ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.28



『私の仏教覚書帖』を書き終えて 
2017/07/9



『私の仏教覚書帖』を書き終えて


2017/6/29〜2017/7/9 


 毎日少しずつ書き続け、約100日掛けて『私の仏教覚書帖』を完成させました。あれから、2〜3週間経ちました。書いているときは、それほど意識していなかったけれど、書き終えて気付いたことが、3つあります。

 それは、仏教は経典の理解なくして語れないと云うこと、お坊さんはとてもしたたかだと云うこと、そして私は仏教よりも日本歴史に興味を深めたことです。

 偶然ですが、『私の仏教覚書帖』を書いているときに、NHKのEテレ(昔の教育テレビ)で、『100分で読む名著』と云う番組があり、そこで『維摩経』が取り上げられ、興味深く視聴しました。維摩経が誕生した経緯や構成やあらすじを、分かりやすく丁寧に紹介されました。

 仏教経典は難解だと私は感じていますが、上記番組のようなアプローチの仕方と解説ならば、興味が湧きました。そして、他の仏教経典や僧侶が書いた書籍、例えば道元の『正法眼蔵』なども、初心者(中高校生)向けの入門書のようなものがあれば読んでみたいと思うようになりました。

 でも、残念ですが、私には、維摩経の本質は理解できませんでした。『空』の思想も『縁起』の思想も『不二の法門』(相反するものが即一になる世界のことを『不二の法門』といい、「善と悪」「悟りと迷い」「身体と精神」「自分と他者」「光と闇」など二項対立の概念を語りながら、その構造が解体された世界こそ不二の法門であるというのです)の思想も、私には、屁理屈に思えるのです。

 私は『屁理屈』を否定しませんし、悪いことではないと思っています。先人の名言や格言なども、人によっては、感動したり、一筋の光に感じたり、人生さえ変える力を持つこともありますが、他の人にとっては琴線に触れることもなく、単なる屁理屈に感じる場合だってあります。人それぞれ育ちも環境も関心事も年齢も違うのですから、感動するモノが違って当然なことです。人にとって屁理屈であっても、それを追求すれば、思いもよらぬ新しい理論が確立出来るかもしれませんし、実証してゆけば素晴らしいことです。

 日本だけでも、数え切れない僧侶が誕生しました。彼ら彼女らは、仏教経典に取り組み、魅せられ、自分の道を切り開いていったのですから、仏教や僧侶について語るときは、仏教経典の理解抜きには、きちんと評価も批判もできないことを、今回痛感しました。食わず嫌いのように、仏教経典を避けることなく、上記の『100分で名著』のような番組や仏教経典の入門書を、機会と時間とそのときの気分が向けば、接してみたいと思います。私が興味を感じた行基や明恵や叡尊をより深く理解するための回路は、間違いなく彼ら彼女等が打ち込んだ仏教経典なのですから。

 釈迦牟尼さんは、生きる苦しみを克服する術(すべ)を説いたのです。死後のことは一切語っていません。仏像崇拝など思いもしなかったことです。紆余曲折を経て、仏教は現在に至っています。釈迦牟尼さんにすれば、変わり果てた仏教になりました。

 浄土や地獄が存在することは証明できませんが、存在しないことも、誰も証明できません。自然科学的なことは、観察や実験や計算などで、証明が可能な部分がありますし、証明できない場合は、事実の確かさに迫る予測や推測を展開することが可能な場合があります。

 しかし、仏教の教えの正しさを確かめることや証明することは、おそらく不可能だと、私は思います。戦後日本のような落ち着いた社会では、宗教は、突き詰めれば、信じるか、信じないかに行きつくように思います。信じる人も信じない人も、私は否定しません。それぞれ、本人の問題であり、本人が納得して、自分の中で治めていれば良いことだと思っています。

 経済に行き詰ったイギリスの資本主義を、ドイツ人・マルクスが批判した『資本論』は、世界を一世風靡しました。しかし、やがて社会主義・共産主義国家は崩壊し、経済のバイブルのように評価された『資本論』は批判されました。次に、アメリカの市場至上主義経済が席巻しましたが、現在、世界経済は行き詰まり息苦しさを感じています。また『資本論』が再評価される時代が来るかもしれません。

