ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.22



日本のお坊さんは仏教徒ですか(3)-私の仏教覚書帖- 
2017/06/19



日本のお坊さんは仏教徒ですか(3)

――私の仏教覚書帖――


2017/3/12〜2017/6/10 


   第二章 阿育王・龍樹・鳩摩羅什


 仏教は、釈迦牟尼さんが入滅した直後から、釈迦牟尼さんが想像もできなかった宗教へ、次々に変貌をして行きます。そこで、釈迦牟尼さんが創始した仏教を『釈迦仏教』とか『原始仏教』といい、それ以降の仏教と区別して呼ばれています。

 釈迦牟尼さんは、自分の死後の遺骨はガンジス川に流し、遺骸の供養等は在家の信者にゆだね、修行者は、真理の追求に専念することを望みました。しかし、釈迦牟尼さんの遺灰はガンジス川に流されることなく、弟子たちが、八部族で分骨し、遺骨を安置する卒塔婆を立て供養と崇拝を始めたのです。

 釈迦牟尼さんの遺言が守られなかったことを、どのように考えればいいのでしょうか。卒塔婆を建て供養をした(もしくはそれを許したということは、師の死を、釈迦牟尼さんの直弟子の高位の阿羅漢(一般的には悟りをひらいた高僧をいいます)たちは、釈迦牟尼さんが説いた境地に達していなかったことを意味するのではないでしょうか。

 この仏塔に、いつしか信者がお参りするようになり、後に大乗仏教と呼ばれる、釈迦牟尼さんが考えもしなかった新しい仏教教派が成立する発端になりました。生前から自分が神格化されることを嫌っていた釈迦牟尼さんにとって、大変不本意なことだったに違いありません。

 仏舎利塔や釈迦牟尼さんゆかりの地などを、八大聖地として信仰の対象となりました。それは、下記の8ヶ所です。
 @生誕地:ルンビニー
 A成道地:ブッダガヤー
 B初転法輪地:サーナルート
 C涅槃地:クシナガラ  以上が4大聖地
 D霊鷲山のあるラージャグリハ
 E模範的都市として釈迦牟尼さんが一目置いたヴァイシャーリー
 F祇園精舎の所在地:シュラーヴァスティ
 G降臨伝説のあるサンカーシャ

 当時のインドでは、文字に書き写すことによりその「教え」が自分から離れて行ってしまうと考えられ、口伝で伝えることが正しいとされていました。だから、釈迦牟尼さん本人が書き残したものは、この世に何一つ存在しないことは、前章で述べました。

 釈迦牟尼さん入滅後、マガタ国のラージャグリハにある七葉窟に、釈迦牟尼さんの教えを確認するために、阿羅漢(お弟子さん)500人が集まり、「釈迦牟尼さんの口伝の内容を記録して後世に伝えなければ、教えが廃れる」として、経典の編集会議が行われました。これを第一結集と云います。

 この時、編集された五部のニカーヤ(『阿含経典群』)は、各サンガ(各部派教団)独自の解釈が持ち込まれましたので、そのまま釈迦牟尼さんの言葉の記録とすることはできなかったのです。だから、釈迦牟尼さんの『その真理』そのものも、後世の想像が加わっているために、どのような悟りがあったかは、厳密には分かりません。しかし、このニカーヤ(『阿含経典群』)は、経典の基礎となるもので、『原始仏典』と呼ばれるものです。

 釈迦牟尼さんが入滅して100年も経過すれば、社会も変化し、特に貨幣経済が発達し、仏教教団・サンガの規則である『律』も時代にそぐわない面が表面化してきます。僧団内部でも意見が分かれ、ヴァッジ国のヴァイシャーリーで第二結集が開かれました。

 今まで通り釈迦牟尼さんの教えと戒めを守り修行を積んで悟りを得ようという僧伽主流の保守派『上座部(じょうざぶ)』と、時代の変化に対応して戒を緩め門戸をもっと広げなければいけないと云う改革をする勢力『大衆部』が結成されました。こうしてサンガ(僧団・教団)は分裂しました。その後、数百年間に、さらに分裂を繰り返しました。これを『根本分裂』といって、仏教史上大きな出来事と扱われています。この時期までを、『原始仏教』と呼ばれ、それ以降を『部派仏教』といいます。

