心想素描(随想U)No.49


理髪店の想い出
2017/09/17

 

 私は小学校3年生の夏に、E町からI町に転宅し、市立K小学校に初めて転校した。父親が独立して小さな店(機械工具商)を構えた為である。東京オリンピックの前年だったから昭和38年(1963年)のことで、もう半世紀あまり昔のことである。


 吾が家の新しい住家は、長屋の一角にあり、幾つもの個人商店が次々に入居して、商店街のような雰囲気だった。東西の通りの両端は立派な戸建て、西側は内科小児科のT医院で、東側は会社の重役の立派な家だった。その二件に挟まれるように、向かい合って長屋の店が並んでいた。自転車屋、紳士服のテーラー、婦人服店、お饅頭屋、新聞屋、喫茶店、理髪店、小物屋、駄菓子屋、酒屋(立飲みもされていた)、写真館、縫製工場、土建屋などが並び、狭い路地を挟んで写真館と銭湯があった。吾が家はその長屋の中の一軒だった。もちろん、その長屋は店だけでなく、サラリーマンなど一般の人々も住んでいた。


 以前暮らしていた家も長屋だったが平屋だった。今回は二階建てで、子供心に、ちょっと偉くなった気分だった。そして、二階には窓があった。以前の平屋には窓がなかったので、二階の部屋は太陽の光が入って明るく、窓から外の風景が見えることがとても嬉しかった。


 長屋の南側には公園であり、野球禁止だった。だけど私は友達とソフトボールで草野球を楽しんだ。A君が打ったボールが、隣接する工場の二階の窓ガラスに当たって割れ、友達全員が工場長のような人に酷く叱られた。そして、ガラス代を弁償させられた。私たちは少ないこずかいをかき集め、なんとか苦労して支払った。そのとき、クラス代表をしていたB君が、『領収書を下さい』とガラス屋に言ったときは、驚きとともに大人から一本取ったような気分で、私たちはとても嬉しかった。


 当時の大人は怖い印象だった。悪いことをしていないのに、いつも怒られるような、大げさに云えば恐怖に近いものを感じていた。だから、出来る限り大人に近づかない、大人の目に入らない場所で遊ぶことが、自然と身に着いていたように思う。


 多少身体の調子が悪くて風邪気味でも、出来る限り病院で診察を受けたくなかった。長屋の西端の内科小児科のT医院の医師は特に怖かった。ギョロリと大きな目で見られるだけで、健康なものまで萎縮するのではないかと思われるほどの威圧感があった。それでよく小児科が務まるのかと、子供心に思っていた。診察を受けると、必ず聴診器で胸や背中を長い時間かけて診て、ベッドに寝かされてお腹を何箇所も押さえられ、金属のヘラで舌を押さえ懐中電灯で咽の奥を見て、苦い薬を塗られた。体重を測定して薬が処方され、注射のときは必ずT医師が注射薬を確認してから看護婦に注射をさせた。薬は必ず飲みきらなければ、例の目で睨まれ、きつく叱られた。


 当時は町に医院が少なく、子供が多かったこともあり、どの医院も小児科や内科は患者で溢れていた。風邪程度なら逆に病気をうつされる心配を親に訴えて、出来る限りT医院に受診しないようにしていた。どうしても受診を必要と観念したときは、出来るだけT医師と会話を少なくしたいので、私の顔色を見て聴診器を当てれば、病名が判明すると思って黙っていると、『症状を言わなければ診察できない』と注意を受けた。或るときは、『先生、風邪ですから、薬下さい』と先手を打って言うと、『風邪であるかどうかは、ワシが判断することだ』と叱られた。また或るとき、『毎日たくさんの風邪の患者と接して、先生が風邪をひかないのは、何かすごい薬を飲んでいるの?』と尋ねると、『同じ薬や。気構えが違うのだ』と諭(さと)された。


 私が結婚して二人の子供が出来き、子供が体調を崩したとき、T医師の診察を受けた。それ以降も私たち家族はT医院に受診を仰いだ。電車を乗り継いて、このT医院まで診察を受ける患者が居ることを後で知った。十数年前にT医師が亡くなり医院が閉められるまで、私たち家族は内科的な病の場合は、必ず受診を仰いだ。最近見かけない厳しく頑固だが、誠実で立派な医師だったと思う。


