私考・本能寺の変 其の五
第5章 本能寺・結び 何故、『本能寺の変』が勃発したのか。その原因、つまり明智光秀が謀反を決断した動機について、私はここまで触れてこなかった。 最初に『本能寺の変』当日のこと、それから時間をさかのぼって織田信長の人生を振り返り、次に『本能寺の変』後から明智光秀の死まで綴(つづ)りながら、『本能寺の変』勃発の原因について、自分なりに整理し考察したいと思って、やっとここまで書き終えた。そして、今、平成25年(2013)9月23日現在感じていることは、織田信長という人物を、もっと詳しく知らなければ、真相真実は見えてこないと云うことだ。そして、何よりも明智光秀という人物を知らなければ、光秀の胸のうちに秘めていた謀反の動機はつかめない。 武将としての織田信長に関しての情報は、比較的容易に得られるが、政治家としての織田信長について、私は今もっと調べる必要性を強く感じる。それは、明智光秀や羽柴秀吉、松平家康についても同様である。 学校で学ぶ政治家・信長の政策として、@楽市楽座、A関所の廃止と街道の拡張整備、B指出検地の推進、C重要都市の直轄化、D仏教勢力の弾圧、E天皇、朝廷の問題などが挙げられる。それら各項目についての私の知識は、学生時代からあまり進んでいない。信長が施行した政治によって、当時の人々の生活は、どのような影響を受け、どのように変化したのか、変化は無かったのか。人々の暮らしぶりは忙(せわ)しくなくなったのか、逆に長閑(のどか)になったのか。豊かになったのか、貧しくなったのか、希望が持てる社会になったのか。閉塞感が広がったのか。人々の人間関係や人情は、どのように変わっていったのか。それほど影響は無かったのか。そして、人々は信長をどのように受け止めていたのか。当時の人々にとって、『本能寺の変』とは何だったのか。この人々とは、政治や経済に関わる人だけでなく、庶民を含む、総ての人間である。 江戸時代、家康は『神君』と祭り上げられ、秀吉は彼のサクセスストーリに庶民は酔いしれたが、信長は『仁』も『義』も『礼』も知らない酷薄無残(こくはくむざん)な男と儒学者に決め付けられ、狭量で思いやりがなく天性残忍で、『非業の死は自業自得』と朱子学者からも非難され、武士の間だけでなく庶民の中でも人気が無かったらしい。 文化が成熟した江戸時代が進み、軍記物(読み物)として、『川角太閤記』『川角太閤記』『信長記』『明智軍記』などの多くは、上記した信長の人間性に引きずられ、さまざまなエピソードが誇張され、逸話が創作されて、信長否定の裏返しのように、光秀の怨恨説の解釈が広がったように思われる。やがて、明治以降、良質の史料に基づいた実証主義史学の発達により、信長の捉え方が少しずつ変化してきた。 浅野内匠頭が吉良上野介に江戸城内で刃傷に及んだ動機は、さまざま考えられるが、直接のきっかけは、恥をかかされたことで腹を立てた感情的なことだと私は思う。さらに、上野介殺害に失敗していることから、感情を理性が抑えられなかった短絡的であったと思う。光秀が浅野内匠頭のような短慮な人物だったとは思えないが、『本能寺の変』後の経過を見る限り、周到な準備の形跡が見られないことから、計画的で理性的判断とは考え難く、まして天下統一して光秀ビジョンによる新しい国家統治実現を目指した第一歩とは夢にも考えられず、むしろ突発的な事件だったと思う。 光秀から冷静さを奪ったきっかけとなったのは、『本能寺の変』の十数日前、天正10年(1582)5月に、家康の饗応役を命じられた時、フロイスが『日本史』に記している安土城内での事件が重要なポイントだ思う。『これらの催し事(家康の饗応)の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(の意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめて、一度か二度、明智を足蹴りにしたということである。』 光秀が持ち出した『信長の勘にさわる話題』によって、信長から足蹴りにされた。『足蹴り』は屈辱的なことだ。これが動機とは思えないが、きっかけになった可能性を感じる。