 なお、上座部系の仏教、つまり『上座仏教』は、南伝し、南方仏教を形成して現在に至ります。そして、今も釈迦牟尼さんの教えを受け継いでいると言えます。

  サンガ(僧団・教団)は、次第に活性を失ない、民衆はサンガに失望し、お釈迦牟尼さん追懐の思いが深まりました。その結果、仏塔に、いつしか信者がお参りするようになり、その強い崇敬心が釈迦牟尼さんを神格化してゆきました。

 釈迦牟尼さんの生い立ちなどのエピソードは、仏塔守(在家信者)が口伝で語り継がれ、その過程で釈迦牟尼さんは徐々に神格化、超人化され仏伝文学と云われる物語に発展してゆきました。インドの民話や伝説の主人公と混然一体となり、やがて釈迦牟尼さんの前世の物語のジャータカ物語が誕生しました。

 仏教をインド国内に定着させ、世界各地に広げ、世界三大宗教に育てる基礎を築いたのは、阿育王(アショーカ王:紀元前304年〜紀元前232年)です。釈迦牟尼さんの時代から200年〜300年後のことです。阿育王が誕生しなければ、仏教はインドの中に多数存在する沙門宗教のひとつで終わっていたかもしれません。

 阿育王は、祖父から2代にわたって築いた領土を継承して、南はマイソールに及ぶインドの大部分とアフガニスタンの南部とにわたって支配し、インド古代史上最大の帝国を築きました。東南インド征服戦争で多くの民衆を殺傷したことを悔いて仏教に帰依し、武力による征服をやめて、ダルマ(法)に基づく政治を実現していったと云われています。その自分の業績や仏教精神などを、大きな岩石に彫らせた碑文が、インド北部全域で40ヶ所以上現存しています。

 紀元前244年、阿育王は、第三回の結集をパータリプトラ城で行いました。サンガ(僧団・教団)内の和合を説き、争いを厳しく戒め、その他の宗教教団に対しても保護を与えて寛容を説きました。

 また、政治理念が近隣の諸国、諸民族にまで伝わり、仏教はインド全域から国外へも広がり、西方のヘレニズム諸国や東方の東南アジア諸国、北方の中央アジア諸国に伝わり、発達を促進しました。阿育王の政策統治は、36年間に及んだあと衰退しましたが、仏教徒は阿育王を保護者と仰ぎ、理想的な王として尊崇して、多くの説話を造りました。

 阿育王全盛期頃から、急速に経済の発展期を迎え、王侯貴族や大商人が隆盛を極めました。極端な教義に走らず、解脱、中道、平和を説く『上座仏教』は、そうした上流階級に庇護され、仏教理論の構築に没頭し、自らの解脱、煩悩を断ち切って阿羅漢(あらかん)になることを目的(自己の悟りを求める「自利」)に没頭してゆきました。

 それからさらに何百年経ち、釈迦牟尼さんの時代から500年ほど経過した紀元元年頃、この『大衆部』の中から「自分の悟りよりも他人の救済に励むべきであり、それは行きつくところ、自分の悟りに結び付くのだ」と云う考え方が出てきました。これを「自利」に対して「利他」といいます。

 そして、この派が、仏教礼拝の集団と手を組み、ここから『大乗仏教』(大きな乗り物を用意して皆で悟りの彼岸に渡ると云う意味)と云う新しい仏教が始まりました。大乗仏教は、実質的には人格神に対する信仰です。釈迦牟尼さんは人格神に対する信仰を否定しましたから、釈迦牟尼さんが考えもしなかった新しい仏教です。『釈迦仏教』とは、まったく別の宗教というべきものだと、私は思います。

 仏教の歴史を振り返ったとき、『大乗仏教』の誕生は、特筆すべき出来事だと私は思います。釈迦牟尼さんの教えを受け継いでいる上座仏教では、『仏』(ブッダ=真に悟った人)と云えば、釈迦牟尼さんのことでした。つまり仏は釈迦牟尼さん一人のことでした。他に仏はおられません。出家して仏弟子なって一生懸命修行して悟りを開いても、『仏』にはなれません。阿羅漢と呼ばれる聖者になれるだけです。

