ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.24



日本のお坊さんは仏教徒ですか(5)-私の仏教覚書帖- 
2017/06/19



日本のお坊さんは仏教徒ですか(5)

――私の仏教覚書帖――


2017/3/12〜2017/6/10 


   第四章 鎌倉仏教


 治承4年(1180年)5月、以仁王(もちひとおう)の挙兵から平家の滅亡が始まったと云えるでしょう。8月に源頼朝が伊豆国で挙兵、10月には富士川の戦いで平氏の追討軍を破り、関東を制圧しました。以仁王に呼応するように園城寺や興福寺や東大寺の僧兵が公然と反平氏を掲(かか)げ、前記した平重衡の東大寺大仏消失事件へと続きました。翌年、治承5年(1181年)、平清盛が64歳で死去。頼朝の弟である源義経の活躍で、寿永3年(1184年)一ノ谷の戦い、翌年・文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで第81代・安徳天皇入水し平氏が滅亡しました。

 文治5年(1189年)頼朝は奥州・藤原氏を滅ぼし奥州を平定し、建久3年(1192年)頼朝は征夷大将軍となり、鎌倉幕府が始まったと、私は小学・中学・高校の歴史の授業で学びました。1192年イイクニ造ろう鎌倉幕府です。しかし、最近の歴史の教科書は、1185年イイハコ造ろう鎌倉幕府と学ぶようです。

 鎌倉幕府の成立は、どちらの年号が妥当なのか、私には判断できかねますが、大切なポイントは、源頼朝は京都ではなく鎌倉に政治の場を置き、武家による政治を始めたことです。しかし、その源氏も3代目・源実朝が公暁によって殺害され、承久元年(1219年)源氏正統が断絶します。平氏を滅ぼした源氏の天下は、わずか約30年でした。

 源頼朝は、現代風に云えば、漫画サザエさんのマスオさんだったと私は思います。鎌倉という地は、頼朝の正室である北条政子の実家である北条氏の基盤(勢力範囲)であり、北条氏のバックボーンを背景に、頼朝は鎌倉に幕府を運営していたからです。

 承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇を中心に皇権回復を目的として、北面の武士や社寺の僧兵などによる討幕の兵を起こしました。これに対して、『尼将軍』と云われた北条政子が御家人たちに幕府の恩をさとし忠誠を誓わせ、北条泰時,時房を大将として総勢19万で京都を攻め、朝廷軍を粉砕しました。いわゆる『承久の乱』です。

 第82代天皇後に上皇になった後鳥羽上皇は隠岐に、第83代天皇後に上皇になった土御門上皇は土佐に、第84代・順徳天皇は佐渡に流されました。武士が天皇・上皇を流罪処分したのです。今まで考えられないことです。京都の動静監視と、西国を統制目的で、六波羅探題が設置し、全国に地頭を設け、武家勢力が全国に及ぶことになり、鎌倉幕府の基礎が盤石になってゆくのです。北条執権体制の始まりです。

 鎌倉幕府誕生で貴族に代わって武士が政治の実権を握ったと考えるのは、短絡的だと、私は考えています。幕府をひらいた源頼朝に征夷大将軍を与えたのは朝廷です。朝廷の命を受けての幕府だから、京都の貴族たちにとって、鎌倉幕府は、例えばプロ野球に対する地方の社会人野球程度の認識だったと思います。それが、承久の乱で天皇・上皇そして僧兵らが完敗したことで、畿内の貴族は、世の中の変動を実感したに違いありません。

  鎌倉時代は、日本史において、一つの転換期、ターニングポイントだと私は思っています。庶民が目覚め、自己主張を始めた時代だと思うからです。それ以前は、社会を動かし導いていた権力者は、朝廷や貴族でした。しかし、平安時代の終わり頃から、朝廷の護衛に過ぎなかった平氏や源氏と云った武士が実力を付けて政権を脅かすようになり、昔は蝦夷(えぞ)と呼んでいた地域の坂東武士たちが政権を握ったのです。400年続いた京都を離れ、鎌倉に武士が日本の政治権力を置いたのです。

  何故、庶民の力が社会を動かすようになったのだろうか。それは、権力闘争に明け暮れる貴族らの権力者の驕りと堕落に加えて、庶民が少しずつ実力を付けて成長したことが根本的な要因だと思います。日本と日本人が、少しずつ成熟した現れでしょう。鎌倉時代は、庶民の力が、社会変動を起こし、新しく生まれ変わる幕開けの時代だと、私は思います。

