ShitamatiKARASU  私の歴史覚書帖   No.5



私考『本能寺の変(2)』其の2・本能寺・その日
2013/9/29


 

私考・本能寺の変 其の2


第二章 本能寺・その日
 
 光秀が信長とその嫡男・信忠を自害に追い込んだ『本能寺の変』と、その後、京都近辺で活躍した様子は、京都に住む公家たちがほぼリアルタイムで日記に記している。『兼見卿記』『言経卿記」』『日々記』がそれである。また、やや離れた場所で伝聞を記したとはいえ、聞いた都度日記に記した『多聞院日記』『宇野主水日記』『蓮成院記録』なども、かなり確実性の高い史料と思える。日記の記録は断片的であるが、『信長公記』や『惟任謀反記』『川角太閤記』『信長記』『本城惣右衛門覚書』などの史料で、『点』を『線』や『面』に補いながら、ドキメンタリー的に、まず『本能寺の変』を再現してみたい。

 天正10年6月当時の本能寺は、北は六角堂、南は四条坊門通、東は西洞院通、東は油小路通によって区切られた位置にあり、『四条坊門西洞院の本能寺』と呼ばれていた。事件の後に行われた秀吉による都市計画で移転した現在の本能寺(京都市中央区寺町通御池入ル)からは、西へ約1000メートル、さらに南に約300メートルいった場所にあった。規模は諸説あるが、周囲四町約四三六メートルと推定されている。記録には、表御堂(本堂)、御殿、御廏の三つの建物の名がある。


 織田信長が安土城を出発したのは、天正10年(1582)5月29日の早朝だった。現在の新暦に直すと6月29日である。留守衆として残されたのは、蒲生賢秀・木村高重・山岡景左といった近江の国人出身の家臣が中心で、その他は微禄の馬廻りたちである。この時、信長と同行したのは小姓衆のみ、わずか二、三十人だった(『信長公記』)とされているが、世話役や雑用係など含めると100人程度と思われる。

 信長の手足として戦時、平時に縦横に活躍ぶりを見せる馬廻衆の多くは、信長に先んじて5月21日に、嫡男・信忠が、安土まで上がってきた徳川家康・穴山梅雪と共に京都に入っていた。(『言経卿記』) そのほかの者たちも、その後三々五々京都に入り、民家等に宿泊して信長の上洛を待っていた様子である。

 信長の上洛と聞いて、京都にいる公家たちは迎えに出た。吉田神社の神主である吉田兼和(後の兼見)も、これまでと同様に山科まで出張して雨の中待ち続けた。そこへ森乱(蘭丸)の使者がやってきて、『御迎え無用』を告げられる。吉田兼和たち公家衆は、それを聞いて引き返した。(『兼見卿記』)信長が前年より宿所として使っている京都・本能寺に入ったのは、申刻(午後4時前後)である。

 この時の信長の上洛の目的は、京都に長期滞在するものではなかった。京都に4泊(6月4日まで)して、備中高松で毛利氏と対峙している羽柴秀吉の救援に向かうこと(『晴豊公記』『信長公記』)、そして、まもなく渡海するはずの三男・信孝の四国攻めを、監視、指揮するのが目的だった。(『寺尾菊子氏所蔵文書』)だから、当然信長と信忠の旗本たちは、戦いに臨む準備を整えて京都に入った。

 信長上洛の翌日6月1日(この年の暦は5月は29日まで)、本能寺はまるで皇居が一時的に移ったかのような賑わいだった。対面解禁とあって、堂上公家がことごとく本能寺を訪れたからである。

 勅使の権大納言・甘露寺経元と勧修寺晴豊、太政大臣・近衛前久とその子・内大臣・信基、前関白・九条兼孝、関白・一条内基、右大臣・二条昭実、その他大勢の公家たち、聖護院門跡道澄をはじめとする僧侶たち、京都の町人も何人か押しかけたという(『言経卿記」』『日々記』)。吉田兼見は、吉田神社の「神事」の都合によりこの日の訪問は取りやめている。(『兼見卿記』)