 しかし、大乗仏教では、一生懸命に修行して、皆で『仏』を目指そうという考え方です。だから、釈迦牟尼さん以外にも、『仏』なった人がたくさん誕生することになります。『仏』と【如来】は同じですから、釈迦如来のほかに、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来などです。仏様になる前の修行中の方を【菩薩】といい、観音菩薩、勢至菩薩(せいしぼさつ)、地蔵菩薩、文殊菩薩などです。【如来】【菩薩】の次に、仏教を実行する【明王】で、不動明王、愛染明王です。さらに【天】が続きます。帝釈天、弁財天などです。

 『大乗仏教』が人々に拡大したのは、在家のままでも一心に仏様を信じて善行を積めば悟りに近づくことができること、そして仏様におすがりすれば救って下さるという衆生救済の考えも、幅広く支持され人気を得た要因でした。

 インドでの大乗仏教の歴史は三期に分けられます。
 ◆初期は紀元前後から3世紀頃で、多くの経典が、この時代(つまり釈迦牟尼さんが入滅して500年〜800年後)に誕生しました。執筆したのはインドの大乗派に属する仏教文学者と呼ばれる作家たちです。彼らは「釈迦牟尼さんは、こうお考えになったのに違いない」「こんな問答をされたに違いない」と推測し、仏教思想を文学作品にしあげたのが経典です。

 それら初期大乗仏典の原型が成立した地域と時期を下記にまとめてみます。代表的な大乗仏典の原型は、ほぼ総て北インドから中央アジアで成立しています。釈迦牟尼さんに始まるインド仏教の流れではなく、別の要素が加わって成立したと考えられます。
 若経典 西北インド 前1世紀〜
 維摩経  北インド   後1〜2世紀
 法華経  西北インド 後2世紀前半
 華厳経  中央アジアのコータン 後1世紀〜
 無量寿経 北インド 後2世紀前半
 阿弥陀経 北インド 後2世紀前半
 観無量寿経 中央アジア 中国 後4〜5世紀
 般若心経 4世紀頃成立

 ◆3世紀から4世紀までの100年間を中期といい、龍樹(ナーガールジュナ150?〜250年?)と呼ばれる高僧の時代です。大乗仏教の根幹となった『空』の思想を確立させ、仏教の本質を解脱の『釈迦仏教』を一転させ、救済仏教に変えてしまったのです。

 ◆4世紀から8世紀までが後期で、玄奘三蔵がインドに渡り『般若経』などを中国に持ち帰りました。空海(弘法大師)に受け継がれる密教が誕生したのもこの時代です。

 8世紀以降、仏教はヒンズー教に徐々に融合され、その傾向に拍車をかけたのがイスラム教のインド侵入です。13世紀に登場したハルジー王は密教寺院を破壊し、僧を殺害してゆきました。生き残った僧はネパールやチベットに逃げ、インド仏教は完全に姿を消しました。日本の鎌倉時代にあたります。鎌倉時代の日本の仏教界は、宗教革命と云っても良いような新しい時代を迎えていた時期に、仏教発祥の地インドで仏教が消滅したことは、なんとも皮肉なことに思えます。


 三世紀、この大乗仏教にインド人の龍樹(ナーガールジュナ、150?〜250?年)という大天才が登場し、大乗仏教の理論を不動のものにしました。現在の日本仏教は、釈迦牟尼さんの教えと云うよりも、むしろ龍樹による大乗仏教の理論から出発しているといっても過言でないように、私は思います。

 もちろん、龍樹の理論が中国に伝わり、道教や儒教の影響を受け、さらに経典を漢語訳した鳩摩羅什(350〜409年)や玄奘三蔵(602〜664年))など中国人の思想が加わり、最澄(767〜822年)・空海(774〜835年)などのフィルターによって選ばれた経典(教え)に、多くの日本人僧によって日本的な解釈がなされ、さらに古来日本に根付いている精霊信仰、先祖崇拝思想と融合して、日本の風土や民族性に溶け込みながら、独特の日本仏教を成熟させてきたのだと私は思います。

 
 龍樹は釈迦牟尼さんの教えを詳しく検討し直して、釈迦牟尼さんが『この世のすべては、互いに関係し合って成立ち、一つとして永久不変なものはない。それが私の法(ダルマ)の基本だ』と、説いた点に注目し、すべてが変わるならば法だって変わるはずだと考えたのです。凄い発想の転換です。

