本と映画の森 (書籍編) No.7

更新日:2015/2/15 

柳澤桂子著『愛をこめ、いのちを見つめて・病棟から癌の友へ』
2004/10/24



  今年(2004年)の最大の収穫の一つは、柳澤桂子を知ったことである。私の購読紙に柳澤氏の『宇宙の底で』が毎月一度掲載され、その文書に惹かれ、作者に興味を持ち、『愛をこめ、いのちみつめて--病床からガンの友へ』(集英社文庫)を購入して読んだ。柳澤さんは生命科学者で、1978年病に倒れ、原因不明の病気の治療の為に手術を繰り返していたときに、癌治療で来院した隣人女性(栗田美瑳子)と出逢う。この本は、病気への不安や、病気と対抗する正しい知識、心を支える家族の愛など、心の内をしたためた柳澤さんと栗田さんの手紙やりとりをまとめたものだ。生命(細胞、遺伝子)の営みと仕組み、患者と家族の視点からの医療問題、芸術に感動する脳と心など、多くのテーマで生と死の本質について、述べている。死に直面して苦痛に耐えながら、希望を糧に互いを励まし合う手紙の交換を続ける二人の女性の生き様に強いショックを受けた。こんな凄い人間がいることに感動の涙が止まらなかった。この著作以降、一気に10冊近く著作を読むようになった。集英社文庫の数冊以外は図書館で借りて読んだ。以下、柳澤桂子氏の著作から、個人的に印象深く感じた文章を抜粋する。



◎本当に意外なことであるが、健康な人と病人の間には常にコミュニケーションが不足している。病む者は、健康な人にあまり自分の心の内を語ろうとしない。そして、健康な人には病む者の苦しみを想像するのは、ほとんど不可能に近い。家族でさえも病人の本当の苦しみを理解していることは少ないのではないであろうか。

◎人の心の苦しみを想像することは非常に難しいが、苦しんでいる人が、心の内を少しでも明かしてくれれば、健康な人にも、その苦しみは、ある程度想像がつくのである。そして、その苦しんでいる人のために、自分にも何かできるのだということがわかるのである。

◎医療が成功したかどうかは、病気が治ったかどうかではなく、その患者が幸せになったかどうかで判定されるべきものである。これが医療が基礎科学と大きく異なる点である。いかに手術がうまくいって、傷がきれいに治っても、その患者が幸せでなければ、その医療は完全に成功したとはいえない。亦、その患者の命を救うことがむつかしく、延命しか手段の無くなった場合に、延命が患者をしあわせにするのでなければ、その処置はマイナスの意味しか持たないであろう。

◎上手に人の世話になる。これは病気をした際に乗越えなければならないいくつかの壁のうちでも、かなり難しいことに属するように私には思える。おそらく個人差があって、何の抵抗もなく、上手に人の世話になれる人もあるであろう。しかし、ほんとうの意味で、感謝をもって他人の世話を受け入れる為には、自我を捨てなければならない。

◎年老いた人々も死にゆく人々と同じように、われわれに多くのものを与えてくれる。寝たっきりになった老人は確かに社会のやっかい者かもしれない。しかし、健康度と物質の生産性だけで物事の価値をはかる競争社会からすこし目をそらせて、静かに考えてみると、すべての人の世話にならなければ生きてゆけないという姿こそ人間の本当の姿であり、人を押しのけて、あたかも自分だけがこの世の中を支配しているかのようにかんじていたことは、全くの虚構だったのではないかと、ふと気づくのではないであろうか。お互いに支えられつつ生かされているという人間本来の姿に気づき、すべての世間的な栄光と無縁になってしまった老人の姿に、本当の命の重みを見出すのではないであろうか。

◎たとえ社会の生産性が低下しても、病人や年寄りや障害を持つ人々を大切にしてゆく社会こそ、これからわれわれが目指すべきものであると考える。そのための単位として、やはり地域社会に大切な役割を担って欲しいと願うものである。子どもも若者も壮年者も老人もそれぞれが人間として与えられたここの役割を果たして大家族として機能してゆく精神的に豊かな地域社会こそ、その理想の社会なのではないだろうか。

◎人はいつから『生産性』の程度-どのくらい役に立つか-で生の価値を量るようになったのでしょうか。人ひとりの「いのち」は生産性の程度などでは量りしれないほど、重いはずですのに…

◎汚くなってしまった自分が若い人に不快感を与えることがわかっていても、また自分がどんなに若い人に邪魔になっているかがわかっていても、それにじっと耐えてゆく、そのこと自体が大切なのではないかと考えるようになった。それはたいへん苦しいことであると思う。けれども、老いとは何かをということをしっかり見せることが、老いた者の義務ではないであろうか。そのようにしてこそ、若い人もよく老いられるのではなかろうか。

◎年をとれば、若い人のような美しさはしだいに失せていくであろう。けれども、そのような美しさが失せばこそ、そこに別の美しさが輝き出る可能性がある。世阿弥はこのような美しさを、若さの「花」にたいして、「まことの花」と呼んだ。さらに、そのうえに「しおれた花」が究極としてあるという。花なき後の美しさである。それは芸の上のことであるが、実生活のうえでも、自己の精神を磨くことによって、このような「花なき花」に到ることができるのではないであろうか。美しく老いること、それは絶え間なき自己との戦いではなかろうか。若いときから、常に心掛けていて始めて、美しく老いられるのではないであろうか。

◎人の世話になるには、この人の世話をしてあげようと思わせるような人間にならなければならない。そのためには、人格を磨くほかに方法がないのではなかろうか。一昔前の老人は、知識の量と知恵でその存在価値を認められた。現在のように、目まぐるしく進展する世の中では、老人の知識はそれに追いついていけない。したがって、長い年月に積み重ねられた豊かな経験に裏打ちされた崇高な人間性こそが「まことの花」であり、「花なき花」となりうる唯一のものではなかろうか。


2004.10.24脱稿  2008/5/13改稿


初版1986年主婦の友社  1999/06/25 集英社文庫 514円 


お薦め度 ★★★★ 

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