ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.21



日本のお坊さんは仏教徒ですか(2)-私の仏教覚書帖- 
2017/06/19



日本のお坊さんは仏教徒ですか(2)

――私の仏教覚書帖――


2017/3/12〜2017/6/19 


  第一章 釈迦牟尼さん

  『釈迦』を事典で調べますと、
 @紀元前七〜六世紀頃、ヒマラヤ山麓ネパールに居住していた部族。釈迦も釈迦族の出身。
 A生没年は紀元前463〜383頃、同560〜480年など諸説ある。
 B仏教の開祖。釈迦牟尼 (むに) ともいう。釈迦は種族名 ??kyaの、牟尼は聖者を意味する muniの音写。釈尊は釈迦牟尼世尊の略称と考えられる。シャカ族の国王浄飯王を父とし、摩耶夫人を母とし、姓をゴータマGotama (瞿曇〈くどん〉)、名をシッダールタ Siddh?rtha (悉達、悉陀) という。生後まもなく母を失い、叔母の手で養育された。16歳で結婚、息子ラーフラをもうけたが、29歳のとき意を決して出家。修行の末、35歳頃ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開き、ブッダ buddha (仏陀 )、すなわち覚者となった。ワーラーナシの郊外サールナートの鹿野苑で最初の説法を行い、以後80歳で没するまで、ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。教説は四諦(したい)・八正道(はつしようどう)・十二縁起などでまとめられる。

 と、記されています。つまり、現在から2500〜2600年前に生まれたことになっています。しかし、本当に実在した人物なのでしょうか。紀元前500〜600年頃と云えば、日本は縄文時代で、古事記・日本書紀を信じるならば第2代天皇・綏靖天皇(すいぜいてんのう)の在位の時代です。クレオパトラ7世(紀元前69〜30年)が活躍する500年ほど前の頃です。記録好きの中国では、この頃に儒教を興した孔子が生まれたとの資料が残っていますが、口伝が主流だったインドは、どうだったのでしょうか。

 釈迦牟尼さんは、書き残したものが一切ありません。というよりも、釈迦牟尼さんは自分の教えを文章化することを、お弟子さんたちに許さなかったようです。書くことで自分から離れてしまうから、文字にするのではなく、暗記し、身体で覚えることを求めたようです。

 上記のように、「文章に残さない」と後世に伝えることによって、釈迦牟尼さんという架空の人物を作り上げることが可能になります。

 『仏伝』と呼ばれている釈迦牟尼さんの伝記が数十本伝わっていますが、それらは総て後世に書かれたものです。さまざまなエピソードが綴られ、とても事実とは考えられないことも多数記述されているようですし、紙に書かれたものだから、容易に改ざんの可能性が考えられます。信憑性に問題があるように私は思います。

 しかし、釈迦牟尼さん入滅後、100〜200年後にインドを統一した阿育王(アショーカ王)が、自分の功績や思いを大きな岩石の表面に彫らせた石碑が、インド北部に40ヶ所以上存在し、その中に釈迦牟尼さんに触れた記述が数ヶ所あるようです。

 パールのルンビニに立っている石碑には『ここはお釈迦牟尼さんが生まれた場所だから、税金を六分の一にまけてあげる』と書かれているようです。紙の記述と違って、石碑の改ざんは不可能なことから、釈迦牟尼さんが実在の人物であることは間違いないと考えていいようです。

 しかし、釈迦牟尼さん自身もお弟子さんも、釈迦牟尼さん存命中に記録を残していないために、釈迦牟尼さんが、どのような人生を送り、どのような教えをお弟子さんたちに説いたのかは、正確なところは解らないと考えるのが自然だと、私は思います。