その話題の内容が、光秀が『本能寺の変』を起こす背景ではないかと私は推測する。その話題を推測することで、『本能寺の変』が勃発した光秀と信長の背景が何なのか、それを考えてみたい。 その前に、光秀と信長の関係について触れておきたい。 私考『本能寺の変』其の3 『第三章:本能寺・その前』で触れたが、天正4年(1576)5月石山本願寺・天王寺砦の争奪戦において、信長はわずかな手勢を自ら率いて光秀を救出した。『信長公記』には、『信長の生涯で、寡勢で大軍の中に斬り込んだのは、桶狭間の合戦と天王寺砦救出戦の二度だけである』と記している。信長にとって光秀は、自分の命を懸けて救出すべき人物だったことを窺(うかが)わせる。 また、『本能寺の変』が起こる丁度1年前、天正9年(1581)6月2日、明智光秀は家中軍法(『御霊神社文書』)を著した。光秀自身が定めた明智軍の規定である。全十八条から成り、知行高ごとの軍役の内容、兵糧・武具・果ては挨拶に至るまで詳細に定めている。その末尾に次の意味の文言がある。 『自分は石ころのような落ちぶれた身分であったのが、信長様にお引き立て頂き、莫大な兵を預けられる地位になった。その上は法度を糺(ただ)し、無駄を省き、一族家臣は子孫に至るまで主君(信長)のため粉骨を促すため、この軍法を定めるのである。』とある。これを見る限り、光秀は主君・信長を畏敬していた、という様子がうかがえる。 歴史学者・谷口克弘氏によれば、光秀の信長不信を暗示する一次史料は、見当たらないとのことである。しかし、謀反を起こす直前になって、にわかに不信感に陥った、という可能性も否定できないと、付け加えている。すくなくとも、1年前までは、主従として、二人の関係は良好で、少なくとも謀反を起こすような険悪な関係は一切窺えなかったようである。 次に、光秀の出自や経歴について、触れておきたい。 光秀は、先祖はもちろんのこと、その半生には謎の点が実に多い人物である。関連する一次資料が極端に少ないために、信憑性に疑問を残す二次資料で追わざるを得ない。だから、疑問点が多数存在事実を考慮すべきである。 明智家は、美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族である。土岐氏は清和源氏の末裔であり、美濃国に勢力を築いた。南北朝以降は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられている。少なくとも土岐氏の支族である明智氏が、室町幕府に仕えていたことは事実である。しかし、その明智氏が光秀である確証は無い。幕府外様衆の系譜を引く明智氏ではなく、まったくの傍系の明智氏である可能性や、土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。光秀が本当に土岐氏の系譜を引いているのか、未だに疑問が多い。それゆえに、父の名前さえ系図によって異なっているのである。 光秀が、史上に登場するのは、永禄12年(1569)1月のことであり(『信長公記』)、信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年に当たる。それ以前については、後世の編纂物等によって、ようやく動向をうかがうことができる程度である。しかし、それについても不確か点が多い。 光秀の父について、諸説あって定まらない。現在、知られている系図類では、光綱(『明智系図:系図纂要』)とするもの、光隆(『明智系図:続郡書類従』)とするもの、光國(『土岐系図』)とするものの3名に分かれて一致しない。 父が定かでないことから、光秀の年齢についても同様で定まらない。『明智軍記』や明智氏の系図類に基づき、多少のばらつきがあるものの、天正10年の山崎合戦で55歳から57歳の間で亡くなったと考えられていた。しかし、『当代記』に基づき67歳で亡くなった可能性が極めて高いことが、最近の研究によって支持されている。『本能寺の変』当時、高齢であったことは、謀反に踏み切った動機を推測するとき、大きな意味を持つ。しかも光秀の嫡男・明智十五郎(光慶)は、わずか13歳であった。