本と映画の森 (書籍編) No.31

更新日:2015/2/15 

妹尾河童著『少年H』を読んで
2005/07/31




 夏が来た。

 朝顔が咲き、蝉が鳴き、入道雲が背伸びをし、稲妻が走り突然の夕立。

 広島、長崎、そして今年もまた8月15日が来る。迎え火、送り火、お盆、暑い夏だ。


 私は戦後生まれ。大阪万博の頃に青春時代を過ごした「戦争を知らない子供たち」の世代で、戦争を知らずに今日まで生きてきたが、日本の一番長い日であった8月15日は、特別な日だという意識は、私達の世代には残っている。


 父は大阪空襲の中を生き延びてきた。父の同窓、同僚の多くは戦場の露となった。母は満州から命からがら引き上げてきた。母の親と兄弟は日本の地を踏めなかった。父も母も、特に母は戦争体験をほとんど口にしないけれど、両親の背中は雄弁だ。


 中学時代、高校時代、夏休みになれば、課題図書として戦争文学を読まされた。いろいろ感じ、考えさせられることがあったけれど、桶狭間の戦いや戊辰戦争と同じような感覚で、太平洋戦争を理解していたように思い出される。しかし、織田信長、坂本竜馬などは、歴史上の人物として私の中で定着しているが、近衛文麿や東条英機や小磯国昭や鈴木貫太郎が、「歴史上の人物」となるには、まだまだ生臭く、いや簡単に「歴史上の人物」にしてはいけない葛藤が私にはある。しかし一方で、歴史として冷静な認識と評価を持たねばならぬ思いがあり、この自己矛盾の中に、私の太平洋戦争が位置している。


 結婚して子どもが生まれ、一人の親として、子どもとはどのような存在なのかということが、吾が子の成長を見つめながら、日々理解してきたように思う。父と母がどのような気持で私(子ども})を育ててきたのか、自分が人の親になって解ることがたくさんある。子どもを持って、いのちの尊さをしみじみ感じるようになった。そして、やっと私は戦争について、頭ではなく肌で理解し考えるようになったように思う。


 日本人にとって、太平洋戦争の風化は猛スピードで進んでいる。少なくとも、吾が子をみていると、そのように感じる。吾が子等は、修学旅行で広島の原爆ドームや、年配者から疎開体験の話を聞く教育指導を受けているが、ドラマやゲーム感覚のような印象で理解しているように感じる。戦争を理解するにも、一つひとつの言葉を頭だけでなく体で、知識だけでなく感覚でも分かり、積み重ねなければいけない。戦争についての教育は、時間が必要な難しい問題だけど、決して怠ってはいけないと思う。


 本著『少年H』は数年前に評判になったことは知っていたが、内容はまったく知らなかった。『少年H』が、中学生の娘の教科書に取り上げられ、夏休みの課題図書に推薦されていたことがきっかけで、マンガしか読まない娘に、もしかすれば活字の書籍にも目を向けてくれないかと、少し期待を込めて購入した。


 太平洋戦争直前の時代背景や主人公Hの行動について、娘から質問を受けたり、意見を求められたり、感想を聞かせてくれたりして、親子の会話に一つの話題を提供してくれた。しかし、数十ページ読み進んだところで、娘は挫折した。娘にとって小説(活字)は、漫画(絵)の魅力を凌駕できなかった。


 中学生にとっては、例えば「アカ」という言葉にも、説明を必要として、たった一頁の中に描かれている当時の雰囲気を理解するためには、その何倍もの言葉が必要だった。絵で表現する漫画では、例えば「アカ」についも、読者層を考慮した描き方がなされるようだ。漫画の過剰な親切が、日本の新しい文化として、世界から評価を受けている要因の一つかもしれない。


