ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.6



私考『本能寺の変(3)』其の3・本能寺・その前
2013/9/29



 私考・本能寺の変 其の3


第3章 本能寺・その前


 本能寺の変(天正10年6月2日)から時間をさかのぼって、織田信長という人物について考えてみたいと思う

 信長は天文3年(1534)5月11日、織田信秀と正室土田御前の間に、尾張那古野城で生まれた。生家(織田信秀)は尾張守護代の家老、詳しく言えば、守護斯波氏の二人の守護代のうち、清洲にあって尾張下四郡を支配する守護代織田大和守家の三奉行のひとりであった。そこから身を興し、やがて主家である守護代家を圧倒するような人物となった。いわば、織田家の中興の祖といえる。

 織田氏は、もともと越前国丹生郡織田庄の出で、越前・尾張を共に領した斯波氏に仕えていたことから、尾張に移ったと考えられる。戦国大名の中では必ずしも高い出自ではないが、「代々武篇の家」で、織田信秀は「とりわけ器用の仁にて、諸家中の能(よ)き者御知音(ごちいん)になされ、御手につけられ」(『信長公記』)と、才覚によって勢力を伸ばし、やがて主家である守護代家を圧倒するようになった。そして、本拠を那古野(なごの)、古渡、末森と移しながら、有力大名である駿河国の今川義元、美濃国の斎藤道三と交戦し、その勢力を尾張一国へと広げ、尾張半国の実質的な支配者になっていた。信長はここからスタートした。

 信秀には24人の子どもがおり、信弘(生年不詳)が最も年長者であったが、母が側室という事情で、弟の信長が、後継者として織田家の家督を継承した。土田御前の間には、信長と2歳違いの弟・信勝がいた。『うつけ』と言われていた信長と違って、信勝は聡明で家臣の人望があり支持者も多かった。当初、信長の家中に組み込まれていた信勝だったが、信長の権益を侵すようになり、徐々に二人は対立するようになった。

 周囲の大名たちは、既に権力の集中を強めて、居城も室町幕府的な平地の館から、山城へと移る傾向が顕著になりはじめていた。尾張は信秀が現れるまで統一が遅れ、一国を制する権力者すら出現していなかった。また武家の社会だけではなく、16世紀には、地域経済や全国的な流通が勃興し、再編され、都市形成の動きが急速に広まっていた。地域では市場が叢生(そうせい)し、堺や博多、あるいは寺内町など、商人たちによる自治的な都市が隆盛をみせ始めている。『うつけ』と呼ばれていた若い頃の信長は、町に良く出歩いて、抗した流通経済の動きや商人世界の自立の気配を敏感に感じ取っていたと思われる。

 信長の父・信秀は、尾張の最大勢力になったが、一国を治める名目や制度は何も伴っていなかった。天文20年(1551)信秀が死んだ後は、尾張の諸勢力が自動的に後継者の信長に従ったわけではない。このとき18歳の信長は自らの実力で尾張を平定しなければならなかった。周囲との妥協を拒み、『武闘派』でかつ常識に従わないという路線を確信犯的に選択していた信長にしても、武力で成果を挙げる以外に周囲を従わせる方法はないと覚悟していたはずである。

 天文20年(1551)信秀の死後、すぐに鳴海城(名古屋市緑区鳴海町)の城主・山口氏が信長に背いて、駿河の今川勢に引き込まれた。翌天文21年(1552)、信秀に押さえられていた本来の主家である守護代・織田彦五郎(広信)の家臣らからも攻撃を受けたが、2年後の天文23年に彦五郎が清洲にいた守護斯波義統を殺害したことに機会を得て、翌弘治元年(1555)、叔父信光と謀って彦五郎を攻め殺した。

 その翌年・弘治2年(1556)には、宿老林秀貞(通勝)・柴田勝家が、弟の信勝を立てようとして背くが、信長はこれを破って赦免し、翌弘治3年(1557)に岩倉(愛知県岩倉市)の守護代織田伊勢守と結んで再び背いた信勝を、病気と偽って清洲城に呼び寄せ殺してしまう。信勝だけに留まらず、他の兄弟や一族とも絶えざる葛藤があり、信長は血まみれの抗争を繰り返した。そして、岩倉の織田氏に対しても、永禄元年(1558)に合戦に勝利した。

 翌永禄2年(1559)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍足利義輝に謁見した。信長26歳だった。岩倉城を攻めて織田伊勢守を追放した。今後の禍根を残すとなれば殺害し、使えるとなれば配下に治まることを許した。勝者が敗者を追いやり、反対派を粛清することで、残った勢力の一体感を高め、家中の結束強化が図り、権力基盤を確立していった。家督継承者といえども安泰ではなかった。

 こうして信長は国内の諸勢力に勝利し、尾張国の統一を一応成し遂げた。しかし、駿河に接する愛知郡南部では、鳴海城主・山口左馬助・九郎二郎父子が父・信秀の死後すぐに寝返って以来、今川氏の勢力が入り込んでいた。付近の大高城・沓掛城も駿河方となっており、信長がこの勢力を一掃しようとするのは当然の成り行きだった。これが結果として桶狭間の合戦になって行く。

 信長は鳴海城には丹下・禅照寺・中嶋の三つの砦を、そして大高城と鳴海城の間を遮断する形で丸根・鷲津の二つの砦を築いた。『付け城』と呼ばれるもので、城を攻める際にはこのような拠点を築くのは常套手段である。そうなると、駿河方は、寝返らせて手に入れた城を見殺しにするわけにはいかない。寝返った山口父子はその後駿府へ呼び出されて既に腹を切らされており、その後には今川勢が多数詰めていた。当然包囲された城を救援すべく軍勢が派遣されることになり、今川義元の出馬となった。

 後に信長が上洛して新しい政権を打ち立てた為に、他の大名も皆そのような構想を抱いて先を争って天下統一を目指していたかのように考えがちだが、それははなはだ怪しい。どの大名も、領国の維持や拡大には血道を上げているが、新しい政権構想を宣言していた大名がいたわけではない。今川氏は将軍足利氏の一族であり、幕府の思い入れがあり幕府を支える意識があったと思われる。それなら、後に信長が足利義昭を担ぎ、中央の権力として従属を呼びかたようにすれば良いことで、信長を倒す必要はない。だから、今川義元は天下統一を目指して上洛するために、尾張に軍勢を率いてきたのではなく、領国を接する大名同士の境界にある『境目の城』(領土)をめぐっての単純な戦争と考えるのが合理的である。先に手を出したのは、むしろ信長の方で、両軍の主力同士が激突するに合戦に至った。

 翌年、永禄3年(1560)5月、駿河国、遠江国、三河国を支配する今川義元が、三河国の松平元康(後の徳川家康)を先鋒として、2万5千の大軍を引きて尾張国へ侵攻してきた。

 5月18日夜、信長に、義元が明朝に織田方の付け城を攻撃する連絡が入る。その夜、既に信長は作戦を決めていが、作戦の話を家臣に一切しなかった。敵に『付け城』を攻撃させて、疲れたところを、襲って一気に叩くというものである。多勢に無勢を承知の上で、敵に正面攻撃を掛けることになるため、家臣から強固に反対されるのは必至であり、前もってこの作戦を明らかにすれば、大反対だけで済まず、寝返る者が出ても不思議はない。今川に情報が漏れる危険すら考えられる。信長は家臣に妥協する気がまったく無く、反対されるのを承知で軍議を諮る必要も感じていなかった。

 翌19日の明け方、想定通り、鷲津、丸根の二つの『付け城』へ、今川軍の攻撃が始まったとの注進が届いた。この時、信長は『敦盛』を舞い、出陣の合図の法螺貝を吹かせ、わずかな伴(とも)を連れて先に出発し、善照寺砦まで進んで軍勢(約2000〜3000)を整えた。家臣たちも、ここまで来てしまっては、もう引き返すことは出来ない。一か八か、とにかく戦うしかない状況に家臣を追い込んだ。