 ほとんどの公家にとって、信長との対面は、前年の2月から3月にかけての京都での馬揃え以来で1年3ヶ月ぶりの対面である。公家たちは進物を用意したが、信長はあらかじめ京都所司代・村井貞勝を通じて、それを断っていた。(『日々記』)。山科言経などは、折角進上したものを返却されたと『言経卿記』に記している。

 信長は上機嫌だった。38点もの「大名物茶器」を持参して茶会を催し、数時間の間公家衆たちを歓待し懇談した。その中で、三月の武田氏討伐の様子、これから行う西国出陣のことなどが、信長の口から語られた。西国への出陣は6月4日、その制圧は造作なく終了するであろう、と自信満々の口調だったという。(『日々記』)

 だが、この時期、信長と朝廷の関係が良好とは言えない状態だった。両者の間に、積み残されている二つの問題を抱えていた。見方によっては、両者が対立に発展しかねない微妙な問題である。

 その一つは、信長の、いわゆる三職推任問題である。信長は天正6年4月に右大臣兼右近衛大将を辞した後は官位につかず、以後4年の長きにわたって散位のままだった。朝廷側から、征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することを提案されていたが、信長は明確な態度を示さぬまま今日に至っていた。4年にわたって散位が続くことは、朝廷の権威にとって問題であった。だから公家にとっては、一日も早い返答を願っていた。

 もう一つは、この年(天正10年)の暦に関する問題である。戦国時代は現在のように、全国中で同じ暦を使用していたのではなかった。当時、京暦が全国中で使用されていたわけではなく、地方のあちらこちらに造暦者がいて、京暦とは違った暦を局地的に普及させていた。そのなかでも、三島大社の造る三島暦が最も古く信用もあり、関東・甲信から東海にかけて広く用いられていた。

 この年、天正10年(1582)は三島暦と京暦との間に、大きな違いが生じた。京暦では、閏月はなく翌11年1月の後に閏1月を置いたのに対して、三島暦では10年12月の次を閏12月にしたのである。元旦が一ヶ月ずれてしまうのである。信長は三島暦を主張したのである。『時』を支配するのは昔から帝王の大権である。それを信長は侵そうと圧力を掛けていたのである。

 信長が暦の問題を蒸し返したことには理由があった。まさにこの日(天正10年6月1日)が日蝕であったことを、京暦が予想できなかったからである。日蝕のときの日光は穢れとされ、天皇の身体を穢れから遮るため御所を薦(こも)で包むのが慣習であった。信長がそのような迷信にこだわったとは思えないが、朝廷にとって大事であるべき日蝕さえ予測できなかった京暦に対して、不信の念を新たにするのは当然のことだった。

 この日(6月1日)本能寺で、三職推任問題は話題に上がらなかったが、暦をめぐる話題で、いっとき不穏な空気が流れたが、何とか、公家たちとの交流は無事に終了した。

 夜になってから、嫡男・信忠や京都所司代の村井貞勝、そして京都のあちらこちらに分宿している馬廻りたちが本能寺を訪ねてきた。(『惟任謀反記』) 信忠の上洛は、家康と梅雪の接待の為であったので、彼らの堺見物にまで同行する予定だった。ところが、信長が急に上洛するという情報が入ったため、この日、信忠も予定を変更して京都に留まっていたのである。

 昼間と違い、信長も比較的くつろいだひと時を過ごしたに違いない。信忠や家臣たちが各々の宿所に戻ったのは、夜もかなり更けてからだった。(『惟任謀反記』)信長が就寝したのは、もう真夜中になってからだろう。

 翌日6月2日、『本能寺の変』が起こった光秀軍が本能寺を襲った時刻は、各記録には『早天』『未明』『卯刻』(一般的には6時だが、夜から日中に移る境目をさすことが多い)と記されており、6月2日は現在の太陽暦で言えば7月1日に当たり、6時では夜が開けとっくに明るくなっているので、6時よりかなり早めと思われる。