  仏教の世界においても、これまでの貴族の信仰の対象であった宗教から、新興階級である武士や商人、農民など庶民の信仰する仏教に変化し、広い階層に支持される宗教へと変化してゆき、日本社会に仏教が根を下ろし始めました。これは、日本版の宗教革命と云っても良いように思います。皮肉なことに、この時期にインドで仏教が消えてしまったのです。

  鎌倉時代に革新的な新しい仏教が、徐々にではなく、一斉に興りました。それだけのパワーが社会に蓄積さており、いっきにほとばしったのです。念仏宗の浄土宗、浄土真宗、時宗。禅宗は臨済宗と曹洞宗。天台系の改革運動から日蓮宗が興りました。それに刺激されたように、飛鳥・奈良時代の南都仏教、平安時代の空海・最澄らの平安仏教も復興、改革の動きが盛んになりました。それらも含めて、現在では『鎌倉仏教』と云うようです。

  貴族を対象とした経典の研究や鎮護国家の思想に対し、より個人の悟りや、社会の救済を目指し、武士階級や庶民の成長という社会変動に対応するように、仏教自体が変化し成長してゆきました。

  このように日本の宗教に新しい変化が起きたのは、鎌倉の地ではなく、京都・奈良の畿内です。政治の中心は鎌倉に移っても、文化の発信は京都・奈良の畿内であることは、何を意味しているのでしょうか。時流に乗り勢い盛んな鎌倉よりも、少し落ち着き始めた京都・奈良の畿内の方が、今まで見えなかったものを知ることになり、釈迦牟尼さんが悩んだ根本的問題である「人が生きることの意味」を考える、仏教の原点に立ち戻ることができたのかもしれません。

  しかし、もっと単純に、国分寺・国分尼寺が全国に設けられ、仏教は広がっていたけれど、現代の私たちが想像するほど、各地域の人々にとって、仏教は大きな存在ではなかったのではないでしょうか。仏教は政治という認識が庶民には強かったから、寺院よりも鎮守の神・氏神さんの神社の方が数量において圧倒的に多くあり、支持され心のよりどころになっていたに違いないと私は思います。

  特に比叡山・天台宗に学んだ僧侶たちが、エリート官僚の権威を捨て、個人の救済に従事することを第一義とする遁世僧(とんせいそう)が多く現れました。彼らによって、仏教が政治の視点(つまり上から目線)から庶民の日々の暮らしに目を向けるようになり、新しい宗派を次々に誕生させました。

 遁世僧は今までも修験僧や山伏など居ました。役行者や行基など《私度》も遁世僧ですが、将来を約束され安定した生活の基盤をもつ官僧の身分を捨て遁世僧になった僧侶が多く出現した鎌倉時代は、社会の変動と云えるように思います。

 浄土宗開祖の法然(1133〜1212年)、浄土真宗開祖の親鸞(1173〜1262年)、臨済宗開祖の栄西(1141〜1215年)、曹洞宗開祖の道元(1200〜1253年)、日蓮宗開祖の日蓮(1222〜1282年)、時宗開祖の一遍(1239〜1289年)等は、総て比叡山で学んだ僧侶たちです。これは単なる偶然ではあり得ません。何を意味しているのでしょうか。何故、高野山で学んだ僧侶からは、この時代に新しい仏教が興らなかったのでしょうか。

 彼らが若い時に学んだ比叡山の天台宗の教えに本覚思想というのがあります。それは、「あるがままの具体的な現象世界を、そのまま悟りの世界として肯定する思想」で、この影響を指摘する現代の宗教家が多いようですが、私には解りかねます。

 『鎌倉新仏教』を興した彼らのことは、中学高校時代に歴史の授業で学び、日本を代表する宗教家であり、真摯に仏教を追求し、民衆の救済に生涯を掛けた人物だと思います。特に法然と道元は経典学習に熱心な僧侶だったと尊敬致します。

 彼ら以上に、私が心を惹かれるのは、次の三名の僧侶です。華厳宗中興の祖である明恵(1173〜1232年)、西大寺で真言律宗を興した叡尊(1201〜1290年)、律僧で、奈良・西大寺の叡尊の弟子になった忍性(1217〜1302年)の3名の僧侶です。