 視界を妨げるほどの激しい豪雨の中、今川軍の陣中に強襲を掛けた。義元を守る兵隊は5000〜6000程度であり、双方戦力が拮抗し乱戦となった。義元を始め松井宋信、井伊直盛、由比正信など有力部将が討ち取られ、浮き足立って、当主今川氏真(義元の嫡男)は駿河国に退却した。これが桶狭間の合戦である。

 義元に打撃を与え、今川勢を追払えば良かった桶狭間の合戦で、義元を倒してしまったことは、信長の人生を限りなく大きく変えた。ようやく尾張を統一したばかりの『遅れてきた戦国大名』信長が全国政権への手がかりを得たのは、この合戦の結果に他ならない。そして、この勝利が、後の信長の人生だけでなく、歴史を大きく左右したことは確かである。信長は、ここで勝ったからこそ、家臣団との不調和音を抱えつつも、主導権を保って自らの路線を貫くことが出来たのである。

 桶狭間の戦い後、家康の離反によって、今川氏は勢力を衰退した。それまで織田氏と松平氏(徳川)は幾度も戦いを交える敵対関係にあったが、信長は美濃国の斎藤氏攻略の為、松平氏は駿河国の今川氏真らに対抗する必要があり、両者は互いの利害関係を優先させて、永禄5年(1562)に清洲同盟を結んで、背後を固めた。家康にとっても、今川義元が敗死したことで自立の契機を掴んだ。


 桶狭間の合戦後、信長は矛先を美濃国に向ける。
美濃国の斎藤氏とは、父・信秀の時代に確執があり、斎藤道三に追放された美濃守護・土岐頼芸(よりなり)が織田信秀を頼ったこともあって、天文13年(1544)、天文16年(1547)には信秀が稲葉山城下まで攻め込むが、敗れて退却する。その後、斎藤道三と信秀は和解し、道三の娘(濃姫)が信長に嫁いだ。信長と道三の聖徳寺での会見は、その結果行われたものである。しかし、弘治2年(1556)、道三は家臣の支持を得た息子の義龍と長良川に戦って敗死してしまう。信長は道三を救援に美濃国に攻め込んだが退けられ、これ以来、織田氏と斎藤氏は再び敵対していた。

 ところが桶狭間の合戦の翌年・永禄4年(1561)に義龍が急死し、子の龍興(たつおき)が跡を継ぐ家康(松平元康)との清洲同盟で、今川氏の脅威を除いた信長は、以後美濃の攻略に全力を挙げる事ができるようになり、龍興との戦争が6年間続いた。この間、永禄6年(1563)居城を美濃に近い小牧山に移した信長は、永禄8年(1565)尾張国にあって美濃方についていた犬山城を陥れ、出陣と調略を繰り返して次第に美濃を手中に収め、永禄10年(1567)8月、美濃三人衆と言われる西美濃の有力武将たち(氏家直元、稲葉良道通、安藤守就)が内応してきたのを機会に、急遽稲葉山城を攻めて龍興を降参させ、美濃から追放した。こうして信長は美濃一国を手にし、稲葉山城に居城を移して、地名も井ノ口から岐阜に改めた。これ以降、『天下布武』の朱印を使い始めた。信長34歳である。

 美濃国攻めで尾張兵が弱かったのは、信長軍の主体が傭兵(ようへい:雇いの兵隊)隊だったからと考えられる。
 信長は清洲時代から、兵農分離を進め傭兵を使った。それを信長の先見性との評価もあるが、実際は傭兵を使わざるを得ない事情が信長にはあった。戦国大名の兵士の大半は農民で、家臣である武士が領地の農民を動員して戦いに臨んだ。武士も多くは半農半武で農村に根付き、農民を統率して軍事訓練をしていたから、累代の忠実な家臣を持つ大名の軍勢は強かった。

 しかし、織田家は新興の家柄だから累代の家臣が少ない上に、同族で争ったから一門衆も少ない。松平家が十八松平といわれる親族を統合し、土豪とは通婚して譜代とし、強固な部族連合を作ったのと対比される。新たに家臣を抱えようにも知行地として与える領地も無かった。ただ、信長には父・信秀からの利権である津島港からの収入があったので、銭で兵士を雇い員数を合わせた。

 彼らは土地を与えられたわけではない無かったから、『一所懸命』(武士が命がけで領地を守って、家系存続のよりどころとしたこと。後に一生懸命の書き方が広がった)には成らず、俸禄(ほうろく)も生きていればこそで、死ねば何も得られないのだから、忠誠心も生まれなかった。弱いのは当然かもしれない。

 農民は農繁期には村を空けられないから、戦闘行動に出られるのは、田植え後や収穫後になった。武田信玄でも今川義元でも軍事行動の期間は限られていた。これに対して、傭兵はいつでも戦いに出られた。これが兵制の改革につながった。信長が軍勢の指揮に失敗し、兵を失いながらも戦い続けられたのは、損害の多くが傭兵だったからと考えられる。彼らを失っても経済的な損害は無いから、補充さえ出来れば戦いを継続することが可能だった。

 だが、この軍事的な改革は、人命の軽視につながった。農民主体の軍勢を率いる武将は戦いで彼らを失えば、領地の農業生産力が落ちるから、むやみに戦死者を出すわけにはいかなかった。残された家族の面倒は村でみたから、多量の戦死者を出せば、一ヵ村が立ち行かなくなる。実際、兵農分離以前の戦いは、農民兵は戦いの主体にならず、戦死者が少なかった。ところが、傭兵制では兵は消耗品となったから、武将は戦死を怖れることなく作戦を決められるようになり、その結果、多くの兵が死ぬことになった。

 岐阜城下で、信長は楽市楽座を実施した。通常の市場法では、市日に商売にやってくる商人や購買者を保護することが目的である。しかし、信長の行った楽市楽座は、この市場へ移住した者を保護することによって、市場法の形をとりながら、城下へ商人の集住を目指そうとする新しい側面を持っていた。従来からの市場の特権を下敷きにしながら、城下町への集中という、新しい意味を付与したものであった。

 岐阜城に移った際に、信長は既に中央への進出と新しい政権の構築は、はっきり視野に入っていた。それを実現する大義名分となったのは、足利義昭である。

 永禄11年(1568)4月、足利義昭は、一乗谷(福井市城戸ノ内町)で元服する。義昭を迎えた朝倉義景は、義昭を奉じて上洛する意志が無かった。将軍となって室町幕府の再興を目指す義昭は、越前に留まることを好まず、美濃国を制して「」天下布武をスローガンに掲げた信長を頼ることにした。

 永禄11年(1568)7月、信長は義昭を越前国から美濃・立政寺(岐阜市)に迎える。2ヶ月後の9月7日に、尾張・美濃・伊勢・三河から援軍を合わせた4ヵ国5万の軍勢を率いて岐阜を出立する。途中南近江を支配していた六角氏の抵抗を一気に蹴散らせて上洛を遂げる。これより9年前の永禄2年(1559)2月信長は京に入り、将軍足利義輝に拝謁したが、そのときは斎藤氏の刺客に狙われ、急遽尾張に戻った。今回は、前年永禄10年(1567)9月に北近江の浅井長政に妹・お市を政略結婚によって同盟を結ぶなど、上洛の準備を整えてのことだ。

 信長は9月26日京に入ると、三好三人衆らを追って摂津国・和泉国まで平定し、京に戻り洛中洛外の警備を固めた。実際に大軍が京に入ったにもかかわらず、治安は保たれ、市民の好評を博した。そして10月18日、義昭は待望の征夷大将軍に任じられた。信長は分国中の関所撤廃を命じて喜ばれ、岐阜に帰城した。

