残りの人生の生き方を考える年齢になると、若いというのは、無限の可能性を秘めて、なんと眩(まぶ)しいことだろうか。人間、
いくつになっても青春だという言葉があるが、若々しい年配者を見かけるけれど、正直なところ、羨(うらや)ましさよりも痛々しさを
感じてしまう。若い人には、とても適(かな)わない。
老いは、誰にも避けられないことであり、年齢を重ねてみなければ解らない。これは理屈ではない。どれだけ冷静に理解している
つもりでも、頭の中の理屈に過ぎない。衰えは避けられない現実なのだ。体だけでなく心にも衰えは押し寄せてくる。波のように押し
寄せては引き返すけれど、結局のところは、引き返しはない。不可逆である。
じわじわ押し寄せてくる。体や心だけでない。私につながる親も子も友も知人も等しく同じである。みんな例外なく老いるのであ
る。環境や社会も、時代とともに、老いてくるように思う。劣化とは違う、老いだと思う。成長や成熟というよりも、老いというのが正確
だと思う。
この老いに対して、ジタバタするのが人間かもしれない。動物や植物は、黙って受け入れているように感じる。立派なものだ。人
間はややこしい生き物である。脳の発達が、人間にさまざまな可能性をもたらし、若さに輝きを与えたが、玉手箱のように、つまり、
その引き換えとして、このややこしさは人間が背負った宿命だと私は思う。
生き物は子孫を残すことが、生涯を通した最大の仕事である。しかし、社会が進歩する(つまり老化)に従って、人間関係や男女
間の心と家や経済など、さまざまな手続きを、人間自身が難しくしてきた。そして、さらに近年、自由が溢れ過ぎて逆に不自由であ
ることの苦しさも加わってきたように思う。これも、生き物が本来持っている本能の一部を理性にしたために起こる宿命であろう。人
間が自ら招いた悲しい性(さが)である。
子孫を残した後の時間を、他の生き物とは比較できないほど、人間は圧倒的な長期間を確保した。何のために、そのような時間
を人間は与えられたのだろうか。いや、人間自身が科学や医学や文化を発達させて、肉体的負担を軽減し、多くの病気を克服し、
寿命を長期間伸ばしてしまったのである。知恵によって、身体と脳に快感的刺激を与える楽しみを、さまざま生み出してきた。遊び
然(しか)り、スポーツ然り、芸術然り、学問然りである。しかし、それと同時に、持て余す大量の時間(長寿命化)が多くの問題をも
たらし始めた。個人としても、社会にとっても、生きることを難しくした。究極は自分の最期(死)を如何に始末するかという問題であ
る。
恥を晒(さら)さず、長寿命をまっとうすることは、至難の業である。たとえ最期まで元気であっても、身近なものが泥をかぶらざる
を得ない。長寿命になればなるほど、泥をかぶらせる時間が長期化することは避けられない。そのような負担をかけることは、とて
も心苦しいことだ。自分がいつまで生きるか分からない。長生きしたいと思わないけれど、『お迎えは いつでもいいが 今日はダ
メ』というのが本音だと今の私は思っている。しかも、寿命は年功序列ではない。だから、始末が悪い。順番が狂って亡くなってゆく
と、益々自分の始末が難しくなるのである。
終身雇用は、人の老いにまなざしを向け、手を差し伸べるあたたかさを形にしたものであった。終身雇用社会は、人が労働を行
い、労働は収入の源に留まらず、第二の家族のような生活と人生の重要な一部であることを、当たり前のこととしていた。人を育て
成長を担い、人の強さや弱さや、能力の有無も含めて、若年から壮年そして老いまで、人が主体であることを、企業も社会も理解し
認める包容力があった。人を大切に育てた。それが企業自体も社会も育ち日本の体力を鍛えることであった。それが、西洋ではな
い日本の文化だった。
いつの頃からか、中曽根政権の頃からか、その前なのか後なのか、日本は変わってしまった。小泉政権の頃からは、人を粗末
にする時代から、人をモノと扱う時代になってしまった。その傾向に歯止めを掛ける兆しは無く、猛進しているように感じる。商品の
