中学生になった頃から、私は小説を読み始め、小説の面白さを知り、読書を楽しむようになりました。高校受験を控えた中学三年生(昭和44年)のとき、井上靖氏の『天平の甍』を読んで、「文学とは、このような作品を云うものか」と、今までに経験のない感慨に抱かれ、衝撃を受けました。小説『天平の甍』は、鑑真和上を日本に招致した物語として、一般には知られています。
鑑真和上は栄叡、普照、玄朗等入唐僧の熱心な要請により渡来を志し、5回の失敗と失明に見舞われ、十数年におよぶの苦難の末、753年に来日し、律宗を伝え、東大寺に戒壇を設け、日本の仏教界に大きな足跡を残した人物です。
小説『天平の甍』は、鑑真和上来日の課程を中心に描いていますが、受験を控えていた当時の私は、少し違った視点で読んでいました。大文明国である唐から、その進んだ文明を、如何にして日本に持ち帰えるかという命題に、登場人物である若き遣唐使僧、普照(ふしょう)、栄叡(ようえい)、戎融(かいゆう)、玄朗(げんろう)、そして唐で何年
も写経を続けている業行(ぎょうこう)の5名の苦悩と行動の物語として読み進み、もし自分がその命をうけたならどうするか、今の自分はどうなんだ、ということを何度も問われているような感覚に襲われました。
把握できない巨大な文明を目の当たりにして、勉学優秀であることが、どれほどの力になりえるのか、5名の入唐僧たちの苦悩は、当時の私にとって、受験勉強の自分自身への理由付けや、意味を考えさせられました。小説を自分自身の問題として、初めて読んだように思います。自分に問題意識が薄ければ、どのような作品に接しても、感動は膨らまないでしょうが、自分の生き様に問い掛け、考えさせられる作品こそが、小説の域を越えて、文学なんだろうと感じたように思い出されます。
今年(2003年)は、鑑真和上が来日して、1250周年にあたることに気付き、30数年ぶりに『天平の甍』を読み返してみました。中学生だった私は今、あの頃の瑞々しい感性をすり減らし、閉塞観に包まれた日本経済の中で、個人商店の店主として苦悩の毎日を過ごす疲れた中年男になっています。若い5名の入唐僧の、それぞれの生きる姿勢にたいして、共感する部分が確実に変わっていること。そして何よりも、登場人物全員が、時代や社会の価値観に流されない、しっかりした信念を持って生きていることに、強い衝撃を受けました。今日の生活を支える為に、毎日を駆けずり回って日々を過ごしている私には、いつのまにか、魂を何ものかに売り払っているのではないかと云うことを、気付かせられたような気がしました。もう一度、立ち止まって、静かに自分を見つめる時間を、一日にたとえ3分でも持たなければいけないように感じます。岩波新書や中公新書などの新書などは読みますが、ここ数年、小説らしい小説を長い間読んでいなかったことにも気付かされ、思い出したように、文豪達の短編小説を読み返し始めました。50ページ、100ページに人生の断片や一生を簡潔に描き出している作品に出合うと、自分の生き様を振り返り、考えさせられ、失ったものが何であるか、失ってはいけないものが何であるかなどを、ふと教えてくれるようなヒントを得るようなことがあります。良質の文学は、家族とも友人とも異なり、私にとって、いつまでも変わらぬ指針であり、かけがえのない師匠かもしれないことを、『天平の甍』によって気付かされたように思います。
2003.2.11
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