ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.26



日本のお坊さんは仏教徒ですか(7)-私の仏教覚書帖- 
2017/06/19



日本のお坊さんは仏教徒ですか(7)

――私の仏教覚書帖――


2017/3/12〜2017/6/10 


   第六章 結言

 釈迦牟尼さんは実在の人物です。
 今から約2500年昔にネパールで生まれ、インドで誕生した仏教の始祖に違いありません。

 生きる苦しみに悩み、出家し、悟り、その所説は、四諦・八正道・四法印・縁起などにまとめられることを、私は述べてきました。しかし、釈迦牟尼さんの人生も悟りも教えも、後世になって、多くの人々によって作られた創作だと思います。

 四諦・八正道・四法印・縁起などの教説を完璧に実践できることが、人間には本当に可能なのだろうか、私には強い疑問を感じるのです。しかし、『釈迦牟尼さんは実践した』という『思想』が、『釈迦仏教(原始仏教)』になったのだと、私は考えます。それを一言でまとめれば、『煩悩の束縛から解き放たれて自主的自由を得る《解脱》を理想とする宗教』と云うことになります。それ以降、さまざまな時代に多くの人々によって加工されて『仏教』になったのだと、私は考えます。

 何故、多くの人々によって手が加えられたのかは、仏教には、聖書や新約聖書にあたるような『教義』がないからです。『諸行無常』で云う《永久不変なものはない》のなら、釈迦牟尼さんの「教説」も変わることになり、『仏教』は時代や地域などによって、さまざまに変化して、さまざまな『仏教』が誕生したのだと私は考えます。とても自由な宗教です。

 釈迦牟尼さん存命の頃は、インドはバラモン教支配の国で、仏教は沙門宗教の一つに過ぎませんでした。釈迦牟尼さんが入滅後、200〜300年後にインド全域を治めた阿育王によって、仏教がインド全域に拡がり、さらに周辺諸国に伝わって、世界の宗教に成長したのです。

 『釈迦仏教』が、上座部と大衆部に分裂し、さらにそれぞれが細分化し、『部派仏教(小乗仏教)』を形成し、上座部は南伝して『南方仏教』になって現在に至ります。大衆部の仏教を母胎にして、『大乗仏教』が生まれ、中国に伝わり、そして日本に伝来しました。日本の仏教は、『大乗仏教』を母胎としています。

 紀元前後から8世紀頃の間、インドの大乗派に属する仏教文学者と呼ばれる作家たちが、自由な発想で『仏教経典』を多く執筆しました。『仏教経典』の書き出しは『如是我聞』と云う言葉で始まる形式をとっています。それは《阿難(アーナン:釈迦牟尼さんの十大弟子の一人)が『私は釈迦牟尼さんからこのように聞きました』》と云う意味です。今昔物語の『今は昔』と同じです。

 その『経典』にインドの僧侶がさまざまな解釈をしました。その一人、龍樹(ナーガールジュナ)が、三世紀に大乗仏教の理論を不動のものにしたのです。

 龍樹は、仏教の本質は『慈悲』だと、『解脱』の釈迦仏教から、『救済仏教』に変えてしまったのです。さらに龍樹は、釈迦牟尼さんの思想を『シューニヤ』と、新しい視点で解釈したのです。『シューニヤ』とは、数学のプラスマイナスの『ゼロ』です。日本仏教は、釈迦牟尼さんの教えよりも、むしろ龍樹による大乗仏教の理論から出発していると、私は思います。

 サンスクリッド語で書かれた『経典』が中国に伝わり、道教や儒教などの影響を受けて、仏教は中国風にアレンジされました。鳩魔羅什(350〜409年)や玄奘三蔵(602〜664年)等が情熱的に漢訳を進めました。このとき、中国には『ゼロ』という認識がなかったので、『シューニヤ』を『空』と訳したのです。この漢字の『空』が独り歩きして、さまざまな解釈が今日も続いています。

 仏教発展において、最後に辿り着いたのは、《密教》です。ヒンズー教に対抗できるような本格的仏教にするべく、密教の理論体系化に取り組み確立したのが、《中期密教》です。この《中期密教》が中国に伝わり、密教の正統を継ぐ青龍寺の恵果和尚が、密教の奥義の総てを空海に伝授し、入滅しました。《密教》は空海において完成したと云えるかもしれません。