品質や状態や数量を管理するように、国も企業も社会も、人を管理下に置こうしている。もっと言うならば、ネットなどを通して国民
自身が、無意識に管理下に身を差し出しているのではないかとさえ思えてくる。
年金制度や健康保険制度など福祉制度がほころびはじめ、収入が不安定であり、何よりも未知数の将来に希望の光は見えず、
人は益々長寿命化している。真夏の昼、信号待ちをしている老人を見かけると、猛暑の中わざわざ行かねばならぬ姿に胸が詰ま
る。妊婦の人を見かけると、微笑ましさや明るさよりも、これから親も生まれてくる子どもも大変だろうなぁーという思いが先立ってし
まう。
もう直ぐ還暦を迎える年齢になると、若い男女のラブストーリー(ドラマや映画、小説など)にはあまり興味を持てなくなった。ひと
ときの眩(まぶ)しさ、若いときの熱病のような無鉄砲な恋愛に、私はときめきを感じなくなった。
ジェームス・キャメロン監督の映画『タイタニック』(1997年公開だからもう16年前になるとは・・・)は、タイタニック号が沈没する
緊迫感の展開を、貧しい青年ジャック・ドーソン(レオナルド・ディカプリオ)と上流階級の令嬢ローズ・デウィット・ブケイター(ケイト・
ウィンスレット)の悲劇的な別れのラブロマンス(これも悪くないストーリーだった)を絡めた良い作品だと思う。
しかし、もしこの恋人達が救出され結ばれたならば、その後の結婚生活、二人の人生がハッピィーだとは、私にはとても思えな
い。若い男女ではなく、沈んでゆく船を通して、老夫婦の愛を描いて欲しかった。若い人のラブロマンスは花があり、華やかに違い
ないが、老いてゆく男女のしっとりとした大人のラブストーリーは、人生の終焉をどのような感慨で過ごすのかを通して、描き方を工
夫すれば、気品や風格が期待できるのではないだろうかと思う。
芸術祭参加ドラマスペシャル『月に祈るピエロ』(脚本:北川悦吏子、演出:堀場正仁、主演:常盤貴子、谷原章介)が、平成25年
10月5日に放送された。大人の恋をファンタジックに描いた心に響くいい作品だった。常盤貴子が田舎で暮らす41歳の庶民的な
女性を、素朴に演じて好感を持った。田舎で暮らす庶民の素顔的なメイクにもかかわらず、常盤貴子はちょっと美人過ぎるが、そ
の点は映像表現のドラマだから致し方ない。美男美女だから、ファンタジックな仕上がりが許せるのかもしれない。
玉井静流(シズル41歳:常盤貴子)は、山間の田舎町で祖母(さくら)、母(時江)と女三人で暮らしている。祖母はおだやかな性
格だが老齢で、静流と母が風呂に入れたり何かと面倒を見なくてはならない介護を必要とする存在である。一家を支える母は髪を
乱して働き、ことあるごとに娘を否定し束縛する。同級生の医院の受付で働く主人公の静流は、単調な生活の毎日を過ごしてい
る。
静流は、ある日待合室に、子どもの患者の為に絵本を買いに行きことになり、昔読んでもらっていたサーカスのピエロが主役だ
った絵本のことを思い出す。すごく気に入っていた。母はすっかりそんな絵本のことは忘れていたが、祖母が憶えていた。題名は
『月に祈るピエロ』。静流は、あの本がもう一度読みたい、と思い、インターネットのオークションサイトで見つけて落とす。その本の
差出人が、戸伏航(ワタル:谷原章介)である。
祖母、母、娘で懐かしい絵本『月に祈るピエロ』を読み進むうちに、ハラリと古い小さな紙切れが本から落ちる。「小麦粉××グラ
ム、グラニュー糖小さじ×・・・」何かのレシピのようだ。なんとなく、捨てづらい気がする静流は、このメモをきっかけに、戸伏航とメ
ールのやりとりが始まり、物語が発展してゆく。
静流(シズル)は短大を卒業して都会で就職し、恋愛をした相手が既婚者だった。そのことを知った後も身を引かなかった。不倫
が社内で発覚し、退社し田舎で暮らしはじめた。そこへ相手の妻が静流を追いかけて騒動になり、小さな田舎中に知れ渡った。介
護が必要な祖母、うるさい母との暮らしに、その過去を持つ静流は、生活の目的が持てず日々消化しているだけの生活をしてい