 怖い大人が多い中で、近所のN銭湯(お風呂屋さんと子どもらは読んでいた)の主人(いつも番台に座ってにこにこしていた)だけは、優しい人だった。小学生のとき、プラモデルに凝り、戦闘機やバイクなどを作って友達と比べて自慢し合った時期があった。戦艦大和など船のプラモデルを作ったとき、どうしても浮かべたくなって、この銭湯の主人に頼んだことがあった。すると、営業前なら良いと云う許可を頂き、湯船に戦艦大和などを浮かべさせてもらった。主人も楽しそうに、ひととき遊んだ。大和武蔵型の戦艦製造を途中で設計変更したという空母・信濃のプラモデルを作って、湯船に浮かべさせてもらったとき、バランスが悪く傾いてしまった。いろいろ工夫したがどうしてもまっすぐに浮かばなかった。浮かぶだけでなく満足行かなくなり、動く船のプラモデルを作ったことがある。モータでスクリューが回転させる水中翼船を浮かべたとき、想像していた以上の速さで進み、私以上に銭湯の主人がはしゃぐ様に喜んだ。嬉しかった。中学生になって、銭湯料金が子供から大人になったとき、『お父さんに内緒やでぇ』と言って、ときどき主人は10円まけてくれた。


 当時は内風呂がそれほど普及していなかったので、長屋の人々だけでなく、近所の人々も銭湯を利用していた。湯船は広く、電気風呂や薬湯や水風呂があり、鏡がある身体を洗う所にはシャワーが設置されていた。一度電気風呂に入り、ビリビリして感電しそうですぐ飛びだした。それ以降入ったことはない。銭湯では友達にも会ったが、いつもメンバーは決まっていた。銭湯は、子供にとっては遊び場、大人にとっては社交の場のひとつだった。


 T医師と銭湯で出合ったことは一度もないが、月曜日は時間帯によって、吾が家から3軒隣のW理髪店の主人・W理髪師と出くわすことがあった。私にとって、W理髪師はT医師と並んで怖い人の双璧だった。銭湯でふざけていると必ず叱られた。病気をしなければT医師の顔を見ることはなかったけれど、散髪には年間に何回か行かねばならず、そのときはW理髪師ではなく、二人居た従業員(修行中の人)に刈ってもらう巡り合わせ(順番)になることを願ったものだ。


 頭を刈ってもらうとき、W理髪師は、背筋を伸ばし姿勢を正して、正面に写る自分の顔をしっかり見なさいと必ず言った。そして、櫛を入れ私の髪を整え、伸び具合などをチェックしてから、どのように刈るかを訊ねた。何か言うと子供のくせに生意気だと小言を言われそうな思い込みが私にはあって『いつもの通り』と言うことにしている。すると、蒸したタオルで髪を湿らせ、再び櫛で髪を整えてから、ハサミを入れた。バリカンを使うことは、ほとんどない。何種類かのハサミを使い分けて、神経質そうに手早く刈り始める。W理髪師は無口で、まれに一言二言話すことがあったが、ほとんどお客さんと話さなかった。私が子供だったこともあるが、大人のお客さんと話が盛り上がっている場面に、出くわしたことはなかった。


 中学生になったとき、男子は全員、髪型は丸坊主だった。何故、丸坊主にしなければならないのか、そのことに強い疑問を持った。伝統だと言うこと以外に説明はなく、酷い人権蹂躙(じゅうりん)ではないかと、母親に訴えても致し方ないけれど、少し悪態をついた。自覚は全くなかったけれど、これが自我意識のめばえ、かもしれない。入学式の前日まで理髪店に行かなかったことが、ささやかな抵抗だった。


 W理髪店に行くと、運悪くW理髪師と目が合った。『丸坊主、一番短いので、お願いします』と言うと、『中学生になってんな。よし、きちんと刈ったる』とバリカンに刃をセットして刈ってくれた。坊主頭にするのなら、中途半端よりも一番短くした方がいいと思った。W理髪師は手早く仕事に忠実だったと、子供心に感じていた。怖かったけれど、私は決して嫌いではなかった。