 その後、インドにおいて、ヒンズー教が隆盛し仏教が圧迫され、ヒンズー教の要素を積極的に取り込むことで仏教の再興を図ったのが《後期密教》です。しかし、結果的にはインド仏教の衰退は防げなかったのです。

 仏教発祥のインドで、13世紀(鎌倉時代)に、仏教は消滅しました。それは仏教の独自性が失われ、ヒンズー教に吸収されたのです。釈迦牟尼さんの時代から約1700年後のことです。個人個人の信仰としての仏教が無くなったことに、仏教自体の問題を感じます。1930年前後(昭和初期の頃)に、インドで仏教復興及び反カースト制度運動が起こり、20万人の民衆が仏教徒に改宗したようです。
 
 きちんとした体系として仏教が、インドから中国そして日本に伝わったのではありません。さまざまな断片が前後して、しかもそれぞれの文化や風土の影響を受け、さらにアレンジされ、受け入れる側もさまざまな状況で、随時日本に伝わって来ました。そして、6世紀頃百済王の聖明王(せいめいおう)によって、仏教は日本に『公伝』したのです。

 当時の日本には、仏教に対立する有力な思想がなかったのが、中国と大きく違っています。経典だけでなく、仏像や寺院の建築など仏教文化は、大陸文化であり、日本にとって初めて本格的な高度な文化を知ることになり、日本人はカルチャーショックを受けたかもしれません。

 当時の日本の政治の舞台は奈良・飛鳥です。神道の日本で仏教伝来に、第29代・欽明天皇は静観し、蘇我氏が仏教を受け入れました。聖徳太子は仏教を奨励し、四天王寺や法隆寺を建て、経典の注釈書を著しました。当時の仏教は、蘇我氏などの豪族が信仰している、いわば『豪族仏教』に留まっていました。大化改新、壬申の乱など、飛鳥は血生臭いイメージを私は感じます。

 710年、第43代・元明天皇が、舞台を飛鳥から奈良・平城京(710年)に遷都し、第45代・聖武天皇は東大寺の大仏建立し、仏教は国家と結びつきました。天皇を中心とした『鎮護国家』の祈祷を僧侶が担いました。そのような僧侶を官僧といいます。いわば官僚です。

 その一方で、官僚僧にならず民間に布教し溜池・架橋などの社会事業を行った遁世僧がいました。奈良の大仏(752年完成)の財源確保に、聖武天皇は、遁世僧の行基(668〜749年)の勧進力(寄付の集金力)の協力を仰がなければなりませんでした。三輪、成実、法相、?舎、華厳、律の南都六宗が政治にまで力を及ぼすようになりました。

 第50代・桓武天皇が平城京を破棄して、京都・平安京に遷都し、新しい国家を目指し、仏教界は、二人の実力者・最澄と空海が中国から密教を移入し発展させました。社会が落着き豊かになってゆくと、堕落が始まります。僧侶も例外ではなく、大寺院では武器を持つ僧兵を抱えるようになったのも、堕落の表れだと私は思います。

 貴族や天皇から武士が政治を担い、京都から鎌倉に政治の場が変わり、鎌倉時代に入りました。しかし、新しい文化は京都から生まれ発信されました。日本独自の仏教が多数誕生し、今までの既成仏教は刺激を受け活性化しました。まるで日本版の宗教革命とでもいうべきことです。その主役は、官僚僧としての身分保障や嘱望された将来を捨て、遁世僧となった僧侶たちです。法然や叡尊など多数の僧侶がそれぞれ独自の宗派を誕生させました。その宗派が現在に引き継がれています。彼らは仏教を庶民に浸透させました。教団維持の資金確保のために、彼らが取り組んだ一つの手段が葬式でした。

 ふたたび政治の舞台が京都に戻った室町時代、権力権威は、完全に武士の手に握られました。落着いた時期は短く、世は乱れ、応仁の乱から戦国の世を迎えます。能、狂言、歌舞伎など庶民は娯楽を楽しみ、したたかさと自我と発言力を持ち、一揆を起こすようになりました。それに仏教徒も関わるようになったのです。解脱方法を説く『釈迦仏教』にも、救済思想の『大乗仏教』にも、武装闘争に手を染める僧侶など、私にはとても仏教徒と認められないことです。

