戦後間もない1948年、東北山形県の寒村(村山郡山元村)の新制中学校(山元中学校)に、山形師範学校を卒業したばかりの2
2歳の新任教師・無着成恭氏は、一年生43名のクラスの生徒が卒業するまでの3年間、山村での暮らしぶりをありのままに書か
せる「生活綴り方」を指導する。それは、『作文は文章をうまく書くためにあるんじゃない。自分たちの生活やおかれた環境の現実
をしかり見つめ、身の周りのことを包み隠さず書くことで、自分の考えをまとめる力と、何ごとも「なぜ』と考える力を養い、自分の生
活を少しでも進歩させるためにあるんだ』という教育信念だった。その子どもたちの作文をまとめた文集が『山びこ学校』(昭和26
年出版)というタイトルの書籍になり、ベストセラーとなった。無着成恭氏の指導は、戦後教育の歩みに大きな足跡を残した。
この文集をベースにして、八木保太郎が脚本にまとめ、今井正がメガホンを取り、木村功主演で、昭和27年映画化されたのが
映画『山びこ学校』である。私はVTRでこの映画を鑑賞した。
この寒村の村人たちは、生きるために必死に働かねばならず、生徒は家の仕事を手伝って欠席する者が多く、修学旅行に行け
ない者、身売りに出される者などもいた。そのような環境の中で、生徒たちを少しでも高めるために、奮闘する無着先生と生徒たち
やその家族の様々なエピソードを、カメラは丁寧に紹介し、重ねてゆく。
そのひとつに、江口江一の作文「笑わぬ母」がある。
江一の母の心臓病が重症になるが、医者に掛かることが出来ず、シャマニズムの加持祈祷をする。働けない母の仕事が江一に
のしかかって、学校へ行けなくなった。級友たちは協力して、江一の畑仕事を手伝う。そのことを江一が母に話すと、「もうなんにも
言えなくなっているお母さんが、ただ『にこにこっ』と笑う。
そのことを書いた江一の作文は、『今考えてみると、お母さんは心の底から笑ったときというのは一回もなかったのではないかと
思います。お母さんは、ほかの人と話しをしていても、なかなか笑わなかったのですが、笑ったとしても、それは『泣くかわりに笑った
のだ』と言うような気が今になってします。それが、この死ぬまぎわの笑い顔は、今までの笑い顔とちがうような気がして、頭にこび
りついているのです。ほんとうに心の底から笑ったことのない人、心の底から笑うことを知らなかった人、それは僕のお母さんです』
と、締めくくる。
この江口江一をはじめ級友みんなの作文を集めて、ガリ版刷りの文集『きかんしゃ』の第一号が級友みんなの協力で出来上が
る。その時、この寒村は冬の季節で、『雪がコンコンと降る。人間はその下で、暮らしているのです』という字幕スーパが映し出され
て、映画は終わる。
心の底から笑うことを知らない暮らしとは、私には想像できない貧困だが、この映画で描かれた寒村の人々の生活は、確かに貧
しさに苦しむ映像で溢れているけれど、子ども達の活き活きした目が活写していることに、大きな救いを感じる。
映像化するに当たって、様々な影響を考慮されたのだろうと思う。働いても働いても貧困から抜け出されない生活の悲惨な状況
を、あまりにもリアルに見せられると、観る側が滅入ってしまう可能性があり、映画興行としてマイナスと判断されたのかもしれな
い。だから、貧困の中でも、子ども達の無邪気な仕種や笑顔、純真な目の輝きを、要所要所に画面いっぱいにちりばめられたのか
もしれないが、貧困の中でも活き活きした子どもの目の輝きは、本当に希望の光を感じ、映画だけでなく実際に、無着先生は目を
輝かせるように、生徒を指導したように思う。それは、ネットで調べて知ったのだが、中学を卒業した江口江一のその後生き様から
感じた。
江一のこの作文が、山形県の作文コンクールに入賞し、さらに文部大臣賞を受賞し、映画化(この映画)されて、ファンレターが
殺到し、綴方の注文が降るよう来たが、江一はそれを一切断り続けた。中学卒業後、山元村森林組合に就き、仕事に専念する傍
ら、簿記、測量、鉄索など独学し、五つの国家試験資格を取得した。森林関係法規、製材、種苗、果樹栽培などの分野にまで勉強
した。しかし、昭和四十二年、江口氏は蜘蛛膜下出血で倒れ、三十一歳で亡くなる。環境に流されることも押しつぶされることも無