 経済や思想や哲学などの社会科学や人文科学は、自然科学のように、正しいか間違っているかの証明は、時間(時代)を待たなければなりません。いや、正しいも間違いも無いものかもしれません。思想や哲学や宗教は形を変え中身を変えて、無くなることなく、永遠に続くものかもしれません。

 特に仏教は教義を持たず、諸行無常で変わることを是(ぜ)とする、したたかな存在なのです。

 例えば、龍樹は仏教の本質は『シューニヤ』だと言いました。『シューニヤ』は数学のプラスマイナスの『ゼロ』です。漢訳した当時の中国には『ゼロ』と云う言葉も知識も発想もなかったので、苦し紛れに『シューニヤ』を『空』と訳したのです。これは致し方ないことです。責めることできません。龍樹の真意が誤解されたまま『空』が独り歩きして、さまざまな解釈が収拾のつかないまま拡がってしまいました。

 しかし、『シューニヤ』が『空』ではなく『零』だと分かった時点で、お坊さんは『空』を『零』に誰も訂正しないまま現在に至っています。これは、非難されてもいいことでしょう。龍樹の真意が正確に理解されていないことも、『空の思想』そのものが誤解であることも、仏教界が無視しているように私には思えます。

 龍樹が『釈迦仏教』の本質を『解脱』から『救済』に大転換したのは、解釈によるものです。しかし、『零』を『空』にすり替えた、このしたたかさには、言葉がありません。この世の総ては、留まることなく移り変わってゆく諸行無常ということなのですから、これも仏教の教えなのでしょう。

 人々の生活の積み重ねが歴史だと、私は思っています。さまざまな人々が生きて、活動してきた足取りが歴史です。それぞれの時代に、人々はどのように仏教を接し、理解してきたかを綴ってみようと思って『私の仏教覚書帖』を書きました。

 『南無阿弥陀仏と称えれば浄土に行ける』とは、現在人の大半の人は信じていないと、私は思います。でも、『南無阿弥陀仏と称えれば浄土に行ける』と信じられた時代が日本にはありました。それが、どのような経過を経て、『浄土に行ける』ことを信じ難い時代へ変化していったのでしょうか。このような日本の時代の流れに、私は関心が向いて行き、日本歴史を調べたい気持ちを強くしました。

 古事記・日本書紀によれば、日本建国から2677年間、日本が攻撃を受けた経験は何度かありましたが、他国、他民族、多宗教から支配されることなく、今日まで日本が続いてきたことは、幸運もあったでしょうが、それぞれの時代の日本人が、知恵と力を発揮した結果だと思います。驕ってはいけませんが、謙虚に誇って良いことだと思います。


 昔、27000人の兵隊を繰り出して、日本が初めて中国と戦争をしたことがありました。そして、完膚なきまでに敗北し、全滅しました。当時の日本政府は、中国からの攻撃を受けたらひとたまりもないと、強い危機感を持ちました。当然のことです。そこで、大掛かりが壕を築き、水城(みずき)という防衛施設を作り、多くの兵隊を配置して防衛に備えました。

 いつの時代の、何と云う戦争だったか、ご存知でしょうか。中学でも高校でも日本史で学んだのですが、このような大変な戦争だったことを、当時の私はまったく認識がありませんでした。日本の存亡に関わる大事件です。このような事件が、日本には少なくとも5回起こったと、私は思いますが、これが最初の事件です。

 この大事件は、663年朝鮮半島南西で二日間に渡って行われた『白村江の戦い』です。私たちの中高校時代は『はくすきえの戦い』と学びましたが、今は『はくすんこうの戦い』と云うようです。

 『白村江の戦い』とその背景について、少し触れたいと思います。
4世紀以降の朝鮮半島は、『高句麗(こうくり)』『新羅(しらぎ)』『百済(くだら)』の3国が三つ巴の争いを繰り返していました。618年に中国の王朝『唐』が成立すると、朝鮮半島の秩序を維持するために、唐の皇帝に貢物を捧げる(朝貢)をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで、彼らにその統治を認める従属的関係が出来上がりました。
 
 ところが642年高句麗と百済は同盟を密約し、新羅へ侵攻したのです。当然唐は、高句麗と新羅に侵略中止を命じ、奪い取った新羅の領土返還を迫りました。しかし高句麗と百済は従わず、ついに唐は隣接する高句麗を侵攻しました。高句麗は同盟国の百済と、伝統的に交友関係の合った日本の援助によって、唐の攻撃を3度も跳ね返したのです。

