本と映画の森 (書籍編) No.22

更新日:2015/2/15 

井上理津子著『さいごの色街・飛田』 筑摩書房
2013/02/23




 小説や伝記を読んでいると、遊郭、遊女や花魁などがしばしば登場する。井上理津子著『さいごの色街・飛田』を手にしたのは、色街はどのような文化なのか、時代よってどのような変貌を遂げ、地域による違いがあるのだろうかなどに興味があったからだ。特に昭和31年「売春防止法」が制定され昭和33年に施行されて以降、各地の色町はどのような変遷を辿っているのか、関心は尽きない。そのような私の興味の根底には、男の助平心によることは否めない。男は、どうして助平心が消えないのだろうか。女性はどうなのか。


 本書を読んで、飛田に行ってみたいと思う読書がいたとしたら、「おやめください」と申し上げたい。客として、お金を落としに行くのならいい。そうでなく、物見にならば、言ってほしくない。そこで生きざるを得ない人たちが、ある意味、一所懸命に暮らしている町だから、邪魔をしてはいけない。

 と、約300ページ読破したあとがきの最後を、作者は上記の言葉で締めくくっている。


 私は一度も飛田に行ったことがないので、安易に意見を述べるべきではないけれど、井上氏が12年間の取材をまとめた本著の読後感は、作者が述べるように、飛田は物見遊山で行く観光地ではない。興味本位で行くところではないという作者の切望が、私には納得できる作品に仕上がっていた。飛田を必要とする人たちだけが、ひととき過ごす空間だと感じた。必要としない人にとって、安易に近寄ってはいけない。そっとしておく街だと知ったことが、私にとって『さいごの色街・飛田』の収穫だ。


 現在はネットの時代で、『飛田』と検索すれば、さまざまな情報が簡単に得られる。そのような情報氾濫の時代に、ルポで一冊の本をまとめることは、とても難しい。本書が成功しているのは、取材力と文章力に違いない。


 本音と建前がむき出しの街に関係する人々の堅い口から聞き出した数々の言葉は、ネットの匿名で虚実こもごもの無責任な情報ではない。名前と体を張った12年間の取材で、作者に向けられた飛田で生きる人々の一種の遺言かもしれない。最後に登場する原田さんの生々しい息遣いの一つひとつの言葉は、飛田で暮らしてきた人生そのものである。そして、2010年飛田を去った原田さんの思いは、2010年の飛田の現実そのものに思えた。


 作者は第5章の冒頭で『私に分かってきたのは「飛田は取材をしてはいけないところ」ということだ。』と述べている。ならば、取材をやめて本にまとめるべきではない。しかし、取材を続け本にされた。ならば、安易な意見は控えるべきだが言わせて欲しい点がる。それは、作者はもっと多くの飛田に係わった人々から、本音を突っ込んで聞き出して欲しかった。飛田に係わった常連客、遊女、警察、保険所、弁護士、暴力団、飛田周辺の人々などからである。


 飛田誕生から現在までの経過(歴史)は触れられていた。しかし、飛田内外の視点から、飛田の過去現在に留まらず、何よりも未来の展望を書いて欲しかった。時代や社会の変化の中で、飛田は衰退してゆくのか繁盛してゆくのか。そのポイントは何なのか。他の色街と飛田がどのように違うのか。変貌してゆく風俗業界において、飛田のこだわりや意地は何なのか。それは、飛田の生き残りにつながるのか。つながらないのか。


 作者は売春に嫌悪感をもっている。その理由は昭和33年4月1日より「売春防止法」が施行されているので、違法行為だからなのか、それとも売春行為そのものを悪と考えているからなのか。その点を曖昧にしていることが残念である。博打同様に売春は必要悪であると私は思う。カジノ論議が行われているが、風俗全般を検討する議論が起こらないのが、私には不思議である。非合法な博打や風俗行為が歴然と存在しているように聞く。カジノも売春も50歩100歩かもしれないが、少なくとも、カジノより風俗の方が文化的であり、人のぬくもりを感じるのは男だけだろうか。私だけだろうか。


2013/2/23 脱稿



井上理津子著『さいごの色街・飛田』筑摩書房2011/10/25発行

お薦め度 ★★

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