ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.23



日本のお坊さんは仏教徒ですか(4)-私の仏教覚書帖- 
2017/06/19



日本のお坊さんは仏教徒ですか(4)

――私の仏教覚書帖――


2017/3/12〜2017/6/10 


   第三章 日本伝来


 吾が国、最古の歴史書である日本書紀の記述によれば、日本に仏教が正式に伝えられたのは、第29代欽明天皇13年(552年)、百済王の聖明王(せいめいおう)によって、仏像(釈迦如来の金銅像一体と旙蓋(ばんがい)という仏像の飾り)や数巻の経典類が献上されたとのことです。国家間で正式に伝わった《公伝》と云う意味です。『元興寺縁起』によれば、第28代・宣化天皇3年(538年)が仏教伝来との記述があります。日本書紀の記述よりも14年早いことになります。

 どちらが正しいのか、私には分かりませんが、それ以前から、朝鮮半島から倭国(以後日本と表記します)への渡来人は多く、二世紀末の卑弥呼以前から、既に日本でも仏教の存在は知られはじめ、渡来人たちの間に仏教信仰があったと思われ、断片的に仏教は伝わっていたと思います。

 もちろん、仏教より早く大陸(中国や朝鮮半島)から儒教や道教などの宗教が、日本に伝わっていました。儒教は孔子を始祖とする宗教で、釈迦牟尼さんと同年代の人物です。第26代・継体天皇の時代、513年に百済より五経博士が来日し、それ以前にも王仁(わに)が『論語』を伝えたと、古事記に記述があります。儒教の思想は、多神教をうやまいあがめる日本人には相入れやすかったように思います。道教はさらに早く四世紀には日本に伝わっていたようです。 

 大陸において儒教、道教、仏教が互いに影響し変化をとげてゆきました。それらの宗教を伝えた人間(渡来人や、中国や朝鮮半島に渡って帰国した日本人)の思想観、価値観や理解度、時期によっても、伝わった内容も異なったと思います。

 仏教公伝の頃、日本は飛鳥時代と呼ばれ、政治の舞台は、奈良・明日香でした。邪馬台国論争(九州説・大和説・その他)によって、大和朝廷成立期が左右されるようですが、大和朝廷が国土を統一してゆき、徐々にかたちが整っていく時代です。大和朝廷のしくみは、氏姓(うじかばね)制度で、朝廷は氏の連合組織であり、天皇もひとつの氏でした。天皇の権威が高く、豪族間の秩序が保たれていれば安泰ですが、力のバランスはいつの世も流動的なものです。

 余談ですが、日本書紀は、第40代・天武天皇の命によって、舎人親王・太安万侶等が編纂し、神代から697年第41代・持統天皇(女帝)末までに記事を、漢文編年体で記述し、720年第44代・元正天皇(女帝)に撰上された歴史書です。『三国志』の『魏志倭人伝』記述にある「邪馬台国」や「卑弥呼」の記述を、日本書紀・古事記を編纂した人物は知っていた形跡がありますが、日本書紀にも古事記(712年完成)にも、それ等に該当する「国」も「人物」も登場させていません。外国の国名や人物名に「邪」や「卑」のような漢字を当てるのは、中国らしいことです。

 日本書紀等に記述がない原因は、邪馬台国や卑弥呼に該当する国や人物が、存在していなかったと云うことなのでしょうか。もしくは、実存していたことが、天武天皇ら当時の大和朝廷にとって、都合が悪いと判断したのか、もしくはまったく影響のない地域の国や人物だったからなのでしょうか。邪馬台国や卑弥呼は実存したのか否かは、私には分かりかねます。

 さらに余談を続けます。当時の日本は、いわゆる古墳時代です。日本列島には古墳が約15万基あると云われていますが、そのほとんどは被葬者が判らないのです。はっきりしているのは、歴代天皇の御陵ぐらいのようです。『皇室典範』で、天皇・皇后・皇太后を葬るところを『陵』、その他の皇族の墓所を『墓』とすると決めて、宮内庁が管理しています。宮内庁作成の『陵墓要覧』で、天皇陵は111陵、他74陵で、一都二府七県にあり、墓は551です。

 総数900にのぼる陵墓と陵墓参考地は、宮内庁の管理下にあり、基本的に研究者ですら立ち入れないのです。ほぼ確実な陵はわずか2陵に過ぎず、応神・仁徳陵も学問的には不確実のようです。それらの陵墓を随時開放して研究し検証してゆくことを、私は切望します。もし、どこかの古墳から、魏の皇帝・曹叡から238年卑弥呼に与えられた『親魏倭王』の金印が出土したならば、邪馬台国が実存した一つの根拠になり、古代史研究に一石を投じることになるでしょう。

 さらに、もう一つ余談ですが、当時の日本は、高度で成熟した文明は総て大陸から伝わってきました。文明だけでなく、軍事的威嚇も同様です。日本列島が中国大陸から日本海という、陸ではなく海の緩衝地帯をもったことは、とても幸せなことだと思います。しかも、遠からず近からず絶妙な距離であり、四季のある南北に長い地形や位置も幸いでした。このお陰で、中国や朝鮮半島の国から攻撃や占領されることなどの暴力的な影響を受けることも少なく、日本独自の文明が生まれ、成熟し、風土や文化を築いてきたのだと思います。


