ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.25



日本のお坊さんは仏教徒ですか(6)-私の仏教覚書帖- 
2017/06/19



日本のお坊さんは仏教徒ですか(6)

――私の仏教覚書帖――


2017/3/12〜2017/6/10 


   第五章 富永仲基


 乱世を終わらせ、安定軌道に乗せるために、織田信長(1534〜1582年)、豊臣秀吉(1536〜1598年)、徳川家康(1542〜1616年)という3名の個性的な実力者を、ひとときに輩出しました。時代の流れを変えるために、時々このようなことが起こります。日本に限らず、世界中で、このようなことが起こることに、目に見えない不思議な力を感じます。

 信長は自分が支配した領土に、関所を廃止し、楽市楽座を勧め、人とモノの交流を促進しました。全国統一を果たした秀吉は、前記した刀狩りで庶民から武器を奪い戦争を抑え、検知はいわば国勢調査で、統一した長さや容積の基準を決めて、正確な国力を把握しました。家康は安定した社会を目指し、街道の整備によって、人々の交流が盛んになりました。

 鎌倉時代の大半の庶民は、自分が生まれた村・地域から出ることなく、一生を終える人生だったでしょう。それが江戸時代になって、人とモノの交流・流通が比較的安全になり、少しずつではありますが、人々に開放感が拡がり希望が持てる時代へと変化して行ったように思います。

 江戸時代、儒教の影響は、あくまで武士階級の道徳という点に限られ、一般の民衆のまで普及浸透しませんでした。また、葬送儀礼をはじめとする実際の宗教儀礼は、仏教によることが多いことが、日本の特徴で、儒教が強い影響力を持った中国や韓国とは違ったところです。幕末期、儒教の学派の陽明学や朱子学の熱病に掛ったような志士たちを思い浮かべると、儒教の影響が限られていたことは、日本にとって幸運だったと私は思います。

 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに、徳川家康は石田三成に勝利しました。慶長8年(1603年)に家康は征夷大将軍に任じられ、政治の場を京都から江戸に移し、新しい幕府を開きました。小・中・高校時代、関ヶ原の戦いは、西軍と東軍に分かれて、豊臣家と徳川家の天下分け目の戦争で、東軍・徳川家康が勝利して、天下を手中に収め、やがて江戸幕府を開いたと学びました。

 しかし、私は豊臣秀吉の正室で子どもに恵まれなかった北政所と、側室で秀頼の生母である淀の方の確執が、豊臣家臣を二分した分裂を引き起こし、それを巧みに利用した徳川家康が、戦争に持ち込んで、いっきに豊臣家を弱体化することに成功したのだと、思っています。秀頼が秀吉の実子であったか否か、疑いがあったこと自体、豊臣家の弱点に違いありません。秀頼が秀吉の実子か否かが解明されたなら、『関ヶ原の戦い』の真相解明に、大きな一歩になるように思います。

 江戸時代は、慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)まで、約270年続きました。大坂夏の陣(1614年)、大坂冬の陣(1615年)で豊臣秀頼、淀君親子、秀吉恩顧の武将を一掃して、社会安定の時代が始まりました。鎖国制によって、海外の影響が少なく、政治・経済・文化思想の各面で、独自の発展を遂げ、元禄や文化文政など日本文化が成熟した時代だったと思います。庶民は芝居や浮世絵や滑稽本など芸能を楽しむようになりました。

 商品経済、貨幣経済が進展した一方で、武士階級は窮乏に陥り、農村社会の構造が変わって行きました。8代将軍・吉宗の享保の改革、田沼意次の商業政策、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の享保の改革など、何度も幕府財政の建て直しと封建支配の強化を図り、将軍を君主とする幕藩制国家を築いたのです。

 関ヶ原の戦いに勝利した家康は、武士勢力を脅かす権力を有する寺院勢力に対して、自己の支配下に置くために、慶長13年(1608年)から元和2年(1616年)に掛けて、天台宗、真言宗、浄土宗、曹洞宗、臨済宗など各宗の、本寺・本山を対象『寺院ゥ法度』を発布しました。不思議なことは、浄土真宗、日蓮宗、時宗には出されなかったのです。

 中世以来の寺院の特権である守護不入権(いわゆる治外法権です)を剥奪したのです。本寺・末寺の関係樹立、教学体制の整備などを実現することによって、寺院を幕藩体制の機構に組み込もうとしたのです。延暦寺、興福寺、高野山の僧兵の武装を解除し、僧侶は学問に励み、仏教を興隆する仏道に励むように仕向けたのです。