 この時代に、火縄銃(種子島)と共にキリスト教が伝来しました。儒教や仏教の伝来とは根本的に違って、当時のキリスト宣教師は日本の植民地化の使命を秘めていた可能性がうかがわれます。日本仏教にとっては、初めて異なる宗教思想と対峙することになりました。日本と云う『湖』にキリスト教と云う『外来魚』が持ち込まれ、国内の宗教界と云う『生態系』に変化の兆しが起こりました。それを、信長は『刺激』、秀吉は『心配』、家康は『危険』と判断したのです。

 秀吉がキリシタン禁教政策を始め、江戸幕府は、キリシタンでないことを証明する『宗門改帳』を寺院僧侶に作成させました。さらに禁教政策強化と関連させて、『檀家制度』や『寺請制度』や『宗門改制度』を幕府は確立させました。これによって、僧侶は幕府の『官僚僧』になり、檀家制度にあぐらをかいて、信者獲得の努力を怠り、葬式と年忌の法事に明け暮れ、やがて葬式仏教者に陥り、堕落していったのです。

 しかし、『寺院ゥ法度』は、一方で、学問が奨励され、各宗の教学、宗祖研究、経典注釈研究などが進みました。しかし、経典や宗祖の言葉は、誤りのない真理と受け取られ批判的な観点が入ることがなかったのです。

 仏教徒でない大阪の市井の富永仲基が、科学的に仏教経典を分析し、日本の仏教は釈迦牟尼さんの説いた仏教ではないと指摘したのです。仏教の存在自体に疑問を提起する勇気ある発言です。富永仲基のこの主張を仏教界は非難しますが、今も破られていないとのことです。富永仲基の思考力に驚かされます。

 お寺を校舎として、僧侶・医師・浪人が、町人の子弟に《読み・書き・そろばん》を教えた『寺子屋』が、全国に普及してゆきました。京都・大坂・江戸などの都市から、農村や漁村に広がり、江戸中期から後期にかけて、著しく増え発達しました。日本人の知識教養の基盤を、寺子屋が築いたことは、高く評価したいと思います。

 日本人は文化資産を破壊するようなことは、決して行わない民族だと私は思っていました。日本では、ミロのビーナスが地中から発見されるようなことはありませんし、仏像が地中に埋まっていることなど、考えられないことです。

 しかし、明治政府は廃仏毀釈で、千年以上に渡って宮中で行われていた諸々の仏事法要を総て廃止し、多数の寺院や仏像、経典などが破壊・破棄し、多数の寺院が廃寺に追い込みました。人間と云う生き物は、何故、前政権の遺産を破壊するような暴挙を繰り返すのでしょうか。本来、仏教を含む宗教というものは、このような暴力とは対極であるべきものだと、私は考えたいのですが、仏教徒といえども人間の愚かさは無くせないもののようです。

 釈迦牟尼さんから廃仏毀釈までをたどってきました。

 その後、日清・日露戦争、第一次大戦、満洲事変、日中戦争、そして大東亜戦争と、国民を巻き込む戦争と仏教について、そして、戦後の民主主義、自由経済から資本主義の限界が見えてきた現代における仏教などについては、いつか私の中で整理が出来たなら、綴ってみたいと漠然と思っています。

 仏教って、宗教って、結局、何なのでしょうか。今も私には解りません。生きる苦しみからの解放の方法を説く『釈迦仏教』も、人々の救済を説く『大乗仏教』も、釈迦牟尼さんや龍樹等が意図した仏教と違ったものになって行きました。

 マルクスの『資本論』は、結局世界中の人々に迷惑を掛けたように、宗教が戦争の種になるのなら、マルクスと同じ道をたどることになります。仏教徒が武器を持った時代があります。仏教や仏教の教えとは、何なのでしょうか。私には解らないということを、今回知ったような気がします。

 わずか262文字の玄奘三蔵漢訳の『般若心経』ですら、解説書を読んでも、私には理解できないのが正直なところです。仏教の中身や本質について、私には理解を超えたものに思えます。だから、経典の内容については、何も触れてきませんでした、と云うよりも、今の私には何も書けないのです。

 日本においては、聖徳太子、最澄、空海を始め、多くの日本人が仏教や仏教の教えに魅せられました。その仏教や経典は、何度も述べてきましたが、日本に伝わり、日本で発展した仏教は、『釈迦仏教』ではなく、『大乗仏教』の一派です。日本の僧侶たちが、その仏教や経典に取り組み、新しいさまざまな宗派を誕生させました。彼らを慕い支持する人々が、後を継いで日本仏教を形作って、現在に至っています。