 彼らはいわゆる旧仏教出身で、東大寺戒壇院で受戒し、官僚僧を捨て遁世僧になりました。また親鸞にはじまると云われる戒律軽視に対抗し、戒律復興の運動を興し、仏教本来の教えを追求しました。新しい宗を打ち立てることより、既成の宗を改革することの方が困難であることを考えると、彼らをもっと評価すべきだと私は思います。

 明恵(1173〜1232年)は、紀伊国(和歌山県)で武士・平重国の子として生まれ、16歳で出家し東大寺戒壇院で受戒し、東大寺で華厳などを学びました。21歳のとき国家的な法会への参加要請を拒否し、遁世僧となりました。1212年京都・栂ノ尾・高山寺を開創し、華厳宗と密教の融合に腐心しました。

 明恵は強烈な釈迦信仰の持ち主で、釈迦牟尼さんの故郷であるインド渡航を何度も計画しますが実現できませんでした。仏教本来の悟りを求め、釈迦信仰から新しい思想と実践を模索しました。法然の『選択本願念仏集』が公にされると、その教えは本来の仏教に背いていると怒り、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著して批判しました。

 19歳のときから夢の記録を書き始め、死ぬ一年前までそれを続けました。自己の夢を冷静に解釈し、修業に活用するなどいわば「夢を生きた人」ともいわれています。承久の乱に際して、敵味方区別なく傷ついた多くの人々や未亡人を匿(かくま)い通して、あらゆる人々を毅然と救済し、北条泰時を感服させました。

 叡尊(1201〜1290年)は、興福寺の僧を父に持ち、17歳のとき京都・醍醐寺で出家し密教を学び、東大寺戒壇院で受戒し、醍醐寺の官僧になりました。1236年、官僧の在り方を批判して、戒律を守ることを誓う「自誓受戒」し、官僧の身分から離脱して、救済活動に制約を受けない菩薩僧(つまり遁世僧)になりました。

 明恵同様に叡尊も、釈迦牟尼信仰の立場から、戒律護持、太子信仰、文殊信仰を拡め、叡尊の教団は10万人を超える信者を擁する鎌倉時代最大の仏教勢力の一つにまで成長しました。ハンセン病患者救済を始め、橋、港湾の整備、寺社の修造、尼寺の創出などの社会救済事業を行いました。

 忍性(1217〜1302年)奈良県磯城郡で誕生し11歳のとき信貴山で仏教を学びました。16歳で出家し、翌年東大寺戒壇院で受戒し、西大寺・叡尊の弟子となり、三村寺(茨城県)、極楽寺(鎌倉)など関東を中心に、文殊信仰から非人を救済し、ハンセン病患者を薬湯風呂に入れ、自らの手で垢摺(アカスリ)をして、食事を与える救済の中心的役割を担いました。献身的で慈悲の精神に基づく活動は、日本版マザーテレサと云われています。

 次に、新しく興った宗派について述べてゆきたいと思います。

 念仏を第一とする浄土教系の浄土宗(法然が開祖)、浄土真宗(開祖は親鸞)、時宗(一遍が開祖)と、法華経を根本に掲げる日蓮宗、禅宗系の臨済宗と曹洞宗があります。
 
 来世では誰もが成仏できる浄土思想が、貧しく苦しい生活の民衆を惹きつけたのは、当然のことだと思います。浄土思想の端緒は空也(903〜972年)まで遡り、さらに最澄の弟子の源信(942〜1017年)へ、平安末期には良忍(1073〜1132年)が融通念仏を開き、法然(1133〜1212年)が浄土宗を、さらに親鸞(1173〜1262年)の浄土真宗へ進化発展し拡がってゆきました。

 法然は41歳のとき『観協疏(かんぎょうしょ)』に出合い、「一心に阿弥陀仏の名号を称えればその人を救う。なぜなら、それが阿弥陀仏の願いだから」の文章に阿弥陀仏の真意を悟り、専修念仏を説きます。「阿弥陀仏と称えるだけで救われる」という教えは、多くの庶民にとって、救いであり希望だったと思います。爆発的に専修念仏は拡がります。この動きに、比叡山延暦寺や奈良興福寺などの勢力が、法然の活動に圧力を掛け、74歳のときに法然は四国に流罪に処せられます。