信長が49歳、7年前に家督を譲った信忠は26歳である。 信長に仕えて以降の光秀は、無名のところから這い上がりに必死であったと思う。信長は能力主義であり、名門の出自であるか否かは、それほど考慮しなかった。信長の重臣の多くは、無名の立場から這い上がった者が大半であった。したがって、光秀が名門土岐氏の支族である明智氏の出身であると安易な結論は、危険であると思う。 また、光秀が将軍・足利義輝や、足利義昭に仕えていたという説や、朝倉氏に仕えていたという説があるが、それぞれの可能性は極めて低いようである。信長が美濃国の斎藤氏を滅ぼしたのは、永禄10年(1567)である。この段階で、光秀は美濃にあったと考える方が自然であり、おそらく光秀は、美濃斎藤氏の配下であったのではないかと考えられる。斎藤氏滅亡後、光秀は何らかの形で信長によって、取り立てられた可能性が高く、斎藤氏配下の西美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)と同じである。『石ころ』のような存在であったが、信長によって見出され、信長配下に加わり、次第に頭角を現し、多くの成果を重ね、実力を発揮したのである。 フロイスによる光秀は、『裏切りや密会を好み、刑を科すに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目なく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた』と厳しい評価である。フロイスは信長に保護され布教を拡大してきたのだから、この光秀評は、彼の末路も承知した上で、悪意をこめて批評していると考えられ、このような表現になっている。だが、そのような偏見を考慮して読み直してみると、冷静沈着で教養溢れた後世の人々が漠然と想像している光秀像とは違って、有能でしたたかな一癖ありそうな戦国人としての光秀像が浮かんでくる。 さて、話を戻して、家康の饗応役命じられたとき、光秀が持ち出し、信長から足蹴りされた話題について推測したい。 それは、光秀が信長に四国問題を話題にしたのではないかと、推測する歴史学者が多い。 四国問題とは、天正3年(1575年)7月土佐を統一した長曾我部元親は、四国全土の制覇を狙って三好勢が押さえる阿波(徳島県)への侵攻を開始し、これに先立って信長との同盟を結んだ。この信長と長曾我部元親の間に入って取次ぎ仲介を果たしていたのが、光秀だった。元親の正室は幕府奉公衆の石谷光政の娘である。男子のない光政は、美濃の斎藤伊豆守の長男を養子にしていた。その伊豆守の二男が斎藤利三である。斎藤利三は光秀の家臣なのである。だから、光秀は家臣・斎藤利三を通して長曾我部元親とパイプを持って、少なくとも天正3年10月から天正8年暮れまで、信長の四国政策に深く関わっていた。 そもそも四国の三好勢というのは、将軍足利義輝を討った三好三人衆で、足利義輝の弟・義昭を将軍に担いだ信長とは敵対関係にあった。三好という共通の敵のため信長と元親の両者は、同盟が成立し、天正9年(1581:本能寺の変が起こる前年)までに、元親は阿波・讃岐・伊予に勢力を伸ばし、三好勢を追い詰めていた。ところが天正3年4月に信長に服属した三好一族の三好康長が、四国の三好勢力を影響下に置くようになったことで、信長は長曾我部と三好の対立を図ろうとした。 信長の四国対策の転換は、光秀にとって相当な打撃だった。長曾我部元親にとって見れば、四国さえ安堵されれば、それ以上は望まない。信長の下で四ヵ国を知行し、九州攻めの先鋒を務めるなどの働きをして、日本統一が叶(かな)ったなら、大大名として家を存続させてゆく。光秀との交渉も、このようなことを前提として行われたと思われる。 ところが、信長と元親の間に三好氏が割り込んでくることによって、信長の四国対策が大きく変わってしまった。光秀はあくまでも信長の家臣の立場で、土佐と阿波半国という信長の裁定を元親に呑ませるしかない。苦境に立たされた光秀に、強い影響を及ぼしたと思われるのが、老臣の斎藤利三である。稲葉一鉄のもとから光秀に転任した利三が、光秀の対長曾我部外交に大いに力になってきたものと推測される。