 660年、唐は新羅との連合軍20万人の兵隊で百済を侵攻し、ついに百済は滅亡します。しかし滅亡後も、百済の遺臣達は日本に使者を送り、百済を再興する軍の派遣を要請しました。

 当時の日本は、645年に蘇我入鹿を殺害し、蘇我蝦夷を自害に追い込み、蘇我氏打倒を行った中大兄皇子と中臣鎌足らによる政治改革の『大化の改新』が始まっていました。中央集権的支配の実現に一歩一歩進んでいた時代です。

 百済の要請を受け、百済とは古くから交流があり、いずれ唐の圧力が日本に及ぶと第37代・斉明天皇(女帝)は軍の派遣を決定し、自ら兵を率いて大和から2ヶ月以上かけて九州へ、2人の息子、中大兄皇子と大海人皇子を連れて参加しました。

 九州から百済へ軍を向けようとした矢先に斉明天皇は病死しましたので、中大兄皇子が政務を引継ぎ、百済へ武器と食料を送り、軍を率いて百済で戦い、新羅を圧倒しました。新羅は唐の援軍を要請しましたが、唐は以前から高句麗と戦争状態にあり、簡単に駆けつける状況ではありませんでした。

 ここまでは日本に有利な戦況でした。これから、いざ決戦という直前に、百済復興運動の中心人物・鬼室副信が謀反の疑惑が浮上して殺されたのです。これを知った唐は、百済復興運動の本拠地である周留城(するじょう)に大軍を派遣しました。663年2月、日本は、百済を救援するために武器、船、兵糧を積んだ2万7千の軍隊1000隻(そう)を、周留城がある錦江流域へ派遣しました。この河口が白村江です。

 日本の先着部隊が白村江に到着すると、唐の水軍と遭遇し海戦となり、日本軍は、あっけなく敗れました。翌日、全面戦争が勃発。数では上回っていた日本軍の実態は、小船を寄せ集めただけの船団に過ぎず、一方、唐の水軍は最新技術の大型船で編成され、日本軍の船は次々沈められ、炎が空を覆い、海は血で赤く染まったようです。日本は完敗でした。これが『白村江の戦い』です。

 中大兄皇子は唐の報復を恐れ本土防衛に力を入れ、日本に亡命してきた百済人の協力で、福岡県大宰府近くに大掛かりな壕を作りました。そして、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)を置きます。結局の所、唐・新羅が日本に攻め込んでくることがなかったのは、日本にとって、幸運でした。しかし、唐・新羅からの攻撃を防衛するために、多くの人間と時間と費用を必要としました。大変な出費です。

 『白村江の戦い』から4年後、667年中大兄皇子は、防衛上の観点もあり、都を奈良・飛鳥から滋賀の近江大津に遷都し、翌年即位して、第38代・天智天皇となりました。

 唐・新羅は高句麗と長い闘いの末、白村江の戦いから5年後に高句麗を滅亡させました。高句麗を攻略に唐・新羅も消耗し、日本に攻め入るほどの余力はありませんでした。唐の協力によって、676年、新羅は朝鮮半島を統一するのです。


 二つ目の日本の危機は、この『白村江の戦い』から、約600年後の元寇です。

 元寇とは、小中高高時代に社会(歴史)の授業で学んだ、鎌倉中期、1274年(文永11)の文永の役と1281年(弘安4)の弘安の役、2回にわたって、蒙古(もうこ:元)による日本侵略戦争のことです。

 当時のモンゴル帝国は、西はトルコから、東は朝鮮半島まで、南はミャンマーまで支配下におき、実に地球上の陸地の約25%を統治した騎馬民族の統治国家です。桁外れの領土欲です。ちなみに、支配面積はイギリス帝国が1位で3370万kmです。2位のモンゴル帝国は3300万kmです。

 マルコ・ポーロの『東方見聞録』に書かれているように、当時の日本は金(きん)がたくさん採れました。しかし、大陸から離れているため外国の商人は来ず、モンゴル帝国第5代皇帝のフビライ・ハーンもこの噂を耳にしたと思われます。