 『既に救われていることに感謝(報恩感謝)する為の念仏を称えること』を説いたのが、親鸞(1173〜1262年)の浄土真宗です。この考え方は、浄土教の根本経典の『無量寿経』の解釈から生まれた思想です。親鸞28歳のときに、法然(当時68歳)に弟子入りし、法然が四国に流罪になったとき、親鸞は越後に流罪に処せられます。流刑先の越後高田の地主の娘と結婚しました。彼女は出家して恵信尼(えしんに)と名乗ります。1224年、親鸞は『教行信証(きょうぎょうしんしょ)』を著し、浄土真宗を立宗します。51歳のときです。

 親鸞の言葉を記した唯円(1222〜1289年)の『歎異抄』に、有名な悪人正機説の『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』があり、この教えに共鳴する門弟が増え念仏集団が拡がりました。親鸞は京都に戻り東山大谷に居を構え、晩年を過ごしました。親鸞の廟は東山大谷に建てられ、後の本願寺へと発展してゆきました。

 親鸞は僧でも俗人でもない非僧非俗を宣言した、いわば在家信者です。性欲に悩み続け、妻帯食肉を口外し実践した勇気に、腹の据わった人物像を私は思い描きます。僧侶としては疑問を持ちますが、意思を貫いた彼の生き様には感服します。

 法然の約百年後に誕生したのが、一遍(1239〜1289年)です。水軍の豪族の次男として生まれ、勇敢な武将だったようです。一族内の所領争いが原因で、31歳のとき出家し、大阪四天王寺、高野山、熊野三山をはじめ、諸国六十余州を巡る旅を続けました。善光寺に向かう途上、悟りの喜びを表して一遍が踊り出すと、周りの民衆も念仏を称え、鉦(かね)を鳴らして踊り出しました。これが踊り念仏の始まりです。

 京都では、延暦寺、園城寺など旧来仏教の僧兵に妨害を受けましたが、念仏の拡がりは止まらず、一遍は人々から念仏聖、捨聖と呼ばれて敬われました。『持物は総て焼き捨て、葬式はせず、骸は野に捨て獣に施せ』と遺言して、明石で入滅しました。五十歳でした。

 法然の8年後に、同じ岡山で栄西(1141〜1215年)は、神官の子として生まれました。そして法然と同時期に比叡山で修行し、二人は『智慧第一法然房、持律第一葉上房(栄西)』と並び称される存在でした。27歳のとき宗(中国)に渡り禅が盛んなことを知りました。このとき日本から来ていた重源(1121〜1206年:兵火で焼失した東大寺大仏再建の勧進僧)と遭遇します。天台宗の文献と一緒に茶を持ち帰り、日本に初めて茶を伝えます。その茶は、明恵が高山寺で日本最初の茶畑で今も育っています。

 46歳のとき、再び渡宗し、密教と禅の心は同じと知り、禅を本格的に学び、臨済宗の教えを究め、帰国後、禅の布教に努めますが、旧仏教勢力の弾圧を受けます。京に対抗する新しい文化を求めていた鎌倉幕府の二代将軍・源頼家とその母・北条政子の後ろ盾を得て、1200年頼朝の一周忌の導師を務め、北条政子建立の寿福寺を開山し、1202年京都に建仁寺を建立、以後鎌倉と京都で禅の布教に努めます。親交を重ねていた重源が入滅すると、彼の後を受け、東大寺大仏殿再建の勧進を務めます。

 道元(1200〜1253年)は、幼児期に父母を亡くし、13歳で出家し、建仁寺で栄西の弟子・明全(1184〜1225年)に入門します。23歳のとき、明全と共に宗(中国)に渡りました。達磨大師以来の正伝仏法を、天童山景徳寺の如浄から道元に伝えられ、悟りの証明書である嗣書(ししょ)を得て帰国します。

 ひたすら座禅を勧める只管打座、現実の事象総てが仏道と説く現成公案、その結果得られる悟りの境地の心身脱落。それ等の教える『正法眼蔵』などを著し、新しい仏法の基礎を築きました。1243年、道元一門は京都を離れ越前に入り、波多野義重の庇護の下で、永平寺を開創します。道元の教えは、永平寺三世・蛍山紹瑾(けいざんじょうきん)の代によって曹洞宗として確立しました。

 日蓮(1222〜1282年)は安房国(千葉県)に生まれ、16歳で得度し、20歳から約10年間、比叡山、高野山、四天王寺などで修行に励み、法華経こそが真実の経と確信しました。1253年、立教開宗を宣言し、日蓮と名乗り、鎌倉に草庵を結び、法華経を修学します。そして、大蔵経を読破し、救国を説く『立正安国論』をまとめ幕府に献呈しました。

