戦争は、してはいけない。
という意識が、明治維新(1868年)の頃の日本には無かった。政権を倒し奪う手段は、武力だった。
当時、世界の先進国は産業革命を経て、工業力と武力による帝国主義が蔓延していた。その帝国主義の国々の力が日本に迫っていた。
265年間続いた江戸幕府の末期、徳川政権は各藩を統治する力が衰え、逆に西国の雄藩が力を蓄(たくわ)え、力関係が崩れ始めていた。欧米諸国の圧力によって、幕府は日米修好通商条約(1858年)を結び、開国に踏み切った。開国に反発した西国雄藩は、尊王思想の風潮を追い風とし、外国を打ち払う攘夷を唱え、薩摩藩は1862年生麦事件(英国人殺害)、翌年1863年7月薩英戦争、長州藩は四国艦隊下関砲撃事件(1864年8月)と攘夷を実行し、倒幕運動に発展した。
開国によって、わずか10年足らずで卸売物価が6.6倍、米価が10倍と急激な物価高騰に陥った。徳川政権は、経済の立て直しに兵庫商社を創立させ、経済外交に踏み切った。造船所の建設に着手し、海軍を組織し、洋式陸軍制度を導入し、幕府再生のいわば構造改革を急いだ。
しかし、慶應3年(1867年)10月14日、15代将軍徳川慶喜が大政奉還で政権を朝廷に返上し、江戸幕府は自ら終焉の幕を下ろした。二ヵ月後(12月9日)王政復興を宣言し、薩長土肥は、戊辰戦争(1868年1月の伏見鳥羽の戦いから1869年5月の五稜郭の戦いまで、約1年半の期間)を仕掛けて、旧幕府勢力を武力でもって一掃した。多くの若い日本人が死んだ。明治維新は、薩長土肥の暴力によって誕生したのである。
徳川政権が崩壊した要因のひとつは、物価高騰による重い増税を課したことも考えられる。江戸時代、幕府が直接税を課したのは譜代や旗本など直轄地だった。外様大名には幕府からの税は無いが、普請や参勤交代を命じて財力を抑えた。税に関しても、地方分権であった。増税政策により、譜代は税に苦しみ、物価高騰に人心が徳川政権から離れていたのも一因だ。鳥羽伏見の戦いにおいて、井伊家は討幕軍(薩長土肥)に与(くみ)した。
徳川政権を倒した新政府(薩長土肥等による明治政府)に、政策の明確なビジョンは無かった。
倒幕後、明治政府は攘夷を一言も口にせず、開国政策(文明開化、殖産興業など)に進んだことでも明らかだ。新政府に対する士族農民の抵抗は烈しく、士族の反乱・農民一揆は、明治10年(1877年)の西南戦争まで続いた。
国家の組織と運営の根本原則を定めた大日本帝国憲法が発布したのは、徳川幕府から政権を奪ってから22年後の、明治22年(1889年)2月11日である。翌年第1回衆議院議員選挙が行われ、第1回帝国議会が開かれた。
5年後の明治27年(1894年)6月から翌年4月、日清戦争に日本は勝利し、欧米諸国の帝国主義を実行し本格的な植民地経営と、さらなる軍備増強に乗り出した。政治家軍人等の緊張感をもった周到な準備によって、その10年後の明治37年(1904年)2月から翌年8月の日露戦争に、薄氷を履むような勝利だった。日露戦争は20世紀最初の大きな戦争だった。その後第一次世界大戦(大正3年1914年)が勃発し、ワシントン(大正10年1921年)、ジュネーブ(昭和2年1927年、ロンドン(昭和5年1930年)など世界は何度も軍縮会議を持ったが第二次世界大戦(昭和14年1939年)が起こり、それ以降も戦争は絶えることが無く今日に至る。20世紀は戦争の世紀ともいわれた。
明治維新から36年目、日本は日露戦争に勝利をした。それから同じ時間を経過した36年後、昭和16年(1941年)12月、日本は大東亜戦争を起こした。その2年前ドイツがポーランドに侵入し、ヨーロッパで第二次世界大戦(1939年9月)が勃発していた。
『日本はなぜ開戦に踏み切ったのか 「両論併記」と「非決定」』新潮選書(2012/6/20)は、その昭和16年夏、第三次近衛内閣から東条内閣まで、大日本帝国の対外軍事方針である「国策」をめぐり開戦に踏み切るまで、内閣、陸海軍省、参謀本部、軍令部、外務省の首脳らは戦争と外交という二つの選択肢の間を揺れ動いた。閲覧可能となった膨大な史料を駆使して、戦後生まれの歴史学者・森山優が、現在の政治外交感覚で、開戦時の軍事を含む政局が、誰によって、どのような政治過程を経て決定されたかという問題に絞り、検討した興味深い作品である。
『日本はなぜ開戦に踏み切ったのか』を読み、私は自分の無知さを思い知らされた。
まず、国の運営の原則を明記している「大日本帝国憲法」いわゆる《明治憲法》の内容を、ほとんど知らなかったことである。
