私考・本能寺の変 其の1
第一章 序
若い頃、私は強いものにあこがれた。強い人・英雄が好きだった。偉人伝をよく読んだ。若い活力が日本を引っ張っていた頃、時代そのものが、強いものを好意的に受け入れ賛美した。『巨人、大鵬、目玉焼き』だった。努力をすれば昨日より今日、知恵を出せば今日より明日が豊かになり、その努力や知恵が報われた。『進歩と調和』が大阪万博のテーマだった。昭和元禄といわれた一方で、一億総白痴と揶揄された時代でもあった。
『ジャパンアズナンバーワン』の頃、日本は弱いもの、敗者にも目を向けるようになった。それは『豊かさの余裕』だったと思う。やがてバブル経済の狂乱繁栄の後、一気に奈落に突き落とされた。住専問題などさまざまな問題を抱え、失われた十年、二十年と言われている時代が続いた。今も尚その後遺症を引きずっている。時代は英雄よりもむしろ参謀にスポットを当てるようになった。それは日本人が自信を失った現われかもしれない。社会が飽和に近づき、進歩も成長も鈍化し、光だけでなく陰の中にも、新しい生き方のヒントを、探し模索を始めたのかもしれない。
私自身、いつの頃からか、強い者の勝因よりも、滅んでいった者の敗因に興味を持つようになった。大東亜戦争の日本しかり明治維新の幕府や会津しかりである。江戸末期、幕府の指導者や官僚たちが、薩摩長州土佐の暴力(とあえて言いたい)に、屈した原因や理由に強い関心を抱くようになった。傾いた組織を、外から潰す側よりも、内から立て直す側の方が、どれだけの大きなパワーと結束力、考察力、突破力などが必要なのか。時代は勢いのある方へ流れてゆくものだ。その勢いを止めるものは、何なのか。
歴史はいつも勝者の語り部によって、勝者により選択された事実と解釈によって造られることを、数十年前に、やっと私は気が付いた。そこで、『関ヶ原の戦い』の石田三成、『本能寺の変』の明智光秀を、もう一度見直してみたくなった。特に、『本能寺の変』は、謎の多い事件である。光秀の単独犯行説から謀略説、黒幕説などだけでなく、なぜ起こったのか、光秀の目指したものは何なのかを、とても知りたくなった。
『本能寺の変』は織田信長という英雄に、明智光秀が待ったを掛けた事件である。古いしきたりを否定して新しい時代を築こうとしたと評価されている信長を、自害に追い込んだ明智光秀は、単純な謀反なのだろうか、それとも革命を目論んだクーデターなのだろうか。信長と光秀は、時代を映す光と陰のように、私には思える。
信長も光秀も今は亡き人だから、直接聞き取るインタビューはできない。だから、彼らが登場する文献(手紙、日記、記録など)や建築物、古跡、道具など史料から、当時の社会の様子を推し量り、彼らの足取りや人間関係を知り、心情を推測することになる。
その史料の信頼性や信憑性を、どのように評価するかによって、さまざまな解釈が生まれ、さまざまな説が登場することになる。
例えば、『惟任退治記』(『惟任謀反記』とも言われる)は、本能寺の変から信長の葬儀に至るまでの記述いた『軍記』、いわゆる『読み物』である。本能寺の変から4ヵ月後に出回った。作者の大村由己は、山崎の戦で光秀を撃った羽柴秀吉の御伽衆である。秀吉に好意的な記述というよりも、もっと積極的に秀吉の英雄ぶり、光秀の極悪振りを強調している可能性が十分考えられる。
『信長公記』は事変の28年後に出回った信長一代記の『軍記』(読み物)で、作者の太田牛一は、信長の弓衆だった。『本能寺の変』後は秀吉の家来となり、徳川秀忠の時代に世に出た作品である。これも信長、秀吉側に立った記述と考えられる。
その他、本能寺の変を扱った『読み物』には、『川角太閤記』『太閤記』『元親記』『信長記』『当代記』『明智軍記』などがある。『読み物』は、完成した時代や、作者の身分や考え方が入って、中立公平が確保されているとは言い難い部分があると考えるのが妥当だと思う。
『読み物』は結末を知った事件後に書かれるが、『日記』は大半が当日に書き、遅れても数日後には筆を取るものである。だから『読み物』より、事件の記述の正確性が高いと思われる。しかし、書き手と事件関係者の人間関係によって、微妙な影響が生じることは否めない。
例えば、長年信長と合戦を続けた本願寺の顕如の祐筆だった宇野主文の『宇野主水日記』と、信長や秀吉との交流があった勧修寺晴豊の『晴豊公記』は、共に事実を記しているには違いないが、同じように読めないと思う。
