本と映画の森 (書籍編) No.34

更新日:2015/5/19 

伊藤恭彦著 『さもしい人間・正義をさがす哲学』
2015/05/19




 1985年(昭和60年)9月、プラザ合意以降、財政再建の切札として、1987年(昭和62年)2月NTT株の国から放出売出した。これが弾みになり、バブル経済に拍車が掛った。1989年(平成元年)11月10日、ベルリンの壁が破壊された。その年(1989年)の大納会(12月29日)には、日経平均株価は38915円87銭まで株価は上昇したが、年明け(1990年1月)突然暴落に転じ、翌年1991年2月、51ヶ月間続いたバブル経済が崩壊した。

 バブル景気と云われた時期(1986年12月から1991年2月)、まるで狂乱景気のごとく、総ての国民が好景気に浮かれていたように思われがちだが、不動産や金融関係等に手を出して『濡れ手に粟』の『あぶく銭』を手にしたのは、一部の人々に限られ、多くの人々は本業に追われ、一時的に収入が少し増え、その期間生活に余裕が生じた程度で、総ての国民が莫大な資産を得たわけではない。


 バブル景気を演出し煽ったのは、為政者と企業人とマスコミ等であった。バブル景気が永遠に続くことなどあり得ないことは、誰でも理解しているにもかかわらず、株に手を出したことのない人々が、NTT株で思わぬ『あぶく銭』を現実に経験したことで、冷静さを失い、金銭感覚を麻痺させ、額に汗して働いて生きてきた日本人の心にまで、微妙な変化をもたらした。


 わずか4年余りのバブル景気のツケが、バブル崩壊後、今なお続いている。失われた10年とも、失われた20年ともいわれ、リーマンショックで腰折れ、今もデフレスパラルから脱出できずにいる。ワーキングプアー、ブラック企業、年金危機等、日本は苦しい経済に陥っている。日本を支えてきたさまざまな仕組みや制度の疲労や問題点が、次々に顕在化した。確かに制度の疲労や問題点は改善の必要を認めるが、むしろ制度を運営している人間の怠慢や驕りなど、人間の劣化にこそ、深刻な原因があるのではないかと、私は考えている。日本人が築いてきた文化や伝統、魂まで影響を引きずっている。


 約4年の大東亜戦争(満州事変からだと15年)で日本国土が焼土化し敗戦。その19年後に東京オリンピック、25年後に大阪万国博を開催し、見事に復興に成功した。バブル崩壊後、24年の歳月が経過しても、まだ経済は低迷し閉塞感から脱却できないでいる。敗戦後と比較して、現在の為政者の能力に強い問題を感じる。しかし、為政者だけに責任を求めるのは酷で、我々国民全体が劣化したのではないかと考えるべきだろう。生き物は飢えには強いが飽食には脆(もろ)いように、バブル景気の過剰な繁栄によって、衣食滞り礼節ゆらぎ、日本人の気質が『さもしさ』に傾き、『さもしい人間』だと警告を鳴らし、『さもしさ』から抜け出す『正義』についての哲学的解釈を紹介したのが、伊藤恭彦著『さもしい人間:正義をさがす哲学』だと、『さもしい人間』というタイトルから私は自分勝手に思い込んで購入した。


 しかし、伊藤恭彦著『さもしい人間:正義をさがす哲学』は、私が想像していたもとは、まったく違った。


 捉える規模が、地球全体である。

 地球規模で、現代人が『さもしい人間』に陥る構造的な仕組みであることを解き、この『さもしさ』を我々は克服できないのか? 『さもしさ』を克服する『正義』を現実のものにできないのか?という政治哲学の問題に、伊藤恭彦氏が、本人いわく、あえて『青臭い議論』に挑んだという作品である。


 『さもしい』とは、一般的には欲深くいやしい態度が表れている様子を言う。特に、豊かな生活をしていながら、他の人を差し置いて貪欲に自分の利益だけを追求すること、あるいは他の人を犠牲にして利益を得ている場合が、『さもしい』状態である。


 日頃、私たちは自分のことを『さもしい』とは思っていない。多くの人々は、自分の発言や行動に注意を払いながら、自分の欲求を実現し、より快適な生活を目指して努力をしている。しかし、伊藤氏は、ごく普通の日常生活に潜む『さもしさ』を指摘することから、本書が始まる。


 私たちは生活防衛のために、激安弁当や安価なコーヒーを飲食し、リーズナブルな居酒屋等を利用する。同業との激しい競争に勝ち残るために、『お店』は商品やサービスを安価に抑える努力をしている。その努力の中身について、ちょっと思いを馳せてみると、従業員の労働環境をはじめ、仕入単価の抑制など様々なことが挙げられる。