四国対策転換に直面して利三は、元親の縁者だけに、光秀以上に信長の変節に批判的だったはずである。しかし長年信長のもとで活躍してきただけに、信長の違約は戦国の習いと冷静に受け止め、兄・石谷を通して元親の譲歩をひたすら説得したに違いない。 しかし光秀・利三が歯軋りする事態が段階を追って進んでくる。まず、元親の説得中にもかかわらず、秀吉の黒田・仙石たちの軍を、阿波の三好に露骨に応援軍として送ったことである。信長の命令とはいえ、本来四国担当の光秀を無視して兵を送る秀吉に、光秀が良い感情を持つはずが無い。それに加えて光秀には、長年四国を担当し、しかも今手すき状態にいる自分を、なぜ信長は担当にしないのか。光秀は悶々とした気分だったに違いない。ついに、信長と元親とは、完全に手切れ状態になった。だが、信長はすぐに四国討伐軍を派遣する余裕は無かった。東方の武田氏討伐の機会が訪れたからである。 信長はとりあえず、三好一族の長老で河内半国に封じている三好康長を阿波に出陣させ、長曾我部軍を支えさせた。そして、武田攻めを起こした。光秀は、その武田攻めの方に動員された。 光秀・利三に更に追い討ちをかけたのは、5月に決定された四国討伐の陣容であった。織田政権が本腰を入れて四国討伐に乗り出すという政策そのものだったかもしれない。光秀にはまだ、元親を説得することによって事態を打開する希望を捨てていなかったかもしれない。総大将は信長の息子・信孝が1万4千という大軍を率いる。三好康長が養父の立場で信孝を補佐する。讃岐・阿波・伊予のみならず土佐さえも長曾我部から奪い取るというプランである。もはや、長曾我部氏の滅亡はここに決定した、といっても過言ではない。 光秀は長曾我部氏を救うことを断念せざるをえなかった。長年取次役を務めて、こうした事態になったことは、面目を潰されたことになる。それ以上に光秀は、自分の危機を感じざるをえなかった。それは2年前(天正8年8月)、明確な根拠無く、織田家長老の佐久間信盛・林秀貞が追放されたように、自分も無用の長物として追放されるのではないか、という危機感である。 このような危機感は、いくつかあった。例えば、光秀の家臣・斎藤利三の助命問題の件である。天正10年、那波直治が稲葉家を離れて光秀に仕官した。怒った稲葉一鉄は、信長にこの件を訴ええたのである。光秀は以前にも稲葉家から斎藤利三を引き抜いており、これで二度目であった。訴えを聞いた信長は光秀に命じて、直治を稲葉家に返還させ、利三には自害を命じた。しかし、このときは信長配下の猪子高就のとりなしで、利三は助命され光秀に仕えることになったのである。しかし、信長は光秀が法に背いたことに怒り、光秀を呼び出して頭を二、三度叩いた。 信長の家臣等に対する扱いは、戦功を積み重ねても、謀反の心をもたなくても、信長の心ひとつでいつ失脚するか抹殺されるか解らない不安な状態に、家臣たちは置かれていった。一門でも譜代でない家臣にはより強い不安感が募った。独断専行的で、合議の仕組みもなく、弁明・弁護の場も与えられず、家臣に連帯感がなく孤立的で、信長への絶対服従で成り立っている体制が、家臣の将来への不安感を強めていたのは、容易に想像できる。信長の暴力的な性格や粗暴さが、光秀のように信長から信頼されていても、当人にとっては耐え難い恐怖であったに違いない。 天正10年(1582)3月、武田氏滅亡に追い込んだに天目山の合戦で功績を残した滝川一益は、上野一国と信濃2郡を拝領され、同時に東国取次ぎを命じられたが、今までの領国である北伊勢の長島城を始め北伊勢5群の領を召し上げられた。当時58歳の高齢である一益が、領地よりも茶器(安土名物とも呼ばれた「珠光小茄子」)を所望したが叶わなかったことを悔しがったという。新しい領土を管理運営することは、高齢になれば、負担は大きいものである。光秀自身丹波経営に苦労したが、これから先どこに飛ばされるか分からないという不安を抱いていた可能性は否定できない。 本能寺の変は、陰謀説から光秀の単独犯行を疑う説など、さまざまな指摘があるが、結果として、誰も光秀の支援に動かなかったことや、どこまで周到に準備された計画であったかは疑問である。