 上洛の翌年、永禄12年(1569)の正月早々、本圀寺に滞在していた義昭を三好三人衆が攻撃した。京都を守護していた明智光秀らが奮闘し、池田勝正ら摂津勢も駆けつけて事なきを得たのだったが、注進を受けた信長は、大雪の中を直ちに京都に駆けつけて奮闘した。

 義昭幕府との関係で云えば、傀儡だからどうでも良いということではない。信長はこの後もその復興に、想像以上に真面目に努めている。行政的にも、畿内各国に守護を任じて室町幕府は復活する形をとるが、京都でも、信長は室町幕府の再興を積極的にアピールした。

 信長は、明らかに義昭の下に立つことを拒否している。この時点で、中央集権を作ること、すなわち『天下布武』を実現するための大義名分が幕府復興であることは重々承知だから、義昭の将軍就任には手を貸した。しかし自分自身が義昭の家臣になることは決してなかった。信長の狙いが室町幕府の復興それ自体に無いことは、最初から明らかであった。自らの権威を確立させてゆく過程で、既成の権威を借りることが必要になる。しかし、その権威の中に本当に取り込まれてしまっては、それ以上のものを作ることは出来なくなってしまう。それは幕府を超えることに失敗し、果ては将軍殺害という無理を犯して自壊した三好権力の二の舞であり、この巧みな使い分けを意図的に行えたことが、信長を新しい体制の開拓者の位置に押し上げたと云える。

 古い体制が崩れ、新たな生産と流通が勃興し、さまざまなものが新たに台頭してゆく中で、新しい社会が必要とした新しい秩序を求めて、ときには暴力的な形で調整が進み、ルールや領域が作られようとしたのが、戦国時代だった。どの人も、どの階層も、その過程で必死に自己主張を行っていた。どの集団にも、調整のための手段として、暴力的な側面が存在していた。

 そこで、信長が目指したのは、まさに主従制によって構成される武家の権力で統一政権を再構築しようというものだった。従って、信長の課題は、武家の中で勝ち抜き、自分がトップになって他の武家との関係に主従関係を結ぶ、もしくは相手を滅ぼす、ということと共に、在地に於けるさまざまな権力を取り込み、あるいは滅ぼし、または従えていく、ということでもあった。

 それは単に個別の大名と戦争を行って上位に立つということだけでなく、社会変動の結果、さらに変化し発達しつつ、微妙なバランスの上に成り立っている社会を、武家への権力の集中という一つの方向に向けて再編するという、大きな戦いに挑むことでもあった。

 『武篇者』であることに価値を見いだした武家の中の最右翼の武闘派であり、『天下布武』以外のスローガンを持たない信長にとっては、戦争を起こし、勝利してゆくこと、そしてそれによって自らに権力を集中してゆくことだけが、その解決方法だった。戦争を起こすためには相手を『敵』とすることが必要であり、敵対して自らの正当性を主張するには大義名分が必要である。

 義昭が将軍職について室町幕府が復興したのだから、全国の大名は幕府の権威に服し、幕府の下で全国の再統一が達成されるということになったら、信長は、将軍をその地位につけた功労者というだけで終わってしまう。それでは信長に、何の新たな権威にも成れない。各地の大名が従わず、信長が自力で平定して服属させていったからこそ、信長は既成の権力の形態とは異なる、新たな権力となっていくことが出来たのであり、新たな権威をまとう可能性も出てきたのである。周囲が敵であったからこそ、といよりも、敵を作ったからこそ、信長は信長になれたということが出来そうである。信長に従わず上洛しなかった朝倉氏へ、戦争を仕掛けたことからも解るように、諸大名が最初から従わないことを見越して、むしろ戦争を仕掛ける口実を作るために、幕府と朝廷を利用したといえるだろう。

 若狭国の武藤という者が反逆したので、上意で出陣した。武藤は従ったものの、越前国の朝倉氏が圧力を掛けていたことが判明したので、直ちに越前国に向かったとしている。三万余りという大軍を率いて自身出馬した理由が、若狭の国人退治であるはずがなく、最初から標的は恨(うら)み多くある朝倉氏であったことは明らかだ。そのための大義名分に武藤氏の反逆を治めるという『上意』を利用した。実際のところは、信長の上洛作戦に朝倉氏が協力せず、その後も上洛して従おうとしなかった朝倉氏の『遺恨』という、まったく信長側の論理に過ぎない。義昭と室町幕府を擁する中央集権であることによって仕掛けることが可能になった戦争であり、隣国との争いではなく、全国の武力統一に向けた、初めての戦略的な遠征であった。

 しかし、この遠征は途中で頓挫する。坂本を出てから近江湖西を通って若狭国の敦賀へ抜け、手筒山城、金ヶ崎城(敦賀市)を落として、そして木ノ芽峠を越え越前国へ侵入する直前に、浅井長政寝返りの報が入ったのである。信長は上洛の前に妹のお市の方を長政に嫁がせて縁者となっている上に、領国の湖北を与えていたから、何の不足があって反旗を翻すのか理解できず、誤報に違いないと思っていた。しかし、方々から注進が来るに至ってようやく事の次第を悟り、『是非に及ばず』(『信長公記』)と言って、秀吉を殿(しんがり)に残し、唯一残された道である湖西の朽木谷を通って京都に逃げ帰った。

 長政が信長に何故叛いたのかについて、その理由を述べた確かな史料はない。ただこれ以後、最期に明智光秀に裏切られるまで、何度も繰り返される離反と謀反の、その最初だった。

 憤懣(ふんまん)やるかたない信長は、家康を誘ってすぐに浅井攻撃に取り掛かった。
信長は浅井氏の重臣の堀秀村・樋口直房を調略で味方に付けると、長比城(米原市)と刈安城(伊吹町)に侵出して通路を確保、元亀元年(1570)6月21日小谷城の周辺に放火し、24日には浅井方の横山城も囲んで、信長と家康は、姉川に突き出した龍が鼻山に陣取る。そこへ朝倉氏の援軍が到着し、両軍の決戦・姉川の合戦となった。

 朝倉軍の援軍は八千、浅井軍は五千だったとされ、織田・徳川軍はそれよりも更に多かったという。この大軍が姉川を挟んで対峙し、元亀元年(1570)6月28日未明に浅井・朝倉軍が姉川まで南進して激突となった。大規模な損害が不可避となる、このような主力部隊同士の正面衝突は、信長の合戦のみならず、戦国時代でも例が少ないといわれている。徴兵制などによっていくらでも兵士を補給してくれる近代国家の軍隊と違って、村々の土豪を軸に自前で兵を揃え、保証しなければならない戦国大名の軍隊が協力損害を避けるのは当然というわけである。

 姉川合戦が例外的な激突となった理由として、寝返った以上、隣国にいる信長とは戦わざるを得ない浅井氏が、朝倉氏の援軍がいる間に決着を付けようとしたためと想定されている。援軍を来てもらった場合は、なかなか戦いを回避するのは難しくなるものである。

 信長も寝返った浅井を討たないわけにはいかず、不退転の覚悟だった。しかし難攻不落を誇る山城の小谷城をここで無理攻めすることを避け、横山城のみ開城させて、ここに秀吉を置き、佐和山城の周囲にも諸将を配置して、京都へ凱旋報告をした後、岐阜に帰城した。

 姉川の合戦において、家康が縦横に部隊を進退させ、最後は横槍を入れさせて朝倉勢を破ったのに対し、信長は浅井勢に押し捲られても有効な手を打てなかった。気のはやる性格のために、冷静な情勢分析が出来ない欠点を持っていた信長は、自分の命令にも黙って従う家臣だけを求め、意見具申などする武将を極端に嫌った。指導能力にコンプレックスを持っていた可能性がうかがわれる。

