今年(2010年/平成22年)夏の猛暑は気温が高いだけでなく、期間も長かったので、熱中症にならぬように外出を控え、家内の先祖代々のお墓参りが9月末になった。奈良・東大寺の北西、転害門近くのお寺にお墓があり、まずお墓を丁寧に掃除して、お花を供え、お線香を立て、般若心経を三度唱え、今日まで家族全員健康に暮らして来られたお礼と家内安全などを祈願した。
せっかく奈良まで来たのだから、平城遷都1300年祭の一環として「奈良県文化会館」で催されていた『中西繁・奈良展?廃墟と再生、時空を超えて--』に足を運んだ。
私は絵筆を持たないけれど、油絵を描いている知人が数名おり、彼等彼女等から案内状が届くと、時間の許せる限り足を運ぶようにしている。知人の絵画作品よりも、その知人との再会が楽しみなのが正直なところである。だから趣味で描いている素人作品に触れる機会はあるが、プロの絵画作品を観たのは、学生時代以来のことだから、もう三十数年ぶりのことだ。
中西繁:奈良展は、三部構成になっており、第一部は『ランドスケープ』(ヨーロッパの作品が20点)、第二部は『棄てられた街』(時空を超えて27点)、第三部は『古都の旅』(沖縄、京都、高山、奈良の作品12点)で合計59点、いずれも100号以上で、大作は7272×2273が2点、6480×1940や5820×1620など、総て力作ばかりである。絵画について門外漢な私には、まず大きさに圧倒され、描き仕上がるまでの長時間の集中力の持続は、私の想像を絶する凄さに違いなく、言葉にできない迫力を感じた。
画集やパソコンの小さな画面ではなく、7mや6mなど畳何枚分もの大きさのキャンバスに緻密に描ききった作者の精神力に、圧倒され言葉が出なかった。『凄い』の一言である。感心とか感動の域を超え、理屈抜きに凄いと頭を叩きつけられたようなショックを受けた。
次から次へ作品を観てゆくに従って、大きさによる驚きに慣れてゆき、大きさの迫力による呪縛から少しずつ解放され、自分なりに冷静に作品を鑑賞できるようになった。そして何気なく振り返ったとき、先ほど観た作品が少し距離おいて目に入ってきたとき、まるで絵に生命が吹き込まれたように、その絵画が額から飛び出して平面にも奥行きにも広がってゆき、活き活と息づき始めたような印象を持った。パリの雨に濡れた舗道も、黄昏のストックホルムも、ブタペストの夜明け前も、当麻寺も、室生寺の弥勒堂も、沖縄ブセナの夕焼けも、高山の土産屋も、一つの例外も無く、展示されている総ての作品が、そのような不思議な広がりが私の足元まで迫って、まるで雨のパリの舗道に自分が立っているような、或いは当麻寺を訪ねているような、そんな感覚に陥った。いや、実際の風景よりもリアリティーに溢れた中に吸い込まれてゆくような、気持ちの良い錯覚だ。今まで経験したことのない不思議な感覚だった。最初に観た第一印象から、いくつもステップアップしたような感激を味わった。魂が揺さぶられたのだと思う。
魂を揺さぶったものは、一体何なのかと、この二ヶ月間、自分なりに自問自答を繰り返してきたが、今だに結論が得られないでいる。圧倒されるキャンバスの大きさ、構成力、構図の安定感、デッサン力や色彩の技術力やテクニックなどの確かさだけでは、魂を響かせることなどできない。人間が生きてきた、そして今現代を生きている生活の『場』を、少し鳥瞰的な目線から見つめる中西氏の眼差しに、私の魂を揺さぶったヒントがあるのではないかと思う。
棄てられた街と題されたコーナには、神戸淡路大震災の瓦礫の街、サラエボ・ボスニア・ヘルツェゴビナ、アウシュビッツ、チェルノブイリ、そしてヒロシマが、パリの雨に濡れた舗道や室生寺の弥勒堂と同じ人間の遺産として、作者自身が自分の目で見た現実を、メッセージ性を押さえて、あくまでも風景画として、写実的に描くことによって、逆に私の心に多くのことを語りかけ考えさせられたのではないか。今まで私が見過して来たもの、見えていなかったものを、きちんと丁寧に見せてもらった思いがする。『そこから何を感じて、何を考え、どのように生きるかは、あなた自身の問題ですよ。』と、中西氏は静かに語りかけているように感じた。
メッセージを全面に出した作品やメッセージ性の強い作品は、刺激的で大きなパワーを持つと同時に、共感と拒否が同居しているように思う。もっとも明確なメッセージを持ったものは、思想である。多くの人々から支持され共感を持たれた思想の一つに唯物論があり、それを発展させたものがマルクス・エンゲルスの唯物史観である。それが人類にどのような影響を、というよりも、どのような迷惑を掛けたかを振り返ると、多くの支持を得た強い(個性的なというべきか)メッセージは、逆に警戒しなければいけないと、私は考える。多くの支持を得ることは悪く無いが、支持が極端に発展して限度を超える人気を得た場合は、大きな危険を孕(はら)んでゆく可能性があることを忘れてはいけない。多くの人々から手放しで受け容れられるメッセージなどありえないと、疑ってみることが大切だと私は考える。