 龍樹は、一切は『シューニヤ』なのだと、釈迦牟尼さんの思想を新しい視点で切って見せたのです。『シューニヤ』はインド人が発見した数学のプラスマイナスの『ゼロ』です。さらに、龍樹は信者の信仰が釈迦牟尼さんの温かで寛容な心に集まっていることに注目し、仏教の本質は『慈悲』だと、解脱の釈迦仏教を一転させ、『救済仏教』に変えてしまったのです。

 龍樹は、「釈迦牟尼さんはこの世に変わらないものはない。有るかに見えるものもいつかは無くなる。しかし、いつかは無くなるものも、現実には存在すると言っている」とするならば、それは数学の原点、プラスマイナスの中心である『シューニヤ』(ゼロ)と同じではないかと、考えました。

 龍樹はその『シューニヤ』に哲学的な意味を与え、釈迦仏教の本質を明快に表現して見せたのです。しかし、当時中国にはゼロという観念が無く、だから語彙もなく、経典の翻訳にあたった中国の僧侶は、『無』とも違うようだと苦しんだ末に考え出したのが『空』と云う言葉でした。『空』の解釈をめぐっては、さまざまな論争がありますが、後世、仏教の教えの中核になりました。

 これを発展させて、この世の森羅万象は互いに関わり合うことによって成立しています。だから、有でもなければ、無でもありません。永遠不変の実体を持たず、常に変転して止まりません。つまり、無常なのです。ところが人間は、それに執着してしまいます。そこに、迷いの根本原因があるのです。したがって、悟りを得たいのであれば、何をおいても、まず最初に、この世の森羅万象が『シューニヤ』なることを認識すべきです・・・。これこそが、釈迦牟尼さんが見出した最高真理であり、悟りへ至る唯一絶対の道だと、龍樹は主張したのです。

 人はみな、無いものをあたかもあるかのように受け取るので、迷いに迷うと云うのが、釈迦牟尼さんの教えであると考えれば、「色即是空」における「色」は物体のことで、「一切はゼロから始まって、ゼロに戻ってくる」と解釈すれば、理解の糸口が得られると、龍樹は解釈したのです。

生まれた環境によって、人は皆違います。人生は良いときもあれば悪いときもあります。良いことは続きしませんし、悪いことも続かないものです。悪いときも、振り返れば、チャンスだったかもしれません。良い悪いは自分では気付かないものです。他人からは、違って見えているかもしれません。得たものが有れば失ったものも有ります。人生終わってみれば、プラスマイナスのゼロです。ゼロから始まってゼロで終わるのです。龍樹の『シューニヤ』について、私の個人的解釈です。

 紀元一世紀頃にガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)で、ギリシャ・ローマの彫刻の文明の影響を受けて、人間の形をした仏像が作られるようになりました。その前後して、インドのマトゥラーにおいても、仏像造立が始まりました。仏像造立開始の契機については諸説あるようですが、一般的には釈迦牟尼さん入滅後の追慕の念から、信仰の拠りどころとして発達したと考ええるのが自然でしょう。仏像の本義は仏陀、すなわち釈迦牟尼さんの像ですが、現在は如来・菩薩・明王・天部など、さまざまな礼拝対象になっています。

  仏像が造り始められた頃、アジアの東西をつなぐシルクロードを通って、仏教はインド伝来の宗教として、紀元1〜2世紀頃から時間を掛けてインドから少しずつ中国に伝えられました。仏教がインドから中国に渡ったとき、すでにそれは不可思議なものに変容していました。仏像や仏教建築様式が、中国人にとって、神秘的であることからこそ、仏教は宗教として中国に受け入れられた一面があると思います。

 もちろん、中国にはすでに伝統的な宗教である道教が根付いていました。道教は、宗教というよりも処世術、生き方の方法論のようなもので、その要は不老不死、すなわち長生き延命が目的です。現実的である中国人は、今自分が生きていることを重要視し、あるかどうかわからない死後のことについては、ほとんど関心がありませんでした。釈迦牟尼さんと同世代の孔子が開祖した儒教が、道教と肩を並べて中国に根付いていました。その儒教『論語』にも死後についての記載がありません。