 本能寺に到着する前、桂川に差し掛かったとき、光秀は軍勢に指令を出している。馬の沓(くつ)を切り捨てること、徒(かち)の者は新しい足半(踵の部分のない草履(ぞうり))に履き替えること、鉄砲隊の者は火縄を1尺5寸に切って、撃ちやすくしておくこと。そして、『今日よりわが殿は天下様におなりになる。下々の者、草履取の者たちまで勇み喜ぶが良い』と触れられたと『信長公記』に記されている。

 しかし、『今日よりわが殿は天下様におなりになる。云々』という発言は無かったと思う。この時点で光秀の軍勢が京都に入ったことを信長が知ったならば、信長はさまざまな手を打つ余裕が生まれる。信長討伐に運命を掛けた光秀が、そのような不用意な言動をするとは思えない。まして『敵は本能寺にあり』などいう発言は、映画や芝居の話に過ぎないように思う。

 桂川を渡って明智軍が京都に迫る前、たまたま郊外で、その明智の兵団を見て怪しんだ京都所司代の村井貞勝の部下が、本能寺と遠くない京都所司代の村井宅へ急報した。前日本能寺で上機嫌の信長から、明智光秀が中国攻めの援軍の先鋒であることを聞かされていた村井貞勝は、『明智殿は最も厚遇をうけている家臣だ。それは右府様が出征する明智勢を閲兵なさるためだろう』と自己解釈で済ませて、本能寺に知らせなかった。

 小一時間足らず後に、信長の御座所である本能寺を明智軍が取り囲み、四方から乱入した。信長も小姓たちも、下々の者たちが突発的に喧嘩を始めたと思ったところ、そうではなく、鬨(とき)の声をあげ、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。

 信長は『これは謀反か。誰の企みだ』と仰せられた。森乱(森蘭丸)が『明智軍と見ました』と答えたところ、『是非に及ばず』と言って直ちに御殿へ入った。表御堂の番をしていた者たちも御殿の人々に合流した。御廏からは矢代勝介ら4人が斬ってでて討ち死にした。中間衆24人も御廏で討ち死にしたと、『信長公記』は記している。

 信長のこの有名な言葉『是非に及ばず』は、『仕方がない』といった諦めや、生死を超越した潔さを示すものと解釈されてきたが、それよりも、むしろ『何が起こったか分かったうえは、是非を論ずるまでもない、もはや行動あるのみ』と解釈するのが自然だと思える。

 当時、京には、本能寺の北北東約600mの妙覚寺に宿泊していた嫡男・信忠をはじめ、織田家中の武士が大勢いた。信長は彼らの来援までの時間を稼げれば、何とかなると考えていたのではないかと私は思う。事実、永禄12年(1569)正月に、三好三人衆らの大軍が将軍足利義昭を京都本圀寺の宿所に襲った際も、警護の人々は劣勢にもかかわらず防戦に努め、援軍到着の時間を稼ぎ、撃退に成功した例があるからだ。信長は天下を目指す男である、無様な命乞いは考え難いが、最後まで安易に命を投げ出すとは考えられない。

 信長は始め弓を執って、二三度矢を射たが、弓の弦が切れてしまった。その後は槍を執って戦ったが、肢に槍疵を受けたために退いた。この時まで側に付き添いっていた女房たちに『女は遠慮する必要はない。急いで脱出しなさい』と仰せられて追い出された。御殿に火が燃え広がってきた。滅亡のときが来たと見えて、自分の姿を見せまいとしたのか、殿中の奥深くに入り、内側から御納戸の口を引立てて、腹を切られたと、『信長公記』には記述されている。

 しかし、秀吉の意向で大村由己が変後4ヵ月目に書いた『惟任退治記』には、信長は本能寺に『佳妃・好嬪』つまり美女たちを集めて戯れていたが、いよいよ最後となると、日頃寵愛していた侍妾たちをことごとく刺し殺してから腹を切ったとある。