 閑話休題、当時の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国時代で、南部には日本の影響下の任那がありました。百済は高句麗と新羅の対抗上、日本との関係強化を図るために、当時の最新文化であった仏教を日本に伝えたようです。仏教は百済にとって同盟強化の貢物と言えるでしょう。

 ちなみに、中国から朝鮮半島への仏教伝来は、372年、高句麗(こうくり)小獣王のとき、僧とともに仏像や経典が伝わり、百済(くだら)では384年、枕流(ちんりゅう)王のときに仏教が入り、新羅(しらぎ)では伝来が遅れ、528年法興王によって公認されています。新羅と同時期に、百済から日本に伝来したことになります。

 562年、日本との交流が深かった任那が新羅により滅ぼされ、百済との結びつきを密にし、百済から577年には、経論若干巻のほかに、律師、禅師、比丘尼、呪禁師や造仏工・造寺工が献上されました。579年、新羅より仏像が贈られ、高句麗より高僧を派遣されました。584年には、百済から弥勒菩薩像が伝来し、司馬達等の娘(善信尼)がはじめて出家しました。派遣された僧侶が男性僧侶ではなく女性(比丘尼)であること、また日本最初の出家者も女性でした。皇室の祖神であり日本人の総氏神とされる天照大神も神に仕える巫女も女性であることを思うと、最初の出家者が女性であることに、抵抗はなかったのかもしれません。

 伝来した時の仏教は、大乗仏教であり、しかも完全に中国化された仏教です。だから釈迦牟尼さんの中心思想の理法などは、まともに伝わらなかったと思います。むろん、そのようなことを、当時の日本人は知りませんでした。総て、釈迦牟尼さんが興した仏教と信じていたと思われます。

 仏教伝来の頃の仏教の意味把握は、日本流のものであったでしょう。仏を『蕃神(あだしくにのかみ)』とか『他国神』と呼んでいたようです。仏が何であるか、はっきり理解して崇敬したのではなかったと思います。また、仏教の経典が伝わってきても、正しく読解されていなかったし、仏教がどのような教えか知りませんでした。日本では当初において、従来の素朴な精霊信仰の観念のまま、仏教を理解したと思います。

 当時の日本には、先祖崇拝であり精霊信仰で、国神は八百万の神ですから、仏像は大陸から来た異国神です。天皇は国神祭祀を司るのだから、異国の神の仏教を欽明天皇は好意的に受け入れたとは、私にはとても思えません。しかし、当時の日本には、仏教に対立する有力な思想や宗教が無かったので、欽明天皇は中立、傍観という、あいまいな立場をとっていたのではないかと思います。

 欽明天皇を支える二大重臣は大臣(おおきみ)の蘇我稲目と大連(おおむらじ)の物部尾輿でした。仏像と経典は蘇我稲目に下賜されました。仏教に寛容な崇仏派の蘇我氏と、否定的な排仏派の物部氏が、重臣の勢力争いも絡んで対立が激化しました。

 仏教を受け入れた頃から、国内に疫病が流行しました。排仏派の物部守屋が第30代・敏達天皇に「国内の疫病は他国神を祀った祟り、国神の怒りを招いた」と進言し、仏塔を倒し仏像を焼き、出家者(尼)を監禁処刑しましたが、疫病は治まらず、天災に苛(さいな)まれ、事態は悪化し崇仏派に支持が集まりました。

 585年、敏達天皇に厩戸皇子(聖徳太子)が仏法容認を奏上し、『蘇我馬子が私的に祈るなら許す』との勅許を得ました。587年、第31代・用明天皇が崩御し、次期天皇を巡って蘇我馬子は用明天の子息である厩戸皇子を擁し、物部守屋は穴稲部人王子(あなほべのひとのみこ)の対立が決定的になりました。仏法も絡んで、両者が刃を交わす事態になり、蘇我氏が勝利をおさめ物部守屋は敗北し戦死しました。

 崇仏派の蘇我氏が勝利したことで、仏教は急速に普及しました。第33代・推古天皇(女帝)は、『三宝興隆の詔』を発布し、聖徳太子は『十七条の憲法』を制定し、その中で仏教を儒教と並んで政治の基本精神に据えました。また、豪族の間では、各自の寺院が建立されました。これらの寺院は、『氏寺(うじでら)』と呼ばれ、それぞれの氏族の祖先を祀る目的で建てられました このように従来の祖先崇拝の延長として仏教が信仰される一方で、中国や朝鮮の最新の仏教教学の浸透が徐々に進んできたように考えられます。6世紀に仏教は急速に浸透したようです。

 聖徳太子は、『法華経』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経(ゆいまぎょう)』の註釈書を書いたと云われています。聖徳太子は中国の註釈書を踏まえながらも、独自の思考を述べ仏教知識の理解の深さがうかがわれるようです。 現在では本当に聖徳太子が書いたのか疑問が持たれているようですが、日本に仏教が定着し発展に貢献した第一人者は、聖徳太子に違いはありません。聖徳太子は、政治家・外交官以上に、宗教家として評価すべきだと思います。僧侶にならず宗教家で通した点に、私は聖徳太子に好感を持ちます。