 もちろん、阿育王(アショーカ王)の碑文からさまざまなことが読み取れます。例えば、釈迦牟尼さんの年代確定を考察することもできます。

 釈迦牟尼さんの入滅後に、お弟子さんたちが集まって、釈迦牟尼さんの教えを記録することが始まり、聖典の編纂が行われました。この編纂会議を、仏教界では『第一結集』と呼ぶようです。しかし、この時まとめられたものは、いわゆる仏典と云えるような理路整然としたものではなく、仏典の核と云うべきものに過ぎないようです。

 総てのお弟子さんが『編纂会議』に参加したのではなく、むしろ釈迦牟尼さんが求めた『文字に起こさず、身体で覚えること』に忠実なお弟子さんたちは、参加を見送ったのではないかと、私は思います。そのようなお弟子さんは、少なくなかったのかもしれません。第一結集からおよそ200年間は、暗記によって保持され伝えられたようです。本格的に、釈迦牟尼さんの教えが文字に起こされ、経典が成立したのは、釈迦牟尼さんの入滅後、数百年を経過してのことのようです。

 以上のことから、釈迦牟尼さんや仏教について調べて理解する場合は、正確な資料が存在しないということが前提になると私は思います。しかし、釈迦牟尼さんの人生や教え(仏教)を推し量る手掛かりは、『第一結集』と阿育王(アショーカ王)の碑文と多数の『仏伝』を外すわけにはいきません。後世に書かれたさまざまな情報よりも、それ等は比較的釈迦牟尼さんに近づける手掛かりに違いありません。真実は誰も解りませんが、今後、信頼度の高い資料が発見されるかもしれませんし、専門家によって、さまざまな研究が進み、釈迦牟尼さんや仏教について、解明されることを私は願います。

 私はサンスクリッド語も漢語も読めませんし、専門書を理解する知識も能力もありません。私が手にしたのは、一般向けに書かれた「仏教入門」の類(たぐい)の書籍です。偏りが無いように、出来るだけ違った著者の作品を読みました。解釈も捉え方も様々ですが、共通点も多くありました。それは、現在世界で認められ支持されている釈迦牟尼さんと仏教の姿だと思います。それが真実であるか否かは、私には判断できませんが、現在認識されている釈迦牟尼さんと仏教について、私なりにまとめてみました。

 
 お釈迦さんは、現在から2500〜2600年ごろに、ネパールのカピラ城にて、釈迦族の王スッドーダナとマーヤー妃のあいだに王子として生まれ、釈迦牟尼(ゴータマ・シッダルタ)と名付けられました。誕生は紀元前565年、仏滅は紀元前484年との説があるようですが、正確な資料が残っているわけではないので、分からないようです。

 釈迦国は、コーサラ国とマガタ国という強国に挟まれた弱小国と云われています。生みの親のマーヤー妃は釈迦牟尼さんを生んで数ヵ月後に亡くなり、義母のマハーパジャパティに育てられました。だから、母親の愛情を知らずに育ちました。釈迦牟尼さんはスッドーダナ王から大きな期待を受けて、幼少期から英才教育を受け、釈迦国の偉大な王となるべく武術や兵法、語学や宗教学を学び、エリートとして育てられ、それに応え実力と能力を身につけたようです。

 16歳のときに従姉妹のヤショーダラー姫と結婚し、その他に何人ものお妃がいたようです。釈迦牟尼さんが29歳のとき、妻のヤショーダラー姫が第一子ラーフラを生みました。スッドーダナ王が釈迦牟尼さんに、外の世界の見て知るようにと送り出したのです。これが、『四門出遊』というエピソードで伝えられていますが、私は後世の創作と思います。

 『四門出遊』とは、王宮には東西南北に4つの門があり、東門を出て老人に、南門を出て病人に、西門を出て死人に遭い、いつか自分も経験する苦しみを知って思い悩み、北門から出て心安らぐ僧を見て、釈迦牟尼さんが出家修行に出たという話です。