 激安商品には、日本国内外、特に途上国の人々など、相対的に弱い立場にある人にしわ寄せをもたらしている。生活防衛のために激安弁当で昼食をすませる人々の生活も苦しいが、さらに弱い立場にある人に犠牲を強いる。このように捉えると、激安弁当を喜ぶのは『さもしい』ことに見えてくると、伊藤氏は指摘する。


 特にリーマンショック以降、富裕国や大手金融機関は、投資先を株から資源や食糧に切り替え、穀物の大量購入のために、穀物市場に大量の投機マネーが流入し、穀物価格を押し上げた。穀物価格の上昇は投機マネーだけでなく、途上国の需要拡大も要因だが、一般消費者への打撃は大きい。穀物価格の急騰によって、途上国、特に貧困国では栄養失調者、飢餓人口が増大した。私たちの年金の運営やささやかな財テクが、回り回って世界の穀物価格を押し上げて、貧困国の食糧事情にダメージを与えている。


 児童労働で生産されたコーヒー豆は、ブローカー、加工業者、輸出業者、輸入商社、卸問屋、国内メーカー、国内流通業者など複雑な経路をたどって私たちの手元にやってくる。コーヒーの出発点にある児童労働という悪が、この複雑な経路をたどることで、道徳的に浄化されていく。まるで、違法に集めた金を普通に使えるように『浄化』する行為を『マネーロンダリング』というように、私たちは道徳的に無害な商品としてコーヒーを楽しむことができる。このように、ごく普通の日常生活の中に、『さもしさ』が潜んでおり、地球全体の視点からは、このような『さもしい』行為も、個人の選択レベルに落とし込むと、『さもしい』とは言えなくなり、後ろめたさや罪意識を持たせない社会的構造になっていると、伊藤氏は指摘する。


 『さもしい』とは倫理的に言えば、不正な人間関係を意味している。不正だと言う理由は、自分の「分」を超えて何かを得ようするからである。一人ひとりが『分』を超えて欲望を追求すると、すごく不公平な人間関係が出来上がる。これを押さえ込むためには、一人ひとりの『分』を確定する基準が必要だが、この基準を確定できるほど、私たちの社会は単純ではない。各人の『分』を決める単純な基準は、自由な選択行動と自己責任であるが、この自己責任の範囲と程度を厳密に確定する事は難しい。


 私たちの欲望は市場を通して実現され、欲望追求の自由は市場社会だからこそ実現できた価値である。一人ひとりが自らの欲望を追求する結果、知らず知らずのうちに公益が実現される。さらに各人の努力や能力に見合った報酬を市場は与えてくれる。努力して能力を磨き、チャレンジした人にはそれなりの対価があり、逆に、怠惰に浸っている人には報酬が与えられない。だから、市場は複雑になった社会に各人にふさわしい『分』を決めるメカニズムでもある。市場こそが正義を実現する仕組みであり、市場社会は本当によくできた社会であると、市場原理主義者や自由至上主義者は言う。


 果たして、そう言い切れるのかと、伊藤氏は疑問を提示する。市場で『分』が決まってゆくプロセスは競争である。市場社会は競争社会でもあり、私たちの『分』の大部分は競争によって決まってしまう。市場社会がスポーツのように、総てがフェアに競争し、公平な判定が下されるならば、その結果に不満を持つ人少ない。


 しかし、スポーツの競争と市場社会の競争は、根本的に異なっている。

 スポーツは自由参加であるが、市場社会は不参加があり得ない競争である。そして、なによりも、総てが同じスタートラインから始める公平さが、市場社会ではありえない。


 経済学者フランク・ナイト氏は『市場競争では運が非常に大きな要素を占め、累積的に作用し、さらにハンディは弱者に割り振られる』と述べ、だから市場競争は必ず不公平をもたらすだけでなく、敗者の程度を決めるルールが市場になく、競争の敗者には、生きてゆけないほどの『分』しか与えられないこともあり、市場競争は死に至る競争でもある。


 不平等(格差ともいわれる)の発生は必然と捉えたうえで、問題を含んでいない不平等とは何か、別の言い方をすれば、許される不平等とは何か。不平等と格差を検討するときに中心に捉えられなければならない問いだ。


 ジョン・ローズは現代社会にふさわしい正義について@基本的な自由を全員に保障すること。A機会(ライフチャンス)の実質的平等を図ること。Bそれでも残る不平等は社会の最も不利な利益になること。の3点を指摘している。


