私考・本能寺の変 其の4
第4章 本能寺・その後
少しだけ時間をさかのぼって、明智光秀の行動を追ってみたいと思う。
天正10年(1582)5月14日(それ以前だと私は思う。饗応の準備が前日から出来るはずがないと考えられるからだ。)、明智光秀は信長から家康の接待を命じられた。翌5月15日、家康は穴山梅雪と共に安土に入った。光秀は、京都・堺から珍味を取り寄せて、その接待に贅を尽くした。その同じ日、備中高松城を囲んでいる秀吉から、毛利輝元自ら吉川元春・小早川隆景を率いて後巻きにやってきた、という注進が届いた。ここで信長は決意する。自身が中国まで出馬して毛利軍を蹴散らし、その勢いで九州まで攻め込もう、と宣言したという。(『信長公記』)
光秀とその与力である長岡(細川)忠興、筒井順慶、摂津の遊撃軍団である池田恒興・中川清秀・高山重友(右近)・塩河長満に、信長から出陣の命が下された。光秀は家康接待の任務を解かれ、17日に安土より坂本に帰城した(『信長公記』)ことは、前章(第3章:本能寺・その前)で記した。
5月15日からの『家康の饗応』の準備について、フロイスの『日本史1582年日本年報追加』によると、『信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(の意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、信長の好みに合わぬ要件(信長の勘にさわる話題)で、明智が言葉を返すと、信長は逆上して、立ち上がり怒りをこめて、一度か二度、明智を足蹴りにしたということである。』との記述がある。
なお、この話はフロイスが直接見たのではなく『人が語るところによれば』とあるように、伝聞である。信長がどのような話題によって、光秀を足蹴りにしたかは不明である。もし、この話が事実であるならば、光秀は少なくとも信長に対して、良い感情を抱かなかったと思われる。
フロイスが『元来、信長は逆上しやすく』と述べているように、信長が突然怒り狂って暴力を振るうのは、日常茶飯事であり、信長が光秀に折檻を加えても、しばらくするとすっかり忘れてしまう性格だったかもしれない。概して、加害者は忘れやすく、被害者は忘れないものである。そのような信長の性質を光秀も熟知しているはずである。
その直後に、信長は光秀に備中国への出兵を命じている。信長は光秀に悪い感情を抱いていなかったので、対毛利の援軍という大役を任せたのか。無警戒の状態で本能寺に向かい宿泊したのだから、光秀のことを信長は信頼し、疑うことも無かったのだろう。しかし、これは信長の油断に違いない。
5月17日、饗応役の任を信長から解かれ、出兵の命を受けて、その準備のために光秀は居城の坂本に帰城した。光秀は坂本で9泊過ごした。丹波国にいる家臣に出陣の指令を出す一方、志賀郡の武士たちに直接命令をくだして、遠征の準備をさせていたものと思われる。(『信長公記』)以下、時間を追って光秀の行動を記すと
5月15日〜17日、家康の饗応役を務める。
5月17日、安土城から坂本に帰城する。9日間坂本城に滞在する。
5月26日、坂本城を発し、亀山に帰城した。
5月27日、愛宕山へ参詣し神籤を引く。
5月28日、西坊威徳院で里村紹巴らと連歌会を行い、亀山城に戻る。
5月29日、早朝、信長は安土を発ち、京都本能寺に向かう。
光秀は、出陣に向けて、鉄砲の弾薬等の荷物を西国に向けて運び出す。
(この年は、5月は29日まで)
6月1日酉の刻(午後6時)ごろ、亀山城から出陣する。
6月2日早朝、本能寺に信長を襲う。
光秀がいつ謀反を決意したのだろうか。時間的に見ると、安土から坂本へ戻る船の中(5月17日)までは、信長を恨む心はあっても、謀反までには、思いが固まっていなかったと思う。
5月17日、安土から坂本に帰城した。光秀は、坂本城で9日間過ごす。26日、坂本城を発し亀山城に入る。
坂本から亀山に帰った翌日(5月27日)、修験場としての歴史を持つ愛宕神社(愛宕山)へ登り参詣した。勝軍地蔵は軍神として信仰を集めている。その『太郎坊』で神籤を引いた。出陣を前にした武将が勝軍地蔵に詣で籤で吉凶を占い、連歌会を催すことは、ごく自然なことであり、特別なことではない。しかし、このとき光秀は籤を1度ではなく、2度3回引いたとされることから、この時、光秀は謀反の判断に揺れていた推測は可能だが、決意にまでは至らなかったと思う。