だが、確かに信長を倒したいと考えていた人間は多かっただろうし、さまざまな状況証拠から、何らかのクーデター的な背景があったと考えることは可能だろう。 しかし、少し別の視点から言えば、本能寺の変は、単に義昭ら旧勢力の抵抗というよりも、なぜ信長を絶対者として仰がなければならないのかという、武家内部からの根本的な疑問として見ることも出来る。それまでの室町的な、横並びの原理に基づいた世界から見れば、極端なピラミッド型の権力構造を築こうとする信長の路線は余りにも異質である、同じ武家の間から、それ自体に強い違和感が生じるのは当然である。結局のところ、信長が統合しようとしていた武士階級自体が、権力の過度の集中を避けようとする拒否反応を示したといえるかもしれない。 信長側の問題として考えても、やはりその専制的な性格に問題がある。信長は人の言うことをまったく聞かない。特に家臣に意見されることを極度に嫌った。これは桶狭間の戦いのときからずっとそうなのだから、ある意味で態度が一貫しているとも言える。コミュニケーションがないから、人の不満に気付くのが遅れる。浅井長政のときも、荒木村重のときも、予期せぬ相手がすぐ身近で反旗を翻す結果になってしまう。光秀についても、信長自身は信頼を寄せ、評価もしていたつもりだったが、それでも、いざとなるまで光秀の心の変化に気付くことが出来なかった。これだけ味方から欺かれ続けた信長は、自滅は避けられなかったのは、ある意味自然なことだったのかもしれない。 この極端なまでに信長個人に権力を集中しようとする独裁体質は、その枠組みが他の大名などに拒否反応をもたらしたというだけでなく、信長権力の内部でも無理が生じていた。信長はおよそ政権といえるだけの組織を何も作ろうとしておらず、職制が決まっているのは京都所司代に任じられた村井貞勝くらいで、副官も奉行も何も置かず、すべてを信長が決裁する体制を続けていた。晩年の信長は、織田家家臣団の筆頭格であった佐久間信盛以下の老臣を追放してしまうなど、専制的な性格を更に強めた。 地方を統治する体制にも問題を感じる。各地を征服すると旧来の領主を登用せず、直臣を方面軍として配置して支配を委任し、最終的な権限は信長が持つという支配方法を採った。その結果、信長軍は各地に分散し、中央の信長周辺には軍事力が無くなってしまうことになり、それが本能寺の変を可能にしたひとつの背景ともなった。 以上、『本能寺の変』勃発の背景を述べてきた。動機の決定打ではないが、根本的な原因は、将来に対する不安だと思う。光秀は67歳と高齢であり、嫡男・明智十五郎(光慶)は、元服をしたとはいえ、まだわずか13歳である。今のまま生涯を亀岡城か坂本城で安住できる保証はまったく無い。3ヶ月前、天目山の合戦後(天正10年3月:武田氏を滅亡させた戦い)滝川一益は58歳で領国を自出の伊勢国から上野国へ国替えをされた。 光秀にも国替えの不安があった。 『明智軍記』によると、信長本陣の先陣として、備中高松城を水攻めしている秀吉を応援に行く命令を受けた後、出陣の準備のために居城に戻った光秀のところに(5月17日から26日の期間だと推測される)、信長からの使いとして青山与三が訪れ、『出雲国・石見国の二カ国を与える。その代わり、丹後国と近江国の志賀郡は召し上げる』という信長の命令を伝えたという記述がある。このことは、『明智軍記』にしかみえないことなので、事実であるか否かは慎重でなければならないが、ありえないことではないかもしれない。と、歴史学者・大和田哲男氏は指摘する。 さらに、『川角太閤記』によると、信長の命令は『日向(光秀)事、但馬より因幡へ入り、彼の国より毛利輝元分国伯耆国(ほうきこく)・出雲国へ成る程乱入すべきものなり』とあったという。このとき光秀に命じられたのが、秀吉の応援に行くことだったのか、毛利本隊が備中に集中している隙に、毛利領国の伯耆国・出雲国を狙うものだったのである。つまり、毛利氏の後方撹乱が光秀の任務であった可能性も、付け加えている。 『明智軍記』も『川角太閤記』も軍記(読み物)であり、これらが書かれたのは、本能寺の変後40年、120年も経過したものであるので、考慮なければならない。