 日本の僧侶が魅せられた仏教の経典の数は、大正時代にまとめられた『大正新脩大蔵経』という総合目録には、現在まで分かっている総てのお経の数は3527と云われ、それらは日本にある伝統的13宗(華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)の経典です。

 その経典が釈迦牟尼さんの教説ではないけれど、釈迦牟尼さんと私たちをつなぐ貴重な回路のひとつであることには違いありません。釈迦牟尼さんのおよその思想体系を今日に伝える資料と云う意味においても、経典には価値があるように私は思います。

 正直に述べれば、今の私は仏教や仏教の教えに、それほど興味が湧かないのです。それは、単純に仏教のことも経典の内容も知らないから、興味の持ちようがないからだと思います。しかし、仏教や経典に関わった人々には、強い興味を覚えます。例えば、龍樹であり、行基や明恵や叡尊、そして富永仲基などです。彼らの生き様について、機会があれば調べてみたいと思います。

 仏教は国家のかたちに影響を与えたこともありました。民衆の中に浸透し、移り行く時代に、さまざまに変貌しながら、日本独自のかたちを形成し、長い歳月を掛けて伝統を築き、今日の日本仏教に至っています。それは、仏教徒の努力であり、また怠慢でもあります。

 仏教徒の使命は何でしょうか。仏教徒の生活の糧は何でしょうか。それは私が考えることではありませんが、日本の仏教徒にとって、少なくとも末寺には、葬式は外せない仕事のひとつだと思います。葬式は『釈迦仏教』では無関係ですし、『大乗仏教』においても主力の仕事ではありませんが、葬式を通して人々との触れ合い抜きには、日本の仏教は考えられません。紆余曲折を経て、そのような伝統を築いてきた先人の仏教徒の功績です。

 しかし、その葬式を、いわゆる『葬儀社』に主導権を奪われつつあるように、私は感じます。家族葬や直葬が増える傾向が強く、『葬式は要らない』と云う書籍がベストセラーになりました。もともと「日本人は無宗教」と云われていることも、多少影響しているでしょうが、根本的な原因は、お坊さんの怠慢ではないかと思います。もちろん、真面目に誠実に僧侶としての責務に取り組んでいるお坊さんが多くおられるでしょう。檀家の人々から一目置かれ、何かのときには頼りになる存在でなければ、人々は離れてゆくのは致し方ないことだと思います。

 亡くなった人が成仏して浄土にゆくには、お経や戒名が本当に必要なのでしょうか。成仏しなければ、死後はどのようになるのでしょうか。訊ねなければ、説明をしなくてよいと云うことではないと思いますが、お坊さんから、お経や戒名の必要性の説明を受けたことが、私には記憶がありません。キリスト教やイスラム教など他の宗教にも、お経や戒名に類するものがあるのでしょうか。

 断言できるほどの自信はありませんが、私は浄土も地獄も無いと思っています。死は『無』とか『空』とか難しい理屈ではなく、単純に『終』だと思います。一人の人間の『終』を近親者や深い交流があった親しかった人々が集まり、故人を忍び語らう時間を持つことは、良いことだと思います。

 その場でのお坊さんの説教が、私にはとても大切だと思います。お坊さんは死者への語りかけではなく、残された人々に、言葉が掛けることがとても大切だと思うからです。仏教の教えを通して、喪主や近親者などその場の人々に、お坊さんは生きる意味を語るべきではないでしょうか。

 しかし、私が最近経験した通夜や葬式は、お坊さんは焼香が終わるまでお教を唱え、その後はそそくさと会場を後に去られることが多いように感じます。法話など、ほとんどされないのが現実のようです。これでは、故人にとっても、喪主や近親者にとっても、お坊さんの必要性が感じられないように思われても致し方ありません。

 人々の生活にある末寺のお坊さんが、豊かだとは思いませんが、それでも恵まれているように感じます。税金や年金や健康保険料は、正直な気持ちとして、負担に感じます。宗教関係者が税制的に優遇されている不公平感が、お寺に対する抵抗としてあります。富を持つと腐敗が始まり、貧しいことを善しとする釈迦牟尼さんは、『修業者は豊かになってはいけない』という主旨のことを、おっしゃっています。

 仏教の修行のひとつに、『布施業』があります。それは、金銭や衣服・食料などの財を施す《財施》、仏の教えを説く《法施》、災難などに遭っている人を慰め、その恐怖心を除く《無畏施》の3つです。大寺院や本山・末寺は、『布施業』の《財施》として、事業者の事業税や企業の法人税にあたる程度の金銭を、介護・医療・教育の福祉援助金として、自主的に国に寄付すれば、税の不公平感が薄らぐのではないかと思います。