 本能寺に女が居たことは事実だが、彼女たちは、京都所司代の村井貞勝が接待や雑用のために京都で手配した人々と思われる。西国出陣のため、少人数で急遽上洛した信長が、安土から妻妾を連れてきたとは考え難い。

 本能寺の変に、明智軍の一員として戦いに参加した下級武士・本城惣右衛門の覚書(『本城惣右衛門覚書』)(天理大学付属天理大学図書館所蔵)が最近注目されている。

 それによると、
 明智光秀謀反を起こして信長様に切腹をさせた時、私より先に本能寺に入ったなどと言う者がいたならば、それは嘘を言っているのだ。なぜならば、その時、信長様に切腹させるなどということは、夢にも思っていなかった。その頃、太閤秀吉様は備中で毛利輝元殿と対陣中であり、光秀はその援軍に行くということだった。それで山崎の方へ進出するはずのところ、思いがけず京都に向かうという。私どもは、ちょうど徳川家康様が上洛していたから、目標は家康様ばかりと思っていた。本能寺というところについても、何も知らなかった。と『本城惣右衛門覚書』に記している。

 惣右衛門が家康を襲うと誤解したのは、彼の無知ではなく、当時世間には、信長が光秀に命じて同盟者の家康を殺害しても不思議ではない感覚があったことをうかがわせる。それは、謀反、裏切り、暗殺が日常茶飯事だった当時の時代感覚というものだろう。

 惣右衛門が本能寺に着いた前後の状況を、覚書では、次のように書かれている。

 明智軍の部隊の中から騎馬武者が二騎出てきた。誰かと思ったら斎藤内蔵介(斎藤内蔵助利三のこと)の子息と小姓の二人だった。彼らが本能寺の方へ馬を進めたので、私どもも後に続き、かたはら町に入った。二人は北の方へ向かった。私どもは南の堀際へ東向きに進んだ。本道へ出た。そこの橋際に人が一人いたので、私どもが首を取った。それから内へ入る門は開いて、鼠一匹すらいなかった。首を持って内に入った。

 北の方から入ったらしい弥平次殿(光秀の重臣で娘婿の明智秀満である)の衆二人が、首は討ち捨てにせよと命じたので、首を堂の下へ投げ入れた。表へ入ったところ、広間には誰もおらず、蚊帳は吊られているだけだった。庫裏(くり)の方から出てきた、下げ髪で白い着物を着た女一人を捕らえた。侍は一人もいなかった。女は、上様は白い着物を召されていると言ったが、それが信長様のこととは思わなかった。その女は内蔵介殿へ渡した。そこには鼠一匹いなかった。

 信長の奉公衆が二人三人、肩衣姿で袴の股立ちを取り、堂の内へ入ってきた。そこで首をもう一つ取った。その者は浅葱(あさぎ:水色)の帷子(かたびら)姿で帯も締めずに刀を抜き、奥の間から一人で出てきた。その頃には、味方が大勢堂に入ってきたので、それを見ただけで敵は退いた。私どもは吊るされた蚊帳の陰に入り、男が通り過ぎるところを、後ろから切った。これで首は二つ取ったことになる。褒美として槍を頂戴した。『本城惣右衛門覚書』より

 光秀は本能寺から少し離れた三条堀川で、今か今かと少し苛立った気持ちを抑えながら、本能寺から立ち上がる炎と煙を見たにちがいない。

 明智軍は、信長に続いて嫡男・信忠を襲った。信忠は本能寺の北北東約600メートルの妙覚寺に泊まっていた。本能寺から銃声が聞こえ、煙や炎も見えたはずである。

 異変を知った信忠は、信長と合流しようと妙覚寺を出た。そこへ京都所司代の村井貞勝親子が駆けつけ。『本能寺は落去し、御殿も焼けました。敵は必ずここに攻めてきます。二条新御所(妙覚寺の東約200メートル:事件当時は誠仁親王父子が居住していた)は防御施設が整っているから、そこに籠(こ)もるのが良いでしょう』と進言した。信忠は直ちに二条新御所に入ったと『信長公記』に記されている。