 そして、8月下旬には、南方で蜂起していた三好三人衆を打つため、野田・福島両城(大阪市福島区)へ向かう。義昭を連れて将軍による親征の形を取り、9月はじめには天王寺、さらに天満森へ陣を移して、野田・福島両城を攻撃するが、ここでも信長が予想していなかった事態が起こった。本願寺が信長に敵対し、信長の陣に攻撃を始めたのである。本願寺法主の顕如光佐は、末寺道場へ檄文を送って、これに応じて一向一揆が蜂起したのであった。信長はまたしても、新しい敵を作ったのである。

 信長は本願寺の動きをさほど警戒していなかったようだが、本願寺は以前から三好三人衆との連携関係があり、浅井・朝倉軍とも呼応していることから、信長包囲網を築いたのである。

 15世紀後半の蓮如以来、各地で一向一揆は在地の武士を取り込んで勢力を拡大していた。武力による統一を進めようとするならば、いずれ衝突は不可避だったに違いない。地域の原理を中心にした一向一揆の在り方と、主従を核として権力を再編し、全国を統一しようとする信長の路線とは、根本的に相容れない面がある。本願寺は、信長の晩年に至るまで、信長の敵であり続けなければならなかった。

 一向一揆の蜂起と共に、浅井・朝倉氏が近江を南下し、さらに比叡山を味方に付けた浅井・朝倉軍に有効な打撃をあたえることができず、戦線は膠着状態に陥った。摂津国・河内国では三好三人衆の勢力が盛り返し、信長は停戦に乗り出す。しかし、11月21日に、伊勢長島の一向一揆が尾張国の小木江城を落城させ、信長の弟・信興が自刃する。信長が譲歩して、関白・二条晴良に調停を当たらせ、信長の誓詞と将軍・義昭の御内書、更に正親町天皇の綸旨を示すという、将軍と勅命による講和という形をとって、ようやく浅井・朝倉氏との停戦にこぎ着けた。

 浅井・朝倉氏と山門(比叡山)は、結局正親町天皇による勅命という論理に逆らえなかったわけであり、また信長も、自らの実力で解決がつかない問題について、より上位の権威を持ち出すことで、何とか難局を切り抜けることが出来たわけである。

 翌元亀2年(1571)、講和などどこ吹く風で、信長は直ちに反撃に着手する。横山城の秀吉に荷止め・人止めを行わせて浅井・朝倉と本願寺を遮断し、佐和山城を調略で奪って丹羽長秀を置くと、8月には湖北・湖東に出陣して金森などの一揆の拠点を落とし、9月2日、比叡山を焼き討ちした。

 王城鎮護の寺として君臨し、かつて白河法皇でさえも意のままにならぬものとして挙げた山門(比叡山)が破壊された。ただ軍勢を差し向けただけでなく、一人ひとり確認しながら頸(くび)を斬っているところに、信長の恨みの深さを見て取れる。信長にとって、それは何よりも比叡山が浅井・朝倉に荷担したという、軍事的な敵対への報復であった。さらに、その意味を考えれば、比叡山は最大の荘園領主のひとつであり、近江を領国化する上で、障害となっていたことも事実である。寺家領主に対する武家領主の最終的な勝利でもあった。

 また、それまでの体制の中で一翼を占めていた宗教的権威のひとつを否定したということは、公家・寺家・武家という三者の領主によって構成されている『権門体制』と呼ばれている中世の体制を否定したことでもあり、権門的な宗教による権威付けの道を自ら閉ざしたことでもある。信長が新たな体制を作る上では、別の宗教的粉飾が必要になってくるのであり、おそらくこれが後の『神格化』の問題にもつながってくる。

 信長はこうして当面の状況を挽回したが、一方の反信長連合の側も、さらに広がりを見せた。元亀3年(1572)には、浅井・朝倉氏とは湖北で戦闘が行われ、また六角氏と一向一揆は、近江国で蜂起していたため、佐久間信盛を中心とする信長軍は、一揆の拠点であった金森・三宅に内通しない起請文を村々から取り立てた。正規軍同士の目立った戦闘は無くとも、近江国の状況は泥沼化していった。

 本願寺の顕如は、甲斐国の武田信玄に信長の背後を衝くことを要請し、かねてから信長と不和であった将軍・義昭は、ついに反信長連合に乗り換える。8月、義昭は信玄に信長打倒要請の出馬を命じる御内書を出した。これに対して9月、信長は義昭に対して、義昭失政17ヶ条を公表し、両者の関係は完全に決裂した。信玄はこれに応じて10月3日、甲斐国・信濃国・駿河国の軍勢を率いて甲府を出発した。これに先立って浅井・朝倉氏は出馬を告げており、信玄を中心とした信長包囲網が形成された。

 武田軍は、いくつかのコースに分かれて進軍を続け、12月3日には、遠江の三方ヶ原で家康と信長の援軍を撃破する。この三方が原の戦い(元亀3年:1572年12月)で、信長は武田信玄率いる武田軍の強さを思い知らされた。姉川の戦いで、あれほどの強さを見せた徳川軍でさえ歯が立たなかった。三方が原の戦いにおいて、負け戦になったとき、徳川家臣団が自分の体を犠牲にして主の家康を守り抜き、武田勢に追いまくられながら、何人もの家臣が家康の身代わりとなって死んでいったさまは、織田家臣団には望めぬものと、信長は悟った。織田と徳川では家臣団の結束度、忠誠度がまったく違っていた。

 松平(徳川)は三河に土着した初代親氏(ちかうじ)から九代家康に至るまで間に、親族を統合しただけでなく、他の三河の土豪とも婚姻を重ね、地縁・血縁の部族・同族連合を徐々に作り上げてきた。だから家康は部族統合のために、まず守らなければならない象徴だった。

 一方、織田は同族が戦いを繰り返し、殺し合いの中から、信長の父・信秀が抜きん出た。急成長したため、信長は譜代の家臣が少ないから、人材を登用せざるを得なかった。彼らは能力を競い合い、織田家に貢献したが、新規の家臣にとって、信長は報酬を得るための存在に過ぎない。信長も彼らに重い役割を課し、常に峻別して能力がないと見切れば切り捨てたから、忠誠心が育つはずもない。支配地が拡大するにつれ、家臣の心は離れ、信長は孤立していった。信長はその孤独によって、武将の離反、謀反を恐れ、猜疑心を増し、家臣や使用人に対して過酷な仕打ちをするようになり、最後には、それで自分を滅ぼすことになった。

 翌年・元亀4年(天正元年・1573)2月、義昭は自身挙兵した。信玄による危機が迫る信長は和睦を図るが受け入れられず、4月信長はやむなく京を焼き討ちし、またしても正親町天皇から勅命講和の形で義昭と和議を結んで岐阜城に戻り、信玄来襲に備えた。

 しかし、信玄は2月に三河国の野田城を攻撃中に病に倒れ、4月12日信濃駒場で病没してしまう。喪は秘せられていたため、7月3日信玄に期待する義昭は山城槙島城(宇治市)で再び挙兵するが、信長自ら出馬して、元亀4年(1573)7月18日、ついに義昭を追放する。紀伊国の興国寺(和歌山県由良町)に落ち、さらに毛利氏を頼って備後国の鞆(とも:広島県福山市)に移った義昭は、この後も名目上は将軍であり、執念深く反信長の活動を続けるが、室町幕府が再興されることは、ついに無かった。

 信長は7月21日に京都に戻り、村井貞勝を京都所司代に任命し、年号を『元亀』から『天正』へ改元勘文(かいげんかんもん)を内覧して、幕府の後継権力であることを示した。

 8月8日、浅井氏家臣の月ヶ瀬城主・阿閉淡路守(あつじあわじのかみ)が帰参した知らせを受けると、夜中にもかかわらず出馬し、10日には小谷城の北側に陣取って、越前国との通路を遮断した。浅井氏の救援に駆けつけた朝倉勢に、小谷城最高所の大嶽(おおづく)などを落とし、13日夜、朝倉郡が退却を始めると、信長が先駈けして直ちに追撃。

