本と映画の森 (書籍編) No.18

更新日:2015/2/15 

井上靖著『化石』
2008/05/18




 自分の死について、真剣に考えたことが、今まで私はありません。

 40歳になったとき、平均余命を考えたら統計的には、もう今まで以上に生きられないかもしれないと知ったとき、いのちに限りがあることなど日頃頭になかっただけに、自分の寿命について初めて考えた。

 50歳になり、身体のあちらこちらに具体的な翳りが現れ、だんだん無理が利かなくなり、何となく覇気が落ちてきたことを実感した。

 80歳を越えた父がとても元気なことが大いに影響していると思うが、自分の死を具体的に考えずに来たが、同窓会では病気と対策の話題に長時間話し込むようになった。毎年、喪中の葉書が少しずつ増え、同年代の親友が病気で亡くなり、人ごとであった死が、知らず知らずに少しずつ身近なものになってきた。『親父が亡くなった歳まで、あと数年になった』と言う友が、ポツポツ現れてきた。


 健康診断などで、もしガンが発見されたならば、しかも、それが進行ガンならば、こんな悠長な気持ちではいられないことは確かなことだ。父母を送らず、子ども達はまだ学生と高校生であることなど、自分の死後の家族の行く末を考えると、情け無いことだが、じたばたするに違いない。今までいい加減に過ごしてきた自分の生き様に強い憤りと後悔で自分を責め、自分の運命を決めた神を恨み、どれだけかの期間は自暴自棄になり、それから、残された者が、何とか生きてゆけるように、残された時間を如何に活用すべきか、悩み苦しむに違いない。そしてやっと、真剣に自分の死と残された人生を考えるにようになると思う。今の私には、それも想像の域を出ない夢物語だが、実際どのような行動を起こすか、予想もできないのが、正直な気持ちである。


 健康なときに想像し考察する自分の死と、死の宣告を受けた後に、考える自分の死は、きっと異なるだろうと思う。しかし作家は、凡人には想像もできない冷静さと緻密な考察、膨大な取材を経て、死を身近なモデルとして仔細克明に提示してみせてくれる。そのひとつの作品が、井上靖氏の『化石』である。この小説を執筆したときの井上靖氏は50歳後半であり、主人公の一鬼太治平も50歳代であり、かくゆう私も偶然だが今50歳代である。情け無いことだが、死の宣告を受けなければ、私にはこれほど真摯に死と向き合えないだろうと思う。井上靖氏は、凄い作家だと、改めて感心させられた。


 雑誌『文芸春秋』の2007年1月号を、書店で手に取ったとき、柳田邦男さんの『新・がん50人の勇気・昭和天皇から本田美奈子まで』という連載が始まったことを知り、ぱらぱらと立読みをした。その中に、井上靖氏の死が紹介されていた。それは、井上靖自身の作品『化石』の中で紹介されている登場人物(病室に原稿用紙を持ち込んで、論文を書き上げる学者)そっくりで、ガン治療を受けながら、井上靖自身が病室で最後の作品『孔子』を執筆完成させたというのである。


 私は学生時代、宗教学の授業で死を考えるレポートを課せられたとき、心理学者大原健一郎氏等の書籍を何冊か読んだ経験があり、その中に井上靖の『化石』と『星と祭』が含まれていた。そのことがあり、もう一度『化石』を読んでみたい気持ちになった。

 二十歳前後の当時の読後感は、『化石』より『星と祭』に好感を持った記憶がある。『化石』の結末に肩透かしを感じたからである。しかし、今回50歳を越えて読み返して、この結末に強い共感を覚え、とてつもなく凄い小説だと感心させられた。もし私が死の宣告を受けて、気持ちに余裕が生まれたならば、ぜひ『化石』を読み返してみたい。そのとき、もし冷静であれば、私はどのように感じるか、自分自身が興味深い。


 『化石』は一言でまとめれば、ストーリらしいストーリは無く、死を宣言された主人公・一鬼太治平が、死と向かい合って、残りの人生を如何に生きてゆくかを問う作品である。主人公をオーナ社長として、時間的経済的にも、そして様々な点で恵まれた環境に設定し、手術不可能ながん告知を受けて、死のレンズを通して、純粋に生きることの意味を、作者自身が自問自答しながら、書き進まれたような印象を持った。死と向き合って生を見つめなおす実験小説と言える。