翌日5月28日、光秀は連歌会を坊舎・西坊威徳院で開催した。著名な連歌師・里村紹巴以下、錚錚たる面々が参加した。これがいわゆる『愛宕百韻』である。このとき光秀は、『ときは今、あめが下知る、五月哉』という発句を詠んだとされている。この発句は『とき=土岐』と解釈され、土岐氏の士族である明智氏が『あめが下知る』を『天が下知る』に掛けたものとして、光秀が『土岐氏の一族である私が天下を治めるべき五月である』という意味を持ち、謀反の意思表示をしていたと解釈されてきた。
しかし、この発句は、『あめが下成る』を『あめが下知る』と、後日意図的に書き換えられた疑いが持たれている。『ときは今、あめが下成る、五月哉』ならば、『今は五月雨が降りしきる5月ですね』となり、単純に雨が降っている情景を歌ったに過ぎない。一般的に、極秘中の極秘であるべき謀反を、窺わせるような軽率な歌(行動)を、首謀者の光秀が披露するとはとても考えられない。さまざまな憶測は可能だが、結果(本能寺の変を起こした)から読み解くことは用心すべきではないかと思う。愛宕山・西坊威徳院での連歌会を終えて、その日(5月28日)に亀山城に戻った。
『5月29日、上様御上洛し、数日京に御滞在のもよう。伴は森乱ほか数十名の近衆あとは女子・小者たちのみ』との情報を得たことが、光秀を謀反に足を踏み出す最大のきっかけだと思う。いつ、どこで光秀が、この情報を得たのだろうか。坂本に帰城した5月17日以降、6月1日亀山城から京に出陣するまでの14日間と考えられる。
光秀は謀反が成就する可能性の度合いを、さまざまな不測の事態を想定し、ベターな方法と段取りを探るシュミレーションを何度も何度も繰り返し、ひとり検討したに違いない。
柴田勝家は越中に上杉と対戦中で動けないだろう、毛利と四つに組んだ形の秀吉は、援軍を要請する状態だから、しばらく釘付け状態が続くことは確実だ。滝川一益は遥か関東で北条と対峙している。丹羽は信孝と四国攻めに向かって大坂から四国に渡ろうとしている。家康は堺に遊んでいる。京は無防備な状態だ。信長だけでなく嫡男・信忠も京にいる。本能寺・妙心寺(信忠宿陣)は亀山からわずか5里、襲撃は容易い。しかも畿内周辺にあるのは、明智軍団だけである。
首尾よく信長を倒せば、大坂方面の丹羽や信孝は恐れるに足らず。京および自身の居城坂本を足固めして、まず信長の居城安土のある近江の織田の本拠を制圧することだ。畿内の大和勢力である筒井順慶は無二の配下であり、親しい細川藤孝が見方になるから畿内の制圧も容易であろう。そうして、態勢が早々に固まれば、後のことはなんとかなる。
反信長勢力を弱体化ないし一掃できる可能性すらある。毛利・上杉、四国の長曾我部や関東の北条など織田勢の当面の敵たちと通じれば、織田の重臣達は各個撃破される可能性すらある。本願寺顕如親子に率いられている各地の一向宗徒、比叡山・高野山の僧徒ら、信長に滅ぼされた機内周辺各地大名の遺臣・地侍達は、信長の横死を喜び、少なくとも明智軍に挑むことは無いだろう。最も恐るべき織田の長老柴田勝家の反転攻撃までのタイムロスに、筒井順慶・細川忠興らと軍勢を整えれば十分勝機は見えてくる。この絶好の機会を利用して謀反を起こせば、十分成算があると、光秀は判断したに違いない。
6月1日、丹波亀山城にあった光秀は、ついに謀反を決心するに至った。この日以前に、光秀と重臣たちの間で謀反の謀議が行われたことを明示する史料は、現在のところ見つかっていないようだ。しかし、光秀と重臣たちが、信長に対する種々の不満を話し合うことは在ったはずである。不満が共有されていれば、光秀が謀反の決意を打ち明けた段階で、重臣たちが同意する下地が出来ていただろうから、光秀は決意を示すことが出来たと考えられる。
『信長公記』によると、光秀は重臣である明智秀満、斎藤利三、明智次右衛門、藤田伝五、三沢(溝尾)秀次の5名と談合を持ち、下記の2点決め合意した。
@信長を討ち果たすべく『天下の主』となるべく調儀(計画)をしっかり行うこと。
