子どもの頃の感動は、生涯忘れないものである。
若いときの真っ白な心に、刻まれた感動は、その後の人生において、物事を考え行動するときの礎(いしずえ)であり、ひとつの物差しになる場合がある。ホンモノをたくさん見ることは大切なことであるが、ホンモノに感動する心が、もっと大きいように思う。若い心はバネを持っており、想像力によって、感激がさらに大きく広がり飛躍し、好奇心を刺激して、次々に思いがめぐり、思考力を鍛える。そのような若い心、純真な感動は、大きな可能性を広げるものだ。
私が初めて感動したドラマは、小学生低学年のときに見たNHK大河ドラマの『太閤記』(1965年)だった。秀吉の天下統一の出世物語に毎週ワクワクして、日曜日の午後8時が待ち遠しくてたまらなかった。主役の役者名の緒方拳さんだけでなく、信長役の高橋幸治さん、石田三成役の石坂浩二さんの名前をフルネームで覚えた。学校の図書館で、豊臣秀吉だけでなく織田信長、武田信玄、徳川家康など戦国武将の伝記本を次々に読み耽(ふけ)った。
初めて感動したドラマが、歴史ものであったことが、私を歴史に興味を持つ人間に育てた。やがて子供向けの伝記では、物足りなくなり、小学校高学年になると、司馬遼太郎、村上元三、柴田錬三郎、井上靖などを読むようになった。読書は時代小説や歴史小説が大半で、夏目漱石、志賀直哉、谷崎潤一郎、ヘッセなどの名作といわれる文学には、まったく関心がなかった。
中学生になると、中央公論社の『日本の歴史』(全26巻プラス別巻全5巻)を何冊か購入し読んだ。波乱万丈の物語(小説)から史実として、歴史を把握するようになった。それは、英雄の活躍に目を奪われていた小学生の頃と、少しずつ自分が変化して来たのだと思う。縦横に活躍する英雄の視点だけでなく、社会や時代をきちんと整理整頓した全体像を把握する鳥瞰の視点の必要性を、無意識に感じていたのかもしれない。
中学や高校での歴史の授業は、出来事を順次追ってゆくことで、時代と文化の流れや変化を理解させることに軸足を置きながら、各教師の個人的な判断も手伝って、人間や社会について考えることに主眼があったように思う。しかし、定期テストや入学試験に縛られ、自由なアプローチは、成績には反映されることは少なかった。
高校時代になると、私は各時代の中で好きな人物を一人選んで、その人物の敵は誰か、仲間は誰か、ライバルは誰かを考えて、自分の中で物語を作ってゆくことで、その時代を理解する方法を身につけた。各時代の好きな登場人物を動かすことで、想像力が広がり、教科書の歴史にテレビや映画のようなドラマのワクワク感を作り出した。今振り返って、これは大河ドラマ『太閤記』の感動から、無意識に試みていのかもしれない。
大学は工学部に進んだ。科学や技術の理詰めで物事を追及し、きちんと証明される美しさに惚れ、新しく創造することや研究することに心が動かされた。それにもかかわらず、歴史に対する興味は薄れることはなかった。ただ歴史小説や時代小説は以前に比べると、あまり読まなくなった。雑誌「朝日ジャーナル」や岩波書店の「世界」に惹かれ、司馬遼太郎と井上靖は読み続けていたが、小説よりも対談集や随筆紀行文に関心が移った。小説は安部公房や倉橋由美子、福永武彦、丸山健二に夢中になった時期もあった。
40代の頃から、岩波新書、中公新書など、新書で歴史ものを読むようになった。最近は新書を多くの出版社が発行するようになり、しかも読みやすい柔らかい文章から、学術的に高レベルのものまで幅が広がり、身近な専門書的になり、個人的に喜んでいる。特定の人物や事件について、フィクションよりも事実を積み重ねて真実に迫るノンフィクションに興味を持ち、いろんな書籍を集中して読み、多角的に捉える面白さを知り、ひとつの時代を立体的に理解することに快感を覚えた。
できるだけ間違いのない事実を多く積み重ねて、想像力を膨らませてゆくと、大河ドラマ『太閤記』の豊臣秀吉は、いわば吉川英治の吉川秀吉であり、『竜馬がゆく』の坂本竜馬は、司馬竜馬であるという思いが強くなった。実際の秀吉も竜馬も、吉川秀吉や司馬竜馬とは違う人物のように思えてくるようになった。大河ドラマ『新選組!』(平成16年度、三谷幸喜作)で描かれた新選組は、私のイメージの新選組とは、かなり違ったものだった。だから歴史としてではなく、ドラマとして楽しむようになった。(昨年(2011年)のNHK大河ドラマ『江』は、史実からの飛躍も、ドラマとしてのストーリも、私にとっては許容範囲を超え、残念というより呆れ果て、NHKの汚点だと思う。)
この楽しいと感じることが、大切なことだと思う。史実に照らして明らかに間違ったこと、ほとんどありえないこと、不自然なことは許せないけれど、登場人物たちが活き活きと描くことは、とても大切なことだと思う。縦糸横糸で『布』が出来上がるように、一人ひとりの人間の生き様が絡み合う様(さま)が、ひとつの時代であり、一つひとつの時代が積み重なっているのが歴史であるから、主役も脇役もすべての人間が、歴史そのものなのだ。人間をきちんと理解すること、それが歴史の基本だと思う。
その一人ひとりの人間の活躍(生涯)が織り成す『布』が、大きな時代の流れのひとつの点描であり、無数の点描によって『布』が『織物』になる。『織物』にとって、ひとつの『布』は、どうなのかという視点を持つことが、歴史の目を持つことである。歴史を学び知ることは、一人ひとりの人間をきちんと理解する大地からの目と、全体の流れの中で一人ひとりをどのように評価すべきかを判断する天空からの目を持つことである。極端にどちらかに偏ることが無い、バランスの取れた作品(小説やドラマなど)は、残念だけれど、少ないように感じる。特にNHK大河ドラマは、歴史としてもドラマとしても、本物を作る自覚と誇りともって取り組んで欲しい。今年(2012年)の大河ドラマ『平清盛』への期待を裏切らないことを願う。
2012/1/14
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