本と映画の森 (書籍編) No.21

更新日:2015/2/15 

谷崎潤一郎著『痴人の愛』、丸谷才一著『女ざかり』
2013/01/20




 昨年末(2012年・平成24年)、急に谷崎潤一郎を読みたくなった。

私は年間30冊程度(大半は中公新書などノンフィクションで小説は10冊程度)読書をするが、六十歳近くなる今日まで、恥かしいことに、谷崎潤一郎の作品を一編も読んだことがない。中高時代、国語(現代国語)の授業で、日本文学や世界文学で著名な作家の作品を読む指導を受け、夏目漱石、森鴎外、有島武郎、芥川龍之介、武者小路実篤などの作家の作品を数点読んだが、当時は授業の延長的な読み方で、楽しんだという印象を持てなかった。


 昨年秋、人生の無常を考えるようになり、四十数年ぶりに『徒然草』を読み返し、さまざまなことを思う時間を持った。次に芥川龍之介の短編をいくつか読み直し、新たな感動を得た。思わぬことであった。中高時代、教科書で紹介された名作を読んでみたい気持ちが昂り、日本人でノーベル文学賞に最初にノミネートされ、それ以降も何度も候補に挙がったのが谷崎潤一郎だったことを思い出すと、急に谷崎作品が読みたくなった。書店に行くと、新潮文庫に『刺青・秘密』『春琴抄』『痴人の愛』『細雪』があり、『細雪』は上中下三冊が揃っていなかったので、致し方なく、読み応えのある分量だった『痴人の愛』を購入した。


 正月休暇の一日を読書日に充てた。朝6時前に起床して、食事と用便以外の総ての時間を読書に専念して、一日で読み終えた。この読書方法は、高校時代の社会科のK教諭から教わった。一気に読み終えたときと、何日にも亘って立ち止まって読んだ場合では、微妙に読後感が異なるように思う。どちらが良いか悪いかはなく、もともと読書にルールなど無いのだから、人それぞれ時と場合によって、好きな読み方で読書を楽しめばよい。暦の関係で、今回まとまった休暇を得たので、読書の日を設けて読んだ。


 『痴人の愛』のストーリは、生真面目なサラリーマンの主人公・河合譲治が、カフェで見初めた美少女ナオミ(奈緒美)を、自分好みの女性に育て上げて妻にする。成熟するにつれ妖艶さを増すナオミの回りには、いつしか多くの男友達が群がるようになる。一時はナオミを追い出すが、知性も性に対する倫理観も欠落したナオミの魅惑的な肉体に、譲治は翻弄され、身を滅ぼしてゆく物語である。


 この作品が、90年近く以前の大正十三年に発表されたという時代と、発表の媒体が新聞と女性雑誌だったこと、そして当時大きな反響を得てナオミズムという言葉まで流行したことに、私は驚きを越えて衝撃を受けた。大正デモクラシィーの民主主義的政治思想運動の波に乗ったのだろうか。


 文学的価値や評価について、私には分からない。ただ、個人的な感覚として、ナオミのようなエゴイズムを徹底的に実践するような女性は、心のうちはとても孤独だろうと同情するが、どうしても好きになれない。もっと言うならば、私は生理的に受け入れられないタイプの女性だ。またナオミのような女性の方も私に拒絶反応を起こすに違いない。そのようなヒロインの奔放さと未練がましい主人公の情けなさが繰り返される、まさしく痴人の男女関係にもかかわらず、また読み返したくなるのは何故だろうかと自分に問い続けたが、明快な根拠が見つけられないでいる。ナオミにも譲治にも魅力を感じないにもかかわらず、小説として魅力を備えているのは、谷崎潤一郎の作家力に違いない。


 ナオミの口直しといっては適切でないが、ナオミとは正反対のヒロインを主人公にした小説・丸谷才一著『女ざかり』(1993/1/10文芸春秋)を、『痴人の愛』の数日後に、同じように早朝から一日で読んだ。丸谷才一氏を私は随筆家だと思っており、小説も手がけている程度の認識だった。丸谷氏の文章は、新聞のコラム欄に載ったものを読んだ経験はあるが、書籍としてまとまった随筆を読んだことはなく、小説も今回始めて読んだ。


 『女ざかり』のストーリを簡単にまとめると、新聞記者の主人公の女記者・南弓子が始めて書いた社説がもとで忍び寄る権力に対する政府との攻防と彼女をめぐる人間模様を描く物語である。

 登場人物の服装や食事のメニュー、会話の展開説明など、物語の進行にさほど重要と思えないことまで、細かく丁寧に記述して行きながら飽きさせない筆力を持った作家だと感じた。そして、その執筆力は、著者の博識によるものであろう。社会観、国家観など、物語の展開にほとんど必要性のないことを、登場人物の肉付けとしてではなく、著者の人生観としか感じられず、そこ個々に散りばめて、書き過ぎている。小説としては、そのような贅肉的な部分を削り落とし、ストーリの展開として、膨らませるべきところ、奥行きや広がりに力を注ぐべきである。


 ストーリが単純であるとは悪くないが、起伏や意外性の仕掛けがなく、物語としての面白みが欠けているのは、褒められない。問題となる主人公の社説も、さほど刺激的でも魅力的でもなく、この社説についての社内での論争がない。美人でセンスが良く、贅沢な食事を楽しみ、知識も人脈も男も、つまり何もかも持って仕事が出来る主人公の南弓子に、私はなんの魅力も感じられなかった。このような女性を女ざかりだと、著者は言いたいのだろうか。この作品の最大の欠点は、著者の豊富な雑学を楽しむだけで終わっていることだ。


 谷崎潤一郎はナオミを通して、女の肉体と精神が生み出す魔性とでも言うべき不可思議な謎に挑んだように感じた。一方、丸谷才一は、南弓子を理想の女性像として描いたのではないかと感じる。彼女たちをそのような女性(もしくは女)に駆り立てたのは、男性(もしくは男)の存在である。ナオミに対する河合譲治はしっかり描かれているが、弓子に対する豊崎洋吉の描写が通俗的に感じたのは、私だけだろうか。


 それぞれの作者が生み描き出したナオミにも南弓子にも、私は魅力を感じないが、気ままなナオミは可愛いと感じる部分を持つが付き合いたいとは思わない。一方、天から二物を与えられたような弓子には反感を持つが、知的好奇心をくすぶるものを感じる。現実生活の中で、それぞれのヒロインのような女性(もしくは女)と係わりたいとは思わないが、谷崎潤一郎も丸谷才一も、他の作品を読んでみたい渇望のようなものを感じたことは、作品として共にに成功しているのかもしれない。特に、谷崎潤一郎の『細雪』は、機会があればぜひ読んでみたい作品のように感じる。そういう意味で、『痴人の愛』は、谷崎潤一郎にとって、良い仕事(作品)に違いない。


参考文献

谷崎潤一郎『痴人の愛』新潮文庫(昭和22年11月10日発行、平成15年6月10日改版

丸谷才一『女ざかり』文芸春秋(1993年1月10日初版)


2013/1/20 脱稿

お薦め度 『痴人の愛』★★   『女ざかり』★★


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