 朝倉軍は刀禰坂(とねさか:敦賀市)付近で追いつかれて総崩れとなり、朝倉義景は居城・一乗谷城を捨て、大野・賢松寺で自刃した。小谷へ戻った信長は、孤立した小谷城を、直ちに秀吉らに攻撃させ、8月27日、28日に浅井久政・長政父子は相次いで自刃した。長政に嫁いだ信長の妹・お市は3名の娘とともに救出された。浅井氏の居領は秀吉に与えられた。

 浅井氏・朝倉氏を滅ぼしたことは、信長にとって積年の鬱憤を晴らすことだった。翌天正2年(1574)正月朔日(ついたち)、岐阜での公式儀礼が終わった後、信長は、『古今承り及ばざる珍奇の御肴』として、昨年討ち取った朝倉義景と浅井久政・浅井長政の三つの頸(くび)を薄濃(はくだみ:漆で固め金泥を塗る技法)にして飾り、馬周りたちと酒宴を行ったという。(『信長公記』より)

 信玄の病没による西上という危機を脱し、義昭を追放し、浅井氏朝倉氏という積年の敵を葬り去った信長は、権力の新たな段階に入ったといえる。足利幕府が事実上消滅し、信長は権力を持ったが、中央権力足りえる権威を備える必要があった。幕府以外の全国レベルの権威と言えば、それは朝廷である。ここで信長は、今まであえて官位を求めない方針を転換して、朝廷内での急速な出世を遂げてゆく。

 天正2年(1574)3月、従三位参議に任官して公卿(くぎょう)になり、天正4年(1576)11月には内大臣、天正5年(1567)11月右大臣にまでなる。その翌年には官位を辞してしまうが、それまでの間、身分としては朝廷の一員『公家信長』として行動していた。公家としては、とにかく実力のある人間が自分達のトップになってくれれば良いので、信長が朝廷の中で地位を占めてくれること自体は基本的には歓迎なのである。

 しかし、信長は朝廷での生活に明け暮れていたわけではなく、官位の昇進に汲々としていたわけでもない。朝廷の中でも、天皇の意向に無条件で従っていたわけではなく、時には官位の昇進を辞退するなど、自分が主導権を握っていることを見せ付けることを忘れず、幕府との関係でも見られたように、その中に取り込まれてしまうことは避けていた。

 一方、中央での地位安定と並行して、これまで軍事的に勝てなかった相手に、報復的な攻撃を始めた。天正2年(1574)7月、長島の一向一揆衆に対して、佐久間信盛・柴田勝家以下の有力部将を引き連れて、信長は集中的な攻撃を行った。信長の残虐さ、恨みの深さを示す厳しい兵糧攻めと殺戮を行った。天正3年(1575)8月加賀の一向一揆衆に過酷な残党狩りで大量虐殺繰り返した。天正9年には伊賀の国人一揆を徹底的に弾圧した。武士階級内の闘争も最終的な激突段階に入った。

 信長は特定の宗教信者ではないから、一向宗の教義と対立したのでも、宗派間の戦争を仕掛けたのでもなく、宗派が現世の権益を持って武家の利益を侵すことを許さなかっただけとされている。それにしては、信長の門徒虐殺は人類史上、人種間戦争や宗教間戦争での大量虐殺に匹敵する。この事実に目を背けず直視すべきだ。相次ぐ戦いのストレスによるものか、死への恐怖によるものか、加虐性のある精神疾患状態なのか、心は蝕まれていたのではないかと疑いたくなるほどである。

 信玄が天正元年(1573)に死去した後、嫡男・勝頼が跡を継ぎ、信玄没後も領国を維持していた。信長の領国とは美濃国で接し、家康の領国とは奥三河や遠江国などで接し、せめぎ合いを繰り返し、城の奪い合いが続いていた。天正3年(1575)勝頼は武将たちを率いて4月21日長篠城を包囲した。家康は寝返らせて味方に付けた奥平氏が籠(こ)もる境目の城を見捨てるわけにはいかず、直ちに信長に援軍を依頼した。信長は迅速に行動して5月18日には長篠城の手前に到着した。

 豊川の支流・連吾川が南北に走っている。この西側に延びる高台に信長・家康連合軍が陣を築き、その前面に「馬防ぎのため」の柵をめぐらせた。勝頼はこれを好機と捉え20日対岸に布陣した。信長・家康は別働隊を組織して21日朝、鳶ノ巣山砦を背後から攻撃して落とし、長篠城に入り付近の武田軍を逃亡させた。敵に挟まれた格好になった勝頼は、信長・家康の本陣に正面から攻撃を仕掛けるが、信長軍は追撃に徹し、武田軍は結局突破できないまま消耗して撤退した。追撃する織田・徳川軍から壊滅的な打撃をこうむることになった。これが長篠の合戦である。

 鉄砲の威力が武田軍の騎馬隊を破った戦いとして学校で学んだが、単に鉄砲の威力というよりも、組織的に鉄砲を活用し、全軍が周到な作戦と準備の中で組織的に動いた信長・家康の作戦勝ちという意味が大きいと思われる。

 天正3年(1575)5月、武田氏を長篠の合戦で退け、8月越前の一向一揆を下すと、信長には領国を脅かす当面の敵はいなくなった。京を含む日本の中心部に広大な領国を持つ政権として、信長の権力は安定に向かっていた。11月末、家督を嫡男・信忠に譲り、尾張・美濃を与えた。そして、翌年天正4年正月、その領国の新たな中心として、安土の築城に着手した。

 戦国時代は新たな地域経済園の発達で生産と流通が急速に伸張し、特に信長が生きた16世紀後半には、交易の場が次々に育って行った。近江湖東では、街道沿いには、数キロごとに町場が出来る状況だったし、一向宗の寺内町は「大坂並み」の特権を得て次々に建設され、また堺などの港町も独自の自治的な体制を持つようになっていた。

 信長は安土では地域の都市的要素を城下町にまとめていく政策として、「楽市場」」というより「楽都市」という意味での『楽市』を全面的な展開を図った。『座』の特権について、当時、既に「規制緩和」が進む傾向にあったが、総ての専売権を否定することは逆に混乱を引き起こす可能性があり現実的には考え難く、必要なものについては規制を加え、特定の商人の専売特権を認めた。

 さまざまな特権を安土の住人に与える一方、それまで流通経済の中心であった中仙道の通行を禁じて安土での宿泊を命じるなど、強力に安土への集中を図った。当時の領土間の原則「領土の氏配下にある人間は移動してももとの領主の支配権を認める」ことを、安土には適用させず、自由な集住を保護した。

 商人にとっても、これまでは個々の商品や商圏などについて細かな特権があり、その独占権を守ることで他の商人に対して優位を保っていたことが、これでは商品経済全体の発展には阻害される。このような商人間のいがみ合いと相互規制を続けるよりも、新たな城下町の住人となって領主と一体化することで、政治的な領土全体を市場圏とすることが出来るなら、経済が発達しつつある状況の中では、商人にとってもその方が有利である。

 城下町といっても、決して武家権力の力だけで作られたわけではなく、むしろ商職人との合作、あるいは武士が抜けても町として存続し続けていることから考えれば、地域に勃興した都市を作る機運が、武家権力の力を利用して、城下町という形で都市を作らせたと言えるかもしれない。信長の城下町政策は、そのような都市作りの触媒の役割を果たしたといえそうである。

 信長は公家、寺社、武士など中世の既得権益の享受者を力で踏み潰し、抵抗するものは斬り殺したし、上記のごとく、楽市楽座を実践し、関銭(せきせん)も廃止した。荘園のなかで奴隷のようにこき使われていた農民は、収奪の体制が崩れたことで元気になり、新田の開発や生産性の向上に取り組んだ。この時代、日本の人口は増えたという。とはいえ、それは信長が農民のためや新しい世をつくるためにしたことではなく、自分の利益を追求した結果に過ぎない。軍の指導能力は並で、大敗した戦も多いし、将軍や禁裏に対する政策も右往左往している。旧体制のいくつかは破壊したが、その上に新しい近世像を描き出すことは出来なかった。時代は、挫折と試行錯誤を繰り返した信長という武将と、変革を求めてた同時代の人々のエネルギーの狭間でうねり転換していった。

