先々月(2001.5)、世界的俳優アンソニー・クイーン氏の死去を新聞で知った。その記事には、彼の生立ちや、
出演作品とその演技についても触れられていた。その中に、イタリア映画『道』(F.フェリーネ監督作品)での、大道芸人ザンパノの
名演技が紹介されていた。
『あのザンパノが、アンソニー・クイーだったのか』と、私は改めて識った。そして、急にもう一度『道』を観たくなった。何年か前、NH
Kで世界名作映画と銘打った番組があり、そのとき放映された『道』をビデオに録画したテープを取り出し、何年かぶりに鑑賞した。
日本で始めて上映されたのは、いつなのか知らないが、私は映画館で一度、テレビでは数回この映画を観ている。いろいろなこ
とを考えさせられるメッセージ性の強い映画にもかかわらず、20代、30代、そして40代と、今もなお繰り返し観たくなるような魅力的
な映画だと思う。 また、その時々の私にとって、感じ方も年齢によって変わってくるが、観るたびに新しい視点を感じ、古さを感じさ
せない稀有な作品だと思う。余韻が数日間続いた経験もある程ほど、強烈な自己主張の作品でもある。
物語は.......
田舎の貧しい一家の母親は、他の子供を養うために、娘のジェルソミーナを、口減らしで大道芸人のザンパノに、わずか一万リラ
で売る。
ザンパノはジェルソミーナをアメリカ製(を自慢的に描かれている)のオート三輪に乗せて、大道芸の旅を続ける。その芸というの
は、胸に巻いた鎖を、胸筋で断ち切るというごく単純な力技である。ジェルソミーナはその助手を務めるのだが、ラッパも太鼓もろく
に使えない。何よりも、大男で荒っぽいザンパノを、まだ幼く頭の弱いジェルソミーナには、凄く怖い絶対的な存在として描かれてい
る。
ジェルソミーナは懸命に太鼓を叩き、ラッパを吹いて、ザンパノに献身する。そのジェルソミーナの瞳が愛らし
く、表情豊かで、ほほえましく描かれている。世辞でも美人とは思えないジェルソミーナが、だんだん可愛く美しく変貌してゆく監督
の演出は、特筆すべきことだと思う。
ザンパノはジェルソミーナの扶養者としての自覚はない。都合よく彼女を使っているだけである。そして、平気で他の女と関係を
持つ。ジェルソミーナは、一人取り残されて泣きながら眠ることも、日常的なことである。
その日暮らしの旅を続ける大道芸人のザンパノの生活は貧しく、その貧しさから抜け出そうと考えもしない。ザンパノは、明日の
ことも頭に無く、その時々を思いのまま生きてゆければいい人間。ジェルソミーナは、そんな彼から一度逃亡を試みるのだが、結
局、見つけ出され連れ戻される。絶望的なジェルソミーナの表情も印象的だった。
ある時、ザンパノとジェルソミーナの二人は、サーカスの一座に加わる。このサーカス一座で青年イル・マットに出会う。彼はジェ
ルソミーナに優しく、バイオリンを弾きながら、彼女にラッパの吹き方を教える。
ここで使われるニーノ・ロータ作曲の哀調を帯びたメロディが、この映画の主題曲である。
ザンパノは、このマットと肌が合わない。ザンパノの芸を茶化すマットが気に障り、ナイフを振りかざして襲いかかり、二人は警察
に逮捕される。サーカスの座長は、一人残されてしょんぼりとするジェルソミーナに、彼らと別れるいい機会でもあり、一緒に来ない
かと誘う。
しかし、ジェルソミーナは、ザンパノを待つ。このときの彼女に心境は、ザンパノから逃げられないものと思い込んでいたと、私は
解釈する。
数日後、マットだけが釈放され、ジェルソミーナに、こんな事を言う。「ザンパノは哀れなやつさだが、誰かが傍に居て、一人ぼっ
ちじゃ無い。俺は学問は無いが本を読んだ。どんなものでも、なにかの役に立っているんだ。例えば、こんな小石だって、役に立っ
てる。これだよ、この小石だって役に立つ。それは、神様だけが知っている。俺にはわからないけれど、この小石も何かの役に立つ
のだよ。無用のものがあるはずがない」そして、マットから一緒に来ないかと誘われるが、ジェルソミーナは、『ザンパノを待つ』とマ
ットに言う。このときの彼女の心境は、サーカスの座長からの誘いを断ったときとは、異なっていると解釈すべきだと思う。
ジェルソミーナは、出獄してきたザンパノと二人で再び大道芸の旅を続ける。ザンパノは何も変わらず以前同様、ジェルソミーナ
に対しても傍若無人で猛々しい。雨をしのぐために泊めてもらった修道院で、銀のキリスト像さえ盗もうとする。
精神的に目覚め始めていたジェルソミーナは、ザンパノに盗みを止めさせようと抵抗し、そして、『頭をつかって生きようよ』と始
めて自己主張をする。
ある日、二人は山道で車の修理しているマットに合う。ザンパノはこの時とばかり、マットに襲いかかり殴る。殺す気は無かった
が、打ち所が悪くマットは死んでしまう。マットの車と共に、死体を川に捨て去ってしまう(罪をつぐなわない)ザンパノの行動に、ジェ