A中国へは三草山(兵庫県加東市)を超えるところで引き返し、東に進路を向けて老い山(京都市北区)を上って、山崎(京都府大山崎町)から出征することを諸卒に伝え、談合者(明智秀満ら5名)を先手となること。光秀は家臣団に基本的指示をすると、将たちは具体的な施策に取り掛かった。明智軍団は機能主義者信長の旗下で最も機能的な軍隊であった。そして、山崎敗戦まで、光秀の部下の将で彼を見捨てて離れた者が居たという記録は無い。心と形と二つの面から統制は隅々まで行き届いていた。
あの時点、あの場所、あの形で、何故『本能寺の変』が起こったのか。そして、光秀の謀反が何故成功したのか。それは、信長だけでなく、嫡男・信忠もが小人数で本能寺と妙心寺に泊まったからである。信長の油断が招いた失策である。そういう機会はめったにない。また、光秀が疑われることなく大軍を集め、京の襲撃の場所まで動かせる機会もめったになかった。光秀にとってこれらの好条件が重なったとき、初めて本能寺の変は成功したのである。
この絶好の機会は、光秀自身が作れたものではない。もちろん、彼以外の特定の誰かが作ったものでもない。光秀が中国出陣を命ぜられたのは、その直前に秀吉から信長への援軍要請が届いたからだ。また、他の武将たちが総て京都周辺から離れていたことも、織田家の内部事情によるものであり、光秀を含めて特定の誰かが工作した結果ではない。つまり、この好機は、天正10年5月の後半に突然飛び込んできたものだ。
6月2日夜明け、本能寺の変が起こった。(『私考本能寺の変』其の2:本能寺・その日)を参照のこと。
6月2日午前9時に本能寺、二条御所を落とした後、信長と、信忠の遺体確認すること。そして、京には織田家中の馬廻衆が多く入っていたから、信長方の兵卒の落人狩りを光秀は命じた。光秀の心境になれば、信長と信忠が何らかの方法で脱出した可能性を危惧し、遺体が見つかるまでは安心できなかった。しかし、結局、信長と信忠の遺体はついに確認できなかった。光秀には、不安が残ったに違いない。
落人狩りはかなり丹念に行われた(『信長公記』『『兼見卿記』』。取り急ぎ、京都市中における禍根を断ち切りたかったと推測される。本能寺の変が勃発したことで、洛中は不安と動揺で満ち溢れていたが、光秀は探索の手を緩めることはなかった。この状況に不安を隠しきれない本能寺や二条御所付近の都市民は、大挙して御所に押し寄せた。(『天正10年記』)御所は、安全地帯であると確認されていたからである。彼らは御所内に小屋を作り、難を逃れようとした。
光秀の味方となる勢力を募り、いち早く臨戦態勢を整え、信長に代わる権力者として、取り急ぎ京都支配を円滑に進めることが必要であった。光秀と共に、中国攻めの秀吉の救援に向かうべく、中川清秀、高山重友(右近)らの軍勢が摂津に待機している。彼らの動きを警戒し、光秀は勝龍寺城(京都府長岡市)に三沢秀次を置いた。その後、光秀はいったん居城のある坂本に戻った。光秀にとって、長い一日終わりを居城、坂本で過ごした。
本能寺の変の当日6月2日、秀吉や丹羽以外の織田家宿将たちはどうしていたのだろうか。
長老柴田勝家は、佐々成政・前田利家・佐久間盛政らを率いて越中の魚津城を攻囲し、6月3日(本能寺の翌日)に陥落させた。更に松倉城を囲んだ7日頃に、変報が届いた。
羽柴秀吉は備中高松城を攻囲しており、変の前後は毛利側との和睦に廃心していた。
滝川一益は関東管領として上野国廏橋(うまやばし:群馬県前橋市)にあったが、報知を聞いて帰国前に北条へ一撃を与えようと軍勢を動かせた。
森長可は、信濃北部四郡を領して川中島にあった領国に居た。事変を知った国人との一揆が勃発し、その戦いの渦中だった。
織田信孝以下、蜂屋頼隆、津田信澄は、摂津・住吉およびその周辺で待機しており、6月3日は四国渡海の予定であった。
家康は堺で茶の湯三昧であったが、6月2日信長に面会のために堺から上京の途中で変報を受け、はじめ知恩院で追腹を切ると称したが、一転して伊賀の山中を越え、4日に伊勢大湊に出て帰国した。別行動した穴山梅雪が土民に襲われて殺された。
6月2日巳刻(午前10時頃)安土城では、信長が本能寺に斃(たお)れると、『安土には風が吹くように』(『信長公記』)、そのうわさが伝わってきた。騒いでいるところに、京から下男衆が逃げ帰ってきて、やがて事実が確認されると、大混乱に陥った。安土城には中国への出陣を控えた馬廻り衆二千人や留守役などが居た。彼らは城に踏みとどまって明智軍を迎え撃とうとはしなかった。まず、美濃・尾張出身者が、家財道具も置いたまま、妻子ばかりを引き連れ、本国をこころざして、われ先に尾張、美濃などの本領にていち早く逃亡した。残ったのは近江出身の者人々だが、2日の夜には、近江山崎城(彦根市)の山崎秀家が安土の屋敷を自焼して居城へ戻ってしまう。安土に居た信長の家臣団が、外側から同心円状に崩壊していったのである。