 丸坊主になった中学一年生のとき、父の提案で、銭湯の隣の写真館で、父母祖父母私と弟の一家六名の写真を撮った。三年後の、私が高校一年生になった春、弟が中学一年生になり丸坊主頭で一家六名の写真を撮った。父も祖父も写真が好きだった。


 頭は良くはないが悪くもなく、中学時代の成績は、いつも全体の二割前後だった。ほぼ毎日予習復習が必要な教科は、真面目に教科書を開き参考書で勉強していた。付け焼刃のような受験勉強に熱心な方ではなかった。塾(当時私たちは勉強学校と呼んでいた)に通い出した同級生の多くは着実に成績を伸ばしてきたが、私は現状維持のままだったので、相対的に成績が沈んでゆき、志望高校を担任教師からワンランク落とす指導を受けた。付け焼刃派が真面目のコツコツ派の上位に座を奪われることに対するイラダチや受験に対する疑問などの葛藤に、上位奪還の気力が増されなかった。結局のところは、担任指導に従った。自分の意地を貫かなかったことが、父親には歯がゆかったようである。


 ワンランク落としたのだから、高校での成績は中学時代同様に、上位二割程度は維持できるものと侮(あなど)っていた。しかし、初めての中間テストは、今まで経験したことのない悲惨なものだった。勉強をしなかったのではなく、むしろ勉強時間を増やしたにもかかわらず、定期テストのごとに成績は下がる一方だった。下位二割にも入れないところまで落ちた。


 高校一年生の秋、私はK町に転宅した。大阪万博博覧会が開催された年だった。父親が店を広げ一戸建てになった。借家から持ち家になり、内風呂があり、私と弟に自分の部屋を用意してくれた。自分の部屋が持て、とても嬉しかった。しかし自分の部屋で一人で過ごすことに慣れるまで、ちょっと寂しくもあった。読書と勉強するとき以外は、父母祖父母と弟の6名がくつろぐ居間でテレビを見たりおしゃべりをして過ごした。


 K町に転宅してW理髪店まで、徒歩で10分程度遠くなり、その間に理髪店は二件あったが、私はW理髪店に通った。中学を卒業して、丸坊主から解放され、少し長めの七三に分ける髪形にした。


 高校二年生になる春休み、私にとっては一大決心をして、W理髪店に行き、丸坊主をお願いした。W理髪師は、何も訊かず『よし、わかった』と言って、バリカンで頭を刈った。


 丸坊主にしたからと云って、当たり前のことだが、成績が上がるわけでもなかった。学業にもクラブ活動にも縛られていた心を解放して、高校生活を楽しむことに気持ちを入れ替えた。苦痛だったクラブ活動を退部し、好きな読書に夢中になると、今までの景色が違って見え始めた。クラスメートに恵まれ、友人K君から紹介された渡邊久夫著『親切な物理』正林書院という参考書に出合って、すごく物理に興味を持った。独学で理数科系教科の勉強に励むようになった。成績が上向きになってくると、今まで見えなかった周りのものが見え、高校生活が少しずつ充実したものになった。そして、理数科系教科から成績が少しづつアップして来たことが自信となった。


 その頃である。W理髪店に行ったとき、珍しくW理髪師が私に、『時間があるなら、私が遣る』と言って少し待たされ、従業員(修行中の人)ではなく、W理髪師が自ら頭を刈ってくれることになった。丸坊主は春休みに入ったときだけで、このときは、何処にでもいる普通の高校生の髪形だった。私はオシャレにはまったく関心がなかったので、制服制帽が気楽で良いと感じるタイプだった。髪形も同様で、他人に不快感を与えなく、清潔感であれば良かった。理髪師にとっては、腕をふるうことのない、力の入らない客だったに違いない。


 一か月あまり後、散髪に行ったとき、W理髪店の看板が『理容X』に変わっていた。従業員だったXさんが店長になっていた。新店主・Xさんの説明によると、W理髪師は、『指が思うように動かなくなり、肩こりが酷くなったから、もう理髪師としては限界だ』ということで、Xさんに店を譲り、住まいを引き払い家族全員で故郷へ帰ったとのことである。気難しく怖かったけれど、W理髪師が、もうこの町にいないということが、時間とともに私の中に寂しさとして拡がっていった。