 先日亡くなった作家・杉本苑子氏(1925〜2017/5/31)の著作『今昔物語ふゃんたじぁ』を学生時代に読んだとき、芥川龍之介とは違った今昔物語の世界にワクワクしました。数年前に、日本の古典の現代語訳を読んだとき、生きる知恵の宝庫のように感じました。由良弥生氏の『大人もぞっとするグリム童話』も興味深く読んだ記憶があります。

 大乗仏教の経典は、インドの仏教文学者と呼ばれる作家たちが著した文学作品であり、哲学書です。上記の『今昔物語ふゃんたじぁ』や『大人もぞっとするグリム童話』のような、誰でも気軽に読める『本当は面白い維摩経』のような、経典を平易な日本語訳の作品が出来れば、きっと仏教の関心、親しみが拡がるように思います。

 私は大阪に住んでいるので、京都奈良の神社仏閣に、比較的足を運ぶことが、特に年齢を重ねるごとに、多くなったように感じます。神社にはお賽銭箱があり、5円でも10円でも100円でも、それこそ100万円でも入れて参拝させて頂きます。もちろんお賽銭を入れなくても参拝出来ます。しかし、お寺は決められた拝観料を払わなければ拝観できないところが多いように思います。

 子どもの頃、神社のお祭りには、出店が並び、綿菓子をほおばり、金魚すくいをして、家族や友達との楽しい思い出が、今もよみがえってきます。神社は遊び場だったのです。しかし、お寺には、このような記憶がまったくありません。もともと『お寺』というのは、中国では役所や官舎で、西域僧が中国に仏教を伝えたときの宿舎だったようです。『平家物語』の冒頭に出てくる『祇園精舎』は、インドの須達(すだつ)長者が、釈迦牟尼さんのために建てた僧坊(お寺)のことです。だから、子どもの遊び場ではないのは当然のことです。

 神社は門がなく鳥居をくぐれば境内ですが、お寺は山門の扉を開けなければ境内に入れません。私個人のイメージですが、お寺は扉が閉じている印象です。神社は明るく開放感がありますが、お寺は凛とした静けさを感じる一方で、閉鎖感を抱いてしまいます。

 数年前に某大学で『哲学カフェ』というモノが始まり、少しずつ広がって、全国的なものにまで成っているようです。『哲学カフェ』とは、数名が集まって、お茶を飲みながら、テーマを決めてディスカッション(討論)することです。相手の話をきちんと聞く。個人攻撃をしない。中傷誹謗をしない。などの常識的な約束事を守れば良いようです。

 お寺でも、このようなことができないのだろうかと思います。寺院の一室を定期的に開放して、集まった人々でお坊さんも加わってディスカッションをするのです。最初はおしゃべりでも良いと思います。テーマを募っても良いし、お坊さんの方で決めても良い。近郊の人々が誰でも、気軽に寺院を訪れるような機会を提供することは、お寺にとってマイナスではないと思います。

 
 宗教は怖いと云うイメージが私にはあります。オーム事件や自爆テロなど、数えればきりがありません。そのような大事件は遠いところのことのように感じますが、身近に忍び寄っている可能性だってありうることです。親しい人との日常会話においても、政治と病気と宗教の話題はタブーということを、幼い頃から両親から言われて、私は育ってきました。

 でも、中傷や誹謗や偏見を持って話すのは論外ですが、政治や病気や宗教の話をタブーとすることに、私は疑問を感じます。自分の知らない知識を持っている人と話すと、いろいろと教えられることがたくさんあって、とても楽しいことです。選挙が近付く度に、訪ねてくる某信者さんには、ちょっと閉口しますが、それでも、参考になることも多少あります。相手の顔や表情を見て話すことは、メール交換では叶えられない情報量の多い触れ合いです。単なるコミュニケーションではありません。昔は何処でもみられた井戸端会議のような触れ合いが、とても少なくなったことが残念です。


 日本はシアワセな国だと思います。国内が二分するような戦争は、幕末の戊辰戦争以後ありません。たぶん今後も起こらないでしょう。それ以降、国が一丸となって、先進国に追いつけ追い越せ、富国強兵に進み、どこかで舵取りを誤り、大きな間違いを起こし、世界の人々に迷惑を掛け傷つけ、日本国民も多くの犠牲者が出ました。それ以降、約70年間戦争とは無縁の国のかたちを築きました。それは日本人の努力だと誇っていいと私は思います。