 それでも、私達の世代の人間は、分からないところは分からないまま読み進んで、いつの間にか、分からなかったことが、少しずつおぼろげながら分かってゆき、二度三度と読み返してゆくことで、理解を深めたものである。しかし、私の子どもは、そこまでの根気が無い。解かり難い小説よりも、漫画の方が、楽で面白くダイレクトである。現在は、そのような娯楽もので溢れている。


 娘の世代にとって、太平洋戦争は、「文永の役」「弘安の役」の元寇のような教科書で習う歴史に過ぎないのかもしれない。私の世代には、まだ生臭さが残っているが、上記したように歴史上の事件という感覚の部分があるのも事実である。考えてみれば、妹尾河童氏と四半世紀ほどの年齢差の私だが、35年も年齢差がある娘の感覚に近いものが、戦争を体験していない私達の世代に色濃くあるかもしれない。やっぱり、戦争は遠い過去になっている。


 娘との会話から、私の方が本著に興味を抱き、読みはじめると一気に読み終えた。

 神戸で生まれ育った著者・妹尾河童氏が、妹尾少年の目を通して、谷崎潤一郎『細雪』にも詳しく描かれた神戸の水害事件の頃から終戦後までの昭和史を、太平洋戦争を中心に、少年時代の経験、考えたことや疑問に感じたことを、等身大に書き込んでいる。少しずつ軍国主義に染まってゆく日本を、庶民はどのようにして生きてきたか、子ども達はどのような毎日を過ごしてきたかを、丁寧に、しかし書き過ぎず、一定の距離を保ちながらさらりと仕上がっていることに感心した。特に父親、母親、妹を冷静なタッチで過不足無く描いていることに、妹尾氏の作家としての力量を感じた。


 家族を守り支えることに汲々(きゅうきゅう)となり、時代の渦に呑み込まれてゆく大人よりも、情熱と好奇心で生きる子供たちの方が、ある種、健全であるという状況は、現代過去を問わず真理かも知れない。子どもの目は、鋭い文化批判である。大人は政治やプライドに縛られ、経験や知恵が逆に判断を迷わせ、明日が見えなくなっている。そんな大人の視点でなく、子どもの視点で戦争に巻き込まれてゆく民衆を、克明に描いたことが特筆すべき点だと思う。


 子どもは、大人よりもきちんと世の中を見ているのかもしれない。子どもと大人が共存している場が、学校である。先生は大人であり、世間一般の大人とは違った部分を持っており、子どもである生徒は、きっちりそれぞれの先生をきちんと見抜いている。


 本著の子ども達は、多くが元気で未来を生き抜く逞しさを備え、なかなか強(したた)かに学校生活をすごしている。一方先生は二種類に分かれ、威張っているか苦悩しているかで、多くが空(カラ)元気な印象を受ける。もちろん、教育者として自分の信ずる道を歪めない先生が存在し、子ども達から慕われている。特に戦時下の異常な社会雰囲気の中で、何が大切であるか、どのように生きるべきか信念を貫き、真摯に生きている人間を、子どもはきちん評価している。


 戦時下の貧しい学校での子どもと、平和で豊かな現在の学校の子どもを考えてみると、学校教育とは何かについて、いろいろと考えさせられる。そして、親の生き様も、いろいろ考えさせられた。人生は一度だけである。どのように時代が動いても、枕を高くして寝れる為には、心にやましいことが無いように、自分に正直に生きるために、勇気と努力を惜しまないことを教えられたように思う。言うは容易いが、難しいことである。大人になれば、段々難しくなってゆく。時代が進みにつれて、益々難しくなってゆくように思う。どうしてだろうか。


 最後に、妹尾氏は本著を子どもに読んで欲しい思いを込め、また昔の書籍には、多くの漢字にルビが振られていたように、ルビをふったと記されている。ならば、昔の書籍には挿絵がふんだんに挿入されていたのだから、妹尾氏はイラストレーターでもあるのだから、たくさん挿絵を挿入して欲しかった。


妹尾河童著『少年H(上下)』(講談社:1997年1月17日初版)


2005.7.31 住吉祭りの日に


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