 聖徳太子については、存在しなかったという説が飛び出すほど百花繚乱ですが、仏教信仰に関しては、私は好意的に捉えたいと思っています。太子の父の第31代・用明天皇が、仏教帰依を最初に表明しましたが、用明天皇の仏教受容は、病気の平癒を期待したのであり、いわば現世利益(げんぜりやく)を仏教に求めたのです。太子の仏教受容には、純粋に仏教を人間の個人の内面的・精神的なものとの関連において理解しようとしたように思うからです。

 聖徳太子が、必要以上に英雄的なイメージで認識される原因は、古事記・日本書紀の記述によります。これは私の個人的な解釈ですが、645年・大化改新《中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害したクーデター。この年に元号が始まりました。大化元年です》を経て、天武天皇(天智天皇の弟)が古事記・日本書紀を編纂させたとき、蘇我氏の功績の一部を天皇家の政策であるように編集したために、蘇我氏を悪者的に描き、蘇我氏に滅ぼされた聖徳太子一族を好意的に扱ったためかと思います。

 終戦後、欧米から様々な音楽が日本に入ってきました。ジャズ、シャンソン、ブルース、カンツォーネなど。日本人にとって、暗く長い戦争が終わり明日からの生活の不安と同時に、長いトンネルを抜けた開放感も手伝って、それらの音楽は新しく魅力的であり、魅了されました。原曲のまま正確な発音もままならぬ状態で、日本人はそれ等の歌を歌い始めました。

 もちろん、当時の日本にも歌謡曲があり、童歌があり、小学唱歌があり、浪曲があり、クラシックもあり、さまざまな歌が親しまれていました。その上で日本人はその欧米の歌を受け入れました。それ等の歌を歌う日本人歌手は、ある程度歌詞を理解して歌っていたと思います。しかし、それらの音楽を聴いていた多くの日本国民は、歌詞よりもメロディーやアレンジや演奏など、その音楽の雰囲気に魅了されたように思います。自由で明るく開放的で力強い戦勝国を、その実態を知らず、あこがれのような夢想を、その音楽にダブらせていた部分があったと思います。

 宗教を音楽と同等に扱ってはいけませんが、仏教伝来当時の日本人にとって、仏教をきちんと理解して国家として受け入れ、民衆に広がっていたのではないと私は思います。聖徳太子など、ごく一部の人間には、経典を理解していたと思いますが、天皇や貴族を始め大半の人間は、仏教に対するさまざまな噂を、自分にとって都合の良いように解釈していたに過ぎないと思います。

 サンスクリッド語やバーリ語で書かれたさまざまな経典を、中国では多くの知識人たちが熱心に漢語に訳しました。同じ経典でさえ複数の人々が競うように漢訳しました。ハングル語が誕生したのは李氏朝鮮の建国を待たねばなりませんから、朝鮮半島の百済から伝来した仏教・経典は、漢語で書かれていました。

 伝来当時の日本の知識人は漢語を読めたこともあり、経典を和訳(日本語訳)しませんでした。当時は、漢語に相応する日本語の語彙がまだ少なく、論理を追うには日本語はまだ貧しく、概念を使って考える段階だったので、きちんと理解出来なかったのでしょう。日本語が成立したのは七世紀ごろという説がありますが、時代が下っても、日本人は経典を平易な日本語に訳さなかったことに、私は少なからず疑問に感じています。まるで、ジャズやシャンソンを原語で歌う方が、日本語訳の歌唱よりも支持されていると、どこか錯覚しているのと共通点があるように思います。

 もっというならば、一般庶民にとって経典は内容を理解するものでは無く、祈祷の際に、木魚や鐘などを鳴らし、声を出して唱える、一種の歌といえなくはないと思います。仏像や建築物、中国で演出的に付加された様々な儀式形態や装飾物や衣装が新奇であったし、どこか神々しい雰囲気があったからこそ、仏教は支持されたように思います。中身よりも外見のインパクトが強かったのではないでしょうか。

 日本には従来の精霊信仰があったにもかかわらず、日本の権力者が仏教を受け入れたのは、天災や疫病や悪い夢、幻覚に悩まされていたことは、外せない一因でしょう。神道の祈祷呪術は危険予防に効果があると信じられていました。神道は何か悪いことが起こることを防ぐためのもの(地鎮祭や豊作祈願)でしたが、仏教は実際に災厄が起きてから効果がある呪術(病気快復の祈願など)だと、当時の権力者は思い込んでいました。いわばアフターケアー用の呪術として、仏教を受容した可能性があるように思います。

 仏教伝来から聖徳太子の時代まで、朝廷が飛鳥にある飛鳥時代には、50近くの寺院が建てられましたが、これらの寺院は個々の有力氏族のためのものであり、僧侶たちはそれぞれの氏族の専属呪術師であり、庇護されていました。当時は、いわば、蘇我氏などの豪族を中心とする『豪族仏教』でした。

 隋が滅び(618年)、朝鮮半島で争乱が続き、蘇我氏が滅び(645年)、大化改新(645年)、百済が滅び(660年)、任那の支配の終焉(646年)、倭国(日本)が任那の属国であったという説もあるようです。白村江の戦い(663年)で倭軍(日本)が唐に大敗し、国防体制整備と内政改革を余儀なくされ、壬申の乱(672年)を経て、第40代・天武天皇が古事記、日本書紀を編纂しました。これまで『大君(おおきみ)』と呼ばれていた統治者を『天皇』と呼び変え定着してゆき、官僚制の整備と軍事力の強化に取り組み、天皇を中心とする中央集権国家の体制を整えてゆき、律令制国家となります。