 不平等はあってもよいが、社会で最も不遇な人々の状況改善に役立たなければならない。視点を不平等の底辺にいる人々に定めなければならない。もし、不平等の底辺にいる人々が過酷な状態に放置されているならば、その不平等は問題であり、困窮状態を固定化しない対策が必要なのである。


 現実の世界は、一日1ドル以下という最低の生活をしている人は、地球人口の約2割。一日2ドル以下の生活をしている人は、地球人口の約半分である。ここ10年間で2億人近くの人々が、貧困や飢えを原因として死んでいった。(ちなみに、約6年間の第二次世界大戦による死者数は約6000万人) 貧困や飢えを原因に死んでゆく人々の多くは、抵抗力を持たない子どもたちである。現在でも、地球上の約10億人が経済発展の恩恵から取り残され、絶望的な状態に置かれている。この10億人の人々を、ポール・コリアー氏(英国・経済学者)は、「最底辺の10億人」と呼んでいる。


 21世紀になって、中国とインドが経済成長の波に乗って、貧困者総数は減少傾向になったが、世界で最も貧しいと言われるサハラ砂漠以南の地域では、逆に貧困者数は増加している。


 豊かな2割の人々が、世界の所得の8割を握り、世界の肉と魚の45%を、総エネルギーの58%を、紙の84%を、車両の87%を使い、資源とエネルギーと社会資本の多くを消費している。


 一方で、貧しい2割の人々は、肉と魚の5%、総エネルギーの4%、紙の1.1%、車両の1%を使っているに過ぎない。現在の地球は酷い格差を伴っており、その格差が広がっている。


 WHO(世界保健機関)調査による貧しい国と豊かな国の死因のトップテンは、

貧しい国では、@食糧不足、A危険な性行為、B浄水の欠如、C屋内で使用される固形燃料、D亜鉛不足、E鉄不足、FビタミンA不足、G高血圧、Hたばこ、I高コレストロール


 豊かな国では、@煙草、A高血圧、Bアルコール、C高コレストロール、D肥りすぎ、E野菜・果実摂取不足、F運動不足、G不適切な薬物、H危険な性行為、I鉄不足である。


 概して言えば、貧しい国は食糧が足らないこと、豊かな国は食糧があり過ぎることが死につながっている。豊かな人々は、豊かな生活を追い求め、貧しい人々は食糧がないだけではなく、疾病、児童虐待労働、少年兵、人身売買、臓器売買、麻薬汚染が広がり、絶望的な生活強いられている。


 富裕国はその経済的地位によって、海外の安いものを購入し、原油などの資源を安定的確保するなど、数々の恩恵を得ている。地球全体からみれば、相対的に、グローバル市場経済によって、相当の恩恵を得ている側にいる。他方で地球は極端に不平等な状態にあり、底辺では栄養失調と貧困死が減少せず、続いていることが問題である。


 そうした悲惨な目に遭っている人々は、私たちから遠く離れた地域にいる。豊かな国は、地球上の弱者を助ける制度がないことによって、逆に利益を得ている。豊かな社会の人々が、貧しい社会の人々と比べて『さもしい』ように見えるのは、豊かな人々が他者を犠牲にして欲望を追及しているからではない。困窮者を助ける制度が無いことによって利益を得ているからである。


 努力しているにもかかわらず、個人の自己責任とは必ずしも言えない理由で、苦しい状態に落ち込んだ人や、奈落の底に転落してしまう人を助け、再びチャレンジできる制度を構築することが、今、求められている最低限の公平さだ。そして、この公平さをきちんと制度化できるかどうかに、私たちの社会の将来がかかっている。


 生産過程の安全を支えるのは、製造技術だけではない。働く人々を人間的に扱う社会制度が生産の安全を担保する。人間が人間として認められない環境で作られるものは、やはり人間的なものではない。働く人々の生存と人権が守られている所では、生産物の品質が保証されるが、逆に働く人々が虐待されている所では、生産物の安全は保障されない。つまり、総ての人々の人間的な生活を実現するという正義は、私たちの安全も確保するのである。


 正義は欲望追求を止めることではない。正義の名の下、みんなが聖人君子になることでもない。欲望追求が思わざる形で生み出す公共悪を除去することに、正義の基本的な役割がある。そして本当の正義は、必ず自分も深く傷付くものである。そういう捨身、献身的な心なくして正義は行えない。


 総ての人々が立派で有徳な人間になるという理想を棄てなければならない。道徳は美しいかもしれないが、それが過剰な社会はきっと暑苦しい。いろいろな考え方や生き方をする人々が、ゆるやかに共存している社会が望ましいと思う。