 朝鮮半島の高麗を服属させた蒙古のフビライ・ハーンは、日本に対しても朝貢させ国交を結ぶべく、高麗を仲介として、1266年(文永3年)の第1回から、1273年(文永10年)に至るまで、6回日本に使者を派遣しました。表向きは穏やかな国書でしたが、暗に日本国王を臣下におく、という高飛車な内容でした。当時の鎌倉幕府(執権・北条政村・北条時宗)は、返書をせず黙殺したのです。

 蒙古にとっては、日本攻略は南宋攻略の一環であったと考えられます。鎌倉幕府は、これを侵略の先触れとして受け取り、異国降伏の祈祷を寺社に命じ、西国とくに九州の防備体制を固め、国内は緊張に包まれました。

 当時のモンゴル帝国は、周辺地域をどんどん支配下に治めてゆき、中国王朝の南宋攻略に意外と苦戦していました。南宋は、多数の水田や堀があり、モンゴル帝国自慢の騎馬隊が思うような働きが困難でした。そこで、方針転換し、国交のある周辺国を征服し、南宋との貿易を禁止させました。地続きの陸地は完璧な包囲網でしたが、南宋は海を隔てた日本と頻繁に貿易し、金、銀、材木といったものを輸入していたのです。

 文永11年(1274年)10月3日、モンゴル帝国軍は約900隻の船に26000人の兵を乗せて日本に向けて出発しました。10月5日、対馬沿岸におびただしい数のモンゴル帝国軍の船が到着し、そのうち、約1000人のモンゴル兵が対馬へ上陸しました。日本側は約80人で対抗するが全滅し、続いて10月14日に壱岐を侵攻。対馬、壱岐では、男性は殺されるか生け捕りにされ、女性は手の平に穴を空けて数珠つなぎにされ、船のへりに矢よけとして並べられ、残酷極まりない地獄絵図です。

 10月20日、モンゴル帝国軍は博多湾に上陸しました。この時代の鎌倉武士は名乗りをあげて攻撃を始めるのがルールですが、そのような習慣(文化)のないモンゴル兵は、いきなり毒矢や石火矢(いしびや)を放ち、集団戦法で鎌倉武士に襲い掛かり、次々殺戮を繰り返してゆきました。鎌倉武士は苦戦が続きました。

 日本軍劣勢の中、菊池武房(きくちたけふさ)という猛将が100騎あまりを引き連れて敵陣に突入し、多数のモンゴル兵の首をぶら下げて帰陣してきました。これをきっかけに、鎌倉武士に気勢が上がり、モンゴル兵は退却を始めました。次に竹崎季長(たけざきすえなが)という武者が僅か5騎を引き連れて敵陣に突っ込みます。この時代の武士は、日本を守るというよりも、『一番駆け』の戦功が認められ恩賞を確保したいという個人的な理由が勝っていたと思われます。

 戦いが総力戦の様相をみせる中、モンゴル帝国軍首脳陣の意見が対立し、総大将は『撤退』を決断したのです。多数の船に分乗しての撤退途中、猛烈な暴風雨が博多湾を襲い、およそ13500人のモンゴル兵が溺死しました。「日本は暴風雨のおかげでモンゴルに勝利した」のではなく、モンゴル軍が日本から撤退中に暴風雨に遭遇した、というのが事実のようです。

 モンゴル帝国は『文永の役』で日本に攻め入るのと並行して、南宋へ侵略を繰り返していました。イラン出身の職人に新型の投石器を開発させ実戦投入し、海軍戦力を強化し海戦を中心に、モンゴル帝国は南宋に勝利しました。これによって中国全土の支配者になりました。

 鎌倉幕府は、モンゴル帝国が再度侵略してくることを予測し、『文永の役』の反省を踏まえて、水際でくい止めるべく、600年前に天智天皇が築いた土塁を利用して、博多湾岸に高さ2メートル長さ20キロメートルの石を積み上げた石築地の防塁を築いたのです。モンゴル帝国は、日本への再攻撃の準備を進め、今度も何回も日本側に使者を送りますが、鎌倉幕府はモンゴル帝国に服属する気はなく、執権の北条時宗は、都度使者を処刑しました。現在の政治家では考えられない厳しい態度を貫いたのです。モンゴル帝国は日本再征の準備を整えました。