 修業の旅に出たと云えば聞こえは良いですが、何も告げずに王城と親と妻子を棄てて単独で家を出たのですから家出です。たとえ釈迦牟尼さんの苦悩が切実だったとしても、私には自己中心的な振舞い、エゴイズムに思えます。釈迦牟尼さんの存命中に釈迦国が滅ぼされます。もし、釈迦牟尼さんが王位を継いで国政に力を発揮していたならば、これは私の想像にすぎませんが、家族と釈迦国は滅亡を免れたかもしれません。

 釈迦牟尼さんは、城を出て南へ下り国境を越えてインドに行きました。紀元前500年頃のインドはバラモン教の社会でした。そのバラモン教の考えに反対するさまざまな沙門宗教があり、その修行者の多くが、インドの森で暮らしていたので、釈迦牟尼さんは、森の中へ入りました。

 釈迦牟尼さんがインドに入る1000年以前の紀元前1500頃に強い軍事力を持ったアーリア人がインドに進出して、征服先の伝統文化を取り込みながら、自分たち独特の宗教観・世界観を浸透させ、支配していったのです。それがバラモン教であり、カースト制度なのです。

 バラモン教は一種の多神教で、この世の総ての自然現象も人の営みも、それぞれに神が宿っていて、その思し召しによって世界が成立していると云う考え方です。例えば「約束」にも神が宿っていて、「約束」を破れば神が罰を与えます。神にお願いできるのは、特別な能力を持った人々で、その人を「バラモン」と云います。インド社会では、王様より「バラモン」が高い地位を持ちます。

 バラモン教の世界では、物事は総て神様の反映で、多くの神様のトップである『ブラフマン』(日本では『梵天』と呼ばれている)という神様が、この世の全体の総てを司っているのです。

 「バラモン」を司祭、次に王様・武士を「クシャトリア」、次に庶民を「ヴァイシャ」、次に隷属民を「シュードラ」、その下に不可触民を「アウトカースト」という階層が生まれ、これが『カースト』制度です。「バラモン」「クシャトリア」「ヴァイシャ」はアーリア人が占有して、一部の「ヴァイシャ」と「シュードラ」「アウトカースト」は先住民なのです。このカーストの身分が決まる条件は、唯一家系だけです。総ては家系によって、身分も職業も決められ、絶対に変更不可能で、個人に選択の自由はまったくありません。この『カースト』制度も、この神『ブラフマン』が決めたのです。

 さらに古代インド人には、人は死で終わりではなく、天と人と阿修羅と畜生と餓鬼と地獄の6つの領域の中でぐるぐるといろいろなものに、生まれ変わり死に変わり、そこから抜け出ることなく、永遠に命が続く『輪廻』という考え方あり、その『輪廻』を、バラモン教は組み込んだのです。このことによって、固定された階層の中で輪廻が繰り返されることになり、インド人に出口のない監禁状態のような、耐えがたい苦痛を強いることになったのです。

 このようなバラモン教に反対する沙門宗教がいろいろ生まれ、それ等の修行者の多くは森で暮らしていました。彼らは「自分の幸せは自分の努力によってつかむ」という価値観を持っており、出家した釈迦牟尼さんは、そのような沙門の一員になろうとしたように思われます。

 この森の生活の中で、釈迦牟尼さんは、修行者としての初歩的なことから精神集中の方法『瞑想(めいそう)』を、二人の先達アーラーラ・カーラーマさんとウッダカ・ラーマプッタさんから指導を受けました。6年間の難行苦行の果てに、どのように肉体をいじめても、苦痛を我慢しても、真の問題解決にはならないことを知りました。だから、釈迦仏教は一切の苦行を否定する宗教なのです。

 釈迦牟尼さんは苦行によって衰えた肉体を、スジャーターさんの作った乳粥で快復させ、木(この木は、後に菩提樹と名付けられたのです)の下で精神集中して、自分の心と向き合う瞑想で、あらゆる煩悩や執着を離れ、永遠に安住できる、輪廻のない、平安な世界を得る真理を悟ることに成功したと云われています。