 『立正安国論』で、他の宗派を批判し、法華経だけが末法の世を救うと説きました。そのため草庵が焼き討ちに遭い、幕府によって伊豆に配流され、赦免後も他宗派の信者の襲撃を受けました。その後も幕府から配流されますが、信者の領地内の身延山に草庵を結び、二度の元寇時には、祖国と人々の無事をその時々に祈願しました。戦う僧侶・日蓮は、武蔵国の信者の館において、60歳で入滅しました。


 広大な荘園を所有していた大寺院は、荘園の公領化を図る受領(国司)と対立し、ときには僧兵の武力行使で、延暦寺や興福寺の宗教的権威を奉じて、受領の罷免や断罪を要求する強訴を行わせ、王権を揺るがす存在になっていきました。一方、大寺院と本寺の間でも、末寺の保有や獲得などに端を発する主導権争いや学生(がくしょう)と堂衆の争いは、朝廷や貴族を巻き込んで紛糾を生じさせたばかりでなく、武装した僧兵を鎮圧できる武士団の社会的・政治的進出をもたらしました。

 つまり、大寺院およびその周辺の寺院は、経済的に十二分な余裕がありました。それと対照的に、鎌倉新仏教の担い手たちは、後ろ盾を待たない限り、教団運営、布教活動のための財政事情は、厳しい状態だったと思われます。そこで彼等が目を付けたのが、葬儀です。葬儀のお礼が有力な財源となったのです。

 官僧たちは官僚的な存在で、清浄であることを求められ、穢れを忌避していたために、死穢を不可避とする葬式には、一般的に関与してこなかったのです。それまで供養もされず、ただ死体が捨てられていた民衆に対して、鎌倉新仏教の遁世僧たちが、葬式をやるようになったのです。

 葬儀の手引書となったのは、前記した禅宗の『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』です。これは身内である修行中の僧の葬儀儀式の手順を決めたもので、葬儀の形式を整えてゆく上で絶好の指導書となりました。各宗とも初めはこれを手本とし、その後次第に独自の様式を考え出し、江戸時代にはそれぞれ見事な儀式として完成させました。亡くなった人を「ホトケ」と呼ぶのは、この『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』から出た言葉です。

 死者供養に熱心だったのは、禅宗だったようです。いわゆる葬式仏教の推進役は、臨済宗です。位牌の起源は中国の儒教の「木主(もくしゅ)」で、これを中国に留学した臨済僧が持ち帰り、葬儀に導入したのです。僧侶が葬儀に従事することは、世界の仏教史においても、画期的なことのようです。葬儀に関わることで、仏教は民衆に拡がり、貴族中心だった仏教が、民衆のものになったとき、『葬式仏教』も誕生したと云えるのかもしれません。

 ここで、日本の代表的な13の宗派と、各宗派の開祖、経典、葬式についてまとめておきます。
 【奈良仏教】
 ◆法相宗(ほっそう)、開祖:道昭(どうしょう)、本尊:唯識曼荼羅、経典:解深(げじん)密経
 ◆律宗、開祖:鑑真(がんじん)、本尊:盧舎那仏、経典:四分律、梵網経、法華経
 ◆華厳宗、開祖:審祥(しんしょう)、本尊:毘盧舎那仏、経典:大方広仏華厳経
 【密教】
 ◆真言宗、開祖:空海、本尊:大日如来、経典:大日経と金剛頂経
 【密教と法華経】
 ◆天台宗、開祖:最澄、本尊:定め無し、経典:法華経、観無量寿経
 【浄土教】
 ◆浄土宗、開祖:法然、本尊:阿弥陀様、観音様、勢至菩薩、経典:無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経
 ◆浄土真宗、開祖:親鸞、本尊:阿弥陀様、経典:無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経
 ◆融通念仏宗、開祖:良忍(りょうにん)、本尊:十一尊天得如来、経典:華厳経、法華経
 ◆時宗、開祖:一遍、本尊:阿弥陀様、南無阿弥陀仏の書、経典:無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経
 【禅宗】
 ◆臨済宗、開祖:栄西、本尊:定めはないがお釈迦様、経典:特に定めなし。
 ◆曹洞宗、開祖:道元、本尊:お釈迦様、経典:正法眼蔵、法華経
 ◆黄檗宗、開祖:隠元、本尊:お釈迦様、経典:特にないが、陀羅尼、阿弥陀経。
 【法華経】
 ◆日蓮宗、開祖:日蓮、本尊:お釈迦様、大曼荼羅、日蓮聖人、経典:法華経

