子どもの頃、蟻の行列に魅せられた経験を持った人は、多いのではないだろうか? 蟻同士が出会えば、挨拶のような仕草をする。何か伝言、情報交換をしているのだろう。体の大きさを考えると、かなり大きく重たいものを、一匹で運んだり、渡したりを、汗もかかず簡単に行っているように見えた。平坦な場所でない場合など、物を運ぶ蟻の行動に、いろんな工夫を感じる場合があり、子どもの頃の私は、驚嘆した事がしばしばあった。
学校に通うようになって、物事を考えたり、身体をコントロールする仕事は、脳が掌(つかさど)っていることを学び、人間の脳の大きさ重さ皺の多さなどにおいて、生物の中でもっとも進化した存在であることを教えられた。そのとき、体重がわずか1グラム程度の蟻の脳ですら、あれほどの知恵を生み出すのだから、人間の脳の大きさ重さを考えると、物凄い可能性の宝庫に違いないと、少年だった私は驚いたことを思えている。それと同時に、学校の成績がそれほど良くなかった(特に記憶力に自信が無かった)私は、自分の脳はあまり優秀ではないのかもしれないと、ちょっとショックでもあった。
頭(学習能力)の良し悪しと、感情(優しさや思いやり)の良し悪しが、同じ脳によって出力されていることに思い至り、脳の不思議さを感じた。腕立て伏せなど運動を通して、体は鍛えることが可能であるが、脳はどのようにすれば効率よく鍛えられて、学力的に賢くなり、人に優しく成れるのかと、思春期の頃に思ったことがある。受験を控えていた頃、英単語を覚える能力に、人によって優劣があり、脳そのものの能力の違いを感じたものだ。
50歳を超えた今は、視力が衰え、跳躍力や握力など運動能力が衰え、皺が増え肌の色艶も無くなり、物忘れや記憶の再生力が衰え、脳の老化進行を実感する。しかし、脳の全ての部分に翳りが進んでいるものではないと、あえて私は考えたいのである。
円熟という言葉あるように、衰えることで、要らないものが削ぎ落とされることによって、研ぎ澄まされたものが現れ、今までになく光ってくるものがあるのではないか。脳にはそんな期待を持っても良いのではないかと、私は思いたいのである。輝く若者にとって、老いは醜いものに映るだろうが、老うことによって、初めて見えてくるものがある。そこに、脳の不思議さを感じる。
池谷裕二著『進化しすぎた脳--中高生と語る「大脳生理学」の最前線--』に興味を覚えたのは、「進化し過ぎた脳」というタイトルに惹かれたからだ。
私個人にとって「私的な脳の能力」は、自分の人生に関わる問題に過ぎないが、地球規模の視点に立って、社会や未来について考えた場合、地球上に過去から現在までを作り築いてきたのは、乱暴な言い方をすれば、人間の脳の仕業に違いない。そして、どのような未来を作ってゆくかも、人間の脳が握っている。その人間の脳が、生物界の中でいつの間にか進化し過ぎて、現実よりも進化し過ぎた脳が未来を握っている恐ろしさが、本著を私に取らせたのである。
産業革命は、人間の体の働きを助けるものだったと、私は理解している。つまり、仕事を含む生活において、物作りや移動を補助する道具や機械を、効率よく生産する革命で社会に影響をもたらした。近年のコンピューターの発達は、人間の脳の働きを助け、もっと厳しく言えば、増長させる結果を生んだと私は考える。コンピューターは産業革命以上に社会に与える影響は大きい。コンピューターの発達によって、増長し傲慢化してゆく脳が、どのように私達の生活を変え、どのような未来を創造するのか、それを監視するのも、それを生み出した人間の脳にほかならないという皮肉な現実なのである。
その脳の仕組みについて、本著・池谷裕二著『進化しすぎた脳』は、私にとって大変興味深い内容で、多くの情報を得られた。自分が生きていることに、多大な働きをしている脳について、私はあまりにも無知であり過ぎたことを、思い知らされた。
例えば、脳は神経細胞で構成されて、一つの場所で、一つの働きのみをしており、脳全体が分業体制(機能の局在化)をとっていることさえ、私は知らなかった。
また、体の動きは脳が支配しているものと思っていたが、まったく逆で、体が脳を主体的にコントロールしているのだった。脳の機能は、体があって生まれるというのだ。指先を刺激するとボケ防止になるという俗説は、本当なのだ。
心を生み出しているのは脳である。抽象的なことまで考え意識や感情が出来るシステムには、物事を考えるツールでもある言葉が大きな役割を担っており、その言葉を操る脳がまさしく心を作っていると言える。
「見る」という行為は、おそらく人間の意識ではコントロールできない無意識の現象であり、人間は脳の解釈から逃れられなく、「見える」というクオリア(覚醒感覚)は、脳の不自由な活動結果という著者の意見にも、私は驚きを隠せない。
部分の総和が全体だという考え方は大変危険であり、部分と全体は互いに不可分であり、相互に影響を与えている。部分と全体のバランスが崩れてしまったのが、病気である。まさしく、その通りだと思う。
何よりも驚かされたのは、人間の脳は、身体を進化させぜに環境を進化させる手段をとり、現在の人間は、遺伝子的な進化を止めて、逆に環境を支配して、それに自分を合わせて変えることで、種の生存をたくらんでいるとの、著者の発言である。つまり人間は自然淘汰回避を、自然を変えることで乗り切る手段に出たというのである。
本著は2004年春、慶応義塾ニューヨーク学院高等部で、8名の中高生に行われた4回10日間の脳科学講義記録である。本著を読んで強く感じたことの一つは、8名という少人数で教師とディスカッション形式の授業(講義)の素晴らしさである。内容において、最新の科学情報を随時紹介し、現在の現状や考え方や問題点を踏まえて、一般人(科学者でなく、普通の生徒)の興味や関心に沿いながら、脳科学を理解させ考えさせる内容が、もっと素晴らしく感じた。池谷裕二さんの授業を行うに当たっての準備(教材研究)は、大変だったと思われるが、生徒にとっては、これほど幸せな事はないだろう。
もし私が十代の生となら、何としても受けたい授業だった。ゆとり授業や詰め込み授業など、低レベルの次元での議論に終始している日本の学校教育は、大いに考え直さなければ、それこそ脳の劣化が始まる。ニートやフリーターの増加現象を見ると、日本の若者に脳の劣化教育が、静かに進行しているに違いない。
今年に入って、いくつかの書籍に出合ったが、本著はその中で最も刺激を受けた一冊である。人は出合いによって、人生の転換をむかえることがある。私はもう歳を重ね過ぎたが、ニューヨークで池谷裕二さんの講義を受けた中高生のような若い人々にとって、本著が大きな出合いになるように感じた。
2005.7.10
池谷裕二著『進化しすぎた脳--中高生と語る「大脳生理学」の最前線--』(2004/10/25朝日出版社 1500円)
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