 石山本願寺(大坂)は中国の毛利氏だけでなく、越後国の上杉氏とも連絡をとって反信長網を作り、天正4年(1576)4月、再度反旗を翻した。信長も本願寺周辺に新たな砦を築き、明智光秀、佐久間信盛、荒木村重、滝川一益、羽柴秀吉、西美濃三人衆、原田(塙)直政らを投入して、一気に本願寺を攻撃する態勢を作った。

 天正4年(1576)5月3日、信長は天王寺砦の原田隊に木津川砦の攻撃を命じた。本願寺の海への交通路のひとつを潰すためだ。原田は三好康長と和泉衆を先手に、大和、南山城衆ら2千人を率いて出撃したが、その動きは門徒によって逐一本願寺に伝えられ、門徒宗が次々に出撃して、原田軍を迎え撃った。その数1万人。攻撃の中心は雑賀鉄砲隊で、彼らが先頭に立って一斉射撃すると、原田隊は防ぐ手段も無く倒れた。先手の三好勢が崩れ、大和、南山城勢も支えきれず、ただ逃げるだけになった。

 この戦いで、原田直政をはじめ損害は1千人を超えたという。原田直政は信長の有力武将の一人で、長篠の戦や越前一向一揆攻めに参加し、光秀の日向守、秀吉の筑前守とともに備中守に任じられた。その原田直政が討ち取られたのだから、本願寺方の大勝利だった。

 門徒勢は勢いに乗り、逃げる織田勢を追って天王寺砦に殺到した。砦には明智光秀や佐久間信栄(佐久間信盛の長男)ら2千人が立てこもっていたが、包囲の本願寺勢は増えるばかりで、このままでは砦が落ち、光秀の命も危ないという切羽詰った状況になった。

 急を聞いた信長は、5月5日京から若江(東大阪市)に着陣したが、軍勢は騎馬の武者と馬廻り衆を中心に3千人が集まっただけ。門徒勢が本願寺周辺に溢れているので、足軽勢が合流できない。本願寺包囲網も分断されると、力が発揮できなかった。砦が落ちるのは時間の問題だった。

 原田に続いて光秀や信栄まで討たれれば、信長の面目は失墜し、対本願寺戦略は頓挫する。なんとしても、天王寺砦を守らなければならない。信長は3千人の軍勢を三段に分けて若江を出陣し、砦を取り巻く門徒勢の中に突っ込んだ。信長の生涯で、寡勢で大軍の中に斬り込んだのは、桶狭間の合戦と天王寺砦救出戦の二度しかない。(『信長公記』)

 一段が佐久間信盛、松永弾正、細川藤孝らと若江衆、第二段が滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、美濃三人衆ら、第三段が信長と馬廻り衆と、『信長公記』は記している。第一弾と第二段が交互に門徒勢に攻撃して進路を広げ、信長は馬廻り衆に守られながら、その中を強行に進んだ。

 門徒勢は信長の旗印を見ると、攻撃を信長に集中した。雑賀鉄砲隊の姿も遠望された。彼らが近づけば、損害は計り知れない。信長は自ら陣頭に立つと全軍を密集体形とし、一気に砦を目指した。体形を崩さずに進むのは難しいが、それが出来るのは、織田の諸将が戦いの経験を積んだからだ。

 信長が天王寺砦に近づくと、光秀は砦勢を率いて駆けつけ、信長隊と合流した。信長はそのまま砦に入った。この戦いは激しく、信長も足に鉄砲弾を受けた。このままでは大軍に囲まれて自滅を待つだけだ。信長は再び一揆勢の群がる砦の外へ討って出た。夜に入って、鉄砲が使えなくなったことも計算したが、死地に飛び込むことに変わりは無い。

 このあたりの信長の行動は積極果敢だ。門徒勢は急な織田軍の出撃に統一した対応ができない。織田勢は門徒を本願寺に追い戻した。この戦いで、門徒の首2700をとったという。織田軍の記録に重複や誇張があったとしても大きな数字だ。乱戦だから、織田軍にも相当の被害あっただろう。この戦い以降、門徒勢は本願寺に籠(こ)もり、出撃して戦うことは無くなった。本願寺包囲戦は籠城戦となった。信長は『付け城』を増やし包囲を厳重にしたが、兵糧の搬入は防げなかった。

 このあと、本願寺にとっては、兵糧を運び入れようとした毛利水軍か木津川口で敗れたり(天正6年1578)、本願寺に味方した荒木村重が敗れて毛利に逃げたり(天正7年1579)、播磨三木城が落ちたり(天正8年1580)と情勢が悪化していったが、それでも信長は本願寺を落とせなかった。

 三木城が落ちた後、信長はこれらの情勢を追い風とし、本願寺とも親しい前関白・近衛前久を使って正親町天皇の仲介を得て、天正8年(1580)3月、本願寺と和議を結んだ。その条件は、本願寺の安全を保障することと顕如ら門徒が大坂から退去することで、顕如は4月9日、大坂石山を退去して紀伊に移り、徹底抗戦を主張した子の教如も8月2日に退去した。

 本願寺が10年間も信長の攻勢を跳ね返せたのは、鉄砲と周囲が4キロメートルもある総構えの城域(大坂)だ。そして信長の作戦失敗、そして最大の原因は大義名分が無かったことだ。本願寺側には、法統を守り信仰を守るという大儀があったが、信長にはそれに対抗できる大義名分が無かった。信長の『天下布武』は、極論すれば、武力で天下を切り従える、つまり、『その武力の頂点には信長が立つ』ということに過ぎない。しかし本願寺自身にも問題があった。門徒は現世の過酷さを呪い、念仏を唱えて得られるという来世の平穏を求めたが、本願寺の大坊主などは既得利権にやっきになり、門徒に戦いを強制するだけだった。本願寺もまた、その指導者は世俗にまみれ、乱世に農民らが夢見た仏の世界を作り出すことは出来なかった。

 信長は、陣頭指揮を執り、わずかな軍勢で敵と戦うことがたびたびあった。先頭に立って戦う信長を見て、従軍した兵卒は大いに戦意を鼓舞されたであろう。まさしく信長のカリスマ性が発揮された。信長躍進の基底には、信長の才覚を信じ、臣従する近習や小姓たちの存在があったからだ。そうした少数精鋭部隊で信長が「軍事カリスマ」としての能力を発揮したのは、天正4年(1576)の大坂本願寺との天王寺合戦までだった。

 戦争の長期化に伴い、戦い方そのものに大きな変化があらわれた。これまでのような一気呵成に相手を叩き潰すのではなく、敵の城を包囲したり、大砲などの新しい兵器を導入したり、戦線の拡大が起こり、戦争の質的転換をせざるをえなくなった。戦争を配下の者に任さざるを得なくなり、彼らに大幅な権限を委譲し、やがて、彼らに当該地域の総司令官として、相対的な自立を強めることになる。

 天正8年(1580)石山本願寺戦争が終結した直後、8月12日に大坂に入った信長は、10日前に教如から大坂を受け取ったばかりの佐久間信盛(当時53歳)に直筆の折檻状(せっかんじょう)を送って、子息・信栄ともども追放した。

 その理由は、本願寺との戦いで漫然と日を送り功績を挙げなかったこと、知行などを優遇したにもかかわらず、侍を召抱えずに私財を蓄えたこと、朝倉攻めの際、信長が遅れてきた家臣を叱った時に口答えをしたこと、30年間目立った戦功が無かったことなどで、戦功を挙げて戻ってくるか、討ち死にするか、頭を丸めて高野山にこもるか、どちらかにせよと命じた。