 本当は「さもしい」わけではない人間を「さもしく」させてしまう、この社会の仕組みをかえること、これが正義の最大の課題だ。それは、市場社会で妙な働きをする『運』の作用を緩和し、私たちを翻弄する社会を少しずつ人間的なものにしてゆくことである。


 私たちは「正義」についての話を続けなくてはならない。そして、それをお話に終わらせるのではなく、地球社会の不幸を緩和したり、除去したりする仕組み(制度)づくりに向かわなくてはならない。その意味で正義の話は、とても政治的な話だと、伊藤氏は説く。


 そして、その制度の例として、地球の構造を規制し、必要なところに財を移転する制度は、議論が既に始まり、一部では導入もされている。(中略)国際航空券税は、導入している国の空港から国際線に乗る航空券に税を課すというものだ。(中略)フランスをはじめ既に世界の数十カ国が導入している。税は各国政府が徴収し、その運用はユニット・エイドという組織が行っている。税収は主としてサハラ以南の感染症対策に使われ、エイズ、マラリア、結核治療に必要な薬品の値下げに成功している。


 締めくくりとして、政治家の中にもやたら道徳的お説教をしたがる人がいる。「親を敬え」「郷土を愛せ」「公共心をもて」などど。そのメッセージ自体に問題がないとしても、お説教は政治家の仕事ではない。政治家は全身全霊をかけて制度の再構築に取り組むべきだ。そのために税金で雇われている。上から目線で道徳を語るヒマがあったら、制度構築のために政治学、政治哲学、公共政策学などを学ぶべきだと、伊藤氏は提唱している。


 本書と出合い、教えられること、考えさせられることがたくさんあった。伊藤氏が自身でおっしゃっているように『青臭い議論』だが、正当な提唱だと思う。しかし、それと同時に、むなしさも感じた。伊藤氏の提唱は、為政者や企業人の心に触れることはあっても、それを実践するとは思えないからだ。


 それは、為政者や企業人等は、現在の地球規模の政治経済の構造が、伊藤氏が指摘するような『さもしい』仕組みであることの認識もなく、『さもしい』ことである恥ずかしさもないと想像されることである。だから、『さもしさ』状態を解消する意識すら湧かないことだ。


 企業人の中には利益の一部を、貧困者等への援助で、還元を行っている人も存在する。社会貢献をしているという自尊心を持つ人もいるだろう。しかし、人を助けることは、とても難しいことだ。ポール・コリアーが『援助の罠』という『ある地域に継続的に援助を続けると、その地域は援助依存になってしまう。そして自分たちの力で社会を変えてゆく意欲が消えてしまう。』ことになれば、援助が逆にマイナスになる。


 また、援助者と被援助者が固定されると、どんな善意に満ちた援助であっても支配が発生したり、被援助者の自尊心を壊したりすることが起こる。他人を傷つけないことは、とても難しい。


 社会主義が行き詰って崩壊し、自由主義にとってかわり、当初は資本主義は金融が生産に従属していた。生産を拡大するための後ろ盾を金融が担っていた。ところが今や金融は生産から切り離され、ひとり歩きどころが暴走状態である。世界経済がどんどん一体化して、やがて、行き詰るまで、人間は決断できない性(さが)なのか。


 かつて第一次世界大戦後、1922年ワシントン会議、1927年ジュネーブ会議、1930年ロンドン会議、1935年第二次ロンドン会議と4回軍縮会議が行われたが、第二次世界大戦が起こり、戦争の悲惨さを何度も経験したが、戦争は無くならならず、軍事経費は増加の一途をたどる。軍事経費のわずか数%すら、世界の貧困対策に回すことを、世界の為政者はできない。


 小泉政権下で進んだ『構造改革』は確かに数値の上では、日本の景気を良くしたが、その実態は一部の『勝ち組』が富み、多くの人々はその恩恵はなく、労働法制を改革することで、不安定雇用を拡大して、相当数の人々の状況をむしろ悪くした。


 現安部政権(2015/5/12)は、労働者派遣法改正案は、同じ職場での派遣労働者の受け入れ期限を事実上、撤廃する規制緩和策で、派遣労働の性格が変わる可能性があり、労働者側は強く反発している。


 上記のごとく、日本のトップの為政者たちは、国内の弱者救済の意識は薄く、まして世界レベルの視点まで持ちえないように思われる。このような為政者たちが、意識を変える強烈な危機感を持たない限り、伊藤氏の提言は、絵に描いた餅で終わってしまうように思えてならない。残念なことである。


 2015/5/19  脱稿


 伊藤恭彦著『さもしい人間・正義をさがす哲学』新潮新書2012/7/20

 お勧め度:★★★☆


  

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