 奈良時代には、仏教もまた天皇を中心として国家政策の一環として進められて、『豪族仏教』から『国家仏教』になりました。『仁王般若経』や『金光明経』に「国王や人民がこの経を受持し読誦すれば、七難を消滅し、国家を鎮護する」と説かれて、これに基づく法会が盛んに行われました。仏教は、国家を鎮護する目的で国家を中心に寺院が建てられ、経典の写経と読誦が行われました。

 隋や唐に留学した(遣隋使、遣唐使)僧侶たちは、最新の知識や国家情勢を知る立場となり、治世おいて重要な役割を担う官僧(官僚)として特権が与えられましたが、きちんと管理され、その活動は制限されました。

 710年、第43代・元明天皇(女帝)が、政治の舞台を飛鳥から奈良・平城京へ移しました。長岡京遷都までの7代(元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇(女帝)、淳仁天皇、称徳天皇(女帝)、光仁天皇)75年間、政治は奈良・平城京で行われました。

 第45代・聖武天皇(在位724年〜749年)は、仏の力で国を護(まも)る『鎮護国家』を目指し、東大寺大仏(盧遮那仏)や国分寺・国分尼寺の建立を行いました。『鎮護国家』とは、五穀豊穣や病魔退散などの除災招福の祈願(神仏に祈る)ということです。合格祈願、商売繁盛などいくら祈願しても、受験や商売が成功するわけではありませんが、多くの寺院建立の費用捻出のために、人民を搾取した暴君という捉え方もできると思います。

 奈良仏教は七堂伽藍が甍(いらか)を並べる、いわば華やかな『伽藍仏教』でした。薬師寺、法興寺、興福寺、東大寺などは、平城京を飾っていました。

 遣唐使を通じて最新の仏教学が日本に入ってきました。中国の諸宗派が伝来することにより、「南都六宗(なんとろくしゅう)」が成立しました。南都六宗とは、三論(さんろん)宗・成実(じょうじつ)宗・法相(ほっそう)宗は興福寺・倶舎(くしゃ)宗・律(りっ)宗・華厳(けごん)宗は東大寺の六つを指します。後世の宗派と違って、いずれも学問としての宗派であり、僧侶らは自由に行き来し、各宗派の学問を学んだようです。

 中国へ渡る僧侶たちが増えましたが、日本での受戒が中国では承認されていなかったので、比丘(びく:正式な僧のこと)としてではなく半人前の沙弥(しゃみ:修業中の僧のこと)の扱いを受けていました。日本人僧が一人前扱いを受けるためには、中国で認められていた三師七証から『四分律』を説く戒を受けて、一人前の比丘になる受戒制を取り入れる必要がありました。

 そのため、唐から授戒のできる人物を呼ぶことになり、当時、戒律の優れた鑑真が、日本人の僧、栄叡と普照の説得に応じ、船の難破など三回挑戦して、四回目にようやく来日できました。753年(七五三と私は覚えています)のことです。鑑真の来日により、日本でも受戒が可能となり、東大寺に戒壇(かいだん)が設置されます。鑑真は唐招提寺を建立し、律宗の活動中心になりました。鑑真来日については、井上靖氏の『天平に甍』 に詳しく描かれています。

 余談ですが、私は中学三年生、受験を控えた夏に、『天平の甍』を読みました。遣唐使に選ばれた留学僧4名と、彼らが中国で出合った日本人僧の5名の生き様と人生観、そして学問とは何なのかと云う問いに、激しい衝撃を受けました。還暦を超えた現在もその興奮は残っています。

 来日した鑑真は多くの経典ももたらしました。その中に、現在日本でよく知られている玄奘三蔵の漢訳『般若心経』が含まれていました。当時、すでに、この『般若心経』が日本に伝わっていた記録があるようです。仏教伝来の初期から、日本人はこの経典を親しんでいたのかもしれません。

 官僧になるための出家(得度)を官度といい、天皇の許可を必要とし、さまざまな手続きを経なければなりませんでした。戒律を受けてそれを遵守することも、重要な一つです。得度をさせる許可権は、天皇が握っていました。

  そうした中で、いつの間にか庶民の間にも、ひそかに仏教が広まり、日本の仏教は独自な発展を遂げていました。一部の留学僧が山林に定着し、異国神として伝来した仏教が、徐々に日本古来の神霊と混交して、神仏習合の概念が形成されます。山岳修行の修験者や山伏などです。

 彼らは官からの正式な許可を得ていない僧ですから、中央政府は彼らを蔑視して私度(しど)と呼んでいました。この私度の仏教者たちは、橋を架けたり、医療をほどこすなどの慈善・福祉事業を実際に手掛けました。彼らの行為は、中央政府の国家鎮護政策よりも遥かに宗教的だと、私には思えます。この非合法な僧侶の中では、役小角(えんのおづぬ 634〜701年)、道昭(どうしょう 629〜700年)、行基(ぎょうぎ668〜749年)、空也(903〜972年)らが有名です。