安土城を預かっていた蒲生賢秀は上臈衆(じょうろうしゅう:女性)と『御子様たち』を本拠の日野に避難させることとし、子息の蒲生氏郷を迎えに呼んで、木村高重に安土城を託して、織田家の者達を率いて3日の午後に避難させた。木村高重は、安土城の普請奉行であり、安土山下町の町奉行格でもあったが、館がもともと安土の常楽寺であったため逃げるところは無く、安土城と運命を共にするほか無かった。木村源五と共に明智軍との戦いで、城を枕に討ち死にした。
誰一人として、安土にこもって明智勢を迎え撃ち、信長の二男・信雄、三男・信孝を待とうとはしなかったし、柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、柴田勝家軍との合流を図ろうともしなかった。家臣の誰もが『織田家』を守らなかった。ちなみに、信長の仇を討った秀吉も、光秀を討った後、信孝(三男)は天正11年尾張内海の大御堂寺に攻め殺し、信雄(二男)は天正18年に下野那須に追放した。信長に絶対服従していたように見える秀吉さえ、織田家への忠誠心よりも、己の野望が勝っていたということである。
6月3日、光秀の一番に気掛かりは、秀吉ではなく、柴田勝家だ。勝家の北国勢を防ぐため、まず近江の諸城を奪い北方を固めることを第一として、それから南方へ手当てをしようと考えていた。そのためにも、織田家の本丸である安土城を含む近江を制圧することであった。
光秀は安土城に軍勢を進めたが、大津から勢多川(瀬田川)を渡ろうとしたとき、勢多を本拠地にしていた山岡景隆が光秀に服属することを拒否し、勢多橋(瀬田の橋)を焼き落としてしまった。安土城の占拠が遅れることは、大きな時間ロスである。仕方なく、橋の修理を命じて、光秀は近江、若狭の国衆を誘降することに務めた。
6月4日、光秀が味方の一人にと考えていた大和の筒井順慶に服属を求めると、すぐに応じて援軍として、宿将の井戸良弘が兵を率いて京に入り、更に近江へも軍を進めた。
もう一人の当てにしていたのは、細川藤孝である。藤孝の嫡男・忠興は光秀の娘お玉(細川ガラシャ)を妻として迎えていた。こうした関係から、光秀は間違いなく味方してくれると思っていた。しかし、藤孝は光秀の申し入れを即座に拒絶すると、父子ともに信長に弔意を示すために剃髪した。藤孝は、光秀不利と判断したのであった。藤孝は、光秀が二人の交際から信じたような単純な文化人ではなく、したたかな権門の血を受けた官邸人種の一人であった。藤孝個人である前に、名門細川家の当主であることを貫く決断だった。
6月5日、勢多橋の修復に時間が掛かり、光秀は安土城に入った。その後、光秀に付き従った近江の国衆たちが、秀吉の居城長浜城、丹羽の佐和山など近江の諸城を次々と落城していった。いち早く、光秀は近江を配下に納めたのである。この時点で、光秀に付き従ったのは、旧若狭守護の武田元明と同じく旧近江半国守護の京極高次たちである。ともに名門の出自ではあるが、すでに力を失っていた観は否めない。
光秀は安土城中の金銀財宝の多くを諸将士に分配した。秀吉の金穀分配のような人気高揚のためと思われる。しかし、この際の光秀の立場では、軍用金として募兵(ぼへい)のために使うべきだった。後日の京都五山などへの献納も同様だ。
織田政権の中で、光秀が朝廷公卿たちと繋がる人物であることは、誰もが認めるところである。光秀は進歩思想の持ち主である半面、文化教養の愛好者・尊重者であり、皇室に対しても敬意を欠かさない。宮廷の有力者である吉田兼見と終始親交を持ち続けていた。
そして実際に光秀が信長を討って、6月7日安土城に、兼見が朝廷の使者として面会時、緞子(どんす)一巻を賜与し、京都を安静に保つようにと勅旨を伝えた。光秀が京へ帰るときには諸官諸卿が出迎えるという。光秀は辞退したが、大いに感激した。宮廷は信長の横死を複雑な思いで捉えていた。人物として、信長に代わって光秀が安定できれば吉事ではあるが、再び混乱することは避けらないと覚悟しなければならなかった。