 前回、今となっては最後の散髪のとき、W理髪師は、何も言わず、いつもと変わらない仕事ぶりだった。背筋を伸ばし姿勢を正して、正面に写る自分の顔を見なさいと言った。そして、櫛を入れ私の髪を整え、伸び具合なチェックしてから、『いつも通りでいいか』と尋ねた。私がうなづくと、蒸したタオルで髪を湿らせ、再び櫛で髪を整え一呼吸してから、ハサミを入れた。バリカンは使用せず、何種類かのハサミと櫛を巧みに使って刈った。最近、ハサミさばきが、以前のようななめらかさが無くなっていることを、私は感じていたが、引退されるとは、夢にも思わなかった。後進の指導という道もあったろうに、自分の矜持が許さなかったのだろか。立つ鳥跡を濁さず、この町を出て、故郷に帰るとは、あまりにも引き際が鮮やか過ぎて、私の心にざわめきが残った。失って初めて気付く自分の愚かさである。


 それ以降も私は、W理髪店から受け継がれた『理容X』に通い、頭を刈ってもらった。引き継がれた直後、X理髪師は、ハサミを入れながら熱心に話しかけてきた。店主となり店を繁栄させたい意気込みを感じた。悪い気持ちはなかったが、私は会話より仕事に集中することを望んでいた。そして理髪中は気持ちよくウトウトして眠りたいタイプなので、何回目かに、そのことを伝えた。W理髪師は無口だったが、X理髪師は話し好きな人だった。性格は致し方ないことだ。


 『理容X』に通い頭を刈ってもらうようになって数年後に、W理髪師は、昔タイプの職人で、仕事は盗めという人だったのではないかと、X理髪師の仕事ぶりから何となく感じるようになった。当時の職人さんは、手とり足とり教えることはほとんどなく、仕事は盗むものであり、弟子には盗ませるものだった。上手い下手ではなく、職人は自分のスタイルに強いこだわりがあり、理屈ではなく経験と直感に軸足があった。X理髪師は技術者ではなく職人気質に思えた。タイプは違うが、X理髪師がW理髪師から受け継いだ影響を感じたからである。W理容師もX理容師も共に個性的だったが、Xさんは何かが足らないような印象がいつまでも続いた。


 大学に進学し、一般企業に就職し、父親の仕事を継ぎ、結婚し、子供(長男・長女)が生まれ、人生の上り坂の時期を含むいちばん長い期間、私はX理髪師に頭を刈ってもらった。私の長男とX理髪師の末っ子が同学年という偶然もあり、親しみを感じていた。


 いつの頃からか、X理髪師に仕事への誠実さが薄れてきたことを、私は感じ始めた。店を手伝うX理髪師の奥さんの仕事ぶりにも疑問を感じるようになり、一二度、それとなくX理髪師に忠告したが、改善の兆しが感じられず、『理容X』から私は足が遠のいた。


 その後、私は『Y理容店』に通うようになり、その店のZ理容師の腕に惚れ込んだ。基本が揺るぎなく、まるで自分の作品を仕上げる職人芸を、毎回感じた。髪形についてのこと以外、まったく話さない無口な点も好きだった。私はオシャレではなく、髪形にも強いこだわりもないが、Z理容師に刈ってもらう髪形が凄く気にいった。十数年間、私は『Y理容店』に通ったが、不慮の事故で店主のY理髪師が亡くなり、数ヵ月後に『Y理容店』は閉店した。とても残念だった。Z理容師が何処の店に移ったのか、その消息は私の耳に入ってこなかった。


 致し方なく、近所のいくつかの理髪店に行ったが、W理髪師やZ理髪師のような、私と相性が合う理髪師に、出会っていない。髪形には若い頃のような強いこだわりはないが、それでも出来栄えに多少の関心がある。それ以上に理髪師の仕事に対する姿勢に、若い頃以上に意識が強くなった。技術力ではなく、仕事に対する誇りや意地が、どの職業についても薄れてきているように感じるのは、私だけなのだろうか。それとも、単純に私が高齢になったからだろうか。


 私にとって散髪は、伸びた髪を刈って髪形を整えることだけでなく、気持ちよくウトウト居眠りする小さな幸せなひとときを楽しむことも目的のひとつである。ゆっくりゆったり過ぎてゆくひとときは、日々の生活の中で、あまりない時間である。しかし、そのような空間を提供する理髪店に、『Y理容店』以降、今は出合っていない。