 現世肯定と延命を中心に捉える生き方をする中国人にとって、何度も生き返る輪廻転生は、まったく目新しい考え方で、まさに不死ではないかと思ったようです。もちろん仏教は、バラモン教に組み込まれてきた輪廻転生から脱するための悟りと生き方を教えるものでしたが、仏教の断片が少しずつ中国に伝わってきたために起こる誤解です。

 物事は理路整然と正確に伝わるものではありません。初めて知ったときのインパクトが強い印象となって、人々の中に広がり浸透してゆくものです。当時の中国人は、これまで見たことのない高層建築である仏塔に驚き、金色の派手な仏像に魅せられ、仏教をインド伝来の不死の呪術宗教と捉えたのです。

 特に仏像のインパクトが強かったのでしょう、仏教を『像教』と呼びました。仏教にほどこされたインド的な装飾ばかりが目立ってもてはやされて、釈迦牟尼さんの中心思想である縁起の理法は、きちんと伝わりませんでした。

 中国への仏教の移入は数百年間続きました。仏教は中国伝統の道教や儒教と反発と同化を繰り返し、儒教、道教、仏教が渾然(こんぜん)と混じり合って、いわば中国独自の仏教に変化してゆきました。

 釈迦牟尼さんの仏教、つまり『原始仏教』は葬式とは無関係だったのですが、中国に入った大乗仏教の一派に、葬式と付き合う宗派が出来たのです。そこから、いわゆる『葬式仏教』が始まったようです。中国において、仏教が葬式に関係するようになったのは、仏教の布教で、儒教との競争も大きな一因のようです。

 中国では紀元前から儒教によって死者を、あの世に送り出されていました。それに道教も倣っていました。中国民衆に仏教が新たに割り込んで入るには、葬式が容易だったのです。仏教に葬儀の作法はなかったので、儒教道教の儀式を参考に、儒教道教にはない読経を組み込んで、試行錯誤を繰り返して組み上げたのでしょう。12世紀初めに中国で書かれた禅宗の法式をまとめた『禅苑規(ぜんえんしんぎ)』が、各宗派の葬儀の本格的なマニュアルの基本になっています。

 仏教が伝わって以来、中国では、各王朝がサンスクリットで書かれた経典の漢訳を熱心に続けました。訳経には多くの僧が関わり、鳩魔羅什(くまらじゅう 350〜409年)、玄奘三蔵(げんしょうさんぞう 602〜664年)、不空(ふくう 705〜774年)、真諦(しんたい 499〜569年)が四大訳経家と云われています。

 法華経をサンスクリッド語から漢文に翻訳したのは、鳩摩羅什です。彼は現在の中国新疆ウイグル自治区クチャ県となっている亀茲国生まれです。父は名門貴族で、母は亀茲国王の妹と伝えられ、非常に高貴な身分の出身です。乱立していた各王朝が兵を出して争ったほどの人材で、10代で出家し、最初は初期仏教(原始仏教から小乗仏教あたりまで)を学び、後に大乗仏教に転向しました。仏教のほかに、文学、論理学、天文学、占星術、医学、工芸技術などの才能に恵まれた、万能の天才だったと云われ、自信家でもありました。仏典の翻訳に専念しました。玄奘三蔵の訳文は正確でしたが、鳩摩羅什は美しくリズムがあると云われています。

 鳩摩羅什の翻訳した主な仏典は、『金剛般若経』『維摩経』『弥勒下生経』『中論』『百論』『成美論』『法華経』です。中国で訳された経典の四分の一を占めています。

 鳩摩羅什は60歳で亡くなります。『私は中国生まれでは無かったのに、如何なる因果か、仏典の翻訳に従事し、300巻余りを訳しました。これらの経典を正しく広めていただきたい。もし、私の翻訳に誤りが無かったならば、私の遺体を火葬しても、舌だけは焼ただれないで、そのままの形をとどめるでしょう』この遺言どおり、鳩摩羅什の舌は焼け残らずに残ったという逸話が伝えられているようです。

 玄奘三蔵はインドから持ち帰った『大般若経』600巻や経典の研究書である『論』などを20年に渡って翻訳しました。その数は1300巻、中国で訳された経典の四分の一を占めています。

 中国で漢訳された経典が日本に伝わってきます。ここで厄介なのは、インドの原典とは無関係、中国で創作された経典が混じっていることです。これを『偽経』といい、構成も整い、文章も美しいために、長い期間気付かれぬものが多数あったようです。





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