 使者を殺されたモンゴル帝国は日本への再攻撃の決意を固めます。『文永の役』は、南宋と日本の関係を断ち切るためでしたが、今回はすでに南宋を征服しています。使者を殺された報復、日本の資源獲得、強い領土欲などが日本侵略を繰り返す大きな原因です。その他に、南宋征服後の大量の投降兵(捕虜)の扱い(反抗反乱の危険)とコストの問題を抱えていました。そこで、日本遠征軍の一部を、投降兵を中心に編成しました。勝敗に関わらず、投降兵の減少につながります。

 弘安4年(1281年)5月3日、モンゴル帝国は、高麗軍を中心とした4万人の東路軍、南宋軍を中心とした10万人の江南軍の合計14万人、船4400隻を二手に分けて出発し、壱岐で合流し一気に博多へ攻め入る計画でした。東路軍は海岸線に築かれた高さ2メートルの防塁に愕然として、急遽、東路軍を二手に分かれ、長門(現在の山口県内)に侵攻を試みましたが、ここに軍を配置した鎌倉軍によって、上陸を阻止されました。

 福岡の近海に後退し停泊していた東路軍に、日本軍は夜襲を掛け、壱岐まで敗走させたのです。南宋軍の出発が大幅に遅れたために、壱岐での合流のため待機中の東路軍に、夏であったことで、食料は腐り、伝染病が蔓延し3000人も亡くなりました。

 7月上旬、平戸島付近で東路軍と南宋軍が合流し、高く長い防塁の福岡上陸をあきらめ、作戦変更し、鷹島(たかしま)に集結して平戸侵攻を決めました。日本軍は、これを大挙して鷹島の敵船に猛攻を開始したとき、7月30日九州地方に大暴風雨が吹き、14万人を乗せた船の多くが沈没し、主将范文虎は士卒10余万を捨てて帰還し、陸にあがった残兵は日本軍に殺害され、2〜3万人が捕虜になり、奴隷として働かされました。まさしく『神風』が日本を救った『弘安の役』です。

 フビライ・ハーンはそれ以後も日本遠征を断念せず準備を進めました。中国南方やベトナムの反乱があったにもかかわらず、出兵計画を具体化していきましたが、1294年(永仁2年)、フビライ・ハーンの死とともにその計画は立ち消えとなり、彼の後を継いだ成宗が、1299年(西安元年)禅僧一山一寧(いっさんいちねい)を日本へ派遣して交渉を試みました。鎌倉幕府の固い拒絶に、これを最後に、元は日本との交渉を完全に断念しました。

 蒙古軍の日本侵略は、文永の役と弘安の役以降、行われなかったことは日本にとって幸運なことでした。しかし、鎌倉幕府は、異国警固番役はその後も継続され、防備体制は幕府倒壊まで維持され、この防備体制が幕府崩壊の一因となりました。


 3番目の日本の危機は、米国欧州各国が虎視眈々と日本を狙っていた幕末維新。
 4番目が日清・日露戦争。
 5番目が大東亜戦争だと、私は思います。

 この3つ事件について、簡単にまとめることは、今の私には難しいので、この稿では見送ります。幕末維新と大東亜戦争については、とても興味があり、10数年前からこつこつ調べていますので、いつか挑戦したいテーマです。『幕末維新』は幕臣・小栗上野介忠順を通して、『大東亜戦争』は外務大臣・重光葵を中心に、自分なりに全体像がまとまり、方向性が固まれば、いつになるか、まったく見えていませんが、今回同様に『覚書帖』として書き残したいと思っています。

 歴史は総て現在につながっています。だから歴史を学ぶことで、現代を知ることにつながり、未来を少しでも正確に予測する手掛かりとなると言います。過去の過ちを学ぶことで、これからの過ちを防いだり、回避したりすることが可能になるかもしれません。

 この逆のことも考えられると私は思います。つまり、現代を正確に理解することで、過去の何がポイントであり、どこがターニングポイントであったかを学ぶことができます。それを一つひとつ積み重ねることで、過去の出来事の評価が正確になり、それによって、正確な歴史を知ることができると思うのです。だから、現代史を勉強して、『幕末維新』や『大東亜戦争』を、整理してゆきたいと思っています。