 そして、そのような理髪店を求める気力が、私には無くなった。今は、いわゆる大衆理容店を活用している。ゆっくりゆったり過ぎる時間よりも、いつの間にか、短い時間で頭を刈ってもらうことに慣れ、そして馴染んでしまった。子どもの頃からのガサツで短気でイラチな性格が、高齢になって影響しているのかもしれない。


 

 小学校後半から高校2年生の秋まで住んでいた以前の長屋の様子はすっかり変わってしまった。吾が家が転宅した後は電気屋になり、それから更地にされ今では私道になっている。長年通った『理容X』は閉店してシャッターが下りたままである。T医院は医師が亡くなった後、こちらも更地になり今は駐車場になっている。写真館とN銭湯と縫製工場は潰されマンションになり、その一階はコンビニストァーである。自転車屋、紳士服のテーラー、婦人服店、お饅頭屋、新聞屋、喫茶店、小物屋、駄菓子屋、酒屋(立飲みもされていた)、土建屋など、あの頃活気があった多くの店は、何度か代替わりを繰り返したり、新たな店が入ったりして、今はペットショップが一軒あり、残り総ての店は閉店し、いわゆるシャッター通りになってしまった。ソフトボールで窓ガラスを割った工場は、老人ホームになった。隣接している公園に、子供の姿はあまり見かけず、老人がベンチに座って日向ぼっこをしている。明日の日本を築く子どもたちの遊ぶ声が、うるさいという苦情が寄せられる時代になり、シルバータウンの行く末を憂う私は、還暦を過ぎ老人に片足踏み込んでいる。


 思い起こせば、W理髪師に散髪をしてもらっていた、東京オリンピック前後から大阪万国博覧会の前後までの十年足らずの時期が、まだ敗戦の悔しさと呪縛、貧しさを引きずっていたけれど、日本にとっても私にとっても活気に溢れ、多くの伸び代が拡がって、町には人が溢れ大声が行き交って、しあわせだったのかもしれない。最近、そのように思うことがある。


 町にいっぱい居た怖い大人は、みんなどこへ行ってしまったのだろうか。高齢になった今、当時を振り返って、怖い大人と云っても、T医師やW理髪師のような、揺るぎない信念を持ち合わせ腹の据わった『怖い大人』は、どちらかと云えば少数派で、大半は彼らに便乗したような虚勢を張って威張っていた大人が多かったように思う。そのような大人を支えていたのは、彼らの伴侶である妻だったに違いない。私たちの親世代以前の女性は辛抱強く働きもんで、男性より人間ができており、虚勢を張る夫を掌(たなごころ)の上で転がしていたに過ぎないように思う。


 そのように威張って怖い大人が多かったことは、一面においては悪くなかったと思う。理屈抜きに、駄目なことは駄目だと大声で言う大人が多いことは、子供に道徳心を養うことにつながる。子どもには子どもの言い分があり、子どもは大人以上に真実を見極める直感があり、叱る大人の良し悪しをきちんと評価していた。そして大人も、子どもから見極められていることを分かっている人が、現在より多かったかもしれない。自分が人の親になって、初めて見えてくるものがあり、昔の大人の方が、許される『分』の限界を知っていたように思う。


 『悪いことをすれば地獄に落とされ、閻魔さまに舌抜かれる』と云うようなことを、親は子供に言わなくなった。『物を盗んではいけない。嘘をついては行けない。弱い者をいじめてはいけない。人に迷惑を掛けてはいけない。目上の人を大切にしなさい』等、子どもの頃、いろんな大人から口を酸っぱくして言われたことを、最近耳にしなくなった。現在の大人は怒らなくなったことには、さまざまな理由があるだろうが、大人が子供を叱らなくなったことで、確実に子供が大人に目を向けなくなったように感じる。互いに関心まで無くなってきたのなら、これはちょっと恐ろしいことである。T医師やW理髪師のような怖がられる大人は、仕事を通した生き様で、無意識に人を育てていたのだろうと思う。私はそうして地域に育てられた一人なのだから、その恩返しは、T医師やW理髪師のような大人になるように精進することに違いない。


 2017/9/17

  2017/9/10〜17