 各宗派の葬式について
 ◆【真言宗】理趣経によって仏と個人が一体になることを祈ります。式の途中で大日如来から個人までの法脈を示して受戒を行い、引導を渡します。
 ◆【天台宗】読経と念仏による巧徳で成仏を祈り、引導を行います。
 ◆【浄土宗】戒名は通夜の席で授けます。葬儀は仏を迎え、仏を供養します。仏を送る読経と念仏が主で、仏を供養することで成仏を祈ります。
 ◆【浄土真宗】死者はすでに浄土に迎えられているため、葬儀は仏への感謝の読経が中心で、引導などは行われません。
 ◆【禅宗】死後受戒と戒名授与の本家で、読経が入念に行われます。そして受戒と仏性を目覚めさせる引尊法語があり、「喝」と締めくくります。
 ◆【日蓮宗】受戒は行いません。法華経の声明の後、引導が渡されます。個人の一生や法号の由来が語られることも多いです。なお、創価学会では法号を用いず、俗名のままで行います。

 日本において、中国仏教の葬儀形式が初めて取り入れられたのは、天平勝宝8年(756年)に崩御された第45代・聖武天皇の大葬で、日本書紀に詳しく記載されているようです。仏式らしいことが採用されたのは、陵墓に向かう行列のきらびやかな組み方だけで、僧侶は参加していませんでした。

 その後、第59代・宇多天皇と、第60代・醍醐天皇は、共に天台宗の高僧が導師を務めました。この時代から仏式葬が定着していたと想像できます。明治政府になっても、第121代・孝明天皇は仏式葬でした。

 仁治3年(1242年)に崩御された第87代・四条天皇の大葬が京都・泉涌寺(せんにゅうじ)で行われたことがはじまりで、それ以来天皇の葬儀は、途中断続はありましたが、ほとんど泉涌寺で行われ、長く皇室の菩提寺となりました。現在は、真言宗・泉涌寺派の総本山で、境内には多くの天皇・皇族の陵墓と、四条天皇以来の歴代天皇の位牌が祀られています。


 文永11年(1274年)と弘安4年(1281年の二度の元寇は、侵略を免れましたが、それ以来、御家人層の経済的窮乏,北条氏得宗専制への不満も高まり、再び朝廷側に討幕計画が起り、第96代・後醍醐天皇に呼応した足利尊氏、新田義貞が蜂起して、1333年鎌倉幕府が滅亡しました。

 建武元年(1334年)第96代・後醍醐天皇の建武中興を行いましたが、3年で崩壊し、足利尊氏が征夷代将軍となり、室町幕府を開きました。朝廷が分裂して、約60年間の南北朝時代になります。政権の舞台が、鎌倉から再び京都・畿内に戻ったのです。

 室町時代は、足利氏による武家政権の時代で、大きく3つに時期に分けられます。前期:1333年〜1390年ごろまでの武家と貴族の政権抗争の南北朝、中期:それから応仁の乱の頃まで、後期:それ以降の戦国時代です。

 室町時代は経済的な発展が顕著になった時代で、用排水技術、肥培技術の進歩と品種改良などで、耕地の集約的利用など農業発展が進みました。また朝鮮半島から中国沿岸にかけて、倭寇が活発化し、それを幕府が鎮圧した後は、日明貿易が行われました。庶民の中にも大陸文化の影響が及び、地方浸透と庶民化が進みました。世阿弥の能や狂言など、風刺に富んだ娯楽劇など各種の芸能が洗練化され、民衆は娯楽を求めるようになったことを考えると、鎌倉時代より庶民は確実に豊かになったと思います。

 武家政権と貴族政権の抗争(南北朝)が終わった第3代将軍・足利義満の時代に、鹿苑寺金閣の北山文化、第8代将軍・義政の慈照寺銀閣の東山時代が室町時代の全盛期で、応仁の乱以降は戦乱が続き、世が乱れる戦国時代です。

