あけましておめでとうございます。
旧年中のご厚誼に、心より御礼申し上げます。
本年も宜しくお願い致します。
「新しい年を迎える」という気分が、一年が押し詰まった年末になっても、湧いてこなくなったのは、どうしたことだろうか。これは私個人だけの感慨なのでしょうか。皆さんは如何ですか。
スーパーや繁華街の店に、クリスマスケーキが山積みにされ、やかましいほどの音量でジングルベルなどのクリスマスソングが鳴っていたのを知っているのは、もう年配の人々に限られるのかもしれません。バターケーキから生クリームになり、無駄やロスを減らす為にケーキは予約するようになり、合理化というべきか、みんなが利口になり、無駄なことをしなくなった結果でしょうか。致し方ないことですが、賑やかさがなくなり、私はちょっと寂しく感じる。合理化も利口になることも否定はしないが、行き過ぎることに疑問を感じる。その一方で、大阪心斎橋などの繁華街では、クリスマスに限らず一年365日毎日バーゲンのような派手な売出しを繰り返している。腰の座っていない営業姿勢に、私は疑問を感じる。バーゲンはめったに行わないから、売り手にも買い手にも価値があるもので、もう少し、落ち着いた商売が出来ないものかと思う。
昨年(2011年)は、天皇誕生日の祝日(12月23日)が金曜日になり、25日(日)まで三連休となった。三日間とも朝から晩まで、私は掃除に明け暮れた。12月に入ると休日ごとに、網戸の張替え、換気扇や照明器具の掃除、障子の張替え(今回はパス)など、大掛かりな?掃除は、天候や気温をにらみながら計画的に行なう。年賀状の作成も、この期間に終えることにしているが、気分が乗らなければ、手紙葉書類は進まず、気持ちのコントロールが大切である。
27日(火)は棚卸しを行い、28日には店の大掃除(テーブルを移動させ、床のワックスがけ)と洗車、決算書のアウトラインを終える。29日から大晦日までの三日間も、また終日店と部屋の整理整頓を行い掃除する。このように12月は掃除と整理整頓で明け暮れる。それでも、始末がつかないのが現実だ。
私は探し物をする時間は、人生のロスだと考える人間で、使用したものは必ず元の場所に戻す習慣を身に着けている。それでも、年末になり掃除をするたびに、どうして物が散らかってしまうのか、毎年不思議に思う。そして、どうして埃(ほこり)というものが発生し溜まってしまうのか、これも大変不思議なことだ。生きるということは、物が増えて散らかし埃まみれになとことかもしれない。行き過ぎた整理整頓は、息が詰まる部分があり、ある程度ものが溢れている方が、ちょっと豊かな気分で、人間は落ち着くものかもしれない。
年末に一年間の整理整頓と掃除をすることで、無駄なものを購入した反省、懐かしい品が出てきたり、処分できなかった思い出の品物に、見切りをつけるべきか、まだ残しておくべきか決断し、埃を払い拭きながら、新しい年を迎える気持ちの準備をする。
何度も雑巾を絞るため手にアカギレができ、ハンドクリームを刷り込み、日頃使わぬ筋肉疲労を起こして湿布を貼ったり、家族との違った話題の会話も生まれる。掃除を通して、昨年出来たことが今年できなくなったり、その逆もある。整理整頓と掃除はきりが無く、『これでお終(しま)い』とピリオドを打つのは、お飾りを玄関に飾り、床の間の掛け軸を、『富士』の色紙に替えたときと、私は決めている。
大晦日は午後6時頃から、家族全員で年越しそばを食べる。家族そろって食事をする機会は、一年に何度も無いが、大晦日の夕方から元旦は、全員が予定を空けて、揃(そろ)うことにしている。みんなでおしゃべりをしながらNHK紅白歌合戦にチャンネルを合わせる。10時ごろには書斎(自分の部屋)にこもり、一年間の反省をノートに記してゆく。家族全員が元気で過ごせたことが、何よりも仕合せで感謝である。若い頃は除夜の鐘を聞き初詣に出かけたものだが、最近は12時前には就寝し、私の一年が終わる。
元日の朝は、いつもどおり6時には起床して朝のウォーキングに行き、生駒山から昇り、第二寝屋川の川面に映る朝陽を見る。今年は雲に隠れご来光を拝むことは出来なかった。鎮守の稲田八幡宮に初詣をして帰宅する。母と家内の協力による手作りのおせち料理とお雑煮を頂きながら、家族全員で新年のお祝いをする。昼過ぎには弟や親戚一家が集まり、賑やかな元旦を過ごす。
二日は早朝、京都・敷地神社(通称わら天神:子ども等が生まれる時に腹帯を頂いた安産の神様)へ、お礼参りにゆき、鷹が峰のお寺にお墓参りをする。帰宅後、家内の実家へ新年の挨拶に行く。
三日が家内と私にとっての休暇といえる一日で、のんびり過ごす。私は図書館から借りている本を読む。家内は届いた年賀状を一枚一枚丁寧に読み、ホッとしたひとときを愛おしく過ごす。
四日は、明日から仕事の準備を行う。今年一年間の目標や戦略を思い描く。
門松やお飾りが減り、歌留多(かるた)や凧揚げや羽根突きを見なくなり、いわゆる正月風情が薄れてきたけれど、結婚して家庭を持ってから毎年、私の年末年始は、このように過ごしている。仏壇に手を合わせて、毎年同じように過ごせる感謝をしている。クリスマスやお正月が、私たちの若い頃のようなうきうきした気分や、厳粛な雰囲気は無くなってしまったけれど、流れ作業のような毎日が続く中で、正月は一年のリセット作用があり、気持ちを新たに出来る良いシステムだと確信している。私たち夫婦が、年末に頑(かたく)なに、大掃除をして、正月には初詣に行き、お礼参りとお墓参りを繰り返す姿勢を堅持する姿を見せておくことで、子どもたちは、いつの日か、何かを思い感じることがあると、私は信じたい。
時代とともに、加えてゆくもの、消えてゆくもの、残すもの、捨て去るもの、さまざまあるけれど、崩れてゆく自分を律してゆく装置は、失ってはいけない。そのひとつが、お正月というシステムだと、私は思っている。
平成24年(2012年)1月6日 脱稿
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