 各宗の本山は末寺に対して、末寺の寺号、住職の任命罷免の人事権、本山への法会の参加、本山への布達などの特権を与え、上下関係を明確にして末寺を支配したのです。本山は幕府権力を背景に重層的支配関係を作り、本山の住職の任命権は幕府が掌握するとともに、幕府が本山住職の任命や勅賜号の推挙状を持って、幕府が本山を支配したのです。だから、幕府は本山を押さえれば、寺院総てを容易に支配下に置くことが可能になるのです。これが『本末制度』なのです。

 このような初期の寺社政策を考案し支えてきたのが、南禅寺派の臨済僧・崇伝(1569〜1633年)と、比叡山延暦寺の天台僧・天海(1536?〜1643年)の二人です。

 崇伝は金地院崇伝と呼ばれ、京都・南禅寺で臨済禅を学びました。家康の篤い信任を受け幕政の重要事項に関わり、『黒衣の宰相』と称せられました。豊臣秀頼が再建した方広寺大仏の鐘の『国家安康・君臣豊楽』の銘文に難題を掛け、大坂の陣のきっかけを造った人物です。

 天海は慈眼大師といい、家康の信任を得て、延暦寺の復興、日光山の整備に努めました。家康に東照権現の号を勅許に努め、久能山から日光へ家康を改葬しました。

 幕府の寺院・僧侶の統制に、従順しない僧侶が現れました。吉川英治の『宮本武蔵』で知られる禅僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう 1573〜1645年)です。沢庵は慶長14年(1609年)に大徳寺154代長老に就任しました。大徳寺は臨済宗の寺院で第95代・花園天皇、第96代・後醍醐天皇の帰依を受けた勅願寺で、朝廷の権威の内にあり、幕府の支配園外なのです。そして、大徳寺の長老は天皇から紫衣を勅許されています。

 幕府は慶長18年(1613年)に『勅許紫衣之法度』、元和元年(1615年)に『武家諸法度』『禁中並公家ゥ法度』『ゥ宗本山ゥ法度』を発布し、統制を強化してゆきました。しかし、沢庵はそれらを無視し、さらに抗弁書を提出したのが、幕府の逆鱗に触れ、出羽に流罪となりました。これらは、天皇権の侵害であり、第108代・後水尾天皇は、これに抗議して譲位しました。これを『紫衣事件』と云います。寺院勢力を屈服させてゆく一つの過程です。

 寛永14年(1637年)、肥前・島原半島と肥後・天草島の農民とキリスト信者が結びついて起こした『島原の乱』は、幕府の宗教政策に大きな影響を与えました。キリシタン信仰と農民一揆が結びつくことに強い危機感を持った幕府は、キリシタン禁制を強化し、キリシタンを摘発し、キリシタンでないことを証明するために、『寺請制度』『宗門改制度』『檀家制度』を確立させたのです。

 キリシタンでないことを証明するために作成されたものが『宗門改帳』で、最初は寺院僧侶が担当していましたが、寛文4〜5年(1664〜1665年)頃に、有力農民(庄屋や名主)の手に移り、『宗旨人別帳』となり、戸籍原簿の役割を果たすようになりました。

 幕府は日本人一人ひとりを強制的に仏教徒として管理する『寺請制度』を強行しました。すべての日本人は、神主まで含めて必ずどこかの寺院に登録して、菩提寺(葬式寺)つまり『檀家』とすることにしたのです。寺請とは、登録した人に限って、寺がこの人はキリシタンでないと身分証明を受け合うと云う意味です。この証明書を『寺請証文』といって、旅行に使う関所手形の発行の際や、結婚して嫁入りする際など、いろいろな場面でこの証文を絶対必要としましたから、寺院の権力は飛躍的に増しました。

 ほぼすべての民衆が仏教徒になり、仏教は国教となったのです。本山の僧侶は、幕府の「官僧」となり、官僚化した僧侶は、檀家制度に胡坐をかいて、信者を獲得する努力を怠り、葬式と年忌などの法事が主たる仕事になってゆきました。その結果、僧侶は葬式仏教者になっていったのです。僧侶による葬式従事という日本仏教の特徴が確立しました。