 中央政府は彼らを弾圧するには、民衆の仏教勢力はすでにかなりの広がりをもっていたと思われます。民衆を取り込むために、地方にも寺院(国分寺・国分尼寺)を建てなければならなくなり、彼らと徐々に譲歩と妥協を繰り返しますが、完全に彼らを吸収することはできませんでした。この非合法な仏教は鎌倉時代まで続きました。しかし彼らは、反体制でも反逆者でもなく、自分の生活にリアルに仏教を感じていたに過ぎません。

 その一人、行基は河内国(大阪)生まれ、百済系渡来氏族の出身で、須恵器(すえき)を生業としました。唐で玄奘三の教えを受けた道昭(どうしょう)に師事し、京都・宇治橋の建設などの土木工事に従事し、山岳修行を経て布教活動を始めました。畿内に多くの寺を建立し、行基の下に集まった僧尼や民衆と共に、墾田を行い、橋・道・溜池などを建設し、菩薩行、すなわち衆生救済の実践を重ねました。朝廷から僧尼令によって布教活動を監視され、僧尼令違反として名指しで批判を受けました。

 しかし行基の社会活動には、一目置かざるを得なくなったのです。743年、聖武天皇が東大寺に大仏(盧遮那仏)建立を発願したとき、行基は勧進聖を命じられ、東奔西走しました。745年、行基は日本初の大僧正に任じられます。752年大仏完成開眼供養会の3年前、行基は81歳で逝去しました。

 南都六宗は、朝廷公認の国家仏教であり、宗派の根拠とする経典を学ぶ教義仏教(学問仏教)で、東大寺を拠点に活発な活動をしていました。しかし、国家仏教としての保護を受けて、時が流れるにつれて豊かになり、僧侶に緩みと堕落につながりました。また政治との関わりも深くなり、僧侶・道鏡が政界に入り、第46代・孝謙天皇(女帝の重祚して第48代・称徳天皇)から特別深い寵愛を得て、太政大臣禅師に、次いで法王となり、最後には天皇の位を望むようになった『道鏡事件』などが発生しました。

 地盤を京都に持つ第50代・桓武天皇は、平城京(奈良)を棄て京都・長岡京(784年)に遷都を断行しました。政治の舞台を奈良・平城京から、京都・長岡京へ替えました。腐敗した奈良仏教の寺社勢力を排除し、寺院の新京への移転も認めませんでした。凄い決断力と実行力を実践した天皇です。

 余談ですが、私は学生時代の4年間を京都で過ごしました。そのとき一般教養科目で、『京都の歴史』を選択し、一年間の講義を受けました。京都で活躍した、というよりも、京都を活性化した人物の中で、平清盛や足利義満や織田信長や豊臣秀吉や坂本龍馬よりも、私は桓武天皇に強い関心を抱きました。新しく都市を造ったことに興味を持ったのです。

 桓武天皇の母は渡来人だったこと、そのために皇太子になれなかったこと、皇太子の他戸親王(おさべしんのう)が廃されて、皇位についたときは45歳(当時としては高齢)だったことにも驚きと興味を抱きました。69歳で崩御するまで、京都と地方政治(坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し3回遠征させました)に情熱を注ぎ続けたことに、二十歳前後の私には、桓武天皇がとても興味深い人物と感じたのです。

 閑話休題、翌年(785年)の秋、長岡京・遷都の責任者の藤原種継が暗殺される事件が起こりました。その嫌疑を掛けられた天皇の弟・早良親王が抗議の断食の末に絶命しました。その怨霊に朝廷は悩まされました。黒幕は、奈良の政治家であり歌人の大伴家持という説があります。

 和気清麻呂の進言を受け入れて10年で長岡京を断念し、桓武天皇は下鴨神社、上賀茂神社に祈念し、794年平安京遷都を断行しました。平安京は、唐の首都長安城に倣って計画都市として、建設されました。平安京の位置については、陰陽家であった清麻呂の風水思想によるとの説がありますが、私には分かりかねます。

 渡来系の氏族(渡来人)のパイプを持つ桓武天皇は、権威権力を手中にして、彼らの財力を背景に、辣腕を奮い社会を一新しました。まるで強風で大気が入れ替わるように、舞台は、奈良から京都へ一気に動き出し、平安時代に入りました。

 桓武天皇の朝廷は、唐の最新の政治経済文化を吸収するために、様々な人材を遣唐使として唐に渡らせました。当時唐は「安史の乱」の影響を引きずって、統制力が弱体化していました。税制が租庸調制から両税法に転回し、塩の専売などを始めていました。仏教においては、不空(706〜774年)が密教を大成しました。禅宗は荷沢神会(かたくじんね 684〜758年)が慧能(えのう 638〜713年)に参じ、自らを七祖とし、慧能を禅宗六祖とする南宗禅の立場を確立した時期でした。

 そして、日本の仏教界に優秀な二人の仏教徒が登場しました。最澄(767〜822年)と空海(774〜835年)です

 日本仏教界の歴史において、聖徳太子の次の時代、最澄、空海の双壁について、番外編として、少し詳しく生立ちから足跡をたどりたいと思います。

 ◆《番外編》◆
 最澄は、767年8月18日、近江の国・比叡山山麓の坂本で誕生し、幼名を広野といいます。父は土地の豪族・三津首百枝(みつのおびともも)です。12歳のときに出家し、大国師行表(だいこくしぎょうひょう)の弟子になり、僧になり官職を目指して、近江国分寺で修業生活を送ります。13歳で得度し、名を最澄と改めます。翌年785年4月、14歳のとき東大寺で正式な具足戒(ぐそくかい:僧の守るべき戒律)を受戒し、国家公認の僧となりました。
 