 そのような時代背景の室町時代、武家文化と結びついて繁栄したのが、臨済宗でした。北条家、第96代・後醍醐天皇、足利家のいずれからも信頼を得た夢窓疎石(1275〜1351年)の手腕によるものです。また、彼は明の新しい文化を積極的に取り入れ、庭園や書道、文学、水墨画など禅文化の興隆に大きく寄与しました。

 真言宗や、天台宗などの地方寺院も禅宗に改宗するものが続き、禅宗は地方に大きく発展しました。中国の宗に倣い、臨済宗は五山十刹(ござんじゅうさつ)を定め、寺の秩序を整えました。南禅寺を五山の上として、京都では天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。鎌倉では建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺です。

 五山は、仏教から政治や文化の拠点となり、儒学や文学が盛んになりました。同じ禅宗の曹洞宗は、地方の大名や庶民に浸透してゆきました。浄土宗も庶民に信仰が拡大し、民衆の間では時宗が広い支持を集めました。室町中期、浄土真宗は民衆の間に爆発的に拡がりました。

 ひたすら、一筋に念仏することを意味する「一向」から、浄土真宗を『一向宗』とも呼ばれました。室町時代、浄土真宗は、親鸞の子孫たちが継承した京都東山の本願寺派と、親鸞が在住布教した下野(栃木県)高田の専修寺を拠点とする専修寺派に分かれていました。本願寺派には第8世・蓮如(1415〜1499年)、専修寺派には第10代・真慧(しんね 1434〜1512年)が出て、一向宗の勢力は急速に拡大しました。

 真慧は加賀国、越前国、近江国、美濃国、伊勢国などに布教を行い、寛正5年(1464年)下野国の高田専修寺を継ぎました。真慧は蓮如と親友でしたが、本願寺勢力拡大を巡って対立し、拠点を伊勢(三重県)一身田(いっしんでん)に移し、高田派と自称し、比叡山や朝廷に接近し、宗派の地位安泰を画策したことに端を発し、弟子たちの相続争いが起きて分裂しました。

 一方、蓮如は庶民への布教に尽力し、荘園制の崩壊に伴って起った地侍や国人や名主を中心とする惣 (そう) 村的結合のもとに,一向宗の教団組織の強化が進め,守護大名の領国支配と対立するほど勢力を持つようになりました。

 一向宗の拡大を恐れた比叡山は、本願寺を破壊して蓮如を迫害します。蓮如は三河、越前吉崎と拠点を移し、応仁の乱に伴う加賀国の政争で、長享2年(1488年)加賀国守護の富樫正親(とがしまさちか ?〜1488年)を滅ぼし、それ以降、約一世紀の年間、本願寺派の門徒や農民らによる加賀一国を支配し、自治国となりました。加賀一向一揆です。蓮如は、京都山科に拠点を移し、大坂石山にも坊を建てました。

 蓮如が亡くなると、比叡山と日蓮宗の宗徒によって、山科の拠点が焼き討ちされ、それを機に大坂石山が一向宗の拠点となりました。後の石山本願寺です。その後、日蓮宗の拡大を望まない比叡山は、日蓮宗の多くの寺院を破壊し、京都の日蓮宗は衰退し、16世紀の戦国時代には、比叡山と石山本願寺が二大仏教勢力となって行ったのです。

 一向一揆は社会的,経済的に進んだ畿内,東海,北陸などの各所で展開してゆきました。越前国では朝倉氏と、摂津国では細川氏と、加賀、越中では上杉氏と対立しました。戦国大名の領国形成にとって,一向一揆は最大の試練でした。徳川家康(1542〜1616年)は、永禄6年(1563年) 年の三河の一向一揆に手を焼き、越前北庄に配された柴田勝家(1522〜1583年)も同様でした。

 織田信長(1534〜1582年)の天下統一の過程で、比叡山や一向宗などの武装した僧侶(僧兵)と、各地で長い期間に渡って戦闘を繰り返します。信長と僧兵の戦闘をまとめますと、

 元亀2年(1571年) 比叡山延暦寺を焼き討ち。
 元亀元年 (1570年)〜天正2年(1574年) 長島一向一揆、
 天正3年 (1575年) 越前一向一揆
 天正5年(1577年) 雑賀 (さいが)一揆。
 天正8年(1580年) 石山本願寺決戦。
 一向一揆の中心は、本願寺第11世・顕如(1543〜1592年)石山本願寺です。元亀元年(1570年)〜天正8年(1580年)の11年間にわたる石山合戦の終焉の戦いです。