事変後、光秀は朝廷に金子を献上し、朝廷との良好な関係を築くことに努めた。
その後の織田家宿将たちの動きに、目を向けてみると
四国遠征軍の一員として大阪にいた丹羽・信孝の軍は、光秀の謀反と信長の横死を聞き、多くの兵は逃げ散った。光秀の婿であり信長に殺された弟・信行の子である織田(津田)信澄が、光秀に加担するのではないかと疑い、5日急に襲って殺した。信澄は俊敏な武将であったとされ、光秀にとって大きな痛手だった。彼らは秀吉の東行するまでなすことなく過ごした。
柴田勝家は、佐々成政・前田利家・佐久間盛政らを率いて6月3日に魚津城を陥落させ、その勢いで、更に松倉城を囲んだ7日頃、事変を知った。勝家は直ちに兵を引き、佐々成政に富山を守り上杉を防がせようとした。しかし、前田利家は能登の一揆を理由に従軍を辞退し、佐久間盛政も加賀の地侍の反乱を防ぐ為に残すと、実際に勝家の上洛軍は1万程度と考えられる。
関東管領の滝川一益は上野国廏橋(うまやばし)にあったが、事変を知り、京に引き返す前に北条へ一撃を与えようとしたことが裏目になり、6月19日に大敗し、伊賀の本領へ逃げ戻った。川中島にあった森長可は、領国を捨て一揆に苦戦しながら、やっと美濃の旧領へ戻った。
4日に三河に帰参した家康は、弔い合戦と称するが、直ちに甲斐国・信濃国へ侵攻した。武田を滅ぼして織田領になったばかりの甲斐国・信濃国を家康の領土とすべく行動を開始した。旧武田家臣を扇動して一揆を起こし、甲斐国を治める織田家重臣の河尻秀隆を6月18日に殺させた。そして、最終的には甲斐国全土と信濃半国を手中に収めた。これは、あきらかに織田家への敵対行為であり、家康には光秀討伐の意志が全く無かった。そして、不思議なことに、どの織田家臣からも、この甲斐・信濃への侵攻をとりたてて咎められなかった。
信長の次男・信雄は伊勢に大領を持っていたが、かなりの部下は信孝の四国征伐に動員されており、また足下に一揆が起こり、どうしてよいか解らず、やっと6月15日、前日明智秀満が去った安土城へ出かけた。しかもその前後天守閣が炎上したので、『兼見卿記』には愚か者の信雄が焼いたと記述されている。
羽柴秀吉が事変を知ったのは、6月3日夜(4日の説もある)であった。直ぐに高松城内に使者を遣わし、和平交渉(高松城開城の条件)を再開した。領土割譲問題が棚上げとし、清水宗治の切腹を条件に講和を成立させた。
和平決定後、秀吉は早速城中の清水宗治に対して、最期の酒と肴を贈っている。秀吉は湖上と化した備中高松城に小船を送り、宗治とその家臣を本陣に招き入れた。ともに杯を酌み交わし、舞を踊った後、6月4日巳刻(午前10時頃)宗治は辞世の句《憂き世をば いまこそ渡れ、武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して》を詠んで自刃した。ちなみに、毛利氏が信長の死を知ったのは、宗治切腹後、数時間後の4日夕方5時ごろであった。
信長の死を隠し、急いで毛利氏と講和を結んだ秀吉だが、その後、逃げるように高松を去ったわけではない。(その日から順次高松を後にした説もある) 2日間そこに駐まっている。それは毛利軍の出方を警戒したからである。直ぐに軍を引き上げたなら、追撃される恐れがあり、事変を知った毛利軍が向かってくるなら交戦する姿勢を示した。毛利氏の小早川隆景軍が引き始めたことを確かめた6日午後、秀吉は備中高松城に腹心の杉原家次を置き、宇喜多勢を残し、他は全員姫路に向かって引き上げた。これが有名な『秀吉の中国大返し』である。以下、中国大返しの日程と天候をまとめた。
2日 曇り 備中高松城水攻め交戦中
3日 大雨夜 凶変至り、深夜毛利方と和議成立
4日 高松城主・清水宗治自刃。起請文調印。夕方毛利軍も情報入手
5日 大雨 高松在陣
6日 高松発−沼着。(20キロメートル)
7日 大雨 洪水に遭い滞陣する。
8日 沼発−(吉井渡河)姫路着(80キロメートル)。
9日 大雨 姫路発−(夜半)明石着(40キロメートル)
10日 兵庫発−西宮に進出(40キロメートル)
11日 雨 西宮発−尼崎着。(10キロメートル)
12日 尼崎−摂津富田方面に進出。17キロメートル)中川清秀・高山右近・池田恒興来属
