私は年齢的に、今まで生きてきた以上の時間を、もう生きられない現実を自覚したとき、残りの人生の長さを考えるようになった。そのとき、何故か急に、日本の古典を読みたくなった。古典文学には、日本人が長い時間を掛けて築いてきた伝統やしきたりを通して、生き抜く知恵のヒントが詰まっている宝庫ではないかと、思ったからだ。
紙が貴重な時代に、写本までして読み継がれた古典文学。多くの人々の手によって写本が繰り返された古典。『源氏物語』、『枕草子』ですら、直筆作品は残っておらず、写本、版本が現存しているだけで、作者ですら、紫式部や清少納言が「書いたとされる」ということのようである。
写経は一字一句正確に書き写すことが求められるが、写本は書き写す人々によって、少しずつアレンジされてゆく。現在に伝わり残っている古典の『竹取物語』などのような作者不詳の作品は、長い歳月をかけて多くの日本人の手によって何度も写本や版本を繰り返し、愛され読み継がれ、まるで熟成された酒のような味わいを秘めているのではないかと思えてきた。
さらに『昔話』に至っては、口から口へと伝承され、『人の口には戸を立てられぬ』ように、文字にして書き記さないことで、束縛されることがない。上の世代から受け継いだ知識に、語り手の体験と知恵を加えて、次の世代に継承されていくので、目に触れて残こる文章(古典)以上に、底辺に生きる人々の本音や真実を伝えているように思う。
『姨捨て伝説』は、日本の正式な記録には残っておらず、そのような習俗はなかったというのが定説のようだが、日本各地に、さまざまなパターンの姨捨の説話が語り継がれている。昔話の語り手が孤独で貧しい庶民階級だったことを考えると、昔話こそが、為政者が作らせた正式文書よりも、現実を反映した事実が語られている可能性が高いように思う。
本書『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』のタイトルと出合うまで、昔話の主人公が、お爺さんお婆さんが多いのは、何故なのか。私は考えたことがなかったことに、自分自身に軽いショックを受けた。
私は童話と昔話をほぼ同じもの思っており、好々爺や意地悪ばあさん、そして動物、もしくは鬼や河童のような妖怪を登場させ、就寝時に親から聞かされる子ども向けの『お話』と、何ら疑いもなく思い込んでいた。
しかし、本書を読んで、驚くことがいっぱいだった。自分の無知をさらけ出すことになるが、童話は、昔話の残酷性や性的要素を排除して、子供向けにアレンジしたものだというのである。『かちかち山』のタヌキは、お婆さんを殺して、「婆汁」にしてお爺さんに食べさせて逃げたというのである。『桃太郎』は、桃から生まれたのではなく、桃を食べたお爺さんとお婆さんが若返り交わって、男の子を生んだというのである。
もう一つの驚きは、『人間50年』という言葉があるように、昔の平均寿命は短く、長寿は難しいものと思い込んでいた。しかし、幼児死亡率はきわめて高いが、成人男女の余命は短くは無かったようだ。【長い歴史を通して、『老人』の概念はさほど変わることなく、数え年61歳が老人の始まりと考えられ、律令制の奈良・平安時代、官僚が辞職を許される年齢は70歳、江戸幕府が定めた老衰による隠居年齢も同じく70歳と、現代日本の定年より高齢に設定されていた】とのことである。
【70歳で行商と婚活に精を出す尼。
介護目当てで30〜40歳年下の尼と同棲し殺されそうになる70歳の僧侶。
出世したさに80歳過ぎの寺の長官を殺そうとする70歳の次席僧。
実は認知症だったかもしれない『鬼婆』と称される老母。
結婚率の低かった16・17世紀以前は『独居老人』が多かった。
弱いようでしぶとく、枯れているようで官能的で、姥捨て山に捨てられても決して死ぬことがなく、その老醜さえも武器にしてしまうその姿が、『昔話の老人は、お爺さんとお婆さんが主役』になる】と、大塚氏は指摘する。
そして、【昔話を語る語り手自身が老人だから、『自分たちの国や家族の歴史や知恵や知識や感動を伝える』話の主役に、自分と同じ年齢の人生経験が豊富な老人が多いのだという。自分を投影しながら、聞き手と語り手との交流をはかるコミュニケーションが、昔話の役割の一つにちがいない。】ともいう。
なるほどと、頷ける