 当時インド民衆の悩みの種だった生老病死の繰り返す輪廻から抜け出す道とは、人間の欲望(煩悩)から出発しているのだから、その煩悩を断ち切れば苦はなくなる。煩悩をなくしてゆくには、この世の総ては関係し合って出来ていることを理解し、しかもその総ては無常だと知った上で、日々正しく過ごし、精神を集中していけば良い。その修行によって得られた無上の智慧によって、安住の世界に入る、と云うことのようです。このようなことが現実に可能なのか、私の理解を超えた世界に思えます。

 釈迦牟尼さんが出家修行の旅に出て6年目の35歳のときです。

 このように、自分の心の苦しみをどのようにして取り除くかということを、自分で考え、自分で方法を見つけ、自分で治療してゆくかが、釈迦牟尼さんの仏教の出発点であり、原点です。世のため、人のため、人助けを目的とするような宗教ではないのです。

 この35歳の時点で、釈迦牟尼さんに仏教という新しい宗教を打ち立て、インド人を救う強い意識があったとは、私には思えません。カピラ城を後にして、出家修行の旅に向かわせた人生の苦しみを克服する目的を果たしたに過ぎないと思います。

 目的を果たしたのだから、この時点で、何故、釈迦牟尼さんは、妻や子供、父のいるカピラ城へ帰城しなかったのでしょうか。一国の王子の使命や責任感をどのように理解していたのでしょうか。29歳で旅に出たことを、若気の到りとして、父に許しを請う帰城を、何故選ばなかったのでしょうか。妻や子供や父や釈迦族の住民よりも、いわゆる布教の道に突き進みました。そこまでさせた理由が、私には、理解できません。

 さて、釈迦牟尼さんは、自分の悟りを自分の中にだけ留めていたならば、仏教は誕生しませんでした。自分が悟った体験を話して、もし共鳴する人がいたならば、世の中で苦しんでいる人々に役に立つかもしれない。人を救うことになるかもしれないと、釈迦牟尼さんが人々に話しかけたときに、仏教が誕生したと云えるのかもしれません。そして、『自分のための宗教』から『人々のための宗教』になりました。

 このようにして、釈迦牟尼さんは各地で説法を始めました。共感する人が現れ、お手伝いする人ができ、やがて弟子ができました。5名の弟子たちが出来たとき、集団生活を始めました。この集団生活の場をサンガ(僧団や教団と云われるものです)と云います。

 釈迦牟尼さんの教えを『経』、規律を『律』、教えを理論的に体系化したものを『論』、この三つを『三蔵』といいます。この『三蔵』によって、釈迦牟尼さんとお弟子さんの6人は、サンガでの修行の効率化を図り、仏教の基盤が確立したといわれています。後世の人々が、釈迦牟尼さんがお弟子さんたちに、教えを伝授指導した内容を、『経』『律』『論』と区別して、それを解りやすく説明するために『三蔵』という形にまとめ整理したものだと私は思います。

 弟子の数が増えるにつれて、サンガは大きくなり、たくさんのサンガが誕生し、苦しんでいる人を受け入れる『人生の受け皿』としての機能を持つようになりました。このサンガは相互に上下関係がなく、完全独立性で運営されました。だから、日本の仏教のような、本山末寺のシステムではありません。

 悟りを開いた釈迦牟尼さんが、仏教という宗教を創始したというよりも、釈迦牟尼さんを支持する人々が増え、サンガが拡大し成長してゆく過程で、さまざまな圧力や迫害を乗り越えて、仏教というかたちが出来上がっていったように思います。そして、仏教は変態を続けてゆく生き物のように、核を持ちながらも、時代と場所によって変化してゆきました。

 
 次に、釈迦牟尼さんの教えについて、まとめてみますと・・・
 釈迦牟尼さんが80歳で入滅するまでの45年間の教説は、《四諦》・《八正道》・《縁起》にまとめられます。
 