 そして、葬式後もその檀家が継続的にキリスタンでないことをチャックするために、法要と称して、一周忌と三周忌を強要し、その後次々と増えて、七、十三、二十三、二十七、三十三、三十七、五十と10回も行うようにしてゆきました。それだけ寺は収入の機会を増やしたことになります。現在では、ほとんど三回忌で終わる家庭が多いと、多くのお寺が言ってますから、実態は少し変わってきているのかもしれません。

 葬式を菩提寺で行うこと、死者がキリシタンでないことを証明するには、仏弟子としなければなりません。それには死後受戒を行う必要があります。さらには人別帖の別巻ともいうべき寺の私文書「過去帳」には、戒名を書き入れなければいけません。このような具合に、死後受戒と戒名の制度を一挙に庶民の世界にまで押し広げたのです。

 現在につながる戒名制度は、この時点でスタートしました。仏教教団は、そのことがいかにも幕府の方針であるかのように『神君様御掟目十六箇条(しんくんさまじょうもく)』と云う文書を慶長18年(1613年)付で作成し、庶民を説得するタネにしました。しかし、この文書は、幕府の関与しない偽文書であることが、後世になって指摘されているようです。現在の戒名は、この官制戒名をそのまま引き継いだものです。信仰とはまったく関係なく、もっぱら幕府の治安対策によって作られた産物といえるのです。

 キリシタンの禁制強化は、寺院にとっては檀家制度を引き締めてゆく効果をもたらせたのです。キリシタン摘発の見返りに、幕藩領主は様々な寺院保護政策をとりました。寺は寺請業務を行う過程で檀家を確実に繋ぎとめ、寺域の拡大、堂塔伽藍の新築や修理に掛る経済的負担を総て檀家に転嫁したのです。

 日本で3番目の禅宗・黄檗宗は、承応3年(1654年)渡来僧・隠元隆g(いんげんりゅうき、1592〜1673年)によって伝えられ、黄檗宗万福寺(京都・宇治市)を本山としました。隠元僧は、インゲン豆と、普茶料理(ふちゃりょうり)という中国的(脂っぽい)な精進料理をもたらしました。隠元僧の伝えた禅は、純粋な禅と云うよりも、密教の儀礼と浄土教の入り混じった特徴があるようです。

 江戸時代、お寺が今後の日本に最も貢献したのは、子どもや人々に手習いを指導した『寺子屋』だと思います。寺子屋の起源は、中世(鎌倉・室町時代)にまで遡(さかのぼ)るようですが、一般的になったのは、江戸時代です。京都や大坂において、お寺や民家を校舎として、僧侶・医師・浪人が教師となって、町人の子弟に《読み・書き・そろばん》を教えたことが、全国に普及してゆきました。江戸では『筆学所』や『幼童筆学所』と呼ばれたようです。

 商工業の発展によって、実務的な学問の需要が起こり、京都・大坂・江戸などの都市部から、1690年代頃には農村や漁村にまで広がり、江戸中期から後期にかけて、著しく増え発達しました。実生活に必要とされた学問《読み・書き・そろばん》が中心ですが、論語(儒教書)や歴史や地理や古典(徒然草、百人一首)なども教えたようです。論語を教材としたのは、経典よりも親しみ易いのでしょうか。

 幕末の頃の日本の識字率(しきじりつ)は、地域によるばらつき【40%(岡山)〜90%(滋賀)】はありますが、世界的に高いのです。これは、寺子屋での教育の貢献が大きいと思います。日本人の学問好き、好奇心や探究心は、寺子屋で養われたのかもしれません。

 『駆け込み寺』と云う言葉があります。離縁の権利は、普通、夫の側にありましたが、夫に重大な欠陥があったときや、尼寺に掛け込んで3年経過すれば、妻から離縁が請求できました。しかし、17世紀半ばまでは、公認の縁切り寺はありませんでした。中世以来、全国各地の尼寺は女性の『避難所』の機能を持っていました。宝暦12年(1762年)寺社奉行は「相模の東慶寺(臨済宗)と上野の満徳寺(時宗)は縁切りを認める」としました。

 東慶寺に残る資料によると、江戸末期の150年間に駆け込む女性は2000人を超え、平均年齢は28〜29歳。駆け込んだ女性の多くは、寺の仲介で離縁できたようです。しかし中には、夫が承知しない場合は、女性は足掛け3年間、寺内で暮らし、髪を切り、経を読み、さまざまな仕事をさせられました。もちろん無料ではなく、上納金によって、3ランクに分けられ、貧しい女性は下女扱いのような厳しい生活を送ったようです。