 同年7月に出奔(しゅっぽん)し、故郷の比叡山に籠り、草庵を建て山岳修業に入ります。鑑真がもたらした天台大師智(ちぎ)の著書を読みふけり、菩薩道を決意します。やがて仲間が集うようになり、788年21歳のときに、小堂を築き、自ら彫った薬師如来を安置します。これが、後の一乗止観院であり、延暦寺に発展することになります。それから6年後の794年、桓武天皇が平安京遷都し、比叡山は都の東北に位置し、一乗止観院は仏法力で都の鬼門を守る守護寺とされ、最澄と朝廷の関係が始まりました。

 797年、和気氏の推薦で、国家安泰を祈り天皇に助言おこなう内供奉十禅師を任命され、801年和気氏の氏寺・高雄・神護寺で法華十講、802年に天台講義を行い、天台法華宗を立宗しました。

 一方、空海は四国・讃岐国の豪族・佐伯氏の三男として、774年6月15日(最澄より7年遅い)誕生しました。幼名は真魚(まお)といいます。15歳で長岡京に上京し、母方の伯父・阿刀大足(あとのおおたり)に師事して漢学を学び、18歳で大学(官吏養成の最高学府)に入学します。しかし、立身出世を競うことに虚しさを感じ大学を出奔して、無空と名乗り、私度僧(得度を受けていない修行僧)として山岳修業に身を投じました。東大寺・戒壇院で受戒しました。798年、24歳のとき、最初の著書『三教指帰(さんごうしいき)』を執筆しました。

 803年、遣唐使が派遣されることになり、唐の仏教を学ぶように、最澄は短期間で帰国する還学生(げんがくしょう:国費留学生)として、朝廷から命じられました。一方、空海は密教を探究するために入唐を決意して、20年間帰国禁止の留学生(るがくしょう:私費留学生)となりました。奇しくも最澄36歳と空海29歳は、同じ遣唐使船団の別々の船に乗って、唐を目指すことになりました。二人は互いに面識はなく、立場も異なり、航海中に交流することは無かったようです。

 しかし、この遣唐使船団は瀬戸内海で難破しました。翌年、再編成された遣唐使船団4隻が出港しましたが、二隻が沈没しました。最澄が乗った船は明州に漂着し、空海が乗った船は海路を外れ南方の福建省に漂着、現地の役人から海賊と疑われ一行は上陸を許されませんでした。

 最澄は天台教義と大乗戒律を習得し、さらに天台教学を本格的に学び、天台宗の正統を継承しました。さらに密教、禅、戒律を学び、仏教の総てという意味の『円密禅戒』を受け継ぎました。しかし、天台教学ほど、密教を本格的に学んではいませんでした。わずか8ヶ月半で帰国しました。

 一方、福建省に漂着して上陸を許されない空海は、遣唐使の代表の一人・藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)に代わって、現地の役人『閻済美(えんさいび)』と筆談しました。日本三筆と讃えられた空海は達筆を発揮し、漢学漢詩の素養の文章力に、現地の役人は圧倒され、一行の上陸が許されたという逸話があります。さらに長旅を経て空海は長安に到着しました。

 余談ですが、三筆とは空海ほかに、第52代・嵯峨天皇と橘逸勢(たちばなのはやなり)です。この遣唐使船に橘逸勢が一員として乗船していました。今後、橘逸勢が空海の運命に大きく関わることになります。

 密教の正統を継ぐ青龍寺の恵果和尚から、空海は曼荼羅・独鈷(とつこ)などの密教法具や奥義の総てを伝授されました。結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受け伝法阿闍梨遍照金剛(でんぽうあじゃりへんじょうこんごう)となりました。一刻も早く密教奥義を日本に伝えたい空海は、20年間帰国禁止を破って、処罰覚悟のうえ、長安到着から1年後の806年に帰国しました。最澄に1年遅れです。

 帰国後、最澄は唐で学んだ天台教学を中心とした天台法華宗(天台宗)を、806年に立宗しました。天台宗は、衆生救済を目指す大乗仏教です。しかし、桓武天皇が期待していたのは、新しい密教に関する知識や法具でした。最澄は唐滞在中に密教の大家の教えを受けられず、期待に応えられませんでした。

 当時の日本仏教界は、教学や戒律を充分理解せぬ僧尼が多く増え、納税義務のない僧尼や寺院の増加を抑制することは、朝廷にとって重要な課題でした。密教を中心とした新しい仏教は、政治に関与圧力を掛ける奈良仏教と対抗させ、一線を画することが目的だったのです。

 それでも、天皇の命により、最澄は、不十分ながら、密教儀式の灌頂(かんじょう)や祈祷を、苦しい思いを抱えたまま行っていました。また、最澄は教育育成制度を目指し、比叡山に大乗戒壇院の創設に奮闘しますが、南都仏教の官僧に阻まれます。

 留学生(私費留学生)の20年間の滞在義務を破った空海は、第51代・平城天皇から入京を許されませんでした。帰国の3年後に平城天皇が崩御し、第52代・嵯峨天皇の皇后が、遣唐使船で同じ一員だった橘逸勢の従妹だったことで、空海に運が巡り、入京が許され、高尾・神護寺に滞在しました。