ネットの影響だろうか、安易に個人的な主張を繰り広げる人々が増えた中で、中西氏の作品には、絞り込んだメッセージを排除し、あるがままの姿をきちんと描くことによって、さまざまなことを考えさせる広がりに富んでいる。正義も悪も、戦争も平和も一元的に捉えられない人間の性(さが)が築いた足跡を、ひとつの有様(ありさま)として描いており、一つの解釈から出発して再構築した絵画とは一線を画している。そこに私は強く惹かれた。
中西氏の作品の中で、もう一度観たい作品がある。それは原爆ドームを描いた『ヒロシマ』である。私は戦後生まれで、子どもの頃、日本は敗戦の混乱から落ち着き、平和で豊かになり始めた時代であった。少年の頃の私は、テレビや写真、絵画や絵本などで見る原爆ドームが、とても恐ろしいものに感じられて、目を伏せ続けていた。原子爆弾で亡くなった人々や町や自然の呪いが、原爆ドームに宿って、さまざまな災いが私の身に降りかかるような思い込みが、年齢を重ねても、かなりの期間続いた。何故、自分がそのように思い込んでいたのか、きっかけも原因も不明だが、恐ろしいというトラウマから解放されるまで、長い時間が掛かった。そのために、日本人として恥ずかしいことだが、いまだに原爆ドームを訪ねていない。今は逆に、関心が強く、一日も早く原爆ドームを見たいと思っている。
原子爆弾の惨禍(さんか)を現代に伝える原爆ドームは、1915年(大正5年)8月5日、チェコ人の建築家ヤン・レッツェルの設計で広島県物産陳列館として開館しから、原爆投下を受けたのは丁度30年目であった。あの敗戦から、今年(2010年)で65年になる。
1853年(嘉永6年)ペルーの4隻の黒船がきっかけとなり、日本が国を開けて世界に向って船出をはじめ、適切な表現ではないが、初めて世界に向って事を構えた日清戦争が1894年(明治27年)8月である。それから世界を巻き込んだ戦争にまで暴走し、国内全土が焦土と化し、二つの原子爆弾投下を経て敗戦という結果を招いた。それが1945年(昭和20年)8月15日(世界史的には9月2日)であり、日清戦争から51年目である。あの敗戦から、今年(2010年)で65年が経過している。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、原子爆弾が人類史上始めて投下され広島は焦土となった。この事実をどのように残し後世に伝えるか、その一つとして骨組みを残した無残な姿の広島県物産陳列館を選んだのは、広島市民であり日本人の決断である。戦後生まれの私が写真や絵本でさえ目を逸らしていたのだから、原子爆弾の被害者や関係者にとって、骨組みだけになった広島県物産陳列館の姿は、忘れたいさまざまなことを突きつける存在であり、一日も早く取り壊し消し去りたい思いがあったに違いない。被爆者だけでなく多くの人々が苦しみ悲しみ生きることに必死であった当時、さまざまな意見の結果、あのような形で残した当時の広島市民と日本人は凄いと驚く。いつの日か、原爆ドームと呼ばれるようになり、原爆ドームはさまざまなことを私たち日本人だけでなく、世界の人々に語りかけた。
現在(2010年)は、広島県物産陳列館から原爆ドームと化した歳月(30年間)よりも、原爆ドームとしての65年間という歳月の方が、遥かに長い時間が経過している。何度も手入れをして維持して、日本の遺産から世界の遺産になったこの65年という歳月は、戦後の日本人が原爆ドームに新たな歴史を刻んできたと、少しは誇っても良い事実だと思う。いわば、原子爆弾投下以降の人類の歴史を背負った第二の遺産の顔をもっていると、私は最近考えるようになった。
中西氏がアウシュビッツを題材にした作品を多く描いている。きっかけ原因には様々な意見があるが直接的には、アウシュビッツの悲劇はドイツ人が起こしたものであり、広島の悲劇はアメリカ人が起こしたものである。共に敗戦の遺産として、アウシュビッツの65年とヒロシマの65年を、ドイツ人と日本人はどのように残し維持しているのか、中西氏の作品を通して、もう一度じっくり考えてみたいと思う。このような気持ちにさせた中西氏に感謝したい。
2010/11/19 脱稿
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