 ストリーテラーとして名を成した井上靖氏なら、もう少し庶民的な人物を主人公にして、生活上の様々な問題を抱えさせながら、死を宣告された残りの人生を如何に生きてゆくかを、『氷壁』のように、様々な人物を登場させて描くことも可能だと思う。しかし、真摯に死を考えるならば、そのようなドラマチック物語にしてはいけないような、井上靖氏の鬼気迫るペンを、この『化石』に私は感じた。生きるということは、きれいごとではないということを、本小説から強く伝わってきた。以下、『化石』の中から、いくつかの文章を引用する。


◎『人生というものを、そっくりそのまま肯定せずにはいられない気持ちだった。もうろくすれば、もうろくしたで、人間はなかなかいいではないか。老いれば、老いたで、また、人間はいいではないか。死病にとっつかれれば、とっつかれたで、人間は、いいかもしれない。川の水が流れて行くように、人間も生々流転の相を繰り返して流れて行く。昼夜をたがわず、流れ、流れ、とどまるところを知らない。老いも若きも、幸福も不幸も、みんな死に向かって流れてゆく。浮かんだり、沈んだりしながら、それぞれ川波のきらめきを見せながら流れてゆく。そういうことなのだ、人間が生きるということは。そういうことなのだ、人間が死ぬということは。』

◎『本当のことを言うことで、本当のことを言う相手を持つことで、お前はこの世に生きて来たことを肯定しようとしている。自分の人生に意義を見出そうとしている。本当のことを平気で言える相手もなかったとしたら、お前はこれまでの長い一生を、何のために生きて来たか判らないことになるからな。』

◎『お前の父親や母親は、この世の中に、人間が及ばない力のあるものの存在を信じて、それに頭を下げることによって、無力な自分を、心平らかに生きさせようとしたのだ。』

◎『人間の幸せというものは、しみじみと、心の底から、ああ、いま、自分は生きているということを感じることだな。そうすれば、自分のまわりのものが、草でも、木でも、風でも、陽の光でも、みんな違ったものに見えて来る。』

◎『人間というものは、死に対して覚悟などできんないものだ。おれなどは、何ヶ月かの準備期間をすっかり無駄にしてしまった。そして今になって、じたばたしている。しかし、これが人間というものだろう。おれは遣りかけた仕事に何一つ結末をつけないで死んで行く。中途半端の形で投げ出すのは、仕事ばかりではない。(中略)人間というものは、ほとんど例外なしに、みんな遣りかけた仕事を中途半端な形で投げ出して、そこから退陣して行くのではないか。おれはもう十日欲しいと言った。しかし十日あっても、ひと月あっても、所詮同じことだろう』

◎『何も遣りかけたままで、何ひとつ結末をつけないで、無責任にほうり出して、どこかへ行ってしまうのが人間の死というものだ。人間の遣っていることに結末などつけられないのだ。いつだって中途半端なのだ。しかし、それでいいではないか。そもそも結末をつけようというのが、おこがましい限りだ。』

◎『みんな自分だけは同伴者(死)を持っていないと錯覚しているに過ぎない。生というものは、そういうものだろう。健康というものも、幸福というものも、そういうものなのだろう。人生というもの自体が、そもそもそういうものではないか。みんな錯覚の上に組み立てられている。(中略)もし君(同伴者つまり死)が居なかったら、人間という奴はいつまでも物事に結末をつけることができないと思う。君のお陰で結末をつけることができる。結末というもののない仕事を考えてみろ。仕事でなくても、愛でもいい。友情でもいい。いい加減うんざりするだろう。それを見るに見かねて、君は決着をつけにやってくる。』

◎『死という奴は、どこかに人間社会の浄化剤のような役割を持っている。愛も、憎しみも、恨みも、羨望も消える。死んでゆく人間の周囲の、人間関係がきれいになって行く。人間も何十年も生きると、水垢のようなものがたまる。どんなに行いすました人間だって同じことだろう。水垢がついたり、苔がはえたりした奴を、死がどこかへ持って行く。持って行かれて、丁度いいのだ。』

2008/5/18脱稿


朝日新聞紙上に、昭和40年11月〜41年12月31日まで、409回に渡って連載された。

単行本は昭和42/06講談社より 文庫本は昭和44/11/30角川より出版された。

文庫で754ページの長編小説


お薦め度 ★★★★


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