ、9月30日にレビューに登場する。この週にはRock and cry(Clyde McPhatter)・Wait and see(Fats Domino)・My girl(Frankie Lymon)・You're gonna cry(The Spaniels)が評価されている。しかしVikで数曲をレコーディングした後、ついにグループは解散してしまう。1959年、Carl FeasterはLionel Thorpeという名前でRouletteレコードで6曲をソロ・シンガーとして、Jimmy Keyes・Dorian Burton・Wooten(Floyd McRaeによるとBurtonとWooten はThe Chordsに関係のある男達だったと記憶している)とともにレコ-ディングを行っている。Lover lover lover・More, more, more・She was love・Don't run away・Hanging around・My little angelがそれらの曲である。Lover lover loverが1959年3月にRouletteからリリース、She was loveは1960年1月にリリースされた。彼の芸名であるLionel ThorpeについてFloyd McRaeは「Lionel Thorpeという名前の事で何度もCarl Feasterをからかったものさ。でもあいつは何故そんな名前にしたのか一度だって話した事はなかったよ」と回顧する。1960年、The Chordsのオリジナルメンバー(Carl Feaster・Jimmy Keyes・Buddy McRae・Claude Feaster・William Edwards)の5人がAtlantic(Catレコードの親会社にあたる)でセッションのために再び集まり、5月26日にBlue moon・Short skirts・Make a wishをレコーディングした。この中からBlue moonが8月にThe Sh-Booms名義でリリースされ。60年代中頃、Jimmy KeyesはThe Popular Fiveというグループを結成する。メンバーはWarren Wilson(リード)・Jimmy Keyes(ファースト・テナー)・Jessie Huddleston(ファースト・テナー)・Arthur Dicks(バリトン)・Demetrius Clare(ベース)の5人。このグループは、Sh-boomをRae Coxレーベルや、Minit・Mister Chandからもリリースした。またセントラル・パーク(ニューヨーク)で開催されたShaefer Festivalに出演、さらにビールのCMへの出演にも契約した。Buddy McRaeは、50年代の終わりにデトロイトからニューヨークへ戻り、バーを開店している。Jimmy Keyesはブティックを経営。Claude Feasterはアパートなどの修理の請負人となった。Carl Feaster・Joe Dias・Arthur Dicksはまだ歌を続けていた。William Edwardsこれといった職につかずの毎日を過ごしていた。数年をかけ、Jimmy KeyesはThe Chordsを復活させようと奔走する。1979年、Carl Feaster・Buddy McRae・Jimmy Keyesの3人はGary Morrison(The Five Chimes・The Mellowsに在籍した)とともにUGHAショーに登場した。1980年、Carl Feaster・Jimmy Keyes・Arthur Dicks・Wes Nealのメンバーで活動を続けた。1996年にThe ChordsはUGHA Hall Of Fameに選出された。The Chordsのオリジナル・メンバーは、Buddy McRae以外は全員死去している。Carl Feasterは1980年に、Jimmy Keyesは1995年に亡くなっている。Rupert Brankerは1961年にロサンゼルスで強盗によって殺害された。彼はその時The Plattersに在籍中であった。William Edwardsは1964年に、Claude Feasterは70年代はじめに、Arthur Dicksは2001年に、Joe Diasは60年代にそれぞれ死去している。Sh-Boomがレコーディングされてから48年目にBuddy McRaeは新生The Chordsを結成した。彼はそこでもセカンド・テナーを受け持っている。他のメンバーは、Arthur Crier(ベース・ブロンクス出身のグループで活動を続けるベテランシンガー)・Brady Reeves(リード・テナー)・William “Butch” Harris(ファースト・テナー)・Jake Shankel(バリトン)で、Charles Ball・Jimmy Richardsonがバック・コーラスとして参加している(Brady Reeves・William Harris・Jake Shankelの3人は、数年の間Jimmy Keyesとともに歌っている)。