 信忠は誠仁親王父子に、ここが戦場になることを申し上げ、内裏に移ってもらった。その後、以後の方策について話し合ったが、意見が一致しなかった。退却した方がよいと進言する者もいたが、信忠は、これほどの謀反を起こした光秀は自分を逃がすはずがない。逃げる途中で雑兵に討たれたりしては無念だから、ここで腹を切ると覚悟を示した。そうこうしているうちに、明智軍が襲ってきたと、『信長公記』にある。

 信忠の籠城軍は、『惟任退治記』によれば僅か500ばかり、『信長記』では200〜300とある。京都市内にいた馬廻りを合わせても1500程度にも満たなかったと思われる。多勢に無勢ながらも信忠軍は奮戦した。完全武装した明智軍に対し、信忠たちは『素膚に帷子一重』、しかも武器もろくにない有様(『惟任退治記』)。それでも彼らは一時間以上に渡って戦った。(フロイス『日本史』1582年日本年報)

 大手門を開き、弓・鉄砲を前面に立てて明智軍の先鋒に攻撃を加え、具足を付けた信忠は敵兵を次々と斬り倒したと、信忠軍の善戦を語っている。(『惟任退治記』)また『蓮成院記録』にも、三度も明智軍を退散したとある。このとき、信長が宣教師から譲り受けた黒人兵-彌介(やすけ)が信忠とともに二条城で奮戦したが、光秀に捕まる。(その後、解放されたそうだが、解放後の行方は不明)

 意外な苦戦に、明智軍は作戦を変えて、二条御所の隣に近衛前久の邸宅があり、その屋根は二条新御所を見下ろす位置にある。明智軍は近衛邸になだれ込み、その屋根から信忠軍に向かって弓と鉄砲で攻撃をした。覚悟を決めた信忠は切腹し、介錯は鎌田新介が務めたと、『信長公記』にある。この時、二条新御所に火が放たれ、無残に焼け落ちた。誠親王の避難が午前七時から八時頃とすると、総ての戦いが終了したのは九時前後と考えられる。

 光秀は人数を分けて本能寺と妙覚寺を同時に襲撃しようとはせずに、本能寺が一段落したところで軍勢を差し向けている。信長一人の殺害に集中するためだろうが、本能寺を襲撃した明智軍が先手のみで、人数に余裕がなかったためとも考えられる。

 一般に明智軍は1万3千で本能寺を囲んだとされている(『川角太閤記』のみ人数が記載されている)が、それほどの大軍ならば、妙覚寺も同時に襲撃できただろう。もうひとつ考えられるのは、光秀が信忠の居場所を把握していなかったのではないかということだ。もともと信忠の上洛は、家康・梅雪の接待のためであったから、彼らの堺見物にまで同行する予定だった。ところが、信長が急に上洛するという情報が入ったため、信忠も予定を変更して京都に留まったのである。(『小畠文書』)光秀は、この予定変更を十分に把握せず、信忠の居場所が妙心寺であることを特定できなかった可能性も考えられる。どちらにせよ、突然襲われた信長と違って、信忠には多少の時間的余裕があった。信忠の決意は武士の覚悟としては立派かもしれないが、少し性急過ぎたともいえる。事実、織田長益(信長の弟、後に茶人となり有楽斎と号した)、前田玄以(後、豊臣政権の五奉行のひとり)、水野忠重(後、徳川二十将の一人)らは二条御所に在ったが包囲前に脱出した。信忠の介錯を介錯は鎌田新介も生存している。なお、京都所司代の村上貞勝は、信忠と共に、二条新御所で生涯を閉じた。

2013/9/29 脱稿

私考『本能寺の変』其の3『本能寺、その前』に続く

参考文献等は、私考『本能寺の変』其の7にまとめました。



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