る。
『こんなにたくさん人間がいるのに、私を幸せにしてくれる人が、たった一人どうしていないの』と、酔っ払った静流が友人(同級
生)に嘆く。『二十歳そこそこの娘じゃあるまいし』とたしなまれる。飛び込むか否かは別であるが、若ければ人を好きになるチャン
スは一杯ある。そして可能性も一杯ある。好きになれば、何も見えなくなれる。しかし、人間長生きをするようになり、高齢の身内を
抱えながら、自分自身が歳を重ねてくると、だんだん単純では行かなくなってくる。
女性が41歳で未婚ということは、もう子どもを持つことは望み難いという覚悟を迫られる。老いた両親や更に高齢の祖父母を抱
えている可能性すらある。静流(シズル)の場合が、それである。浮いた話もなく、収入も不安定ならば、遣りきれないだろう。男性
の場合は、女性ほど切迫感は無いかもしれないけれど、状況はさほど変わらない。むしろ女性より厳しい。現在の日本には、この
ような女性(男性も同じである)が、私の身近にも少なからず居る。都会であろうが田舎であろうが、未婚率、出産率に極端な違い
は無い。
衰えてゆくに従って、まだ老人と認めたくない気持ちが強くなり、それでも衰えてゆく現実から逃れられない《悲しさ》は、趣味や仕
事では埋められるものではない。この《悲しさ》は《哀》と言ってもいい。喜怒哀楽の《哀》である。これは、人間が生涯消せることの
出来ない玉手箱のひとつである。この消せない《哀》をぬぐうものは、結局のところ、人とのふれあいだと思う。互いに大切に思う人
とのふれあいである。人と人とのつながりの中で生まれる穏やかな感情、優しい気持ち、愛(いと)しさにたどり着くように思う。それ
が、《愛》というものだろう。老いて尚、老いるからこそ《愛》の充実感が、人間には必要に思える。
ドラマ『月に祈るピエロ』は、インターネットで知り合った静流と同年代の航(ワタル)が、メールと電話で、本音をぶつけ合う場面
を挿入しながら、心のふれあいをファンタジックに描いた絵本のように、ページをめくるごとにドラマが展開してゆく。そして、静流が
戸伏航と初めて逢う場面が、ラストシーンである。主人公・玉井静流の表情がとても良い。常盤貴子の名演技である。心に沁みるさ
まざまな場面が眼に浮かび、静かな感動が胸に広がり、ほのぼのとした余韻が続いた。
しかし、身近な知人の顔を浮かべると、ドラマがおとぎ話に色あせてくる。現実には、ほとんどありえないこと。介護が必要な身内
を抱え、成果主義の社会の中で、長い老後?を、生き恥を晒さず、自分を始末する人生をまっとうしなければいけない。大人の男
女の恋が、長くなった人生を生き続けてゆくには、ひとつの可能性には違いない。人間関係は難しいけれど、人は人と係わって生
きてゆくものだし、係わってゆかなければ、生きてゆけないものだ。そのためにも、仕事(企業で働くことだけではなく、いろんな意味
においての仕事)に携わることは大切だ。長寿命社会には、地域のボランティアなど、同じ目標を達成するために共に力を合わせ
る人と人とのふれあいの場が、生きてゆくには必要だと思う。
究極のふれあいは、恋に違いない。絵本を通してネットで知り合い、初めて逢うまで、二人が紡(つむ)いで育んできたふれあい
が、遊びやスポーツや芸術や学問などの趣味では埋め尽くせない、人が生きてゆける出発点であることを、教えてくれたように思
う。このドラマは、玉井静流が戸伏航と出逢う場面がラストシーンだった。これから先は、視聴者自身が、自分で歩んでゆかなけれ
ばいけない宿題である。答えのない旅路をどのように歩いてゆくか、残された可能性の中で、一人ひとり違った物語がある。
2013/10/27 脱稿
お薦め度★★★
スペシャルドラマ 『月に祈るピエロ』放映2013年10月5日(土)午後2:00から 3:30
製作著作:CBC、プロデューサー:堀場正仁・櫻井美恵子(国際放映)
脚本:北川悦吏子、演出:堀場正仁
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