 
 江戸幕府は仏教だけを保護したのではありません。政治思想・統治思想として、儒学とくに朱子学を重要視しました。この朱子学者から仏教に対して強烈な批判がなされました。また国学者の本居宣長(1730〜1801年)や平田篤胤(1776〜1843)からも排仏論が起こりました。

 さらに18世紀になると、富永仲元(1715〜1746年)から、科学的に『日本仏教は何であるか』を論じ、日本仏教に疑問を投じました。彼は大阪生まれの醤油店の町人で、市井の儒学者でもあります。

 日本で信仰されているあらゆる大乗経典は、釈迦牟尼さんが説いたものではないと云う『大乗非仏説論』を主張する『出定後語』を著しました。

 8万4千と云われる仏教経典には、相矛盾する説が書かれており、説かれた時期や相手によって、釈迦牟尼さんが異なった法を説いたと説明されてきました。その前提は、仏教経典は総て釈迦牟尼さんが説いたという立場です。

 しかし、富永仲元は、前代の思想の上に、それを超えようとして、後代の新しい思想の要素を付け加えてゆくという『加上説』を称えたのです。思想史の展開を科学的に理解しょうとして、仏教経典を分析したのです。その結果、総ての仏教の経典が、釈迦牟尼さんの説というのは誤りで、釈迦牟尼さんの説に順次加上されて、新しい経典が作成されたと主張しました。さらに、平易な和文で『翁(おきな)の文(ふみ)』(1746年)を著わし、神儒仏三教を廃棄し、これにかわる「誠の道」を求めることを唱えました。

 富永仲元の大乗仏教非仏論派は、現代の仏教研究においても有効な非常に優れた発想と評価され、日本の仏教の存在自体に疑問を提起するものです。当然のことですが、諸仏家などから非難されましたが、本居宣長(1730〜1801年)、平田篤胤(1776〜1843年)らに影響を及ぼしました。司馬遼太郎氏によると、この富永の説は、今なお破られていないということです。延享3年(1746年)8月、富永仲元は32歳という若さで死去しました。

 現在のような情報量が溢れている時代ではなかった江戸中期に、科学的手法によって、仏教経典への疑問を論証した富永仲元氏に、私は驚きを隠せません。


 『寺院ゥ法度』は、江戸仏教を堕落させた一面は拭(ぬぐ)いきれませんが、一方で、学問が奨励され、各宗派で、壇林、談義所、学寮など呼ばれる僧侶育成機関が整備され、各宗の教学、宗祖研究、経典注釈研究などが進みました。

 戒律の復興については、真言宗では慈雲飲光(じうんおんこう 1718〜1805年)が正法律(しょうぼうりつ)を唱え、戒律の復興を唱えました。釈迦牟尼さんの正法に依拠する正法律と呼ばれ、庶民にも十善戒(不殺生、不邪婬、不偸盗、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚(ふしんに:怒り怨まないこと)不邪見)を説いて世俗倫理を守ることを教えたのです。

 天台宗では安楽律(あんらくりつ)論争が起きます。 安楽律論争とは、最澄以来の大乗戒に対し四分律(しぶんりつ)を学ぶことを主張し論争になりました。

 江戸時代、経典や宗祖の言葉は、誤りのない真理と受け取られ、そこには批判的な観点が入る余地がなかったことは、仏教研究において決定的な大問題です。これを宗祖無謬説(しゅうそむびゅうせつ)と云います。言論の自由、批判のないところに発展はありません。富永仲基は、そこに一石を投じたのです。

 純粋に宗教的な理由からということでもないと、私は思うのですが、国内平和が続いた江戸時代は、伊勢神宮参拝や西国霊場や四国弘法大師の聖蹟を巡る四国遍路など、聖地巡礼が、僧侶ばかりでなく、民衆にも流行するようになりました。17世紀後半から19世紀前半に最盛期を迎えたようです。こうした巡礼は、僧侶たちの努力によって整備され、人々に勧められたことによるものでしょう。

 江戸時代の仏教は、世俗との新たな関係を模索してはいましたが、幕府との密接な関係のために、鎌倉時代に起こったような斬新で大胆な転換は起きませんでした。仏教内部から戒律復興運動が起こるように、僧侶の堕落も進みました。仏教界の現状に失望した禅僧からは、儒教に転向した人も現れました。