 しかし今、日本だけでなく、世界中が、上手く行っていないような印象を抱くのは、私だけでしょうか。何故、上手く行かなくなったのでしょうか。合法的かつ合理的に弱者を搾取する仕組みで、大量に安価な商品が生み出され、世界で一番安価な商品を瞬時に検索でき、その商品が、いつでもどこでも、一秒でも早く手に届く社会になりました。『商品』を『金融』に置き換えても、同じことが言えます。このようにして経済や財政が動いています。

 グローバル化やインターネットなどが、自由貿易、市場経済至上主義によって、実現している世界です。極端な保護主義や原理主義はとても危険ですが、グローバル化というのは、形を変えた帝国主義のように私には感じるのです。合法的かつ合理的に搾取されている弱者を、自己責任として手を差し伸べない社会は、とてもさもしい社会に思えてなりません。そのような弱者が追い詰められ限界を超えたとき、反社会的なテロに進むのか、非社会的な難民に陥るのか、どちらかの道に向かうのではないでしょうか。

 テロや難民などの大きな問題だけでなく、もっと足元の地域や学校や職場や家庭ですら、ぎくしゃくして、社会全体に苛立ちや不安が広がっているように感じます。その社会を構成しているのは、一人ひとりの人間です。一人ひとり名前がり、顔があり、生活があり、かけがえのない人生を切り開いている人間なのです。

 日本では、モノが溢れているにもかかわらず、貧困が少しずつ拡がっています。その貧困が見え難い社会です。さまざまな悪が巧妙になり、多くの人々に知れ渡っているにもかかわらず、野放しのような状況が続いています。社会のさもしさが個人の自己責任にすり替えられ、苦しみや悩みに、どのように手を差し伸べて良いのか解らないのです。

 一人ひとりと胸襟を開いて話すと、良い人が多いことを実感します。しかし、正しいこともこだわれば争いの種になります。組織人として話すと、単純なことがいつの間にか複雑になり、解り合えなくなるのです。自分は正しい、少なくとも間違っていないと思い込んでいるからです。相手を責める前に、振り返る余裕がなく、我儘(わがまま)で辛抱が出来なく、気分を害し、無益な衝突が起こってしまいます。さまざまな場面で、そのようなことが繰り返えされる毎日です。

 信頼関係の薄さ、懐に踏み込めない行儀よさ、嫌われたくない弱さ、傷つくことの怖さ、綺麗過ぎて落着かない街並み、修復することの煩(わずら)わしさ、可能性に溢れているにもかかわらず、自分の将来に対する漠然とした不安、明るさが期待できそうにない未来、そして孤独感。一人ひとり人間はみんな違いますが、苦しみや悩みのない人間はいません。『お坊さんだって悩んでいる』と云うタイトルの本が出版される時代です。私たち凡人は煩悩まみれですから、致し方ないと楽観するのが賢明なのでしょうが、それが出来ないのが私たちの悲しみです。

 科学の進歩は誰も止められません。人工知能とロボットによって、益々進歩は加速されるでしょう。世の中は便利になりますが、それに比例して忙しくなってゆきます。危険が増すのか減るのか、私には解りませんが、忙(せわ)しなくなるのは確かだと思います。大切なことは、人間は人間をきちんと育てることです。家庭で、学校で、地域で、会社で、きちんと人間を育てることができなければ、人間は幸せになれません。

 どのような社会になっても、太陽は東から昇り、一日は24時間で、食事を摂り、排便排尿し、睡眠は省けません。老人になれば長閑(のどか)な日々が訪れるのでしょうか。世界は、日本は、人類はどこに向かってゆくのでしょうか。人間のすることです、どこかで必ず舵取りを誤ると思っておく方が良いです。過ちに気付いたとき、出来るだけ早く修正出来ることを願うばかりです。

 このような現代社会こそ、宗教や仏教の教えが、生きてゆくヒントや知恵になるかもしれませんし、ならないかもしれません。それは、受け取る私たち自身の問題です。仏教の経典や智慧は誰のものでもありません。人類みんなの財産です。この仏教の教えを、私たちに活用できるようにすることこそ、もっとも仏教を理解しているお坊さんの使命の一つだと私は思います。そのようなお坊さんが、仏教徒と云えるではないでしょう。




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