一番驚いたのは、明治憲法では、首相の選び方が記載されていないことだ。
明治憲法の体制は、明治維新を実行した人々(後の元勲・元老等)に大きく依存して、彼らが首相指名も含め、さまざまな影響力を行使して、初めて機能する制度だったのである。
そして『天皇は統治権の総覧者かつ軍の大元帥という絶対的な立場にあったが、同時に責任を負わないことになっていた(天皇無答責)。政治的選択には、必ず結果責任がつきまとう。それを担ったのが内閣や統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)や、それ以外の超憲法機関(枢密院など)だった。』というのである。
『問題なのは、内閣、統帥部、内大臣、枢密院、帝国議会がピラミッド型の上下関係ではなく、それぞれの組織が天皇に直結して補佐するようになっていたことである。例えば、戦争指導については大元帥である天皇に直属している統帥部が輔翼(ほよく:「輔」も「翼」も助けるの意味)し、内閣は軍政事項(軍の行政事務。軍の規模や、それを支える予算措置など)を除いて、これにタッチできなかった。閣内の構造も不安定であった。首相と他の国務大臣も指揮命令の関係ではなく、横並びにそれぞれが天皇に直結していた。閣僚は、各々が臣として天皇を直接に輔弼(「弼」も助ける意味)する。(輔弼と輔翼の違いは、当時も明らかではなかった) 首相には閣僚の任命権が無いため、首相と閣僚が対立しても首相はその閣僚を辞めさせることが出来ず、その統合力には限界があった。最悪の場合、閣内対立は内閣総辞職を導いた。』ということである。
明治憲法は、明治維新を実行した実力者(元勲・元老等)たちが、パーソナルに国を運営するシステムになっており、彼らが多数活躍していた明治の頃は、それなりに上手く機能していた。しかし、明治天皇、大正天皇が崩御し、昭和の時代になり、戦火をくぐった元勲・元老等が亡くなってゆくにしたがい、明治憲法の欠陥が現実化したと考えられる。能力を持った政治家と、優秀な成績を修めた陸軍や海軍の選りすぐりが集まった首脳等(政府、陸海軍省、参謀本部、軍令部、外務省)は、国策をめぐって喧々諤々の議論が繰り広げたが、それぞれに都合のよい案を併記し、決定の先送りを繰り返した。彼らが固執したのは、日本の未来ではなく、組織的利害であった。
森山優氏は、『アメリカを仮想敵国に設定し、対米戦を組織的利害としていたのは、紛れもなく海軍であった。大陸政策をその存在基盤としていた陸軍の仮想敵国は、一貫してソ連だった。海軍がやると言わなければ、対米戦は起こりようが無かったのである。陸軍にとって、対米戦は海軍がやってくれる戦争だった。東条が対米戦を主張できたのも、他所の仕事という認識だったからである。しかし、海軍は対米戦に自信が無いと、公式に言うことは出来なかった。対米戦を名目に多くの予算と物資を獲得してきた経緯に加え、九月の御前会議では外交交渉が成立しなければ開戦に踏み切ることも名言していたからである。戦争が不可能と言えば、海軍の存在意識が失われる
つまり、陸軍も海軍も同じように自分以外の組織の犠牲によって問題を解決しようとしたのである。もし陸軍が対米戦を自らの戦争と自覚して中国で失う利害と同じ地平で考えることが出来たなら、撤兵という苦渋の選択を行い得たであろう。そして海軍が大陸の利害と陸軍との関係を自らの対米戦と同じレベルの問題として捉えることができたなら、その主張に説得力が増したに違いない。しかし、現実には、両者共に自らの利害に立てこもる姿勢をとった。結局、組織的利害を国家的利害に優先させ、国家的立場から利害得失を計算することが出来ない体制が、対米戦という危険な選択肢を浮上させたのである。』と述べている。
そして、さらに、
『そもそも、何故に両論併記や非(避)決定を特徴とする「国策」が必要とされたのは、強力な指導者を欠いた寄り合い所帯の政策決定システムが、相互の決定的対立を避けるためであった。そのための重要な構成要素が、「国策」の曖昧さであった。それでは、臥薪嘗胆、外交交渉、戦争という三つの選択肢から、臥薪嘗胆が排除されたのは、日本が将来に蒙るであろうマイナス要素を確定してしまったからであった。これに比較して、外交交渉と戦争は、その結果において曖昧だった。つまり、アメリカが乗ってくるかどうかわからない外交交渉と開戦三年目からの見通しがつかない戦争は、どうなるか分からないにもかかわらず選ばれたのではなく、共にどうなるか分からないからこそ、指導者たちが合意することができたのである。』