 天正9年(1581年) 高野山が足利義昭と謀議して、信長の敵対勢力の残党を匿(かくま)ったことで、織田領の高野聖(こうやひじり)を数百名捕縛・処刑し、高野山を包囲し戦闘が起こました。
 豊臣秀吉によって、天正13年(1585年)根来寺を焼討ち、天正15年(1587年)バテレン追放令など、宗教勢力の統制が行われました。

 信長は一向一揆に加わった僧兵・僧侶などを、根絶するように総て殺戮しました。日本人で一番多数の人間を殺したのは、おそらく信長でしょう。しかし、信長は宗教活動を禁止しませんでした。延暦寺や浄土真宗の活動も同様に認めていました。安土城の天守閣の天井や壁画には、儒教・仏教・道教をテーマにした絵画が描かれています。

 今風に言うならば、信長は政教分離を図ったと云うことでしょう。軍事勢力として世俗権力を振るうことには、職業身分に関係なく、熾烈な戦いを繰り返して阻止したまでのことです。信長にとって、天下布武実現に向けての戦いのひとつに過ぎなかったに違いありません。だから、宗教弾圧を行ったという意識は、信長には無かったと私は思います。宗教、特に仏教を弾圧したのは、明治維新が行った廃仏毀釈です。私はこの政策はどうしても許せない権力の乱用だと思っています。

 余談ですが、石山本願寺のその後について、天正8年(1580年)石山本願寺の戦いは、信長が正親町天皇による仲介という形をとった提案(和議)を、蓮如が承認して本願寺派が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結しました。その後、石山本願寺の跡地に、信長が築城を計画しますが、1582年の本能寺の変で頓挫し、豊臣秀吉が大坂城を築造しています。

 秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興しました。1602年、石山退去時の見解をめぐる教団内部の対立に、徳川家康の宗教政策で、顕如の長男の教如(1558〜1614年)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ、東本願寺を分立しました。

 これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如(1577〜1630年)を十二世宗主とする西本願寺と、長男教如(1558〜1614年)を十二代宗主とする東本願寺に分裂することになり、現在に至っています。

 天文18年(1549年)宣教師フランシスコ・ザビエルによって、キリスト教が日本に伝来しました。ザビエルはインドから来たことも関係しているかもしれませんが、外来の宗教と言えば仏教という考えが強かった当時の日本人にとって、キリスト教を『天竺教』『南蛮宗』と呼んで、仏教の一派と誤解していた節があるようです。

 南蛮貿易の利益を優先させたこともあるでしょうが、好奇心の強い信長はキリスト教を庇護しました。進歩的な西洋の工業力や文化の刺激を、信長は強く受け、現在でも斬新と思える政策(例えば、家来に対して成果主義で強要したことなど)を実践してゆく過程で、非業の死(本能寺の変)を迎えることになりました。

 さて、仏教徒(宗教家)が武器を持つことを、釈迦牟尼さんは想像もできなかったに違いありません。日本で僧兵が誕生したのは、平安後期、東大寺、興福寺、延暦寺などが自衛のために、僧に武装をさせたことが始まりのようですが、最澄も空海も僧侶が武器を持つことは、考えもしなかったでしょう。鎌倉時代の明恵も叡尊も忍性も、武器とは無縁の僧侶です。

 では、法然や親鸞はどうなのでしょうか。自分等が興した宗派が後年、戦国大名の軍隊のごとく鎧で身を固め、鉄砲や弓・刀を持って、殺戮を行う集団に武装することを予想していたでしょうか。法然や親鸞が蓮如や顕如の生きざまを知ったとき、何を思うだろうか。自分たちが説いてきた教えに疑問を持つのだろうか。中学高校時代に一向一揆を学んだとき、宗教とは何なのだろうかと感じたことを、今も思います。宗教戦争という言葉が存在すること自体、私は人間の愚かさを感じないではいられません。再度、問い掛けたいです。宗教とは何でしょうか。

 日本から僧兵がなくなったのは、豊臣秀吉(1536〜1598年)の刀狩りの結果です。それでも宗教間の争いは絶えませんでした。キリスト教徒が、神道や仏教を迫害する事例が増え、秀吉は、バテレン追放令を発布し宣教を禁止し、やがて弾圧します。日本において宗教徒による本格的な戦争がなくなるのは、寛永14年(1637年)島原の乱まで待たなければなりません。




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