ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.10



私考『本能寺の変(7)』其の7・経過日表・関係者年齢
2013/9/29



私考・本能寺の変 其の7

 

第七章  経過日表と関係者の年齢


【C】《信長の重臣や武将などの年齢》本能寺の変勃発時(1582年)
・ 織田信長 49歳
・織田信忠(信長の嫡男) 26歳
・明智光秀 67歳説『当代記』、55歳説『明智軍記』、57歳説『綿考輯録』
・羽柴秀吉 46歳
・丹羽長秀 48歳
・滝川一益 58歳
・柴田勝家 56〜61歳
・稲葉一鉄 68歳
・村井貞勝 70歳?
・武井夕庵 70歳代
・松井友閑 70歳前後

・明智十五郎(光慶)(光秀の嫡男) 13歳
・細川ガラシャ(光秀の三女)20歳   ・
・細川忠興(ガラシャの夫)20歳  

・徳川家康 40歳
・足利義昭 46歳
・毛利輝元 30歳
・上杉景勝 28歳
・長曾我部元親 44歳
・安国寺恵瓊 43歳?
・ ・穴山梅雪(信君)42歳
・顕如 40歳
・教如 25歳

【D】《本能寺の変勃発前後の経過》
天正10年(1582年)
◎2月9日
・信長、三好康永に長曾我部攻めを、光秀・細川忠興・筒井順慶に武田攻めの出陣準備を命ずる。
◎3月5日
・信長、光秀・順慶・忠興を伴って武田攻めに出陣。
◎4月2日
・信長、光秀・順慶・忠興を伴って諏訪を発し、家康領を通って安土の帰路に着く。
◎4月21日
・信長、安土に帰しろ。
◎5月7日
・信長、織田信孝へ四国仕置の朱印状を与える。
◎5月11日
・信孝、長曾我部征伐のため大坂・住吉に着陣。
◎5月14日
・藤孝・忠興、京都の兼見邸を発して安土に向かう。
・家康・穴山梅雪、安土近くの近江番場に到着。
・光秀、饗応役を務める。
◎5月17日
・秀吉から援軍要請があり、信長の西国出陣が現実化する。
・光秀、信長から家康の供応役を免じられ、近江坂本城に帰る。
◎5月21日
・家康・梅雪、織田信忠に伴われて安土を発ち京都に向かう。
◎5月22日
・光秀、この日までに坂本から丹波亀山城へ移動?
◎5月23日
・光秀、愛宕神社に参詣?
◎5月26日
・光秀、丹波亀山城に入城する。・これ以前に、上杉氏らに反信長勢力に対して使者を派遣する。
◎5月27日
・信忠は、信長上洛と聞き、家康と堺へ同行する予定を変更して、信長を出迎えに京都へ向かう。
・光秀、戦勝祈願のために愛宕山に登る?
◎5月28日
・光秀、愛宕威徳院において、戦勝祈願の百韻連歌会(愛宕百韻)を催す。
・この頃、光秀の使者が越中魚津城に到着する。
◎5月29日(この年の暦は5月は29日まで)
・信長、安土より上洛する。本能寺に入る。
・家康、堺に入る。
・光秀、鉄砲の玉薬以下約百荷を西国に向けて送る。
◎ 6月1日
・信長、本能寺にて勅使・公家・堺衆に名物の茶器を披露する。
・家康、堺で今井宋久、津田宋及に茶を振舞われる。
・越後春日山城に、光秀の使者がもたらした情報が伝えられる。
・光秀、夕刻に亀山城を出陣する。
◎6月2日
・光秀未明、信長を本能寺に襲い、信忠を二条御所に包囲し、クーデターに成功する。
・光秀、安土城に向かうが、山岡氏に近江瀬田橋を破壊され果たせず。
・家康、早朝に堺を出発して伊賀越えを図る。
・杉原家次、堺を発って備中高松の秀吉に注進。
・光秀、夕刻坂本城に帰還し、諸方に協力要請の書状を認める。
・光秀、美濃野口城の西尾光教に、自軍に与して大垣城を攻め取るように指令する。
◎6月3日
・光秀、家臣を近江平定のために派遣する。
・蒲生賢秀ら、安土城退去。
◎6月4日
・光秀、近江をほぼ平定する。
・大和郡山城の筒井順慶、光秀に与同する。
・長曾我部元親の使者、紀州鷺森本願寺に到着する。
・秀吉、早朝までに本能寺の変の第一報を受け、毛利氏と講和を結び、備中高松城主・清水宗治、切腹。
・家康、三河岡崎城に帰還する。
◎6月5日
・瀬田橋修理がなり、光秀が安土に入城する。
・光秀、京極高次、阿閉貞征に命じて、近江長浜城を落とし、斎藤利三を入れる。
・大阪城において、織田信澄が織田信孝・丹羽長秀らに殺害される。
・秀吉、摂津茨木城の中川清秀に信長親子の無事を伝える。
・秀吉、これ以前に近江・長浜までの路次を確保し、度々使者を派遣する。
・家康、甲斐の織田軍討伐の東陣を進める。