 それでも、江戸中期の日本の総人口は、現在の5分の1ほどの2500万人程度にもかかわらず、寺院は40万ほどあったようです。現在の寺院数は8万弱ですから、人口割にすると寺院密度は驚異的な数です。それほど、仏教が社会の隅々まで浸透していたのでしょう。

 余談ですが、江戸時代中期、寺院40万の内訳は、浄土宗、浄土真宗共に約10万寺でした。しかし、現在では、浄土宗約8千寺に対して、浄土真宗は約2万寺と大きな差がついています。ちなみに曹洞宗は1万5千寺です。浄土宗の寺院が減った原因の一つは、江戸時代、浄土宗は徳川家の宗旨だったことが、明治維新の神仏分離政策で、特に冷遇されたようです。

 幕末期、開国と民主化を政策進めていた幕府に対して、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの下級武士が、尊王攘夷を掲げて倒幕運動を興しました。彼らには、信長・秀吉・家康のような新しい国家ビジョンを持っていなかったと私は考えています。優柔不断な第15代・徳川慶喜が、彼らの暴力を目の当たりにして、世渡り上手な勝海舟の言動を真に受けて、サッカーで云うオウンゴールで江戸幕府が終焉しました。

 官軍となった彼等は、戊辰戦争を勃発させ、優秀な徳川幕府の多くの人材を殺害したのです。明治政府を樹立させると、その直後から攘夷をひるがえし、開国に突き進み、版籍奉還、廃藩置県で、彼らの主人であった藩主を排除しました。

 討幕者たちのしたたかな点は、政治の場を江戸(東京)に変えず、『帝の巡幸』と云う名目で、天皇を京都から江戸に足を運んで頂き、明け渡された『江戸城』を『皇居』として『滞在』し、都を移す『遷都』と云わず、都を定める『奠都(てんと)』として、天皇を身近に置き、鎌倉幕府、江戸幕府の轍を避けたのです。

 徳川幕府を倒してから、国の仕組み如何にすべきかを学ぶために、岩倉使節団として倒幕幹部たちの多数が、長期間国を離れ欧州に出発しました。明治10年(1877年)西南戦争、翌年の大久保利通暗殺の頃から、やっと世の中は少しずつ落ち着き始めたように思います。

 明治維新によって明治政府は、廃仏運動は平田派の復古神道の影響を受け、天皇中心の神道の近代国教化を進めました。明治元年(1868年)神仏分離令発布、明治4年(1871年)宗門人別・寺請制度が廃止になり、寺院への圧迫が進みました。そして、寺院や仏像、経典などが破壊・破棄される廃仏毀釈が起こりました。江戸時代の末期、30万ケ寺の布教拠点を持っていたと云われていますが、明治政府の強圧で10万ケ寺に減りました。

 廃藩置県によって、寺社領が没収され、東大寺の存立さえ危ぶまれました。興福寺も所領を奪われ、壊滅的な被害を受け、国宝の五重塔が250円、三重塔は30円で売りに出される状態だったのです。鹿児島では1060寺、富山では99.6%に当たる1629寺が廃寺されました。また、一千有余年に渡って、宮中で行われていた諸々の仏事法要は総て廃止されました。

 廃仏の背景には、檀家制度での寺僧の高圧的な行動に対する民衆の不満が爆発したと云う一面は否めないでしょう。仏像を火刑にしたり、宝塔を橋の礎石にしたこともあったようです。その一方で、檀家制度によって、家の葬祭・先祖供養の風習として定着しており、家制度が逆に強まり、葬式仏教は存続してゆきました。キリスト教徒の迫害も起こりましたが、仏教側から政教分離の強い要求や列国の抗議を受け、明治政府は、神道国教化を断念することになりました。

 
 明治5年(1872年)、僧侶の妻帯肉食を公認し、僧侶の妻帯と云う日本仏教の特徴が一般化するようになりました。翌年、キリスト教禁制を撤廃しました。これを契機に、天理教など新しい宗教が次々に成立してゆきました。

 明治8年(1875年)、浄土真宗から仏教界内部で改革運動が起こり、大教院を脱退したのを契機に、大教院も解散し、教部省も2年後に廃止され、仏教は廃仏毀釈の打撃から立ち直り始めました。





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