13日 雨 織田信孝・丹羽長秀合流。富田−山崎(12キロメートル)
午後4時頃、開戦。 明智軍、敗走。
約220キロメートルを一週間で移動したことになる。一日平均30キロメートルの移動である。天候が悪い中、整備された道を行くのではなく、信じがたいことである。一人残らず移動できたとは考え難いと私は思う。
一方、光秀の動きに、目を戻すと、
8日、安土城を明智秀満に任せ、光秀は安土を離れる。筒井順慶もまた京へ出した兵を引き上げ、郡山城に籠城の構えをとる。
9日光秀は上洛するが、諸官諸卿が出迎えるというのを固く辞退している。この期間、宮廷は一貫して光秀を優待した。それは、光秀に対する過去からの宮廷の信頼親近感や、信長に対する潜在的な恐怖もあるが、しばらくは、目立った動きを控え、様子を窺っていた。光秀は京の町の地子銭を免じ、禁裏と誠仁親王に銀子五百枚、京都五山と大徳寺にそれぞれ銀百枚さらに、兼見の吉田神社へも五十枚を献納し、兼見とは夕食をともにした。
天正10年6月9日付けの細川忠興宛の明智光秀書状(細川家文書)がある。高松城攻めをしていた秀吉軍が姫路まで戻ってきたことを知った光秀の心境を如実に表している。それは、以下である。
明智光秀書状(『細川文書』)より
一、御父子(細川藤孝・忠興))もとゆゐ(元結)御払候由、尤無余儀候、一旦我等も腹立し候へ共、思案候程、かやうニあるへき存候、難然、此上者大身を被出候て、御入魂所希候事、
一、国之事、内々摂州を存当候て、御のほりを相待候つる、但(但馬)・若(若狭)之儀思召寄候ハ、是以同前ニ候、指合きと(急度)可申付候事、
一、我等不慮之儀在立候事、忠興なと取立可申とての儀ニ候、更無別条候、五十日・百日之内ニハ、近国之儀可相堅候間、其以後者、十五郎(光秀嫡男・明智光慶)・与一郎殿(細川忠興)なと引渡申候て、何事も在間敷候。委細両人可被申候、以上
(天正十年)六月九日 光秀(花押)
(読み下し文)
一、御父子もとゆい御払い候由、もっとも余儀なく候、一旦我らも腹立ち候へども、思案候ほど、かようにあるべきと存じ候、叱りといえども、この上者大身を出され候て、御入魂希むところに候事、
一、国の事、内々摂津を存じ当て候て、御のぼりを相待ち候つる、但馬・若狭の儀思し召し寄はば、これをもって同前に候、指合い急度申し付くべく候事。
一、我ら不慮の儀存じ立ち候事、忠興などを取り立て申すべきとての儀に候、更に別条なく候、五十日・百日のうちには、近国の儀あい堅むく候間、それ以後は、明智光慶・細川忠興殿などに引渡し申し候て、何事も存ずまじく候、委細両人申さるべき事、
三か条の内容をまとめてみると。@藤孝・忠興親子が髷(まげ)を切ったことに対して、光秀は最初立腹したが、改めて二人に重臣の派遣を依頼し、親しく交わって欲しいと要請したこと。A藤孝・忠興親子には内々に摂津国を与えようと考えて、上洛を待っていた。ただし、若狭を希望するならば、同じように扱う。遠慮なくすぐに申し出て欲しいということ。B私(光秀)が不慮の儀(本能寺の変における信長謀殺)を行ったのは、忠興などを取り立てるためであった。それ以外に理由はない。五十日、百日の内には、近江の支配をしっかり固め、それ以後は明智光慶と忠興に引き渡して、自分(光秀)は政治に関与しないこと。
この文面において、「不慮の儀」の言葉から、さまざまなことが推測される。
その1、本能寺の変は、計画的なものではないことが窺われる。一連の行動は娘婿の忠興の為であったと、光秀は話をすり替え、畿内を平定のうえは政治から退き、明智光慶と忠興に任せると、言い訳をしている。追い込まれた光秀は、筒井順慶に恭順の意志が持てず、何が何でも藤孝・忠興父子を味方に引き入れなくてはならなかった。光秀には政権構想や政策を何一つ触れず、じたばたしている様子がうかがえる。
その2、共謀者や黒幕の影が窺えない。もし、そのような人物が存在すれば、追い詰められている光秀にとって、それらを匂わせるバックを、何らかの表現で示す可能性が高い。しかし、本文にも行間からも、そのようなことを感じさせるものは、まったく無い。
その3、政権を奪う政治家としての野望が窺えない。信長後の新政権のビジョンをまったく語っていない。新政権の樹立の意志が無く、信長政策の否認を述べているだけである。