ルソミーナは泣き叫び、ふさぎ込み、人が変わる。ザンパノを拒否し寄せ付けなくなる。
手を焼いたザンパノは、ある日、眠りこけたジェルソミーナの体に毛布を掛け、彼女の愛用のラッパを枕元に起き、野原に置き
去りにして、オート三輪を押し、そっとジェルソミーナの元を離れる。
数年後、海岸沿いの通り小さな移動サーカス小屋で、相変わらずクサリを胸筋で切ってみせる大道芸を、覇気も精気も無くザン
パノは続けていた。仕事の合間にアイスクリームを食べながら歩いていたザンパノの耳に、聞き覚えのあるメロディが聞こえて来
る。若い女が洗濯物を干しながら歌っていたのは、ジェルソミーナが愛していたあのメロディに違いなかった。
ザンパノの問いに、若い女はラッパを吹いていた女が歌っていたのだという。「父がその女が海岸に倒れているのを見つけ。大
変な高熱の彼女を家に連れて帰ってきても、泣いてばかりいたわ。気分がいいと日向でラッパを吹いていたけど……ある朝死んで
いたの」
ザンパノはジェルソミーナがラッパを吹いていた海岸で、天を仰いで叫ぶ。彼は砂浜に崩れるように倒れ、身をよじって号泣す
る。
この映画は、イタリア製作、1954年(昭和29年)の作品であることに、今回私は関心を持った。日本同様、第二
次大戦で敗北したイタリアの、戦後九年目の町の様子や人々の生活ぶりが、画面のいたるところに紹介されている。この映画に
描かれている人々は、大半が貧しい暮らしをしているが、その貧しさが、同じ戦後九年目の日本の映画で描かれている貧しさと、
何処かが違っているように感じた。
昭和27年『生きる』(黒澤明監督)、昭和29年『二十四の瞳』(木下恵介監督)、『黒い潮』(山村聡監督)等は、中流社会が舞台の
為、単純にこの『道』とは、比較は出来ないことは承知だが、貧しさの質や、貧しさに対する人々の受け止め方が、日本とイタリアで
は異なっているように感じた。その違いは、生活に対する姿勢や、国民性に表れているように感じられた。
物質的に失うものが無い貧しさの強みなのか、それとも、物質的な富への関心、興味、努力、憧れが欠落しているのか、物質へ
の執着心から開放されたような妙な自由を、この映画の登場人物から感じた。これは、私だけの感慨かも知れないが、このような
あっけらかんとした性質は、几帳面で島国の日本人には無い国民性だと思う。地続きのヨーロッパで生きて来たイタリア人の身体
に染み付いたもだろうか。
平成の日本、物質が溢れ、確かに金を持ち豊かではあるが、未来に対する計り知れない不安の中で、いわば日常生活の必要
経費が高騰し過ぎて、人々の暮らしを真綿(まわた)で締めつけるように、貧しさが忍び寄っているように、私には感じられる。
現在のイタリアの平凡な日常生活は、どのように描かれるのだろうか? ちょっと興味をおぼえる。
もう一つ、今回この『道』を観て感じたことは、人間関係における「情」である。ザンパノが投獄されたとき、サーカス一座の座長か
らもマットからも、誘いを受けるが、ジェルソミーナは迷いを微塵も見せず、ザンパノを待つ選択したのは、今回の映画鑑賞で、私は
彼女の愛だという思いを持った。
マットから『こんな石ころでも、何かの役に立っている』と聞かされて、自分の生き様に自信が持てなかったジェルソミーナにとっ
て、誰かの役にたてるかもしれない。それならザンパノの役にたとうと考えて、彼の出獄を待ったのだとするのが、通常の解釈だと
思う。
しかし、今回、私には、ジェルソミーナの人間愛に感じられた。粗暴なザンパノの暴力(精神的にも肉体的にも)から逃れられるチ
ャンスなのに、曲がりなりにも一緒に暮らしてきた人としての情と云うのでしょうか、人間愛がジェルソミーナにザンパノを待つ判断
をさせたことに、半世紀前の人間の心を見たように感じた。
そう考えたとき、ジェルソミーナのザンパノに対する『情』は、貧しさとは無縁の、純粋に人を愛する心の作用であり、打算的な現
代人には、どれだけ残っているのだろうかと思う。頭の弱いジェルソミーナの無垢な人間性と、粗暴で欲望のまま生きるザンパノの
対照的な取り合わせが、いっそう、この愛を際立たせ、私の魂を強く揺さぶったように感じる。
ジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナの初々しい演技と、ザンパノの荒々しさを粘着性の無い乾いた演技で表現したアンソニ
ー・クイーンのコンビは、絶妙だった。そして、ニーノ・ロータの哀愁帯びたメロディーは、二人に通う情を見事に耳に刻み込んだよう
に思う。
アンソニー・クイーンの冥福を祈ります。
監督:フェデリコ・フェリーニ
脚本:トゥリオ・ビネッリ他 音楽:ニーノ・ロータ
出演:ジュリエッタ・マシーナ、アンソニー・クイーン
リチャード・ペースハート
お薦め度 ★★★★★
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