 折檻状には、光秀が丹波で、秀吉が「数ヶ国」で、勝家が加賀で戦果を挙げたことと対比して、信長に最も古くから仕え、織田家の権力の中枢に居ただけに、特定の地域を任された他の武将のように独自の戦果を挙げ難い立場であったし、一向一揆全体を相手として、毛利氏までが支援する本願寺との戦いに容易に勝利できなかったことは、必ずしも信盛の責任とはいえない。

 戦勝後には本来なら担当者(佐久間信盛)を労(ねぎら)うべきところを、逆に処罰したことはあまりにも非情である。織田軍が全体として戦ってきた本願寺戦争で信盛に功績を認めたなら、家中での信盛の地位が上昇し、信長自身の絶対性が損なわれる結果になる。本願寺をようやく屈服させた機会に、織田家の重臣として必ずしも従順でないところがあった信盛を粛清することで、家中においても、権力の更なる強化を図ったというのが真相だろう。その後、佐久間信盛は、天正10年(1582)1月16日(本能寺の変の5ヶ月前)、紀州熊野にて死去した。55歳だった。
大坂から京に戻った信長は、家老の林秀貞(通勝)、安藤守哉(当時78歳)父子、丹羽氏勝(当時58歳)を同様に遠国へ追放した。

 信長に追放された人物がいただけでなく、離反した人物もいた。
 天正5年(1577)大和国を安堵されていた松永久秀が背いて信貴山城に自爆。
 天正6年(2578)摂津国を任されていた有岡(伊丹)城主荒木村重が叛き、籠城のあげく翌年毛利氏のもとへ亡命した。摂津の国人池田氏の家臣という自出ながら、信長自らが取り立てた村重の離反は、浅井長政と同様にまったく予期せぬことで、その説得と捕らえられた妻子一類ら籠城者数百名の残酷な処刑の様子は、信長公記に詳しく描いている。村重の家臣だった高槻城の高山重友(右近)が説得に応じて、信長の家臣になったのは、このときである。

 信長軍に抵抗し続けて滅んでいった丹波八上の波多野氏や、播磨三木の別府氏など、地域的な自立性の強い勢力にとって、中央集権的な支配に服すること自体に違和感を募らせいったのではないかと思われる。そして、国一揆が自治を行い、これまで織田軍を翻弄し続けていた伊賀国は、天正9年(1581)9月、信長によって四方から攻め込まれで壊滅した。『天正伊賀の乱』と呼ばれ、力による徹底した破壊は、中央政権に服従しない地域的なもの、一揆的なものへの、最期の大弾圧であった。

 天正9年(1581)10月、羽柴秀吉が因幡鳥取城を落城させ、毛利氏の勢力が西に後退すると、信長は長篠の戦い以来の懸案であった武田氏への総攻撃の準備を始めた。

 天正10年(1582年)2月、武田勝頼の妹を娶り、信玄の娘婿になる親類衆の木曽義昌が、武田の衰運を見極め、織田方に寝返ってきた。これを契機に、信長は甲斐討ち入りを決断した。伊奈口からは、織田軍の総大将である信長の嫡男・織田信忠。飛騨口からは金森長近。駿河口からは徳川家康。相模口から北条氏政が、それぞれ武田領に攻め込む手はずとなった。武田氏の滅亡を決定付けたのは、この義昌の裏切りだった。

 勝頼は木曽義昌討伐のため、1万5千人を率いて諏訪に進んだ。義昌は織田方に救援を要請した。織田信忠は、木曽口と岩村から進軍を始め、妻籠(つまご)から木曽路に入り、義昌と合流した。岩村からの侵攻軍は清内路から飯田に迫った。飯田城の坂西、保科らは戦わずして退散し、大島城の武田信綱(信玄の弟)も甲府に退去した。

 勝頼は2月28日、逃げるように新府城に帰った。武田信豊(信玄の弟・信繁の子)も勝頼を見捨てて領地に帰った。穴山梅雪(信玄の娘婿)も、家康の誘いに乗り、勝頼に反旗を翻した。

 信忠は3月2日、高遠城を囲んだ。城将は信玄の五男・仁科盛信である。早朝から始まった攻撃では、信忠自身が掛け矢を持って柵を打ち壊し城内に入ったという。軍兵も先を争って信忠に続き、城方と斬り結んだ。午後には城が落ち、織田方は400余の首を取った。高遠城の戦いが、武田攻めで織田方が受けた唯一の組織的抵抗だが、城内からは戦わずして逃げるものも多く、あっけない戦だった。

 3月3日、勝頼は新府城も捨て、嫡子・信勝と共に譜代家老小山田信茂を頼ったが裏切られ、3月11日天目山で一族と共に自害し、武田家は滅亡した。勝頼37歳だった。

 信長は馬廻り衆をはじめ、明智光秀、細川忠興、池田恒興、筒井順慶、高山右近、丹羽長秀を率いて3月8日岐阜を立った。このとき、太政大臣・近衛前久も同行した。近衛は一ヶ月前に、信長の推挙で太政大臣になった公家である。遠征軍に、天皇の直臣である現職の太政大臣を帯同していれば、天皇親征軍に準じた格になり、武田氏が武門の名流といえども天皇には勝るものは無い。だから、織田軍に威厳を付ける為と考えられる。

 3月15日、信長は飯田で勝頼父子の首を晒し、甲斐、信濃の仕置きをした。甲斐国は河尻秀隆、上野国は滝川一益、駿府国は徳川家康、信濃国は高井、水内など4郡は森長可に与えられた。木曽義昌には黄金百枚と新たに信濃二郡を与え、穴山梅雪には本領を安堵した。
 3月28日、諏訪に信忠を置いて、信長は甲斐国、富士の裾野、駿河国、遠江国を回って安土に向かった。

 4月3日、信長は武田氏の菩提寺・恵林寺を、武田の残党を匿(かくま)ったと口実をつけて、寺中の僧ら150名余りを一人残らず山門に上げて、わらを積み上げ火を放ち血祭りにした。快川紹喜長老は端座して身動きしなかったという。『安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し』の辞世を残したといわれている。だが、この辞世は『甲乱記』では快川と問答した僧・高山の言葉とされており、同時代文献には見られず近世の編纂物に登場していることから、本来は快川の逸話でなかった可能性が指摘されている。

 この快川紹喜長老は正親町天皇から国師の称号を贈られた特別な存在だった。その快川長老を信長は恵林寺で焼死させた。この事件は、太政大臣の近衛前久としては、見逃すことが出来ず、信長を非難し諌めた。そのとき、信長は近衛前久に対して馬上から『近衛、わごれなンどは、木曽路を上らしませ』と言ったという。「わごれなンどは』とは『お前などは』というニュアンスで、『うるさいことを言うのならさっさと帰れ』と怒鳴った。この事件が朝廷に影響を与え無かったとは思えない。公家たちの心の底には、信長に対する警戒感、嫌悪感が積み重なっていったと思われる。

 また、信長の家中にとっても、武田氏の菩提寺・恵林寺を、信長が焼払い根絶やしにしたことは、大きな衝撃を与えた。武士が死を賭して戦うのは、死後も本領はその子、兄弟などに引き継がれ、その霊は供養されるとの保証があるからだ。菩提寺が討滅されては、魂の行き場がなくなってしまう。だから、武家ならば、決してやってはいけないことである。誰もが望まないことまでする信長の人間性に、尋常な精神を疑わざるを得なかっただろう。暴君はその度合いを強めてゆくのを目の当たりにした。

 4月12日、甲斐国から駿河国に入った信長は、13日江尻に到着し、翌14日、駿府を経て田中修に至り、15日藤枝、16日掛川・見付を経て天竜川を渡り、17日家康の本拠地である浜松城に泊まり、18日には三河に入って吉田、19日尾張に入って清須、20日には岐阜、そして21日に安土城に戻った。