独裁でもない、暴走でもない、組織的利害対立と、弱さからの責任回避で、困難な決断を先送りした当時の指導者たちは、日本の将来を憂え、戦争回避を求める理性的な声を、自ら塞いていった。開戦シナリオの陸軍参謀本部や海軍軍令部の論拠は、信頼できる数字や精緻な分析に基づくものではなく「希望的観測に根拠を置く、粉飾に満ちた数字合わせの所産」であった。強力な指導者を欠いた寄り合い所帯の首脳たちは、不都合な未来像を直視することを避け、相互の決定的対立を避け、内的なリスク回避を追求した積み重ねが、開戦という最もリスクが大きい選択をしたと、森山優氏は総括している。
開戦に踏み切った経過を、今風に言うならば、国民が知らない密室での決断経過を、森山氏は丁寧に説明されたが、私には大きく3つ欠けている点があると思う。
一つ目は、首脳たちが把握していた欧州の情報が、どこまで正確であったのかという問題を、森山氏は検証説明していないこと。そして、その情報を首脳たちは、どれだけ共有していたのかという問題。
二つ目は、首脳たち自身の気質の問題。
三つ目は、新聞ラジオなどによる当時の世論(世間の空気)が、首脳たちの判断にどのような影響があったのかに、まったく触れられなかったことである。
ヨーロッパで起こっている第二次大戦の状況を、日本はどのように把握していたかに、まったく触れていないことは、本書の目的において問題を感じる。
1939年(昭和14年)9月1日、ドイツがポーランド侵入し、欧州で第二次世界大戦が勃発しており、ドイツの猛進撃に、フランスは一ヶ月で降伏し、オランダは亡命政権がイギリス本土に落ち延びる。V1号V2号でロンドンは連日連夜爆撃を受けたイギリスは、アメリカに助けを求めていた。しかし、他国での戦争にアメリカ国民を巻き込まない公約でルーズベルトは大統領選挙を勝ち取り、事実アメリカ国民は戦争参加に消極的だった。イギリスを助ける為にルーズベルト大統領は、ドイツに先制攻撃をさせるような挑発を繰り返すが、ヒトラーは乗ってこなかった。そこでルーズベルト大統領は、日本を挑発し追い詰めて、日本にアメリカを先制攻撃させ、三国同盟の関係からドイツがアメリカに参戦を仕向けていたのである。そのような解釈が可能なことを、首脳たちは認識していたのだろうか。
また、昨年(2012年・平成24年)8月15日、NHKで放映されたNHKスペシャル『終戦はなぜ早く決められなかったのか』で、ヤルタ会議でソ連が日本に参戦するという密約を、スイス駐在武官が大本営に打電している史料がイギリス・ロンドンの公文書館で発見されたという新事実を伝えた。日本はソ連の対日参戦を早い時期から察知しながら、外務省はソ連参戦まで接近し交渉を続けた。陸海軍省や参謀本部、軍令部は、政府や外務省にヤルタ会議の密約情報を伝えていなかったのである。
上記は終戦直前のことであるが、このような事実に接すると、各首脳たち把握していた情報の信憑性を疑わずにはいられない。また、首脳間の情報の共有にも問題を感じる。首脳たちが一枚岩で、正確に世界情勢を理解していたならば、戦争に踏み切っていない可能性も考えられるのではないだろうか。
優秀な人材が集まった政府や陸海軍省、参謀本部、軍令部、外務省の首脳たちの出身元が、文官は大半が東京大学法学部、陸軍は総て陸軍大学校卒、海軍は総てが海軍大学校卒という、とても偏った構成であった。それぞれの組織内では、総て同窓生の集団であり、先輩後輩の序列と仲間意識による馴れ合い所帯に、問題は無かったのか。
出身母体が全員同じであることは、人間を養成する物差しが一つであったことに、私問題を感じる。軍人も文官もさまざまなジャンルの出身者で構成されていたならば、広い視点や発想を持つことになり、盲点に陥る弱点を防げる。明治維新を遂げた人々は、各藩の下級武士が中心で、さまざまな身分や地位の人々で構成されていことは、重要なポイントだと思う。
第一次世界大戦(大正3年1914年)を経験した欧米の各国は、武器や通信の発達が著しく、そのため戦略戦術は大きく進歩した。そのような近代戦争の洗礼を受けていない中国と、日本陸軍は山東出兵(昭和2年1927年)、満州事変(昭和6年1931年)、日華事変(昭和12年1937年)を経験した。互いに武器も戦略戦術も日清日露戦争時と変わらないものだった。海軍にいたっては、日露戦争における日本海開戦(明治38年1905年5月)以降、戦争経験が無かった。