 神護寺は、最澄の後ろ盾の和気清麻呂の氏寺であり、ここで最澄は空海から密教の教えを受け、二人の交流が始まりました。812年、空海は神護寺で最澄ら140名に結縁灌頂(けちえんかんじょう)を行い、師弟関係を結びました。このとき、最澄45歳、空海38歳です。最澄は天台宗、空海は真言宗を究めようとしました。しかし、友好な交流は長く続きませんでした。

 二人の間で『理趣経』の解説本の貸借問題や、弟子を巡っての問題など、決別の原因はさまざまあるでしょうが、最澄も空海も仏教の教えを学ぶ真面目な求道者であり、筆受の伝統を重んじる最澄と、修行から悟りを説く空海は、究め方の違いから、二人は別々の道を歩むようになったと、私は考えたいです。

 密教の教えを空海から授かることを断念した最澄は、後ろ盾だった桓武天皇が崩御した晩年の目標を、奈良仏教・南都六宗と論争を通して天台宗の正当性を証明することと、比叡山に大乗戒壇院を設立することに注力しました。822年6月4日、最澄は55歳で入滅しました。その7日後に、大乗戒壇院開創の許可が下りました。しかし、南都六宗と論争は決着が尽きませんでした。

 当時の戒壇院は、東大寺、薬師寺(下野)、観世音寺(大宰府)の3か所総てが、南都六宗によるものでした。そこに風穴を開けた比叡山の大乗戒壇院開創は、画期的な出来事と云えます。

 一方空海は、東大寺に灌頂道場真言院を開設、高野山を開山、讃岐の満濃池を修築、京都・東寺(教王護国寺)を真言密教の根本道場とし、東寺の隣接地に綜芸種智院を開学しました。日本初の庶民の学校です。また空海は『十住心論十巻』や『秘蔵宝論3巻』を朝廷に上進し、これを機会に奈良仏教に対する平安仏教の立場が確立し、仏教は新しい時代に入ったと云われています。

 835年3月21日、空海は入定しました。61歳です。空海の入滅を入定というのは、空海は亡くなったのではなく、今も高野山の奥の院で覚りの境地に入って衆生(人々)を見守っている、空海は生きているという受け止め方を表しているようです。

 二人の考え方について、最澄は大乗仏教の流れをくみ、特に法華経を重視して「一切衆生悉有仏性」(いっさいの生きるものはことごとく、仏になる可能性を持っている)と説いて、生まれついての資質などに関係なく、私たちの全員が仏になりうるという「法華一乗」の教えです。

 一方、空海は、密教(大日如来の教え)を重視し、人は誰でも生きたまま仏になれるという即身成仏の考えを持ち、そのためには三密を実践しなければいけないと説いたのです。

 最澄・空海の後日談として、彼らの弟子について、少し触れておきます。
 最澄の意思を継いだ円仁(795〜864年)、円珍(814〜891年)は共に唐に渡り、密教を習得し、円仁は山門派、円珍は寺門派(三井寺:園城寺(おんじょうじ))の祖となり、天台密教(台密)を完成させただけでなく、唐から浄土教、浄土思想を日本にもたらしました。

 比叡山中興の祖と云われる良源(912〜985年)に師事した源信(942〜1017年)は、『心略要集』『往生要集』などを著し、浄土思想を広め、源信の後輩たちから、現在のほとんどの宗派につながる宗祖が生まれることになります。

 空海の入定後、金剛峯寺(高野山)は真然(しんぜん ?〜891年)、東寺(教王護国寺)は実慧(じつえ 786〜847年)、神護寺は真済(しんぜい 800〜860年)が継承し、真言密教(東密)は、今日まで脈々と法統・門統を伝えています。四国八十八箇所は、四国にある空海ゆかりの88か所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所です。弘法大師と共にいるという同行二人(どうぎょうににん)で、毎年多くの人々が、四国八十八箇所をお遍路で訪れます。それほど、人々に空海は慕われているのでしょう。

 長々と最澄と空海の足跡をたどってきました。
 最澄は桓武天皇の、空海は嵯峨天皇の後ろ盾を得て、日本仏教の基礎を築いたことが最大の仕事(業績)だったと思います。奈良時代から既に密教は日本に伝わっていましたが、それを本格的に完成させたのが空海で、最澄は弟子たちによって完成できました。この密教を持って、奈良から一新した平安時代に、仏教界にとどまらず新しい日本の文明を造り出したように思います。
 
 二人は互いの実力や意欲を認め合っていたでしょうが、互いに人間性も違い、目指すものも違い、独自の道を突き進みましたが、競い合うようなライバルとの意識は無く、仏教を究める同志として互いを認め合っていたと、私は思いたいのです。
 以上《番外編》を終わります。


 平安時代は、約400年続きました。第43代・元明天皇が710年に平城京遷都までの飛鳥時代までは、特に政争は力と力の対立であり、血が血をよぶ殺戮が多く行われました。それは奈良時代も続き、平安時代になり少し落ち着いた時代になったように思います。それは、日本全体が少しずつ豊かになり、落ち着いてきたからでしょう。