本書は、『源氏物語』『今昔物語』など、多くの古典文学に登場する老人をはじめ、葛飾北斎、世阿弥、上田秋成など実在人物の老後の恋とSEXを手放さず逞しく、そしてしたたかな生きざまを紹介している。そのような老後の生き様が、私にはとても興味深かった。
いつの頃からか、テレビで毎日のように『不祥事を起こした』というよりも、『不祥事が発覚した』という意識がうかがわれるような責任者が、数名並んで頭を下げて詫びる映像を何度も目にする。彼らは本当に代表者であり責任者なのかと疑いたくなるほど、彼らの言動、態度、風貌から、責任の重さの自覚に欠け、軽薄で、頼りなげで、実力者とはとても思えないと感じるのは、私だけだろうか。ただ時流に乗って、運よく出世しただけのように思えてならない。
そんな人間が、現代を代表する企業や組織の人物であるならば、『昔の日本は違っていた』のではないか。『昔の日本は良かった』のではないかと、ふと思ってしまう。昔の日本人は、もっと毅然として、自分の志と信念を持ち、簡単に信念を曲げず、責任を貫く生き方をしていた。そんな風に、思い込んでいるところが私にはあった。
しかし、今回本書に接し、昔話の背景を読み解くと、16・17世紀以前は結婚して子どもが持てるだけでも恵まれており、貧しい庶民は老いても働らかなければ生きてゆけず、しかもろくな仕事もなく、ぎりぎりの毎日を送っていたのが現実のようだ。子どもや孫と暮らしていても、姨捨山に捨てられないまでも、精神的に孤立感を味わうことも少なくなかった。庶民の生活は、とても貧しく、幸せな一生だったと云える人々は、とても少なかったように思える。電気ガス水道医療などのインフラの社会基盤が充実していないだけでなく、人々のつながり、親子や家族関係においても、現在の方が穏やかな印象を受ける。昔の庶民生活は、大家族でいろりを囲んで夕食を楽しむ団欒(だんらん)など、まったく考えられない夢物語に過ぎないのが現実だったようだ。
それならば、現代日本社会は、『衣食足りて礼節を知る』ことが揺らぎ始めているが、それでも日本人が知恵と努力によって、安全と安心を維持するルールを人々は築き、それなりに守って、平和で幸せな社会を何とか堅持していることを、あらためて気付かされる。未熟あるいは幼稚な大人でさえ、それなりに大きな顔して生きてゆける日本は、そのように社会を成熟させてきたからであろうか。日本人は凄い民族かもしれないし、とても恥ずかしい民族かもしれない。
貧しく過酷な日々から生まれた昔話の老人たちの知恵や生き様から学ぶことは、反面教師の部分も含めて、現代社会に生きる私たちには、多くあるのではないかと思う。
大塚氏は、次のように書いている。
【親は親というだけで子どもにとって《権力者》です。知らず知らずのうちに、親はその権力で子を抑えつけ、コントロールしています。それが度を超すと《虐待》になるわけです。親であること自体、罪深いともいえるのです。】
【『人間がこの世に出て来るときもひとりなら、死ぬときもひとりなのだ』という現実に、社会制度の充実に期待こそすれ、身内に期待しない《諦め》が肝心だと、強く思うようになりました。】
【歳をとったら子や孫を解放してやる。子がいようとなかろうと、《ひとりでやっていく》という覚悟があった方が、結局は、心身ともにラクなのではないか。死ぬ時は動物のように、ひっそりと身を隠すように死にたい・・・・それが今の私の理想です。】と、大塚さんは言う。
動物のように、ひっそりと身を隠すように死ぬことを、私も秘かに憧れているが、現代日本では、出来るのだろうか。尊厳死すら国会で取り上げられない日本では、医療技術が発達しているが、薬が無くては健康が何とか維持できない多くの老人のソフトランディングが描けず、いたずらに老後期間が長期化している。海外からの影響が膨らんでゆく中、人口が増加し、価値観が多様化し、固定費がかさみ、人工知能が人を凌駕するような社会で、この長くなった老後を如何に生きるのかは、至難の業である。私たちが直面している課題である。
明日は明日の風が吹くが、その時その時の絵が描けれるように、今から、きちんと準備をしておくべきだ。本書を読み、そのようなことを考えさせられた。昔話や古典文学から、いろいろ考えさせられることは、たくさんあるように思う。
2015/6/9
お勧め度:★★★☆
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