 《四諦》は、【苦諦】【集諦】【滅諦】【道諦】の4つです。
 【苦諦】とは、「この世はひたすら苦であるという真理。一切皆苦」
 【集諦】とは、「苦の原因は煩悩であるという真理」
 【滅諦】とは、「煩悩を消滅させれば苦が消えるという真理」
 【道諦】とは、「煩悩の消滅を実現するための8つの道」

 《八正道》は、【正見】【正思惟】【正語】【正業】【正命】【正精進】【正念】【正定】の8つです。
 【正見】とは、「正しいものの見方」
 【正思惟】とは、「正しい考え方を持つ】
 【正語】とは、「正しい言葉を語る」
 【正業】とは、「正しい行いをする」
 【正命】とは、「正しい生活を送る」
 【正精進】とは、「正しい努力をする」
 【正念】とは、「正しい自覚を持つ」
 【正定】とは、「正しい瞑想をする」

 《縁起》とは、総てのものは、それを成立させている条件(縁)によって、仮にそのようなものとして成り立っている(起)という。すなわち他と無関係に孤立しているものはなく、総ての存在は、相依・相関のうちにあるとする考え方です。

 そして、お釈迦牟尼さんの悟りは、総てのものはみな思い通りにならず、この世で生きることは本質的に苦【一切皆苦】であり、総てのものは常に変化してゆき、生じては滅びるのが、ものごとの定めである【諸行無常】であり、総てのものにおいて「私」とか「私のもの」という実体は存在しなく、総てのものは、その関係性において存在しているという【諸法無我】である。そこから【涅槃寂静】という、仏教における絶対平安の境地。時間の流れを超えた真の安らぎが得られるというのです。

 つまり、人の一生は生老病死の4苦を永遠に繰り返す輪廻は、人間の欲望(煩悩)から出発して終わりなく苦しむので、この煩悩から抜け出せば苦はなくなります。煩悩を断ち切るには、この世のすべてのことは関係し合っていることを理解し、しかもそのすべては無常だと知った上で、日々を正しく過ごし、精神を集中してゆけば良いのです。その修行によって得られた無上の智慧によって安住の世界に入る・・・。そして、釈迦牟尼さんは煩悩から解放された世界を「涅槃の世界」と名付けました。「涅槃」は死後の世界では無く、修行を積んでいけば到達できるこの世の境地であることです。釈迦牟尼さんは「死」すなわち「滅」としていましたから、死後の世界は無いということになります。

 一言でいうならば、釈迦牟尼さんは、『人間の苦悩の解決の道』を説いたということです。

 晩年、釈迦牟尼さんは、北方へ布教の旅に出ました。高齢による郷愁感が、生まれ故郷に向かわせたのかもしれません。多くの弟子たちに囲まれて、故郷近くで病に倒れ、沙羅双樹の下で入滅したといわれています。80歳でした。死因は食中毒のようです。

 釈迦牟尼さんの遺言は、『自灯明、法灯明』といい、「荼毘にふし、遺灰はガンジス川に流し、供養(崇拝)にかかわらず、総ての人には仏性が宿っており、それに気付くのが悟りである。修行者それぞれの努力と法の教え」をよりどころにして生きてゆけとおっしゃたようです。

 イエス=キリストは、非業の悲しい死です。ソクラテスは恨みを買って告発され、自ら毒を仰ぎました。このように西洋の聖者は殺されました。しかし釈迦牟尼さんは涅槃で静かに死にました。孔子さんも畳の上で死にました。西洋の思想は人間に復讐しようとする怒りがありますが、東洋の思想は安らかで、諦(あきら)めや悲しみがあります。この違いは、西洋の思想と東洋の思想を比較する大事な視点だと、哲学者・梅原猛氏が指摘しています。私もそのように思います。



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