 奈良時代の万葉集には、仏教をテーマにした歌はほとんど見られませんでした。仏教はまだ異国の文化であり信仰であったのでしょう。しかし、平安時代の国風文化が発達とともに、仏教は大和歌にも馴染んで、人々の心に浸透して、仏教信仰は日本に拡がり定着した時代です。

 平安時代の中頃から鎌倉時代の初めにかけて、災害が多発しました。また、律令制度が崩れ、貴族社会から武家社会に大きく移行する過渡期になり、度重なる戦乱も起きるようになり、社会が不安定な時代でした。

 もう数十年以前になるでしょうか、五島勉の本『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになり、1999年7月に人類が滅亡するという、ノストラダムスの予言が世間を騒がせたことがありました。科学が発達し、人々の知的レベルも高い昭和後期でさえ、公害問題を抱えていたこともあり、将来の不安をかきたて、科学的根拠のない一種の終末ブームを引き起こしました。

 これと同じようなことが、鎌倉時代にもありました。末法思想です。幕府の体制に属していない仏教僧侶によって、『世の中が混乱し、天災や飢饉が多発するのは、釈迦牟尼さんの正しい教えが破滅した末法の時代が、今なのだ』と、宣伝されたのです。
 
 『大集経(だいじつきょう)』『摩耶経(まやきょう)』『倶舎論(くしゃろん)』等の経典によると、《釈迦牟尼さんの言葉通りの教えが正しく行われている「正法」の時代が千年続き、次に似て非なる教えが現れる「像法」の時代が千年あり、最後に法が破滅してしまう「末法」の時代が千年続く》と、云うのです。正確な情報がなく、科学の知識が乏しく、客観的な把握力が乏しい当時の人々にとって、僧侶の発言を否定する根拠を持ち得ず、『鎌倉時代が末法である』と悲観的なムードが社会に漂い、不安が拡がったと思います。

 釈迦牟尼さんの入滅日をインドにおいても不明ですから、今がどの法(正法・像法・末法)に当たるのか解るはずもなく、中国において僧侶の堕落の理由づけのために、上記の経典の論が加工されたのでした。根も葉もないうわさ話が、まことしやかに信じられて行ったのです。

 日本では1052年から末法の世に入ると言われ、どんなに努力しても修行も悟りもできず、国が衰え、人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない残酷な世界になると考えられたのです。このようなムードを逆に利用して、法然や日蓮が信者獲得に熱心だったと指摘する学者がいます。真偽のほどは、私には解りません。

 このような社会不安が高まるにつれて、即身成仏のような現世での成仏や救いを諦め、来世に極楽に往生して成仏する浄土思想が普及していきました。浄土信仰とは、この世はとても苦しいところだが、阿弥陀仏の慈悲によって私たちは極楽浄土に往生できるという考え方です。極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などが盛んに描かれ、その究極として宇治の地に平等院を建立されました。その鳳凰堂の姿形は、極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものです。この時代の浄土信仰の代表的な人物は、最澄の弟子の源信(げんしん 810〜869年)です。

 また、律令制度が崩壊するにつれて、増大した寺領荘園(しょうえん)は裕福になり、盗賊などに狙われる危険性が高かまり、そこで寺院は自衛する必要が生じ、非常の場合、寺院集会(しゅうえ)を催して、僧侶たちは軍団組織を築き始めました。これが僧兵の始まりです。平安末期に第77代天皇後に出家した白河法皇(1053〜1129年)が「賀茂(かも)川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師、是(これ)ぞ朕(ちん)が心に随(したが)わぬ者」と述べるほど、僧兵の勢力は強大であり、その組織はさらに寺院連合によって、平家などの武士をも圧倒するほどでした。

 次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団として社会の不安要素の一つになりました。寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の城塞化を進める寺院まで現れ、朝廷や権力と結びついて、宗教本来の存在を見失い退廃してゆきました。

 ちなみに、強大な僧兵の勢力で寺院は、興福寺、東大寺、・延暦寺、園城寺(おんじょう)の四大寺です。その他に、高野山(こうやさん)・金峯山(きんぶせん)・熊野(くまの)・多武峰(とうのみね)・白山(はくさん)・彦山(ひこさん)などの諸山のほか、醍醐(だいご)・鞍馬(くらま)・根来(ねごろ)・播磨大山(はりまだいせん)・伯耆(ほうき)大山の諸寺などです。特に興福寺の僧兵は奈良法師、延暦寺は山法師、園城寺は寺法師と呼ばれていました。

 東大寺・盧舎那仏は二度消失しています。
 後白河法皇と密接なつながりのあった園城寺や興福寺は公然と反平氏活動を始め、平清盛の命を受けた五男の平重衡が、治承4年(1180年)12月、園城寺、興福寺、東大寺を攻撃した際に、多数の僧侶たちが焼死し、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽くし、大仏も焼け落ちました。これが一度目です。重源(1121〜1206年)が寺院の再興の寄付を募る『勧進』によって、文治元年(1185年)に大仏の開眼法要が営まれました。重源の功績が極めて大きいです。

 二度目は、戦国時代の永禄10年(1567年)、松永久秀の兵火によるものです。この時は、復興事業が進まず、仮堂で復興するが、慶長15年(1610年)大風で倒壊しました。元禄5年(1692年)に開眼供養されました。これが現存の大仏です。752年当時より約75%の規模のようです。


ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