 1939年9月ドイツがポーランドに進撃し、イギリス・フランスがドイツに宣戦して第二次世界大戦が始まり、1945年9月日本がポツダム宣言を受諾し、ミズリー号での降伏調印で終わりました。この6年間の第二次世界大戦で、亡くなった人々は、さまざまな数字がありますが、6500万人と云われています。この6500万人の中には、一般市民が4000万人含まれています。現在、栄養失調の飢えで亡くなった人々が、この10年間で1億5千万〜2億人との数字があります。第二次世界大戦での死亡率の2〜3倍です。この現実は何を意味しているのでしょうか。

 世界のどこかで、現在も戦争やテロが起こっています。無くなることはないのでしょうか。その根本的原因が何であり、どうすれば諍(いさか)いが減るのでしょうか。日本のような落ち着いた社会では、宗教は穏やかな存在です。しかし、世界には、国家や民族が熱くなれば、何かの宗教に属さなければ生活が成立しないような地域もあります。それほどの力を持つ宗教が存在します。政治と経済と民族と宗教の力関係は、とても興味のあるテーマだと思います。

 現在、朝鮮半島は、2012年、北朝鮮に金正恩が党第一書記に就任以降、短い期間に核実験を3回実施し、弾道ミサイル発射を繰り返しています。今年(2017年)5月、大韓民国は第19代大統領に文在寅氏(ムン・ジェイン)を選出し、同一民族の北朝鮮に好意的な言動が目立ちます。北朝鮮と接している2つの国があります。中華人民共和国は、2013年より習近平が最高指導者となり、ロシアは2012年プーチンが大統領に就任しました。二人は狡猾外交の巧者です。昨年(2017年)政治未経験のトランプ氏が米国大統領になり、世界中に保護主義が台頭しています。朝鮮半島の情勢は、緊張感が増してきたように感じられてなりません。

 現在が6番目の危機状態であるか、否かは、私には解りかねます。約1350年前、朝鮮半島で起こった諍(いさか)いに中国が干渉し、日本が加わったことで勃発した『白石江の戦い』以来、日本にとって、朝鮮半島が火種のようなことが再発しないことを願うばかりです。

 私たち国民に出来ることは、世界と日本政府と政治家の言動を日々きちんと把握しなければいけないと思います。そして、国家へ意思を示すことのできる選挙で、たった一票ですが、自分の意思を投票で実行することです。

 そして、最も大切なことは、『私の仏教覚書帖』でも述べてきましたが、人間の最大の使命は、人をきちんとしっかり育てることだと思います。とても難しいことですが、それがとても大切なことです。きちんと人間が育って来れば、きっと住みやすい社会、良い世界を彼ら彼女らが築いてくれることだと信じたいです。

 幕末維新の頃、来日した外国人の多くが、日本と日本人を、工業も政治も思想も日本文明は遅れているが、人々の知識の高さ、職人の技術力、道徳と勤勉、好奇心と向上心に優れていると日記等に書いています。また、大東亜戦争敗戦後に進駐した米兵が、地方の農民が華道に親しみ俳句や短歌を嗜(たしな)む姿に感動したと言い、町の書店が多くの日本人で溢れていることに、驚いたと語っています。きちんと人が育って、基本的能力を備えていたからこそ、幕末維新も敗戦後も、日本は復活を遂げたのだと思います。

 今、振返ってみると、『私の仏教覚書帖』は自己満足のそのものです。それで良いと私は思っています。今回、毎日少しずつ書き綴ることは、とても苦しかったけれど、楽しくもありました。このような自己満足は、私にとっては、生きる力に通じるように感じました。還暦を過ぎ、あと何年生きられるか分かりませんし、あといくつ『私の○○覚書帖』が書けるか分かりませんが、挑戦してゆきたいと、今は思っています。これもひとつの生き甲斐になれば、とても幸いなことです。

 今朝もまた、仏壇の前に座り、今日まで生きて来られた感謝とこれからの希望を願い、意味をきちんと理解できない玄奘三蔵・漢訳の『摩訶般若波羅蜜多心経』を唱えました。毎朝のこの習慣は、この世に私が存在出来た感謝の気持ち、先祖崇拝の思いに違いはありませんが、私はそのように大層なこととは思っていません。忙しい日々の生活の中で、単純に一日に2〜3分、このような静かな時間を持つことが、とても良いことだと思っているだけです。

 『私の仏教覚書帖』を書き終えて、知ったことのひとつの収穫は、私にとって仏教は、そのような静かな時間を持つきっかけとなっていると知ったことです。今は、それで良いと思っています。


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