10日、光秀は南進して大坂方面を押さえようと、藤田伝五を郡山へ送って筒井順慶の会同を求め、自ら八幡の南の洞ヶ峠に兵を進めて待った。しかし、順慶は応じない。順慶はその日、山城国にあった兵を引き上げた。そして、大和国衆から血判の起請文を取り、羽柴秀吉に誓書を送った(『多門院日記』による) 筒井順慶が光秀と交流が深くとも、どちらに付くかは生死の分かれ目となる。筒井順慶は情勢を冷静に判断した結果、秀吉に与することを決意したのである。だが秀吉から戦闘に参加することを命じられながら、兵を出さず形勢観望を続けた。光秀に対するせめてもの遠慮から兵を出さなかったのか否かは不明である。
11日、早くも秀吉は尼崎まで進出してきた。光秀は諦めて兵を引き京都南部の下鳥羽へ戻った。この時点で、光秀は攻撃を捨てて防守に姿勢を改めたことになる。おそらく細川と筒井の背反によって、自分の運命の末を思い極めたのではないか。光秀は秀吉との決戦を覚悟した。
12日、秀吉は尼崎で池田恒興らの参加を得たが、信孝・丹羽らはまだ来ていないので、山崎に近い富田までで手合戦は控えていた。たぶん、秀吉軍と合わすことで、信孝は自分が主将の座を持てるかどうかを案じためらっていたのだろう。この時、秀吉は信孝に『御父の弔い合戦なれば、御身はまず立派に討ち死になされ。それを見届けて自分も討ち死にしましょう』などと調子よく言ったが、実際には、信孝を主将にすえるどころか後備に回し、戦功を立てられぬように配置した。
一方、光秀は八幡に近い淀城を修復すると共に、淀川の両側面である、八幡と山崎の双方から兵を引いた。意想外な秀吉軍の進出に、心身とも疲れきっている光秀は気を呑まれたのかもしれない。いや、敵の大兵力が結集することを察し、寡兵の自軍では、どちらも守りきれないと考えたのか。
12日の午後には、山崎の狭い街道とそれに迫る天王山を秀吉軍の先鋒の高山重友と中川清秀の兵が占領した。眼上の天王山が敵に占拠される限り、山崎の隘路(あいろ:狭い道)の通過はかなり困難になるはずで、寡兵の光秀軍は当然ここを死守すべきだったろう。たとえその通過を許しても、小部隊ごとに隘路から出てくる敵を包囲撃破するのが兵法の常道である。しかも実際には、山崎から北方2〜3Km離れた円明寺川周辺の平野まで秀吉軍の展開を許したのち迎え撃つ形となった。もともと山崎に居た明智軍勢が何故その有利な地点を捨てて、平野で倍もの大軍と正面からぶつかる不利な戦いをしたのか、理解に苦しむ。
この日、八幡方面にあった斎藤利三が、光秀に坂本へ引き上げることを強く要請したが、光秀はそれを退けたと(『総見記』『甫庵信長記』などにある。敵兵が二倍以上にも増えたことを考えても、光秀がここで戦うことに固執したのは、おそらく精神的な硬直状態になっていたのではないだろうか。
もし坂本、あるいは亀山へ兵を引いて籠城して、戦い生き永らえてみても、何の喜びがあるだろうか。いや、何よりも、自分を慈愛深い名君と仰ぎ喜んでいる坂本や丹波の民を戦火の中に逃げ惑わせるなど、光秀には耐え難いことだったに違いない。武田の惨めな二の舞はしたくない。『ここで戦うのが嫌なら、自分だけ立ち去れ』と斎藤利三の切言を烈しく叱って拒んだという話が伝わっている。
もし、光秀が兵力の増援を待つつもりならば、天王山・山崎を死守して秀吉軍の進出を遅らせる努力をしたはずだ。安土を始め佐和山それに坂本など、柴田勢にそなえた近江の兵を集めれば、7〜8千にはなっただろう。なぜ、光秀は全兵力を集めて戦おうとしなかったのか。この戦いでは、光秀は死を恐れず、死を決した戦い方をしていたのではないか。
運命の日の前日12日の夜、光秀、秀吉の二人の武将は、雨に煙る天王山を間に挟んで立ち、霧の向こうに陣を構える相手のことを思っていたかもしれない。
天正10年6月13日の朝は雨に濡れていた。両軍(光秀軍は5千、秀吉軍は1〜2万)は昼過ぎまで動かなかった。しかし、昼に、やっと気持ちの吹っ切れた信孝と丹羽が合流して、雨上がりと共に攻撃開始と決めた。午後4時ごろ、天王山麓の光秀軍右翼(松田・並河ら丹波衆)が戦いを挑み秀吉軍左翼(中川勢や黒田孝高の兵)とが激突した。それが合戦の合図となった。そこで押し合っているうちに、淀川べりを進んだ秀吉軍右翼の池田・加藤隊が明智軍の津田隊を攻撃、中央の高山・堀隊も前進して斎藤利三隊と激突した。斎藤隊は奮戦して進出したが、主将を欠いた左翼の津田隊が敗れて、池田・加藤の前進を許し、秀吉軍は数にまかせ敵を包囲する態勢になった。