しかし、光秀に国替えの可能性があったことは事実だろう。それは光秀に限ったことではなく、秀吉も状況は変わらない。秀吉は『筑前守』を任じられ、中国攻略後、九州攻めが予定され、九州平定後に筑前国に国替えの可能性も考えられないことは無い。 光秀の将来に対する不安に、話を戻そう。 佐久間信盛に至っては、言われなきことで追放されている。信盛の追放に対して、織田家の家臣団は光秀自身自分も含め、誰も信長に抗議しなかった。信長にとって、利用価値を失った家臣、扱い難くなった家臣は、過去の功績や実績にかかわらず追放される不安を持っていた。光秀亡き後、明智一族(嫡男、家臣)の行く末を思ったときの不安は、信長への恐怖に行き着く。信長が目指す天下統一の実現後も、我々家臣はどこまで走らなければならないのか。この不安は、信長殺害に踏み込むまで、光秀を追い詰めたと単純に考え難いが、謀反の土壌には違いない。そして、この不安感は、光秀だけの個人的なものでなく、信長家臣団の多くに共通するものだろう思う。信長が本能寺で横死した連絡が入った安土城内で、弔い合戦の準備を家臣たちの誰もしなかった現実が、信長という人物を如実に表していると思う。織田信長という人物は、自分が目指す『新しい国のかたち』を何ひとつ示すことなく、ただ自分の野望を満たすために、天下統一の合戦を繰り返しているだけと、信長以外の人々の目には、映っていたのかもしれない。長期政権の実現に動きだす信長に対して、いざという時のために、自分の生きる残る道を確保するために、虎視眈々と機会が訪れるのを待っていたのは、光秀だけでは無い。秀吉や家康など武将だけでなく、義昭や朝廷などさまざま存在していたに違いない。それが当時の社会風潮だったと思われる。歴史的視点に立てば、その織田信長という強烈な人物に、光秀がストップを掛けたことになる。信長は大陸への出兵を考えていたという説もある。宣教師ルイス・フロイスは、信長について『一大艦隊を編成して中国を征服し、諸国をその子達に分け与へんと計画』(『日本史』)していたと書いているが、これが事実だとすれば、秀吉の愚行の先取りである。あれ以上長生きすれば、傍迷惑(はためいわく)で無茶苦茶な老人になっていたかもしれない。 後書 自分なりに、本能寺の変について、頭を整理しておこうと、数年前から考えていた。昨年(2012年)秋に数冊の関係する本を読み、漠然といくつかの疑問点が解消された気になった。今年のGWに、渡邊大門著『信長政権—本能寺の変にその正体を見る--』(河出ブックス056:2013/4/20)を読んだとき、私の中の織田信長像が一変した。それまで、どちらかと言えば、信長よりも明智光秀に関心が強かったが、心の振り子が一気に光秀から信長に大きく傾いた。そして、私の中の新しい信長像による『本能寺の変』を考え直してみたくなった。これが、この『私考・本能寺の変』(全7章)を書くきっかけである。 今夏(2013年)、図書館で『本能寺の変』に関する書籍を借り、読み耽り、興味深い考察箇所をいくつも書き写して続けた。一冊また一冊と読み進むごとに、納得と疑問が湧き、それを確認追求するために、また新たな一冊を手にする。すると、新たな視点を得たり、更に疑問が湧きあがり、また新しい書籍を読み始める。以前のものをもう一度読み返して、見落としていたことに気付かされたりした。このような繰り返しを重ねた。今尚、関心は治まっていない。しかし、ひとつの区切りとして、この『私考・本能寺の変』(全7章)を書くことにした。平成25年9月時点での、私が考える本能寺の変が、この『私考・本能寺の変』(全7章)である。まだまだ書き足らないことがたくさんあるが、ひとまず、ここで稿を閉じることにする。皆さんの『本能寺の変』の考察は、如何でしょうか。 『私考・本能寺の変:其の7』の末尾に、参考にした文献の一部を並べた。その総て書籍が力作であり労作である。そして、『私考・本能寺の変』の多くの文章は、それらから引用させてもらった。 私考『本能寺の変』其の6 『本能寺の変信長、光秀の年賦』や 私考『本能寺の変』其の7 『経過日表、関係者年齢』を参照下さい。 |