 信長が甲府から、安土に帰城するまでの帰路、家康領である駿河国、三河国と進む道筋のすべてで、家康は道幅を広げ、木を切り岩を取り除き、橋を架け、途中に休憩の為の茶店を作り、柵を設けて安全を期し、献身的な奉仕に努めた。それを、織田領の尾張国に入るまで、家康は続けた。駿河国拝領のお礼というが、信長の狂信ぶりを知る家康の身の安全を図る為にとった信長追従策、安全確保策である。

 家康には苦い経験があった。それは、天正7年(1579)8月29日、家康の正室築山殿(今川義元の妹の娘)が武田勝頼に内通した嫌疑を信長から掛けられた。9月15日には、築山殿が生んだ家康の嫡男・信康まで殺害を命じられた。信長の理不尽な要求に対して、徳川には一戦に及ぼうという家臣は無く、信長の要求を受け入れ、家康は腹心の家臣に嫡男と正室の二人を殺害させた。信長のどのような非道、暴虐にも、耐え忍ぶと徳川家臣は一丸となってまとまり、ひたすら信長に卑屈なまでに仕えた。気ままな権力者の機嫌を損なうことなく、家康はじっと耐えて、信長追従に努めた。

 安土城に戻った信長は、5月14日(と思われる)、光秀に対し『軍務に付かなくてもよい』という『在荘』を命じた。広い意味での休暇と言うことである。この時期、光秀が特に出陣しなければならない戦いが周辺に無かったことから、光秀に休暇を与えたものだろう。『軍務から解放する代わりに、15日より家康の饗応役を務めよ』との命が下った。光秀は、京都・堺にて珍味を取り寄せ、接待の贅を尽くした。『兼見卿記・正本』

 5月15日、家康と穴山梅雪は、武田氏滅亡に協力した御礼として、信長の招待に応じるために、居城・浜松城を発し、安土城に上がった。武田氏滅亡の褒美として、家康は武田領だった駿河一国を与えられ、梅雪には本領を安堵され。15日から21日までの6日間にわたり、安土滞在中連日の饗応を受けた。

 その前日5月14日、毛利方の備中国高松城(岡山市)を包囲していた羽柴秀吉から、毛利の援軍が来たので、援軍要請の連絡が入った。

 秀吉はこの年の4月14日に、備前岡山城の宇喜多直家・秀家父子らとともに備中に入り、宮路山城・冠山城などを落とした。さらに、清水宗治の守る備中高松城に迫り、4月27日から高松城を囲み、近くの足守川の水を堰きとめ、5月8日から有名な水攻めの態勢に入った。事態の思わぬ展開に驚いた毛利輝元は、叔父に当たる吉川元春・小早川隆景に兵をつけ、備中高松城の清水宗治救援に向かわせたのである。毛利軍本隊が後詰めに出てきたとなると、この頃の秀吉軍はわずか1万ちょっとの兵力なので、勝ち目は無い。そこで信長本人の出馬を要請したのである。

 信長は『これは天の与えるところである。自ら出馬し、中国の歴々を討つ果たし、九州まで片付けてやろう』と返答した。当時、信長の最有力部将で越前国の庄(福井市)城主の柴田勝家は、前田利家・佐々成政らとともに北陸方面で上杉景勝と対峙していた。織田家の後継者で岐阜城主である嫡男・信忠は、武田家討伐軍の司令官としての任務を終え、安土にいた。次男・信雄は居城の伊勢松ケ城(三重松阪市)にいた。三男・信孝は丹羽長秀や、信長の甥の津田(織田)信澄とともに、四国の長曾我部元親を討つべく大坂(大阪市)付近に待機していた。他の有力武将たちも旧武田領の経営に出払っていた。

 天正10年当時、信長の天下統一事業を支えていたのは、有力部将たちの軍勢、特に方面軍というべき大軍団をまとめると、
 北陸方面軍(司令官 柴田勝家)
 畿内方面軍(司令官 明智光秀)
 近畿管領軍(司令官 明智光秀)
 中国方面軍(司令官 羽柴秀吉)
 関東方面軍(司令官 滝川一益)
 四国討伐軍(司令官 神戸(織田)信孝)

 こうした状況では、中国へすぐ派遣が可能な部将といえば、畿内の諸将だけになる。その最有力者で備中に近い丹波を所領とするのが明智光秀だった。

 そこで、信長は、光秀とその与力である長岡(細川)忠興、筒井順慶、そして摂津の遊撃軍団である池田恒興・中川清秀・高山重友(右近)・塩河長満に先陣として出陣の命が下した。家康の接待役を解かれた光秀は、17日に安土から居城の坂本(滋賀県大津市)に帰城した。他の諸将もそれぞれ出陣の準備を始めた(『信長公記』)

 畿内の主な遊撃軍としては、摂津の大部分を基盤とする池田恒興の軍、若狭の丹羽長秀の軍、和泉の蜂尾頼隆の軍がある。池田軍は明智の畿内方面軍と共同歩調を取っていた。そして、中国方面の援軍を命じられた。池田をはじめ中川清秀、高山重友など摂津の武将たちは準備完了し、各々居城で待機していた。丹羽・蜂屋も既に出陣の準備を終えていた。彼らの目的地は四国であり、四国討伐軍の総大将織田信孝はすでに住吉に着陣している。丹羽は大坂で、蜂屋は居城の和泉岸和田で、6月3日(本能寺の変の翌日)に予定されている渡海を待っていた。(『宇野主水日記』より)

 ここで、話しを少し戻すが、
 フロイスの『日本史1582年日本年報追加』によると、5月15日からの『家康の饗応』の準備について、『信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(の意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめて、一度か二度、明智を足蹴りにしたということである。』との記述がある。

 家康の饗応をめぐって、信長と光秀が密室で話していたところ、信長の勘にさわる話題が出た。その件で光秀が言葉を返すと、信長は逆上して、光秀を足蹴りにしたというのである。なお、この話はフロイスが直接見たのではなく『人が語るところによれば』とあるように、伝聞である。もし、この話が事実であるならば、光秀は少なくとも信長に対して、良い感情を抱かなかったと思われる。光秀が信長に語った『信長の好みに合わぬ要件』については、『本能寺の変:其の5・結び』で考察したいと思う。

 織田信忠は最小限の近習を髄従させて、5月20日まで安土にいた家康に付き添って、21日に梅雪とともに上洛した。信長に代わって家康の接待の役割を担っていた。その後、西国に出陣すべき信長・信忠の旗本たちは、三々五々京都に入った後、本能寺や信忠の妙覚寺には泊まらず、市内に分宿した。本能寺も妙覚寺も手薄状態だった。別に、津田信澄と丹羽長秀は、家康を接待するために大坂にいた。信澄は、信長の弟で兄信長に殺された信勝(信行)の息子であり、信長は伯父であるとともに親の仇でもあった。さらに彼は光秀の娘婿でもあった。

 家康の接待役を解かれた光秀は、17日に信長の居城安土から坂本城(滋賀県大津市)に帰城した。9日間坂本城に滞在し、坂本城を発し、亀山に帰城したのは26日である。

 29日早朝、信長は安土城を出発し本能寺に向かった。わずか二、三十人小姓衆のみ同行させた。留守衆として残されたのは、蒲生賢秀・木村高重・山岡景左といった近江の国人出身の家臣が中心で、その他は微禄の馬廻りたちである。

 同じ日、家康は梅雪とともに京都から堺に移った。信長の家臣で堺政所の松井友閑が接待した。当初。同行するつもりだった信忠は、信長上洛の報を得て京都に留まった。このことは、信長の行動は、嫡男・信忠でさえも掴みきれないほど唐突なところがあり、また変更もあることを示していた。

2013/9/29 脱稿  

私考『本能寺の変』其の4:『第4章:本能寺、その後』へ続く

参考文献等は、私考『本能寺の変』其の7にまとめました。


ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