図書館で黒澤明監督の映画『七人の侍』のDVDを借りて、自宅で観た。
時代劇や歴史物が好きだった子どもの頃、始めて映画館でこの作品を観て以来、TVで放映されたときや、レンタルビデオなどで
何度も繰り返し観ている。私には、このように繰り返して観る映画が数本ある。『サウンドオブミュージック』『道』『屋根の上のヴァイ
オリン弾き』であり『男はつらいよ』シリーズもその一つである。
映画は小説や絵画などと同じように、繰り返し接することが出来る芸術の一つで、観るときの年齢や心境によって、観方や、感じ
方、受け止め方が異なり、考えさせられたり癒されたりして、とても刺激な芸術だと思う。
『七人の侍』は、私が生まれる前年(1954年・昭和29年)に公開され、世界映画史上で屈指の名作と高く評価され、『羅生門』
や『生きる』と並び、黒澤明氏の代表作に違いない。黒澤作品の中では、痛快時代劇の『椿三十郎』と、手に汗をにぎる緊張感溢
れる『天国と地獄』が個人的には好きだ。
全体のストーリーは、日本の戦国時代を舞台に、野武士の略奪に困窮した小さな村の百姓が、侍を七人雇い協力して、野武士
の一団と戦うという単純な話だが、物語が進行する経過は、一つひとつをとても丁寧に描いている。世の中も人生も複雑怪奇だ
が、ドラマは如何に単純化できるのかという点と、観る者を納得させる丁寧な展開の2点がポイントだと思う。アクションあり、笑いが
あり、スリルがあり、恋愛あり友情ありで、テンポよく描かれ、各役者の個性が十二分に発揮され、音楽も映像も素晴らしく、ちょっ
と内容が暗いのが気になるが、『七人の侍』は、まさしく映画の中の映画に違いない。
今回、特に印象に残ったのは、三つの場面である。農民が侍を選ぶシーン。七人の侍が始めて村に来たときのシーン。村を守
るために、少し離れた位置にある三軒の農家を引き払わなくてはいけなくなり、結束を乱す三家族を諌めるシーンの三つの場面で
ある。この三点は、現在の日本が失ったものを簡潔に描いているように思えてならない。
侍の良し悪しなど判断できない百姓が、自分たちの村を守り託せる侍を、どのように選ぶのか。百姓や侍をいろいろなものに置
き換えて、自分の問題として考えたとき、この映画は示唆にとんだ作品だと感じた。
侍探しに来た四名の百姓たちは、大変な苦労の末、信頼できる初老の侍(勘兵衛・志村喬)を目撃する。そして、野武士退治を
依頼し承諾を得る。リーダーを選ぶと、そのリーダーに必要な侍の選出から、野武士退治の計画実行まで総てを任せる。百姓たち
は、選ばれた侍や計画に一切口を挿まず、リーダーに従う。その過程で互いに信頼関係が生まれ育ってゆく。一つの企画を実現さ
せ成功させるには、このようなシステムが不可欠である。現代の政治や学校や企業において、このようなシステムが成立している
のだろうか。
七名の侍が村に到着したとき、百姓たちは全員家に立てこもって、誰一人として姿をみせなかった。これほど酷い出迎えはない
だろう。野武士を恐れる村人にとって、侍は野武士同様に怖い存在であった。村人との最初の出会いで、このような対処を受けた
ならば、出世にもお金にもならない仕事を引き受けた人間にとって、この時点で話が終わってしまう。
侍と百姓に生じた溝を、どちら側が、どのように解決すればいいのか。一般的には、依頼者側の百姓から頭を下げるべきだ。侍
の心を解くには、百姓(依頼者)は、どうすべきだろうか。何もかもさらけだして、何もかも捨ててすがりつくこと。そして侍(請負人)
が、百姓たちの真意を心底納得できること。この必要十分条件がなければ、百姓と侍の信頼関係は成立できない。
映画は、侍の一人である菊千代(三船敏郎:本当は元百姓だと後で分かるのだが)が、高台で野武士到来の緊急警報音(木槌
で巻割りを連打する)を鳴らし続けた。すると、慌てふためいた百姓たちが、『お侍様』とすがるような大声を出しながら、村の広場
にいっせいに駆け集まる。そんな浮き足立った百姓たちを、勘兵衛ら侍たちが沈めた。実に上手い演出である。
このように成功したのは、七名の侍が、それぞれ生まれも育ちも年齢も個性も違う集団だったからである。いろんなタイプの人間
の必要性、重要性を示している。勘兵衛のような冷静沈着な人間だけでは、このようにはいかない。また菊千代ばかりでも駄目で
ある。高学歴の人間ばかりの集団は、最近では某電力会社の対応に接して、私たちはその危険性を経験した。『優秀』というの
は、一つの才能に過ぎず、万能ではない。それぞれの違いを認め、その違いを尊重し、活用できる組織で無ければいけない。
刈り入れが迫り、村の百姓たちと侍たちの結束が築かれてゆく。村の総ての農家を守ることは不可能で、川向こうの数軒の農家
は引き払うことを、侍たちから言い渡される。その数軒の家族たちが、『他人を守るために自分の家を捨てるわけには行かない』と
協力を放棄する態度に出た。そのとき、間髪容れず、勘兵衛は刀を抜き、彼らに向かって、『総てを守ることは出来ない。村を守る
ためには、捨てなければいけものもある。戦(いくさ)とは、そういうものだ』と一喝する。その気迫に、結束が保たれ、さらに絆が生
まれる。
この勘兵衛の決断と実行力と気迫が、現在の日本の首脳たちに、もっとも欠けているように思う。村を守るために自分の家を捨
てる百姓の決断も、現在の日本には見られなくなった。一団となる結束力が、日本の強みであった。その強みが、戦後の日本の繁
栄を可能にした。世界に誇れる民族性だった。それが、いつの間にか、無くなっていった。『七人の侍』が公開された昭和29年は、
まさに戦後の繁栄が始まった頃だった。今、同じテーマで日本を舞台にした映画を製作したならば、どのようなストーリーが可能な
のだろうか。
映画の後半は、野武士と侍と村人の見応えある戦闘シーンが続く。映画館の大画面と大音響の中で見れば、迫力満点である。
子どもの頃は、胸踊る興奮を覚えた。しかし、今回は七名の侍よりも百姓に寄り添う気持ちが強かった。村を守るために、侍を受け
入れた思いは、単純ではなかったろう。志乃(津島恵子)という娘を持つ百姓の万造(藤原鎌足)の心配が、嫁入り前の娘を持つ私
には、他人事ではなく理解できる。
ストーリーには関係ないが、収穫物を野武士に強奪される代わりとして、村から人身御供で差し出された百姓利吉の女房(島崎
雪子)は、一言もセリフは無いが、存在感のある演技に、私は魅了された。黒澤明氏は男性的な映画が多いが、『羅生門』の京マ
チ子、『わが青春に悔いなし』の原節子など、女性の魅力を上手く取り入れている。女優は、銀幕のスターである。松坂慶子さん以
降、そのような魅力的な女優さんが見かけなくなったように感じる。とても寂しいことだ。
次回、いつ『七人の侍』を観るか分からないが、また違った点に関心することだと思う。素晴らしい映画とは、そのように、観るた
びに新しい発見に出会い、新しい感動を得て、いつまでも新しさを放っている。『七人の侍』はそのような映画だと思う。
2013/3/31 脱稿
お薦め度 ★★★★★
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