光秀と懇意であった吉田兼見の日記『兼見卿記』にいたっては、『正本』と『別本』の二つが存在する。天正10年の初めから6月12日(山崎の合戦の前日)までの『別本』と、それ以降も記述を続けている『正本』がある。問題なのは、天正10年の初めから6月12日の記述内容が、『正本』と『別本』では、微妙に内容を変えていることである。明らかに、吉田兼見に何らかの意図によったものと考えられる。このような場合、通常、一方を破棄するものだが、二種類残していることにも、吉田兼見の何らかの意図を感じる。このように日記も、単純に読めない一面がある。
宣教師フロイスが、当時の日本の政治や社会を祖国への報告書としてレポートした『日本年報』『日本年報追加』(これらを共に『日本史』と記す)が、比較的有益な史料と言える。しかし、フロイスは、事実のみを記述するタイプではなく、個人的な主観や感情を含んだ記述が多くみられる。
それらの史料から、『本能寺の変』当時(天正10年・1582年)の関係者の年齢を、まとめてみた。信長は49歳であり嫡男・信忠は26歳であった。信長は7年前の天正3年11月に嫡男・信忠に家督を譲り、岐阜城を与え、翌年1月から安土築城を始めている。
光秀は出生が不詳な為に67歳説と55歳説、57歳説があるが、最近の研究では、67歳説が有力と考えられている。光秀の嫡男・光慶は13歳であった。ちなみに、秀吉63歳、家康は75歳で亡くなっていることを思うと、光秀の67歳は高齢といわざるをえない。
織田信長 49歳
織田信忠(信長の嫡男) 26歳
明智光秀 67歳説『当代記』、55歳説『明智軍記』、57歳説『綿考輯録』
羽柴秀吉 46歳
丹羽長秀 48歳
滝川一益 58歳
柴田勝家 56〜61歳
稲葉一鉄 68歳
村井貞勝 70歳?
武井夕庵 70歳代
松井友閑 70歳前後
明智十五郎(光慶)(光秀の嫡男) 13歳
細川ガラシャ(光秀の三女)20歳 ・
細川忠興(ガラシャの夫)20歳
徳川家康 40歳
足利義昭 46歳
毛利輝元 30歳
上杉景勝 28歳
長曾我部元親 44歳
安国寺恵瓊 43歳?
穴山梅雪(信君)42歳
以下に、主な史料をまとめた。その史料の作者と書かれた年と、そして『本能寺の変』からどれだけの時間が経過しているかも記した。著者と時間は、その資料の信憑性、信頼性を諮るに当たって貴重な情報だと考えるので、あえて記述した。
『日本史1582年日本年報』フロイス 1582年10月15日 事変から4ヶ月後
『日本史1582年日本年報追加』フロイス 1582年10月20日 事変から4ヶ月後
『惟任退治記』大村由己1582年(天正10年)10月 事変から4ヶ月後
『蓮成院記録』釈迦院寛尊1590年(天正12年) 事変から2年後
『宇野主水日記』宇野主水1586年(天正14年) 事変から4年後
『宗及会記』津田宗及1587年(天正15年) 事変から5年後
『晴豊公記』勧修寺晴豊 1603年(慶長8年) 事変から21年後
『言経卿記』山科言経 1608年(慶長13年) 事変から26年後
『日々記』勧修寺晴豊 1608年(慶長13年) 事変から26年後
『信長公記』太田牛一 1598年(慶長3年) 事変から16年後
『兼見卿記』吉田兼見 1610年(慶長15年) 事変から28年後
『當代記』 1616年(元和2年) 事変から34年後
『多聞院日記』興福寺多聞院英俊ら三代 1618年(元和4年) 事変から36年後
『川角太閤記』川角三郎右衛門 1622年(元和8年) 事変から40年後
『川角太閤記』小瀬甫庵 1625年(寛永2年) 事変から43年後
『元親記』元親家臣高島重漸 1631年(寛永8年) 事変から49年後
『信長記』小瀬 甫庵 1640年(寛永17年) 事変から58年後
『本城惣右衛門覚書』本城惣右衛門 1640年(寛永17年) 事変から58年後
『豊鏡』竹中重門 1631年(寛永8年) 事変から49年後
『当代記』 1644年(正保元年) 事変から62年後
『細川忠興軍功記』牧亟大夫 1664年(正保元年) 事変から62年後
『総見記(織田軍記)』遠山信春 1685年(貞亨2年) 事変から103年後
『明智軍記』著者不明 1702年(元禄15年) 事変から120年後
『細川家記』 1782年(天明2年) 事変から200年後
2013/9/29
私考『本能寺の変』其の2『本能寺、その日』に続く
参考文献等は、私考『本能寺の変』其の7にまとめました。
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