ノモンハン事件(昭和14年1939年)で、日本はソ連の近代兵器の威力を知ったにもかかわらず、軍部は近代戦争の研究を怠り、その経験活かすことがなかった。相手の欧米諸国の武装レベルを知らないことは、判断を誤る要因になりうる。陸海軍省、参謀本部、軍令部の首脳たちは、近代戦争の現状を知らないだけでなく、戦火の中をくぐる体験すら無い人々であった。旧態依然とした精神論重視からの脱皮できなかった。敵を正確に知ることなく、知ろうともせず、自分の実力を根拠なく過大評価していたことも問題だと思う。首脳たち自身の気質の弱点が、戦争に対して甘く考えていたのではないだろうか。
本書の後半で、戦争回避に向けて、アメリカのハル国務長官に対して、東郷茂徳外務大臣と駐米大使野村吉三郎の努力の経過をドラマチックに詳細に描いている。それならば、政府や陸海省、陸軍参謀本部や海軍軍令部などの動きも、同じように具体的に描くべきであった。森山氏は東郷茂徳外相に好意的であっても良いが、本書全体にバランスを欠き、不自然な印象を持たざるを得ない。
そして、当時の世論の変化にも、少し触れて欲しかった。現在の政治家にとって、内閣支持率は無視できない要素のひとつである。当時の首脳たちは国民投票で選ばれるのではないから、国民の動向に敏感でなくてもいいけれど、まったく無視することは出来なかったはずである。当時の世論が開戦決断に及ぼした影響についての考察があっても良かったように思う。
日本国内において、権力闘争による戊辰戦争のような戦争が今日起こるとは、もう考え難い。しかし、世界を舞台にした戦争に、今後100%日本が係わらないとは、言い切れないように感じる。それは、世界も日本も、「現在うまくいっている」と思えないからである。そして、近い将来、「うまくゆくように改善される」と思えないからである。ヒロシマ・ナガサキ以降、戦争で原爆が使用されていないけれど、今後も使用されない保障は無い。むしろ、使用の可能性が高まっているようにすら感じる。
そして、何よりも大切なことは、戦争を起こさない知恵を探ることである。
「戦争は、してはいけない」という認識を共有することである。
森山優氏は、本書の最後を、『敗戦によって陸軍という最大の抵抗勢力が政治の場から排除され、新憲法では内閣の権限が大幅に強化された。長年のシビリアン・コントロール(文民統制)の徹底によって、日本が戦前のような状況に回帰するのを想像することは難しい。(中略))戦前に比較して内閣の権限が強大な日本国憲法の元でも、政治主導の困難さが叫ばれている昨今である。戦前の脆弱な政治システムにおいて、日本の政策担当者がどのように時局に立ち向かったのか。このことを検討するのは、けっして無駄な作業ではないだろう。』と締めくくっている。
大東亜戦争が未曾有の規模であり、国内外は凄く複雑なために、政治過程に絞った論理の展開から導かれた上記の森山氏の提言は、的を得たものだと思う。戦後70年近い現在では、戦争体験者の大半が亡くなり、史料を駆使せざるをえないのは、致し方ないけれど、史料では再現できない、当時の世間の空気、生臭い息遣いが、人々の生活であり、それが時代である。その世間の空気を作っているのは、一人ひとりの人間の声なき声である。その声に耳を傾けることを忘れたら、歴史は語れない。
大東亜戦争に踏み切ったのは、見方を変えれば、当時の首脳たちはおそらく自覚は無かっただろうが、明治維新を達成したとき、口にしなかった攘夷を、つまり自国自衛を達成するために、欧米諸国の黒船の暴力から約100年間我慢してきた、欧米諸国を打ち払う攘夷だったという解釈は、可能ではないだろうか。よそ者(外国)を排除するという日本人に脈々と流れている純血精神が、押さえきれずに噴火した。そういう、いわば日本人の生理的な拒否反応のような決断だったという解釈を、100%否定できないのではないでしょうか。
大東亜戦争について、さまざまな資料が公開されるようになり、新しい発見も続いて、研究が盛んに行われている。その中心的な人々に、戦後生まれの戦争を知らない世代の研究者が増えている。本書の森山優も、昭和37年生まれである。吉田裕氏(1954年生まれ)、加藤陽子氏(1960年生まれ)、吉川隆久氏(1962年生まれ)らも戦後生まれである。戦争体験者が、本書『日本はなぜ開戦に踏み切ったのか』を読まれたら、どのような感想を持たれるのか。凄く興味深いものを感じる。
2013/3/3 脱稿 3月7日改稿
森山優著『日本はなぜ開戦に踏み切ったのか。「両論併記」と「非決定」』新潮選書2012/6/20
お薦め度 ★★★★
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