・織田信澄、大坂城で織田信孝に殺される
◎6月6日
・秀吉、未刻に備中・高松城を引き払い、備前沼城まで帰着する。
・小早川隆景、備中幸山城などの国境地域を固める。
◎6月7日
・光秀、夕刻、安土城で勅使吉田兼見と会見する。
・秀吉、洪水に遭い滞陣する。
◎6月8日
・光秀、安土から坂本城に帰還する。
・光秀に呼応した安藤守就、美濃北方城で稲葉良通と戦い敗死する。
・秀吉、姫路城に到着する。
・秀吉方、細川藤孝と連絡をとる。
◎6月9日
・光秀、上洛し銀子を正親町天皇・誠仁親王(各500枚)と五山・大徳寺(各100枚)に献上し、吉田兼見にも50枚贈与する。
・秀吉、未明に姫路城を出発し、正午に播磨明石に到達する。淡路洲本城の菅平右衛門を攻撃する。
・秀吉、摂津高槻城の高山重友より、光秀の動向が伝えられる。
・足利義昭、吉川元春父子と小早川隆景にあてて帰路命令を発する。
・光秀、吉田邸で夕食の後、下鳥羽に出陣し、細川藤孝に協力要請の書状を認める。
◎6月10日
・光秀、筒井順慶の出陣を促すべく、洞ヶ峠に滞陣する。
・秀吉、中川清秀に返書して、11日に兵庫・西宮あたりに到着することを伝える。
◎6月11日
・光秀、下鳥羽に、転戦し山城・淀城を修復する。
・光秀、筒井順慶の説得に藤田伝五を遣わすが、拒否される。
・秀吉、尼崎に到着して落髪する。筒井順慶が秀吉に与同する。
◎6月12日
・顕如と教如の和解がなり、本願寺の使者が光秀に与同すべく派遣される。
・光秀、紀伊雑賀の土橋重治に出陣を要請する。
・光秀、摂津支配を諦め、下鳥羽から山崎へ出陣。
・秀吉、丹羽長秀・池田恒興らを参会し作戦を練る。
・大山崎付近で前哨戦が始まる。
◎6月13日
・大山崎付近で前哨戦が始まる。
・秀吉、織田信孝に対面する。
・山崎の戦い。
・光秀、山城勝龍寺を脱出し、坂本城に向かう途中、百姓に襲撃されて討死する。
・義昭、乃美宗勝に信長を撃ったことを告げ、帰路に協力するように命じる。
◎ 6月14日
・秀吉、近江に向かい、三井寺に着陣する。
・家康、尾張鳴海へ出陣。
・明智秀満、未明に安土城を撤収し坂本城へ帰る。
◎6月15日
・安土城天守が、焼失する。
・家康、光秀敗死を知る。
・明智秀満、光秀の妻子らを刺殺して自刃し、坂本城が落城する。
◎6月16日
・秀吉、織田信孝と共安土城に入城し、その後、長浜城まで帰陣する。
・光秀の首と胴体が、本能寺の焼け跡に曝される。
◎6月17日
・家康、津嶋へ進軍。
・義昭、長曾我部氏に帰洛のために協力するように命じる。
◎6月18日
・斎藤利三、近江堅田で生け捕られ、六条川原で斬首される。
◎6月19日
・家康、秀吉から帰陣命令を受ける。
◎6月20日
・秀吉・家康・藤孝、清洲城で三者密約。
◎6月22日
・桑原貞也・村井貞勝を奉行として、粟田口に光秀・利三の首塚が築かれる。
◎6月25日
・秀吉、織田信孝とともに美濃・尾張に入り、光秀方の残党を追討する。
◎6月27日
・清洲会議の結果、秀吉の推した三法師(のちの織田秀信)が信長の後継者となる。
◎7月2日
・光秀・利三・明智秀満の父親の死骸が粟田口で磔にして晒される。



参考文献
渡邊大門著『信長政権—本能寺の変にその正体を見る--』(河出ブックス056:2013/4/20)
谷口克広著『検証・本能寺の変』(歴史文化ライブラリー232)2007/5/1 吉川弘文館
藤田達生著『証言・本能寺の変:史料で読む戦国史』2010/6/2 八木書店
桐野作人著『真説・本能寺の変』(学研M文庫)2001/3/22 学習研究社
鈴木眞哉・藤本正行共著『信長は謀略で殺されたのか:本能寺の変:謀略説を嗤う』2006/2/20洋泉社
小島道裕著『信長とは何か』2006/3/10 講談社(講談社選書メチエ)
大和田哲男『明智光秀:つくられた「謀反人」』1998/5/6 PHP新書
工藤健策著『信長は本当に天才だったのか』2007/8/31草思社
明智憲三郎著『本能寺の変:四二七年目の真実』2009/3/18 プレジデント社
井上慶雪著『本能寺の変・秀吉の陰謀』2013/5/5 祥伝社
上田滋『真説・本能寺の変』2012/7/6PHP研究社
堀新編『信長公記を読む』2009/2/1 吉川弘文館


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