交戦2時間で勝敗は決し、戦線の総てで明智勢は崩れた。予備隊を率いていた光秀は、自ら前線に出て決戦しようとしたが、前線から御牧三左衛門が伝播を飛ばし、『ここは自分達が支えて死ぬから、その間に無事退却して欲しい』と告げた。それを聞き、光秀は逆に感奮し、前へ駆け出そうとしたが、比田帯刀なる者がうまの轡(くつわ)に取りすがって『大将軍たる方が、一度の敗戦に討ち死になどは余りにも御短慮(ごたんりょ)』と諌(いさ)め、ついに光秀もこれに従って、勝竜寺城へ向かい退却した。
この戦いはわずか2時間であるが、戦死者は光秀軍3千、秀吉3千3百とされる。勝利者側の死者が多いのは、壮絶な戦いだったことを物語っている。光秀軍の敗北の理由の一つは、夜来の雨の中の移動で、鉄砲の火縄を濡らして役に立たなかったとも言われている。これは名誉な話ではない。疲労困憊(こんぱい)した光秀の統制が乱れていた証(あかし)だろう。だが根本的な原因は、平原において、真っ向正直な押し相撲の戦いを挑んだことで、兵力(数量)の差が決定的となった。そして、必死の光秀軍は、早いうちに前線指揮の戦闘隊長たちが次々に討ち死にしたことである。大義名分は秀吉側にあり、量的にも必敗の態勢の明智勢が、これほど激しく戦ったことは、光秀に対する将士の心服をあらわれであろう。
勝竜寺城はもとより平城であり、逃げ込んだ兵たちも全くの雑軍であったようだ。とても籠城などできる様ではない。一説では、ここでも光秀は自害しようとして、城将の三宅籐兵衛らに諌止されている。伝聞では、腹切ろうとして光秀曰く『当月二日、信長公父子を誅(ちゅう)せしより、余命ながらうべくもない身が、山崎表の合戦でまた股肱(ここう)の臣を多く討ち死にさせた。ここまで逃げてきたことさえ心苦しく思うのに、またもや亀山に落ちてゆくなど、武士の恥辱この上も無い』と。しかし侍臣たちは『心狂いたまうか』とその手を縋(すが)ってとめ、『源氏の頼朝公が石橋山合戦に敗れて逃げ、ついに天下を取った故事もあり、大将軍たる者、最期まで望みを捨てたまうべきではない』と訴えたという。ともかく、そこで光秀は自害を思いとどまった。そして、再起を求める家臣たちの言葉に従い、秀満と合体すべく、夜陰に坂本まで逃走することになった。だが、ここに光秀の武将としての弱さ、人間としての優しさがある。彼はこの後の人生に絶望し、名誉ある死を求めていたはずである。愛する家臣たちの要望を拒む心の強さが無かったのである。
夜陰、秀吉の大軍を避けて、古文書には月が出ていたとある。その月の明りにも怯え避けるように、間道を伝い、坂本への30kmの道のりを、鳥羽伏見方面に逃走した。山科を抜ける小栗栖(おぐるす)において土民の手によって、光秀は生涯を終えた。
6月14日
・秀吉、近江に向かい、三井寺に着陣する。
・家康、尾張鳴海へ出陣。
・明智秀満、未明に安土城を撤収し坂本城へ帰る。
6月15日
・安土城天守が、焼失する。
・家康、光秀敗死を知る。
・明智秀満、光秀の妻子らを刺殺して自刃し、坂本城が落城する。
6月16日
・秀吉、織田信孝と共安土城に入城し、その後、長浜城まで帰陣する。
・光秀の首と胴体が、本能寺の焼け跡に曝される。
6月17日
・家康、津嶋へ進軍。
・義昭、長曾我部氏に帰洛のために協力するように命じる。
6月18日
・斎藤利三、近江堅田で生け捕られ、六条川原で斬首される。
6月19日
・家康、秀吉から帰陣命令を受ける。
6月20日
・秀吉・家康・藤孝、清洲城で三者密約。
6月22日
・桑原貞也・村井貞勝を奉行として、粟田口に光秀・利三の首塚が築かれる。
6月25日
・秀吉、織田信孝とともに美濃・尾張に入り、光秀方の残党を追討する。
6月27日
・清洲会議の結果、秀吉の推した三法師(のちの織田秀信)が信長の後継者となる。
7月2日
・光秀・利三・明智秀満の父親の死骸が粟田口で磔にして晒される。
私考『本能寺の変』其の5 『結び』に続く
参考文献等は、私考『本能寺の変』其の7にまとめました。
2013/9/16 脱稿 9/27改変
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