く、ましてや自分の境遇を周りのせいにすることもなく、自立して切り開くことを自分の責任ととらえ、その通りに忠実に生きた。彼の
人生に、無着先生の教育指導の影響が無かったとは言えないだろう。
無知と貧困そして偏見が充満した閉鎖的な寒村で、江口江一をはじめ生徒たちを、卑屈にさせず、利己主義にさせず、希望を
持たせる無着先生の教育指導には頭が下がる。自分の信じる教育信念を曲げぬ行動力の若さが、大きな教育成果をもたらした
のだと思う。教育仲間や生徒の家族や無着先生の家族から、無着先生の教育指導に対する問題点や非難が、映画の中でも少し
紹介されている。確かに強引な点や、無茶な点、もう少し視野を広げるべき点があったように感じたが、それを越える教育効果が
あった。隙も無く欠点も問題も無い教育指導などありえないだろうし、人間のすることだから、完璧なものを求めるべきではない。2
2歳の新任ではなく、例えば経験豊富の50歳代で、もし無着先生が着任して教育指導されたら、どうなったであろうかと想像する
と、また違ったみるべき成果を残されたであろうが、『山びこ学校』のような成功は無いように思う。
それは、若さが持つエネルギーや突き進みバイタリティーは、成熟すれば取り戻せない能力だと思うからである。若い力が総て
良いわけではないが、教育に限らず、何事にも若さは何物にも変えがたい可能性を秘めているのも事実である。その可能性が開
花した実例が、この『山びこ学校』のように感じた。もちろん、若い先生ばかりや同じタイプの先生ばかりでも駄目で、子ども達がさ
まざまな世代の様々なタイプの先生に囲まれてこそ、学校教育に大きな成果が期待できる。映画では紹介されなかったが、山びこ
学校の生徒達も、無着先生だけでなく、直接的あるいは間接的に、さまざなま教師の指導を受けていたに違いない。
個人のプライバシーが今ほど意識が高くなかった時代であったけれど、ずけずけと人の心に中に深く関わってゆけるのは、何も恐
れぬ若く無鉄砲な一面があったからできた点があると思う。もちろんそこには教師と生徒の強い信頼関係を築く大変な努力が実を
結んでいたから可能なことだ。人と人との関わり方が、現代社会よりもとても濃密だったことが、この映画を観て驚いた大きなひと
つだった。現代は人から干渉されることを、必要以上に嫌う傾向があり、また人に干渉することをなるべく控える社会風潮がある。
ある意味では人間が潔癖性になったのか、人との関わりが煩わしいだけなのか。プライバシーと秘守義務は堅持しなければいけな
いけれど、教育は人と人の関わりあうことから始まるのだから、ある程度深く踏み込むことは、教育には必要不可欠のように思う。
世の中が悪くなってきたと感じるようになったのは、いつからだろうか、はっきりした時点を指摘できないけれど、人間関係が希
薄になって来たことが、大きな要因のひとつだと思う。人間関係が煩わしく感じるのは、いつの時代も同じだろうが、その煩わしさを
越えて、人の為に汗や智恵を出すことを、昔は惜しまなかった。しかし、いつの頃からか、家の扉に鍵が不可欠なものになり、隣の
家に味噌や醤油を借りなくなり、心にまで鍵をするようになった。ずけずけとプライバシーを侵害されることに、私は強い抵抗を感じ
るが、向こう三軒両隣の近所付き合いにおいては、ある程度家庭の事情を分かり合えた時代の方が、今よりも世間は暖かく、暮ら
しやすかったように感じる。
無着先生の、暮らしぶりをありのままに書かせた「生活綴り方」は、プライバシー堅持等の点において、現代では不可能な指導
かもしれない。戦後間もない当時においても、問題が指摘される点は否めないだろう。しかし、教育成果が得られたことは、まぎれ
も無い事実である。教育のあり方について、無着成恭氏の『山びこ学校』の教育実践は、今日的にも、問題提議をしているように感
じた。そして映画『山びこ学校』は、映像でそのことを教えてくれたように思う。
2008/5/17脱稿
1952年度作品 原作:無着成恭 脚本:八木保太郎 監督:今井正
お薦め度 ★★★
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